第20話 告白と、エルヴィーラの失踪
遠い昔の時代の事を夢に見ていた。
エルヴィーラは、とある少女の膝の上に乗せられていた。そして、頭上に咲いている、下界にまで降りてきた雲海のような、淡い色の花達を見つめていた。その、花の雲の一部が零れ落ちるように、ひとひら、またひとひらと散って、エルヴィーラの金髪にも降りかかる。夢の中の自分は、元の人形の姿のままであった。
花びらと共に、忘れる筈もない声が、エルヴィーラに向かって、降りてくる。
「エルヴィーラ・・・御覧なさい。これが、日本で一番、美しくて尊い花、桜っていうの」
声の主は、この、桜の舞う国で、初めてエルヴィーラを家に迎えてくれた、あの少女だった。彼女はエルヴィーラの金髪についた桜の花びらを取って、その金髪を撫でながら、ポツリと呟いた。
「来年も、その先も、またこの桜をエルヴィーラと一緒に見られたらいいな・・・」
エルヴィーラは心の中で『私も、貴女とまた、この花を見たい』と思った。すると、まるでエルヴィーラの心の声が聞こえたかのように、少女は、花が綻ぶように笑顔を見せると、膝に乗せたまま、エルヴィーラを抱きしめた。
「貴女もそう思ってくれる?嬉しいわ」
この時にエルヴィーラは悟った。この少女は、人形の声を聞く事が出来るのだと。
初めて、人間と人形という壁を超えて、気持ちを通じ合わせた瞬間であった。
そうした幸せな時間から、場面が変わる。次の瞬間には、エルヴィーラは、窓の外を白銀の粒がちらちらと、夜の闇の中に落ちていくのを、あの少女の部屋の中から見ていた。少女は病に臥せており、熱も高く、潤んだ目で、ぼんやりと天井を眺めていた。その光景に、夢の中でエルヴィーラは、時間が、少女の死期が迫った、戦争中の冬へと移った事を知った。
『あの子と過ごした時代の夢なら、どうせなら、幸せな時間だけを見させて終わらせてよ・・・。どうして、またあの辛い時間も体験させるの?』
もう二度と見たくはない光景なのに・・・。あの少女は、枕元の、手の届く範囲にエルヴィーラを鎮座させていた。そして、エルヴィーラの頬に手を伸ばしながら、こう言った。
「私との、最後の約束だと思って聞いてほしいの・・・。私が死んだ後も、引き摺って哀しんでいては駄目。エルヴィーラは本当に素晴らしいお人形さんだから、きっとこれからも、沢山の女の子の家に行く事になるでしょう。その、新しいご主人の女の子達と必ず、幸せになるの。私の事は、時々、思い出してくれる程度で良いから・・・」
そこで、エルヴィーラは目を覚ました。自分の両手を見て、まだ自分が人間の姿である事を確かめる。そこが、見慣れた朱宮家の一室であり、ベッドの、自分の横ではエリカがすやすやと寝息を立てているのを見て、現実の世界に戻ったのだと安堵する。
ここまで生々しく、あの少女の事を夢に見たのは、久しぶりの事だった。
彼女と交わした約束は、死別から80年近く経った今でも忘れてはいない。未来の主人となる少女達と幸せになって、と。
『私は、この家に来て・・・エリカや、伊織と出会って・・・、彼女達を幸せに出来ただろうか・・・?』
エリカを起こさぬようにそっと、毛布から抜け出して、窓辺に佇み、エルヴィーラは考える。まだ空は藍色で、夜の残渣を残している。エリカはしばらくは起きては来ないだろう。その寝顔を見つめ、そして、自分が、悲願だった人間の体を手に入れてから起きた事を振り返る。因縁の相手であったジュリアが、エルヴィーラへの憎しみから人間の姿になり、伊織の気持ちに付け込んで操り、自分とエリカに襲い掛かってきた。あのような事態を招いてしまった、事の発端はそもそも、自分がエリカと出会って、この朱宮家に来た事にあるのだ。自分とエリカが出会っていなければ、伊織も、それにジュリアも嫉妬と憎しみの炎を燃やす事もなく、誰も傷つく事はなかった筈なのだ。
