第18話 接吻

エルヴィーラの言葉に、反応したかのように、冷たい風が周囲に吹き始めた。霧雨も風に舞い始め、玄関前にいた人々が慌てて、屋根の下に避難する。

その雨の中を、エルヴィーラは、玄関近くの街路樹の、雨に濡れる青葉の下を指さし、「あそこよ」とエリカに言った。そちらに目を向けると・・・、エルヴィーラの言った通り、雨露に霞む空気の向こうに、黒衣の美少女、ジュリアが、一人ポツンと佇んでいた。

その姿を見たエリカに、しかし昨日のような、恐怖感は何故か感じなかった。ジュリアの表情はここから伺うのは難しいが、今の彼女の視線からは、何か胸を貫くような、悲痛な物が感じられる。

木陰の暗がりに立ち尽くして、ジュリアの目は、ぼんやりと病院を眺めているようだった。その姿に、朱宮家を襲った時の、邪悪な気配はもうなかった。

ジュリアの邪気が急速に感じられなくなっている事に驚き、エルヴィーラに尋ねてみる。

「昨日までのジュリアと、雰囲気が全然違う・・・。昨日、伊織を連れて、うちを襲った時はあんな濃い、邪気を感じたのに、それが全くない・・・」

エルヴィーラも同じようだ。エリカの言葉に頷くと、こう答えた。

「今日のジュリアは、私を狙って追いかけてきた訳ではないみたいね・・・。今のあの子の意識を少し読んでみたけど、ジュリアの中にあるのは、昨日のような憎しみじゃない。哀しみと、後悔だから・・・」

「哀しみと、後悔・・・?」

「ええ。あの子は、後悔している。自分が伊織を巻き込んでしまったから、伊織がこのような事になったんだって、哀しんでる・・・」

ジュリアもまた、自分を責めて、苦しんでいるのか・・・。何をするでもなく、仄暗い木陰の中で佇んでいる、ジュリアの姿を遠くに見つめながら、エリカは言葉を口にした。

「エルヴィーラ・・・、私、ジュリアと話してみる。私はあの子に、ちゃんと謝りたい。ずっと、私が目を向けていなかったせいで、復讐心に満ちた人形になってしまったんだから・・・。そして、伊織を助ける為に、ジュリアに力を貸してって頼んでみる」


雨露が葉を叩く音を聞きながら、ジュリアは、ただ茫然と木陰の下に立っていた。

先程見えた、病院の中の一室の光景が忘れられない。

ベッドの上で、様々な管に繋がれて、物言わぬ、人形の姿となっていた伊織が、そこにはいたから。

『違う・・・こんな筈じゃ・・・私は、伊織をこんな目に遭わせたかった訳じゃないのに・・・どうしてこんな・・・』

幾度もその言葉を、頭の中で繰り返す。彼女が、朱宮家の2階の窓から飛び降りていく瞬間が、脳裏に蘇る。

「伊織・・・どうしてよ・・・!貴女は・・・こんな形で、『エリカが見てくれるなら、私はお人形さんになりたい』という望みを叶えたっていうの・・・?」

そんな呟きが漏れる。伊織は、これ以上ない皮肉な形で、かつてジュリアに語った、『人形になりたい』という言葉を実現してしまった。

自分はエリカの愛情を取り戻したかった、そして、伊織も、再びエリカに見てもらえるようになってほしかっただけだ。その為にエルヴィーラを破壊しようと、朱宮家を襲ったのに、エリカに傷を負わせたうえに、憑依から解かれた伊織は、エリカを刺した自分に半狂乱となり、身を投げてしまった。自分は、愛情が欲しかった人にも、幸せになってほしかった人にも、どちらにも災厄しかもたらさなかった。

「私が・・・エルヴィーラを破壊すれば、全てが上手くいくようになるなんて、考えたのが、間違いだったんだわ・・・。伊織は、人形の姿になって、そのせいで、エリカの心もどれ程傷ついたか分からない・・・。もう、こんな私に、再び朱宮家に帰る資格もない・・・」

