第19話 ジュリアの献身と、惜別

接吻の瞬間、エリカの腕の中で、伊織の動きが止まったのが分かった。

彼女に、自分の言葉を信じてほしくて、体が自然に動いていた。伊織の顔を直視する勇気はなく、唇と唇が触れ合う直前、エリカは目を固く閉じていた。長く、この冷たく、仄暗い水中を流され、彷徨っていたであろう伊織の唇から、ひんやりとした感触が伝わってくる。伊織を離すまいと、背中に回した両腕にも、伊織の体の冷たさを感じる。早く、伊織を日の当たる、温かい場所へと連れて行かなければ。

二人の唇が離れると、自分の口からも、僅か数センチ先にある伊織の唇の端からも、また、泡の粒が零れていくのが見えた。伊織は、言葉を失くしたように、その瞳で、ただ、エリカを見つめている。

「・・・どう?これでも、私の気持ちが本当なんだって、信じない?」

精一杯に頭を働かせて、エリカの口から出た言葉がそれだった。

エリカも、頭がかっと熱くなっていて、思考はよく回っていない。このような事をするのは、人生で初めてで、半ば勢いのままに行ってしまったが、その後、どんな言葉をかけたらいいかなど、全く考えてもいなかった。

伊織は、首を強く横に振った。彼女もまた、エリカの顔を直視出来ないらしく、少し顔を背けたようにしたまま、それでも、恐る恐る、エリカの背中に手を伸ばしてくる。

エリカは、そのためらいがちな動きの伊織の手を取って、自分の背へと回してあげた。伊織の手が、背中で固く握られるのが分かった。伊織はこう言った。

「遅いよ、エリカ・・・全く・・・!今更、私の気持ちに応えてくれたって・・・。私が、こんな事になる前に、気付いてほしかったな・・・」

その響きに、少しだけ、エリカのよく知っている、普段の伊織の口調を感じて、エリカは安堵する。

「何も、遅くなんかないよ。これから、私と一緒に戻ろう?元の世界へ。そしてまた、やり直そう。今度は私、もう伊織の気持ちを置き去りにしたりしないから・・・、伊織の・・・そ、その、今度は、幼馴染としてだけじゃなく、ちゃんとした恋人として」

「でも、エルヴィーラの事はいいの・・・?あの子は、エリカと結ばれたいって願って、人間の姿になったんでしょ?私の気持ちに応えるっていう事は、あの子とは・・・」

それは、伊織の言う通りだ。エリカが、伊織の気持ちとしっかり向き合うというのは、エリカが、伊織の告白を受け入れるという事を意味しているのは、エルヴィーラも分かっていた筈だ。それでも、彼女は伊織の元へ、エリカが行くのを手助けしてくれた・・・。エルヴィーラはどのような気持ちで、力を貸してくれたのだろう。

「エルヴィーラと、私達でまた、ちゃんと話そう?私にとって、エルヴィーラが大切な存在である事は、今も変わらない。でも・・・私が、エルヴィーラにばかり目を向けて、伊織の気持ちには気付いてこなかったせいでこんな事になったんだから、もう、過ちは繰り返したくない」

無事に帰ったら、エルヴィーラの気持ちもちゃんと聞こう。もう、隣にいる人の気持ちに気付く事のないまま、知らずに傷つけるような過ちを犯さない為にも。

「ここに私が来られたのは、エルヴィーラと、ジュリアが力を貸してくれたからなんだよ」

「ジュリアが・・・⁉」

「うん。ジュリアは、自分の事を凄く責めてた。伊織を復讐に巻き込んで、操り人形にしてしまったから、こんな事になってしまったんだって、後悔してた・・・。だから、伊織を助けたいし、罪滅ぼしがしたいって言って、私とエルヴィーラに力を貸してくれたの」

「ジュリアが、そんな事を・・・。確かに、あの子は私に憑依したけど、でも、それに付け入られて、操られたのは、私が、エリカの事でずっと、気持ちを伝えきれずにうじうじしていたからでもあるのに・・・」

彼女にとってのジュリアは、朱宮家での一番の遊び相手の人形だった。伊織にもジュリアに、思う事はあるのだろう。

「帰って、ジュリアともまた、しっかり話そう?伊織の気持ちに、気付けなかった私に、こんな事言う資格は、ないのかもしれないけど・・・、もう一度、ジュリア、エルヴィーラ、皆で、気持ちを確かめ合いたい。このまま、お互いの気持ちを分からないままで、バラバラになってしまうのは嫌だ・・・」