「私は、80年前のあの子との約束を守れなかった・・・。エリカの大切な幼馴染の伊織も、そしてジュリアも傷つけて・・・。私がいる事で、こうして人間の体を手にした事で、結果的にはエリカを苦しめてしまった」
自分は、あの死別した少女の幻影をずっと、エリカの中に探していたのだ。例え、人形の声が聞こえるという不思議な力を持っている点は同じでも、彼女とエリカは全く中身は別の人間だというのに、それは見ようとせずに。
「私は、あの時果たせなかった願いを・・・、人間の姿になって、大好きだったあの子と結ばれたいという願いを、身勝手にも、エリカに押し付けていたのかもしれない」
今回の、ジュリアによる事件も、元を辿ればエルヴィーラが人間の姿になって、自分の願望を叶えようとした事に原因はある。
ジュリアが、その魂を捧げて、伊織を救う事に協力してくれなければ、伊織はあのまま、人形の姿で余生を送っていたかもしれなかったと思うと、震えが走る。ジュリアの献身が無ければ、エルヴィーラの為に、エリカは大切な幼馴染を失っていたかもしれないのだ。
エリカの机に目を向ける。今は、魂の抜け殻となり、心を持たなくなった、ジュリアの人形がそこに置かれていた。心で彼女に呼びかけても、何の返事もない事に、ジュリアの魂は本当に消えてしまったのだと思い知る。人形は、人の愛に触れる事で魂を取り戻せるが、彼女が生まれ変わるまではどの程度の歳月がかかるか分からない。
エリカ自身も、体に後遺症が残った。あの夜-、ジュリアが伊織を連れて、朱宮家を襲った夜に、操られた伊織に包丁で右手を刺された事で、今も少し、エリカの右手には動きにくさが残っている。だいぶ、動かせるようにはなった物の、シャーペンや箸を持つ時の、その右手の何処かぎこちない動きを見る度、あの夜の出来事をエルヴィーラは思い出す。
「それに・・・何よりも、エリカは、もう、伊織の気持ちに応えるって決めたのだから・・・。今更、私の気持ちを押し付ける事は、エリカにも伊織にも、迷惑でしかないわよね・・・。あの二人が、恋人の関係になるならば」
今も、胸に走る痛みと共に、伊織の精神世界の深層で、エリカと伊織がしていたやり取りが思い出される。エリカははっきり、伊織の本当の気持ちに‐、親友だとか、幼馴染だとか、それだけに留まらない、もっと強い思いである、恋情に向き合うと決めた。そして、二人は接吻まで交わした。
あの二人の関係もそこまで前に進んだ今、80年近く昔に亡くなった主人の幻を未だにエリカの中に見出そうとして、執着している時代遅れの人形の自分に、何処に入り込む隙間があるというのだろう?やっと、伊織の気持ちが報われ、彼女は救われたのに、この期に及んで、エルヴィーラの身勝手な願望を‐人間の姿で、エリカと結ばれたいなどという願いを、最早押し通せる筈もない。
‐そうして、空が藍色から、薄っすらと白み始める頃まで、様々な思いに浸っていた結果、エルヴィーラは、次の結論に達したのだった。
「あの子との約束も果たせずに、エリカを幸せにするどころか、身勝手な願望を押し付けた挙句に、エリカを傷つける結果になって・・・、そして、もう今のエリカは、伊織の気持ちに応えると‐恋人同士になると決めた。もう、私にエリカの傍にいる資格はないし、エリカと伊織の間に入るような事も出来ない・・・。もう、私は、この家にはいられない・・・」
冷たい窓の枠を握りしめ、まだ眠っているエリカの顔を見つめる。彼女が聞く事のない、別れの挨拶を告げる。
「さようなら、エリカ・・・。時代遅れの人形は・・・、この国に来て、最初にあった主人の、女の子の待つ場所へ行くわ」