ジュリアが、そんな考えに浸っていた時だった。

「ジュリア!」

何度も聞いた、その耳に馴染んだ声が・・・エリカの声が、雨音に混じって、聞こえてきた。

驚いて、声がした方向を見ると、エリカと、エルヴィーラの二人が立って、こちらを見つめていた。

エリカは、真剣な眼差しで、こちらを見つめて、ジュリアに言った。

「ジュリア・・・、貴女に話があるの・・・」

今の自分には、エリカに合わせる顔などない。さっと背を向けて、その場から消え去ろうとしたが、今度はエルヴィーラの声に呼び止められた。

「待って、ジュリア!逃げないで!エリカの話をちゃんと聞いてあげて」

ジュリアは、その声に対して、せめてもの負け惜しみのつもりで、こう返した。

「二人揃って、今更何よ・・・。復讐には無惨に失敗して、その上に、私を大切にしてくれていた、伊織まで失った私の事を、笑いにでも来たの・・・?」

そんな、素直になりきれない言葉しか口から出ない自分に嫌気が差す。

そのジュリアの言葉に、エリカが叫ぶ。

「伊織は・・・まだ死んでなんてない!あの子は、まだ賢明に生きようとしてる!」

エリカの方を見ず、背を向けたままで、ジュリアもまた、言葉を返す。

「でも、もう、あの姿から、元の伊織に戻れはしないんでしょう?それならば、あの子はもう、人形になったも同然よ・・・」

「ジュリア・・・!貴女は・・・!」

エルヴィーラも、ジュリアの言動に、怒りの滲んだ声で何かを言いかけたが、エリカは、彼女に「エルヴィーラ、ここは私に話をさせて」と制される。

「話・・・?エリカ達が私と何の話をするっていうの・・・?エリカは、私の事、憎んでるでしょう?私が、伊織に憑依して、操って、巻き込んだせいで、あの子があんな目に遭ったんだって・・・。その憎い相手の私に、今更、何の用があって・・・?」

「私は、ジュリアの事を憎んでなんかいない!寧ろ、私の方こそ、ジュリアに謝りに来たの!」

その言葉には、ジュリアも流石に驚き、エリカへと振り向く。

「謝る・・・?」

「そう・・・。ジュリアがエルヴィーラに復讐しようと思ったのは、私が、エルヴィーラの事ばかりを見て、ジュリアに目を向けようとしなかったから・・・。だから、元は私が悪いの!私の方こそ、ジュリアに憎まれて当然の事をしてきたんだから・・・!」

エリカはそう言う。しかし、実際に霊障を起こして、エリカまで危険に晒して、伊織を操って復讐に利用したのは自分なのだ。その上に、伊織は重傷を負って、最早自分では身動きも出来ない体となってしまった・・・。それは、どうしても逃れられないジュリアの犯した罪だ。

「でも・・・伊織の一番の大事な幼馴染で、エリカの事を思っている伊織を、あんな風にしてしまったのは、私なのよ・・・?私が、伊織の事を復讐に巻き込んだせいで、伊織はもう・・・。それでも、私の事を憎んでいないっていうの?」

エリカの幼馴染で、一番の親友で、かつ、伊織の事を思っている人を、人形の姿にしてしまった元凶は自分だ。それでも、エリカはジュリアを憎まないというのだろうか?

ジュリアの問いかけにエリカは答える。

「伊織を諦めるのはまだ早いわ、ジュリア・・・。伊織を、まだ救う方法はあるって、エルヴィーラが教えてくれたんだから」

「何ですって・・・⁉」

伊織を救う方法が、まだある。その信じがたい言葉に、ジュリアは、エルヴィーラの方に目を向ける。エルヴィーラは頷いた。

「方法はあるわ。私とジュリアが、力を合わせれば、その道筋を用意は出来る・・・。だけど、凄く危険な賭けになるわ。そして、伊織を救いにいけるのは、エリカしかいない」

エルヴィーラへの憎しみは、まだ、消えた訳ではない・・・。しかし、自分のせいで、伊織が命の危機に瀕してしまった。それならば・・・。

「・・・エルヴィーラに協力しないといけないのは癪に障るけれど・・・それで、あの子の命を救えるのなら、話を聞くわ。私も、伊織を取り戻したい。それが、復讐にあの子を巻き込んでしまった私の、せめてもの罪滅ぼしになるなら・・・」


エルヴィーラから説明を聞いたジュリアは、絶句した。確かに理屈の上では二人の霊力を合わせれば出来るが・・・。

「この方法は危険すぎるわ、エルヴィーラ・・・!こんな危険にエリカを晒すなら、私は協力出来ない・・・!伊織だけでなく、エリカまで、物言わぬ人形のようになってしまう!そんな事になったら、私は・・・!」

ジュリアは動揺を隠せない。エリカの命まで危険に晒すこの方法を、エリカは納得しているのか。

しかし、エリカは、ジュリアに言った。

「大丈夫、ジュリア。これは、私の贖罪でもあるの。私は、ジュリアにも、そして伊織にも、長い間、苦しい思いをさせてきてしまっていた・・・。それはジュリアや伊織に、ただ謝ったくらいで許される事じゃないから・・・。だから、償いだと思って伊織の為に命をかけたい。そして、伊織が意識を取り戻したら、今度こそ、ちゃんと、伊織の気持ちに向き合うよ。ジュリアが罪滅ぼしの為に協力したいって、言ってくれたのと同じように、私も、償いの意味も込めて、伊織を助けに行きたい」