それは、エリカの切実な願いだった。自分は、人形の声を聞く事が出来た筈なのに、伊織の心の声には気付けなかった。そして、今は、伊織とジュリアの間でも、また気持ちのすれ違いが起きようとしている。もう、気持ちがすれ違った末の悲劇が起きるのは見たくない。それは、エリカの切なる願いであった。

「一緒に帰ろう、伊織・・・?」

エリカは改めて、手を差し出す。伊織の気持ちを知らずに、すれ違った末に起きてしまった惨劇を物語る、包帯で巻かれた右手を。

伊織は、その手に、恐る恐る自分の手を近づけていき‐やがて、包帯の上から、エリカの右手を握った。

そこで、伊織の、ずっと硬かった表情が、初めてふっと緩んだ。

「私を連れて、泳いでいける?この水の中を元の世界まで。エリカ、泳ぐの苦手だったくせに。私にいつも、小学校の水泳の時とか下から支えてもらって、足動かす練習してたくせに」

「もう・・・いつの話してるの。今はもう大丈夫よ、それにここは、現実の世界と違って、私でもすいすい泳げる不思議な世界みたいだし」

そんな会話をすると、思わずエリカも、ずっと張り詰めていた意識が少しだけ緩んでいく。伊織と、このように幼馴染らしい、何気ない会話が出来たのはいつぶりだろう。少なくとも、エルヴィーラが人間の姿になって現れてからは、伊織と心穏やかに話せる時間はなかったように思う。

二人、穏やかに笑い合った後で、エリカは伊織の手を引き、足を動かし、泳ぎ出そうとした。光が散乱している、遠い水面を目指しながら‐。


その時だった。二人の周りを取り巻く、淀んでいた水流に変化が生じたのは。

「え、な、何・・・⁉」

エリカも、伊織も、突如、周囲の水流が速さを増し始めた事に気が付いた。前触れなくやってきた嵐のように、穏やかだった水の流れが、どんどん速く、更に上へ下へと流れる向きも掻き乱され始めた。

「く・・・っ!伊織、しっかり掴まって!」

エリカがそう言うと伊織は、エリカの背中に手を回して、背中で硬く手を握った。

一体何事なのかと思っていたら、エリカの頭に響く声があった。

「エリカ⁉聞こえる?私よ、エルヴィーラよ」

「エルヴィーラ⁉何だか、急に、私達の周りを取り巻く水の流れが、洪水みたいに激しくなったんだけど、これは一体何・・・⁉」

「恐らく、半ば力技でエリカの意識を、伊織の意識の深層部に送り込んだ事で、空間に歪みが生じ始めている・・・!私とジュリアの霊力を合わせて、何とか二人が戻って来る道だけは必死に守っているけど、時間の猶予はないわ。一刻も早く、伊織を連れてそこから逃げて!」

もし間に合わなければどうなるか、エリカは分かっていた。その時は、エリカの意識も、伊織と共に、現世と冥界の境目の仄暗い水底を永遠に彷徨い続ける事になる‐、つまり、伊織だけでなくエリカも昏睡状態になるという事だ。

「伊織・・・今、エルヴィーラとジュリアの二人が何とか、この空間に私達が閉じ込められないように、帰る為の道を必死で守ってくれているけど、それもいつまでもつか分からない・・・!二人の霊力が尽きてしまったら、私達は・・・」

口ごもるエリカを、伊織が問い詰める。

「その時は、どうなるの?」

「私達は、この世とあの世の境目のこの空間を永遠に彷徨い、流される。現実世界では、伊織だけでなく、私も目を覚まさないままになるわ」

濁流の中、伊織を抱きかかえるようにして泳ぐ事は至難の業だった。エリカはもう、何度となく体をくるくると回され、自分が向かっているのが、上なのか下なのかさえも分からなくなっていた。