心地よい、温かい五月の風が頬を撫でていた。エリカは、その風の感触に目を覚ます。窓は閉めていた筈なのに、何故だろうと思いながら。
開き窓の方を見れば、薄く開けられていて、風がカーテンを揺らしていた。それを閉める為に起き上がろうとした時、エリカは違和感を抱いた。
ベッドで一緒に寝ていた筈のエルヴィーラの姿が、部屋の何処にもいない事に、エリカが気付くのに時間はかからなかった。
「エルヴィーラ・・・?」
部屋の中を見渡してみると、机の上に一枚の紙が置かれていた。昨夜はなかったものだ。何やら、文章が書かれていて、手紙のようだった。
右手で拾い上げようとして、ピリッと指に痛みが走り、すぐに左手に持ち替えた。伊織の刃で負った手の後遺症で、指が動かしにくかったり、痛みが時折走ったりするのを忘れて、つい右手を使ってしまう。文面に目を走らせたエリカは、息を呑んだ。
そこには、こう書かれていた。
『親愛なるエリカへ。この手紙を読んでいる時には、もう私はこの朱宮家にはいないでしょう。
私の為に、ジュリアも、そしてエリカの大切な幼馴染の伊織も、傷つけてしまった。全ては私が、エリカと結ばれたいという身勝手な願望で人間の姿になって、エリカに近づいたからこうなった。それはいくら悔やんでも、許されるものではない。
それに、エリカが、伊織の気持ちに応えて、これからは恋人として歩んでいく事を決めた以上、もう、私のこの願望を‐、人間の姿になって、エリカと結ばれたいという願望をエリカに無理強いする事など、私には出来ない。
今まで、本当にありがとう。でも、もうこの家に、そして、エリカの傍にいる資格は私にはないの。だから、私は帰る事にするわ。この国に来て、一番最初に私を家に迎えてくれた、最初の主人の彼女の元へ・・・。
最後になるけれど、伊織との幸せを心から願っているわ』
紙が、左手から滑り落ちていった。
「そんな・・・エルヴィーラ・・・。彼女の元へって・・・何処に行ってしまったの?」
朱宮家の2階から転落して、首に重傷を負い、そこから奇跡としか言いようのない回復を伊織は果たした。
目覚める事はないと言われていた意識が戻っただけでも、あり得ない事なのに、首を負傷した事で手足も動かせなくなった筈なのに、それさえ何事もなかったかのように戻っている。あのまま、呼吸をしているだけの人形になっていくのを救い出してくれたエリカ、そしてエルヴィーラとジュリアには感謝しかなかった。
退院して、初めて学校に戻った日、伊織は、エリカの右手のぎこちない動きや、指を動かした際に時折顔をしかめる、その様を見て、自分が犯した罪を思い知った。エリカの掌には、刃物による痛々しい傷痕が刻まれている。
ジュリアに心を操られていたからといえ、そして、半ば偶発的に起きてしまった惨事だったとはいえ、伊織が結果的にエリカの右手を刺して、生涯、不自由にしてしまった事は消えない罪だ。教室に恐る恐る足を踏み入れた自分に、右手を振ろうとして顔をしかめ、手を引っ込めたエリカの姿を見て、今後もその罪は忘れないと誓った。
「・・・右手の方は大丈夫なの?」
学校に戻った初日の事だった。
傷を負わせた張本人でもある自分が、そのような事を聞く権利があるのか、後ろめたい物を感じながらも、伊織はエリカにそう尋ねた。
「あ、うん、右手の方は、もう痛みはだいぶ良くなったけど・・・、ただ、神経や筋肉が傷を負ってるから、前のように自由には動かせないとは言われた・・・」
「本当にごめん、エリカ・・・。謝って済むような話でない事は分かってるけれど、私が・・・刺したせいで、エリカの手を不自由にしてしまって・・・!」