償い・・・。エリカも、抱えている気持ちは、自分と同じなのだとジュリアは知った。

落ち着いた微笑みを日頃は浮かべている、エルヴィーラの顔も、今は緊張した面持ちだ。

「いい?ジュリアと私が力を合わせ、伊織の意識の深層部まで、エリカの意識を送り込む。そこで、闇に沈んでいる伊織の魂を連れ戻せたら、伊織は蘇る・・・だけど、もし失敗して、そのまま、伊織の意識の深層部に飲まれたら・・・エリカも、伊織と同じ・・・人形の姿になるわ。そうなれば、もう、次の手はない。エリカは、覚悟を決めてくれた。ジュリアはどうする?」

自分の残り少ない霊力で、それだけの事を行えば、人間の姿でいる事は最早出来なくなる。それでも、ジュリアは伊織を救いたい。物言わぬ人形に戻ってしまったとしても、伊織が蘇るなら。伊織のお気に入りの人形として、朱宮家で共に遊んだ日々を思い浮かべながら、ジュリアは答える。

「分かったわ・・・エリカも、そこまで覚悟を決めて、償いの為にも、伊織を救いたいっていうのなら、私も、力を貸すわ。エリカと同じように、償いの為、そして、伊織がまた笑ってくれるようにね」


部屋のベッドに横になり、エリカは目を閉じる。その横に、エルヴィーラ、ジュリア、エリカの母親が立っている。

エルヴィーラから、伊織を救う方法はまだ残されている事。しかし、その為には、エリカが、もしも失敗すれば自分もまた意識の戻らない、人形の姿となる、とても危険な賭けである事。そして、それを行うには、自分だけではなく、ジュリアの霊力も必要となってくる事を、エリカの母親に説明してくれた。エリカの母親も、当然の反応ではあったが、驚いたし、反対した。更には、エリカとエルヴィーラの二人の横にジュリアが立っている事にも驚いていた。しかし、エリカの意思は変わらず、この、伊織を取り戻す為の賭けを、最後には許した。

エリカは、張り詰めた面持ちで、ベッドの横に並んでいる3人の顔を順番に眺める。

エリカの母親が、そっと、横たわるエリカの手を自分の両手で包んでくれた。

「必ず、伊織ちゃんを連れて、生きて帰ってきて・・・」

母親の手は震えていた。これから、エリカは眠りにつき、伊織の精神の奥深くまで入り込む、戻れないかもしれない危険な旅に出る。もしもの事があれば、エリカも、これが、意識のある中で母親の顔を見るのは最後になるかもしれないのだ。

「私は大丈夫だから・・・。絶対に、闇の中から、伊織を連れ戻してくるから。そして、伊織が目を覚まして、またこの家に遊びに来てくれた時には、昔のようにお母さんにココアをまた入れてほしいな。伊織も好きだった、あのココアを皆で飲みたい。勿論、ジュリアも一緒に」

「ええ・・・分かったわ。だから、必ず、伊織ちゃんと一緒に帰ってきて・・・!ココアを入れて、二人の事、待っているから」

エリカの言葉に、ジュリアの肩が動く。彼女も、エリカと伊織、エルヴィーラと、この家で過ごした遠い日々の事を思い出したのだろうか。

ジュリアの口からも言葉が漏れる。

「エリカと伊織に、何かあったら、エルヴィーラだけじゃなく、私も命を賭してでも貴女達を助けるからね・・・。私も、もう一度、伊織の笑っている顔が見たいから」

エルヴィーラは、神妙で、読み取れない面持ちをしていた。緊張だけでは説明のつかない、何処かに深い憂いを秘めた、不思議な表情だ。しかし、時が来た事を悟ったように、エリカの母親、ジュリアが、エリカに言葉を託し終えると、すっと右手をエリカの顔の上に翳す。そして、彼女は左手で、ジュリアと手を繋いだ。

「いい・・・エリカ?これから、私とジュリア、二人分の霊力を貴女の中に注ぎ込んで、貴女の意識を、伊織の中へと送り込むわ・・・。もしもの事があったら、私達二人が、必ず貴女も、伊織も助けるから。人形の魂も、この人間の姿を捨ててでも・・・」

エルヴィーラのその言葉を聞き終えた頃から、エリカは眠りに誘われ始めた。深海の底まで、果てしなく沈んでいくような、感じた事のない不思議な感覚・・・。その感覚に心も体も委ねて、エリカは瞼を閉じて、深い海に身を沈めていった・・・。


あてもなく、光も遥かに上の水面を微かに照らしているのが見えるだけの、この水中を流され、彷徨いながら、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。伊織は、ぼんやり、そのような事を考えていた。