「そんな!!エリカまで・・・!」

伊織は悲痛な叫びをあげる。しかし、彼女とやっと、明るい方へと歩み出したばかりというのに、ここで終わりにする訳になどいかない。

「エルヴィーラとジュリアを信じよう!あの二人なら、私達を元の世界へと必ず導いてくれるから・・・!」

今のエリカに出来るのは、あの二人の霊力が続いて、元の世界へ導いてくれるのを信じる事、そして、今は自分の腕の中でしがみついてくれている伊織の体を、どんなに濁流が荒ぶろうと、絶対離さない事だけだ。


エリカの部屋では、ベッドに横たわるエリカの横で、エルヴィーラとジュリアが手を繋いだまま、エルヴィーラの手から懸命に彼女の意識に向かって、霊力を注ぎ続けていた。その二人を、エリカの母親も固唾を呑んで見守っている。

そうした中、突如、「ぐっ・・・!!」と苦痛の叫びをあげて、ジュリアが床に膝を落とした。

「ジュリア⁉しっかりして!」

エルヴィーラは、横で座り込んだジュリアを気遣い、声をかける。今まで、二人の霊力を合わせてエリカに送り込む事に夢中だったから、ジュリアの方から注意が逸れていた。見れば、ジュリアは荒い息を突き、表情も苦し気だ。

「もう、かなりの霊力を消耗してしまったみたい・・・。私はエルヴィーラと違って、この人間の恰好を保つだけでも霊力がどんどん減っていくし、これ以上はもう、厳しいかもしれない・・・」

そんな・・・。ジュリアの霊力の支えが無くなれば、エルヴィーラの力だけで、エリカと伊織の帰り道を保つのは無理だ。エルヴィーラを、絶望感が襲った。

ジュリアは、そんなエルヴィーラの表情を見てか、覚悟を決めた声音で、こう告げた。

「でも・・・エリカも伊織も、どっちも救うと決めたからには、私も最後まで付き合うから・・・。もう、私の霊力は尽きる寸前だけど、それでも、この人形の魂を全て差し出せば・・・生贄にすれば、エルヴィーラに巨大な力を送れるわ」

「ジュリア・・・貴女、人形の魂を捨て去るつもりなの⁉そんな事したら、もう人間の姿ではいられないのは勿論、人形としても、物言わぬ空っぽの人形になってしまう・・・。エリカとも、伊織とももう話す事も出来なくなるわよ!それでもいいの⁉」

ジュリアは首を縦に振る。

「もう、そうするしか、エリカも、伊織も、二人共救い出す道はないんだから・・・。それならば、私は、人形の魂も全て、喜んで差し出すわ。ここで私が魂を惜しんで、伊織のみならず、エリカも一生目を覚まさない、人形になってしまったら、私はこの先、自分を赦す事は永遠に出来ないから・・・。エルヴィーラ、最期まで貴女に勝てなくて、悔しかったよ。100年前に、あの工房で初めて貴女に会った日から今日まで、私が貴女を超える存在になりたいってずっと願っていた。でも今はそんな事はもういいの。私は、あの二人を救うために、この魂をエルヴィーラに授けるわ。どうか、私の魂を使って頂戴」

ジュリアの言葉に、エリカの母親も‐、エリカと同じく、彼女の霊障を受けた彼女までもが、止めに入る。

「待って、ジュリア!魂を差し出すって・・・そしたら、もうジュリアは前とは違う空っぽの、心を持たない人形に戻ってしまうって事じゃない!エリカも、伊織も、貴女がそうなってしまえば、どれだけ悲しむか分からないわ!」

しかし、彼女の言葉にもジュリアは、こう返した。

「大丈夫よ、エリカのお母さん。私達人形には、どの子にも魂があるけど、でもそれは、一度失ってしまったら永久に、空っぽの人形になる訳じゃない。出会った人、愛をくれた人、様々な思いを受け止めながら、私達は、人形としての魂を生み出していくの。だから、ここで一度、私の魂は無くなるけれど、終わりではないわ。この、人形を愛してる、貴女達朱宮家や、それに、私を大事にしてくれていた伊織の愛があれば、きっといつか、魂が私にまた宿る筈だから」

そこで、一度言葉を切った後、ジュリアは、その目に薄っすらと透明な雫を浮かべて、エリカの母親に言った。

「次にまた、私に魂が宿ったら、その時は、エルヴィーラへの嫉妬だとか、そうしたものに囚われてない、澄んだ魂と心を持った人形になって、貴女やエリカ、伊織の前に戻ってくるわ。これは永遠じゃなく、しばしの間のお別れでしかない。愛の力で、また私の魂は生まれ変わるわ」