「大丈夫だから・・・エリカ。この右手の傷はもう、気にしなくて。それより、私にはずっと大事な事があるんだから」
エリカはそう言うと、小声で「ちょっと来て」と左手を差し出す。その手を伊織が握ると、彼女は伊織を連れて、休み時間の喧騒の教室を出る。
伊織が重体から、奇跡のような回復をして、学校に戻ってきた事は、普段関わりのない生徒らも皆知っていたから、少なからず好奇の視線が伊織に注がれた。しかし、そんな物は気にかける事もなく、伊織はただ、自分の手を引くエリカの、背中だけを見つめていた。
‐あの、現世と冥界の境の、水の中で漂っていた自分の手を引いて、救い出してくれたエリカの背中を思い浮かべながら。
人気の途絶えた、階段の踊り場にまで二人で降りていく。そこで、エリカは伊織の手を一度離すと、伊織と、真正面から見つめ合った。踊り場を、高みの窓から零れる日差しが照らして、視界は少し眩しく、その日の光を背にして立つエリカの姿に、何処か現実離れした物を感じる。この二人で見つめ合う感覚は、あの水中で覚えた物と同じ‐。
咄嗟に身を硬くしていた伊織だったが、次の瞬間にはエリカに腕を背中に回されて、抱きしめられていた。今度は、紛れもない、現実の世界の中で。
エリカの両手が、伊織の背中に添えられる。その右の方が少し力が弱いのを、制服のブレザーの上からでも感じた。抱きしめられた嬉しさと同時に、伊織の心には痛みも走った。
「伊織が帰ってきてくれて、本当に良かった・・・!もう、その事実さえあれば私には、こんな、右手の傷の事なんてどうでもいいの!伊織が生きて、また、こうやって私の隣にいてくれるのならば・・・!」
伊織の肩に顎を乗せて、エリカはそう叫ぶ。いくら人気がない踊り場とはいえ、誰か来てしまうよと、伊織が声を小さくして言っても、気に留める様子もない。
「もう、今度こそは、伊織の事、知らない間に傷つけたりしないから・・・!!伊織の気持ちと、逃げずにちゃんと向き合うから。『ただの幼馴染』なんて枠にあてはめたりはしないで」
そうだった。それを言う為にエリカは危険も顧みずに、自分を現世へと連れ帰ってくれたのだ。
‐この『告白』をする為に。
伊織は、まだ、エリカの背に手を伸ばしていいか迷っている。そして尋ねる。
「改めて聞くけど・・・エリカが、私の気持ちに向き合うっていう言葉・・・、それってつまり、私の好きを、受け入れてくれるって意味で・・・良いんだよね?」
緊張のあまりに生唾を飲み込み、伊織はエリカの返事を待つ。
窓から踊り場に落とされている日の光に、現世と冥界の狭間のあの場所で、水面から差し込んでいた光を思い出す。
エリカがこくりと頷くのが、視界の端に見えた。瞬間、自分の背中に回されていたエリカの掌も次第に熱を帯び始める。エリカは、ここまで来てまだ、自分の言葉でそれを伝えるのを尻込みしている様子だったが、やがて、温かな吐息が耳元にかかって‐、エリカの小さな声が、伊織の耳の中に飛び込んでくる。
「好きよ・・・、私も、伊織の事が。もう、寂しい思いをさせたりしないから。伊織を絶対に離さないから」
その言葉に連動するように、エリカの両手が、ぎゅっと伊織の背中の上で握られる。伊織も、それに応えるように、意を決して腕をエリカの背に回す。酷く、体が熱かった。火照っているのは、エリカの体か、伊織の体か、どちらなのか、区別出来ない。
ここは休み時間の学校の踊り場だ。もし見つかれば、あっという間に「朱宮さんと更級さんって距離近いと思ってたけど、まさか二人共そっちの人⁉」というような噂が駆け回るだろう。それさえ伊織には、今の幸せに比べればどうでも良かったが。
今度は、現実のこの世界でエリカを抱きしめ、また、エリカから抱きしめられているという事実がくれる幸せの前には、そのような事は些事に過ぎない。