エリカの母親にそう言い残すと、ジュリアは、目の前のベッドに横たわるエリカ、そして、隣に立つエルヴィーラに視線を遣る。

「お願い、エルヴィーラ。私から魂を抜き取って、その霊力を全て、エリカの中へと注ぎ込み、そして伊織を回復させるのに使って。それが私の最後の願いよ」

ジュリアの言葉を聞き、その瞳を見て、彼女を止める事はもう出来ないとエルヴィーラは悟った。エルヴィーラは、苦渋の表情で、ジュリアの顔に左手をかざす。

「・・・分かった。貴女の魂、エリカと伊織を助ける為に、使わせてもらうわ」

その瞬間-、ジュリアの魂が体から抜き取られる直前に、ジュリアは、常に憎しみを孕んでいた、エルヴィーラへの眼差しをふっと緩めて、こう囁いた。

「さよなら、エルヴィーラ・・・。次に貴女と会う時は、澄んだ、復讐に囚われていない綺麗な魂の人形になって、会いたいわ。残されたエリカと伊織の事を、どうかお願いね・・・」

ジュリアと出会ってから、彼女がエルヴィーラにここまで穏やかな表情で微笑んだのは、これが最初で最後の事だった。その表情を見た瞬間、エルヴィーラの胸に、引き裂かれるような痛みが走った。

しかし、その痛みの理由を考えている時間も今はなかった。ジュリアの魂を、完全に体から引き抜いた瞬間に、彼女は全身の力が抜けて、床の上に倒れ込んだ。

『許して、ジュリア・・・。そして、私とジュリア、二人分の霊力を送るから、どうにか、生きて帰って・・・、エリカ、伊織!!』

エルヴィーラは、眠っているエリカの、顔の上にかざした手に霊力を集中させ、エリカの中へと注ぎ込んでいった。


どれだけ濁流に揉まれたか分からない。分かっているのは、何処へ向かっているのかも分からないまま、エリカと伊織は濁流に非力に流されつつ、闇雲に泳ぎ進もうとして彷徨っている事。そして、どうにか、伊織はまだエリカにしがみついて、離れないでいてくれるというだけの事だった。

『お願い・・・、エルヴィーラ、ジュリア。元の世界に帰る、道を開いて!』

濁流に伊織をさらわれまいと、必死に胸に彼女を抱きしめたままで、エリカは一心不乱にそう願い続けていた。

その時だった。洗濯機の中にでも放り込まれたかと思う程の、水の渦が急速に鎮まり始めた。容赦なく目に入って来る水の為に、ろくに瞼も開けられずに泳いでいたエリカは、急な変化に驚いて薄っすらと瞼を開く。

「何・・・⁉急に、水の中、静かになった・・・」

エリカの腕の中で、伊織も驚き、周囲を見回している。その時、二人のいる仄暗い水中に、眩い光の柱が一本、水底から水面に向かって真っすぐに上っていくのが見えた。

そして、エリカの頭の中に、また、エルヴィーラの声が響いた。

『エリカ、聞こえる⁉今、私とジュリアの霊力を結集して、その、現世と冥界の狭間から、二人を現世に戻す道を開いたわ。ただ、霊力の残りを考えると、開ける時間は僅かしかない。早く、あの光の柱の中に入って!!』

目の前に現れたあの、光の柱はやはりエルヴィーラとジュリアが何とかこじ開けてくれた、この世界の境目から、現実世界に戻る為の帰り道だったのだ。

「うん・・・!ありがとう、エルヴィーラ、ジュリア・・・!」

エリカは心の中で礼を言うと、伊織に、あの光の柱が、現世に帰る道だと教えた。

「エルヴィーラだけでなく、ジュリアも一緒にあの柱を・・・!」

迫ってきた、燦然と輝く光の柱を前に、伊織も、ジュリアの意思を感じ取ったようだった。

「もう、手を離して大丈夫だよ、エリカ・・・。私、自分であの柱まで泳ぐから。昔、水泳の時間にプールでやったみたいに競争しようよ。どっちがあの柱に早く着くか。あの時は、エリカが体力なくて、途中までしか泳げなくっていつも私が勝っちゃったけど、今度はどうかな?」

伊織の誘いに応えて、穏やかになった水中で、彼女を手放す。幼馴染で、かつ、今日からはエリカの「恋人」の肩書が加わった彼女の申し出に、エリカもふっと笑って答える。

「ええ、良いわよ。久しぶりに伊織の泳ぎ、見たいし」

そう言って、光の柱を目指して、二人は真っ直ぐに泳いでいく。幸い、ここの水はどれだけ潜っていても息が苦しくならない不思議な水なので、苦しくなる事はない。それでも、伊織の泳ぎのフォームは綺麗で、ぐんぐんと光の柱の方へ、彼女が先に近づいていく。エリカも全力で、不格好に手足を動かすが、本気になった伊織にはとても追いつけそうにない。光の柱の目の前に達したところで伊織はくるりと、エリカの方に向き直り、笑った。小学校時代の夏の日の、プールの塩素の匂いを思い出す。いつも途中で泳げなくなって、息を切らしていた、体力のないエリカの元まで、あの頃の伊織はわざわざ舞い戻って、手を引いてくれていた物だった。

『あと少しで、伊織を連れて、元の世界に戻れる・・・!伊織を連れて帰れる!』

そうしてクロールの出来損ないのような、独特なフォームで水をかき続けた末に、眩い光の柱の前にエリカも達した。

そこで、また伊織の手を取って、二人、眩い光の柱の中へと入っていく。

「帰ろう、伊織」

エリカの言葉に伊織は素直に頷いた。二人で天井も見えない、光の柱の頂点を見上げる。

その時だった。二人の頭上から、声が降り注ぐように響いた。それはエルヴィーラの声ではなかった。

「エリカ、そして伊織・・・」

その声が、ジュリアの物である事を瞬時に、二人共悟った。目を凝らすと、ゆっくりと、人間の姿のジュリアが、長い黒髪を水中に広げながら、光の中から降りてきた。伊織が、一瞬、表情を強張らせるが、ジュリアのどこか悲し気な雰囲気をたたえるその表情に、もう、前のような害意はない事を悟ったようだった。

伊織は、驚きの声を上げる。

「ジュリア・・・、どうして、貴女がここに?」

伊織の問いかけに、ジュリアは切なさを含んだ眼差しで、その黒曜石のような瞳で伊織を見つめながら答えた。

「ごめんね、伊織。私が、貴女を復讐に身勝手にも巻き込んだせいで、こんな目に遭わせてしまって・・・。どんな言葉を使っても、謝り切れる事ではないわ。でも、これだけは、最期に伊織に伝えたくて。小さい頃から、ずっと私の遊び相手をしてくれた伊織の事が私は好きだし、貴女には、願っていた通り、エリカと幸せになってほしいと思っている」

「・・・ちょ、ちょっと待ってよ、ジュリア。最期ってどういう意味・・・?」

「言葉通りの意味よ。私の魂は今日、ここで冥界に召される。この、元の世界に貴女とエリカを帰す為の道を作るのに、エルヴィーラ一人では霊力が足りなくてね・・・。だから、私の命を捧げて、その霊力全てを、二人を救い出すのに使ってってエルヴィーラに頼んだのよ。だから、伊織の代わりに、ここには私が、召されるものとして残るわ。ここで、伊織とも、エリカともお別れよ」

エリカは思わず、声をあげていた。

「な、何でそんな事したのよ!そんな・・・魂を差し出すっていう事は、ジュリアは・・・」

「そう。エリカであっても、何も声を聞きとれない、魂のない空っぽの人形になる。でも、悲しむ事はないわ。人形は、人々の愛に育まれたら、必ずまた、魂をその中に宿す。私は生まれ変わって、また戻って来るから。エリカや、伊織の元に」

エリカの横で、伊織がすすり泣く声がした。彼女は涙声になりながら、ジュリアに言う。

「でも、そんなのいつになるか、分かんないじゃない・・・!ジュリアが、復讐の為にエルヴィーラや、エリカの家を襲ったのは間違ってるけど・・・、でも、ジュリアが、ただエリカに愛してほしかったのは分かるし、ジュリアが、私の辛い気持ちを理解してくれてたのも知ってるよ・・・?だから、ここにジュリアを置いて、帰れない・・・」