それでも、校内でいつまでもこのようにしている訳にもいかない。伊織とエリカはお互いに手を離した。
エリカが、彼女には珍しい、悪戯っ子のような笑みを浮かべ、フフッと笑った。
「な、何で笑うのよ・・・!」
「いや、伊織が物足りなさそうな顔していたから。この先はしてくれないの?というような表情をね。確かに私達、向こうの世界では、この先の事もしちゃったものね」
「なっ・・・⁉そ、そんな表情、してないし・・・!」
休み時間も終わりに近づき、階段を上り下りする生徒らも増え始めた。踊り場に二人くっついて、立ち尽くしている、伊織とエリカに、怪訝な目を向ける同級生らもいる。学校でこれ以上の事は、無理そうだ。
それでも、伊織の心は晴れ渡っていた。
教室へと二人で戻っていく途中でエリカは振り返って、伊織にジュリアの事を話した。
「エルヴィーラだけでなく、ジュリアにもありがとうを、ちゃんと二人で言わないとね。そして、私からは、あの子にごめんなさいも・・・。ジュリアにも寂しい思いを私はさせてしまったから、今度の出来事があったんだし、こうして、今伊織と私が、また一緒にいられるのも、あの子が魂を捧げてくれたおかげなんだから・・・。もう、ジュリアは本当に、魂の抜けた空の人形に戻ってしまったけど・・・」
伊織は立ち止まる。そうだ。ジュリアは、伊織を巻き込んだ事への償いと、伊織への愛から、自らの魂を捧げてくれた。憎しみに取り憑かれても、最期には彼女は、人間を愛する優しい少女人形に戻ったのだ。
伊織はある事を提案した。
「エリカ・・・。もし良ければ、何だけど、ジュリアの人形、私にくれないかな?ジュリアが人形の魂を取り戻して、今度は、憎しみに取り憑かれてない、澄んだ心の人形になってくれる日まで・・・私、ジュリアを預かりたい。勿論、エリカの家にも連れていくし、二人で、ジュリアを大事にしていこう」
ジュリアの言葉の通りであれば、きっといつか、必ず彼女の、人形の魂は蘇る。その時には、寂しさや嫉妬や憎しみに塗り潰されていない、清らかな魂を持った人形になって、二人の元に帰ってきてほしい。そう思って、提案したのだ。
人形を生まれてこの方、手放した事などないエリカであったが、伊織の提案には、頷いてくれた。
「それも、いいわね・・・。これからは、ジュリアとももう一度、今度は寂しい思いをさせないように向き合わないとね。ジュリアも、貴女の傍でなら、きっと穏やかに過ごせると思う・・・。でも、私も時々は元々の主人として会いにいくからね、ジュリアに」
もう同じ過ちは繰り返すまい。それが、伊織とエリカの間で生まれた、共通の意思だった。誰の気持ちももう、蔑ろにはしない。それが故意による物でなかったとしても、人は・・・そして、人形も傷つき、暗い感情を蓄積させる。だから、同じ轍を踏まないように、自分とエリカも互いの気持ちにもっと敏感になって、少女人形についても決して、無下に扱う事などはしない。
そう、二人で決めたのだから、もうこの先に暗い未来などないと、伊織は信じていたし、エリカもそう思っていただろう。
‐エルヴィーラが、置き手紙を残して、朱宮家から去った朝までは。
「これ・・・エルヴィーラが残していったの・・・⁉」
一つ前の席で、椅子の背もたれに両手をかけて、伊織は、今しがたエリカが渡した、エルヴィーラからの「別れの手紙」を見せていた。
「そうよ・・・。それから、家じゅうを、私も、お母さんも、まだ杖をついてるお父さんまで皆、必死で探したけど、エルヴィーラは影も形もなくなってしまった。人形の間も見たけど、人形の姿に戻った訳でもないみたい・・・。この手紙から分かるのは、エルヴィーラが自分を責めていた事。そして、『最初の主人』の女の子の元に帰ろうとしてるっていう事だけ・・・」