ジュリアは、伊織の元へと歩みより、そっと、伊織の肩を抱いた。

「ありがとう。でも、伊織の魂は一つしかない。ここで終わっていくのを見ているのは私には出来ない。精一杯の私の罪滅ぼしと、私からの愛情だと思って、この魂で築いた道で、エリカと一緒に、生きる人間の世界に帰って。これが終わりではないのだから。いつか、エリカと伊織の元に帰るから。復讐に取り憑かれていない、澄んだ魂を持って・・・」

そして、ジュリアはエリカにも目を向けた。

「エリカ・・・、これで、貴女とは一旦のお別れね・・・。どうか、伊織の事を大事にしてあげて」

エリカも、瞳から涙が零れていくのが分かった。ジュリアの魂と引き換えに、自分と伊織が助けられる事への罪悪感に潰されそうだった。

「私・・・最低の主人だったよね・・・!その末に、こんな、ジュリアに命まで投げ出させてしまうなんて・・・ごめんなさい・・・!」

「泣かないで、エリカ・・・。ただ、私の願いは、魂の抜け殻になって、人形に戻った後の私を、ちゃんと愛してほしい。そして、それ以上に、伊織の正直な気持ちに応えたからには、恋人として伊織を愛してほしい。その二つだけよ」

エリカは頷いた。光の中に、涙の粒が零れて、消え去っていく。

ジュリアは、復讐に取り憑かれていた時とは別人のように、穏やかな、邪気の消え去った表情で、にっこりとほほ笑んだ。

「さてと・・・そろそろ、時間も限界のようね。どうか幸せになって。エリカ、伊織。そして、向こうにちゃんと帰り着いたら、エルヴィーラによろしく伝えておいてね」

そんな、ちょっと外に出かけてくるだけのような、軽い調子の、惜別の挨拶を残して、ジュリアはやがて、光の向こうへと消えていった。

エリカも、伊織も二人共、泣いていた。ここに、ジュリアの魂を残していく事に。


そして、現世に戻る時が来たらしい。伊織と、身を寄せ合って涙していたエリカは、光の中で、徐々に意識が遠のいていくのが分かった。そして、傍にいる伊織も、それは同じのようで、泣きつかれた子供のように、表情がぼんやりとしたものになり始めていた。

二人は互いに、崩れ落ちそうになる体を背中合わせにして、支えながら、光の中へと溶け込んでいった。

そこで完全にエリカの意識は途絶えた。


「・・・本当ですか!伊織ちゃんが目を!」

薄っすら、瞼を開くと、そこに見えたのは、もうあの仄暗い水中でもなければ、眩い光の柱でもなかった。視界を埋めていたのは、見慣れた部屋の天井だった。エリカの母親が誰かと電話をしているらしく、声が響いている。

「エリカ・・・お帰り!」

そう言って、まだ横になっているエリカの肩を抱く者がいる。シーツの上に広がる、美しい金髪を見て、すぐにエルヴィーラだと気付く。

しかし、目を閉じる前、確かにこの部屋にいた筈のジュリアはいなかった。起き上がり、すぐにエルヴィーラに

「ジュリアは何処⁉」

と尋ねると、彼女は、エリカの机の上に目を向けた。

そこには、人形の姿に戻ったジュリアが座っていた。彼女は、あの世界で言っていた通りに、本当に魂を捧げて、人形の姿へと戻ってしまったのだ・・・。

「エリカ!!ああ、良かった、無事に目を覚ましてくれて・・・!」

エリカが目覚めたのに気付くや否や、母親は固く、エリカを抱きしめた。そして、こう告げてきた。

「今、伊織ちゃんのお母さんから電話があって、今さっき、突然、伊織ちゃんの容態が回復して、目を覚ましたんだって!本当に、奇跡としか言えないような回復ぶりで、もう動く事も何も問題ないような状態だって言ってたわ!」

エルヴィーラが全力を注ぎ、ジュリアが命を賭した事で、伊織は本当に救われたのだ・・・。そう分かった瞬間、エリカは視界が滲んでいくのが分かった。伊織が助かって、本当に良かった。


‐エリカは、視界の隅で、何か思いつめたような表情で佇んでいる、エルヴィーラの事に、気付けずにいた。


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