このような状況になるとは思ってもいなかった。エルヴィーラは、朱宮家を遠く離れ、何処か・・・その、『最初の主人』が住んでいた場所に向かっているらしい。そこに行き着いた先で、彼女は何をする気なのか。
「でも、あの子が・・・エルヴィーラが遠いヨーロッパから、日本にやってきたのは、確か戦争前の時代って聞いてるよ・・・。それなら、『最初の主人』は80年近く昔の女の子になるし、その子孫の方がいるとしても、今は何処にいるかなんて、どうやったら分かるの?」
「エリカの力を使って、エルヴィーラの霊力を辿って追いかける事は出来ないの?」
エリカは首を横に振った。
「私も、一定以上の距離にエルヴィーラが離れてしまったら、もう霊力を探知する事は出来ない。今、全く霊力を感じてないから、多分、既にだいぶ遠くにあの子は言ってる・・・」
エリカは額に手を当てて俯き、溜息をつく。
伊織も、沈痛な面持ちで、文面を目で追っていた。
「エルヴィーラは・・・私とエリカの二人が結ばれる事を選ぶなら、自分はもう不要な存在になると思っていたんだね・・・」
「私・・・ジュリアの起こした事件の後、もう、誰かの気持ちを蔑ろになんてしないって心に決めた筈だったのに、また、こうやって、同じ失敗を・・・」
こんな自分がエルヴィーラの元へ辿り着いたところで、彼女を止める資格があるのだろうか・・・。そんな、暗い考えも頭を過ぎる。
「だけど・・・こんな別れ方をするなんて、嫌・・・。もしもエルヴィーラが、日本に来て、最初に会った女の子との思い出の場所を見つけて、そこで自分の魂を昇華させる気なら、絶対に止めないと・・・!私はまだ、あの子の魂が願っている事を実現させられてないのに・・・」
エリカが呻くように言った、その時。伊織は椅子から立ち上がる。
「エルヴィーラは、ジュリアと共に、私を助けてくれた子。だから、あの子の事は絶対、私達で一緒に探し出そう!こんな別れ方、絶対良くない」
「だけど・・・エルヴィーラを見つけて連れ戻したら・・・、伊織はどうなるの・・・?あの子は、人間の姿で、私と結ばれたいって願ってるんだよ」
エリカの言葉に、伊織は、「それは・・・」と一瞬、言い淀む。
「それは・・・本当は、私だって、迷ってるよ。エルヴィーラを救いたい自分と、でも、エルヴィーラを連れ戻したら何が起こるのかを考えた時に、気持ちがまた曇りそうになる、嫌な自分が・・・。でも、このまま、エルヴィーラが何処かで消えてしまって、エリカが哀しむのを見るのはもっと嫌だから。だって・・・エリカは、私のこ
、恋人でしょう?恋人を哀しませたくないのは普通でしょう」
伊織の心情とエルヴィーラの願いは、衝突してしまう物である事は、エリカも、伊織も分かっている。それでも、伊織は、恋人のエリカを哀しませたくないからと、協力しようとしてくれている。
「エルヴィーラとエリカが最終的にどうなるかは、その時に考えればいい・・・。エリカと私の恋人の関係は決してもう、揺らがないって私は信じてるから。そうと決まったら、うかうかしてられないよ、エルヴィーラが消えてしまう前に、情報を収集しないと。オカルト研究会で培われた、私のサーチ能力を、エリカにも披露しないとね」
そうだ。ここで立ち止まっている時間はない。エルヴィーラが魂を投げ出す気ならば、猶予はない。今は、伊織の言う通りに、エルヴィーラを探し出す事だけに集中しよう。今の自分と伊織ならば、きっと、この困難も乗り越えられる筈だから。
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