我に帰った時、暗い部屋で、エリカの右手を、自分が包丁で刺し貫いていたのは覚えている。エリカは、エルヴィーラの前に立ちふさがるようにして立っていた。

『ああ、そうだ、私は・・・ジュリアの操り人形になって・・・、それで・・・、それで・・・』

伊織の口から零れて、淡く光る水面へと吸い込まれていく、泡の数が急に増えていく。自分の呼吸が乱れているのを、それを見て、伊織は知った。何故水中なのに、自分は出来ているのかは、考えないでおく。きっと、ここは現世ではない世界なのだろう。もう、死後の世界に入ってしまったのか、それとも三途の川の底でも漂っているのか。

『そうだ・・・私は、エリカを傷つけた・・・!操り人形になって、エリカだけじゃなく、エリカの家族まで、ジュリアが襲うのを手伝った!そうすれば、エルヴィーラが苦しむからっていうジュリアの言葉を信じて・・・、でも、私は結局、エルヴィーラには傷を負わせられなかった・・・代わりに、エリカに傷を負わせて・・・、それで、私は・・・』

エリカに「さよなら・・・」と言って、窓枠を乗り越え、暗い闇の底へと、落ちていった事。地面に頭がぶつかる寸前、雨に濡れて湿った土の匂いがしたのを思い出していた。その後、自分がどうなったのかは分からない。気付けば、この水中をずっと彷徨い、漂っている。

『これが、死後の世界なら、どうして、まだ私の気持ちはこんなに苦しいの・・・?死ねば、エリカへの申し訳なさも、エリカにずっと抱いてきたこの気持ちも・・・親友として、だけじゃない、好きの気持ちも、全部消えて、楽になるんじゃなかったの・・・?』

時折記憶が蘇っては、去来する、エリカに対する酷い罪悪感が、伊織に、まだ自分は死んだ訳ではないらしい事を実感させていた。

『どうせ・・・もう、私の意識は戻らないし、エリカだって、エルヴィーラを、一度ならず、二度までも傷つけようとした私の事を赦しはしない・・・。それなら・・・もう、私はこのまま、水の泡と一緒に消えてしまっていいのに・・・』

水面に上っていく途中で、消えていく泡たちを見つめて、伊織はそう思う。

「・・・でも、最期に、エリカにもう一度、ちゃんと、恋人としての意味で『好きだよ』って告白しておけばよかったなぁ・・・」

そんな、今更取り返しのつかぬ後悔が、思わず口を突いて出た。

「うっ・・・、最期に、もう一度会いたいよ、話したいよ、エリカ・・・エリカぁ・・・」

罪悪感と後悔と惨めさと、幾つもの感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、そう叫んだ。水中なのに、その声は、響いて聞こえた。

‐響いている声が、自分の声だけではないのに気付いた時、伊織は目を見開く。虚ろだった頭が、急に覚醒する。微かに、誰かの声が聞こえてくる。

「・・・おり・・・伊織!何処にいるの・・・!」

聞き間違える筈もない。彼女の‐エリカの声だ。もう聞く事はないと思っていたその声に、伊織は周囲を見回す。水面から差し込む光も、この深さでは弱く、周りの様子を見るのに十分な明るさではない。しかし、伊織の目は、その弱い光の中でも、こちらに向かって、泳いでくるエリカの姿を捉えた。何とも不格好なその泳ぎ方に、小学校の頃の彼女は水泳が苦手で、溺れないか不安がるエリカに、自分がついて色々教えていたな・・・と、そんな記憶の一ページを思い出す。

そんなエリカが、今は、水底の暗闇に向けて落ちていく自分の方へと、真っ直ぐに向かってくるのが、不思議にも感じられた。自分は、今、夢でも見ているのだろうか?

「見つけた・・・伊織!!」

エリカの目も、はっきりと伊織の姿を捉えたようだった。彼女は、伊織の方に向かって、右手を差し出してくる。その右手を見て、伊織は、はっとする。背筋が冷たくなる。その右手には・・・包帯が痛々しく巻かれていた。間違いなく、ジュリアに操られた自分が負わせたあの傷だ。

一瞬、もう会えないと思っていたエリカが現れた事で、心を掻き乱された伊織も、彼女の右手の傷を見て、現実に戻される。ジュリアの、エルヴィーラへの復讐に加担し、エリカを刺してしまった自分に、その手を取る資格などない。伊織はくるりと背を向けると、エリカから逃げるように、更に水の深いところへ、暗闇の方へ沈むように泳ぎ出す。

「待って、伊織、どうして逃げるの⁉」

不思議な事に、泳ぎでは、現世ではエリカに負けた事などなかった伊織なのに、ここでは、いくら足を一生懸命動かして潜ろうとしても、エリカを撒く事が出来ない。

エリカが、どんどん近づいてきているのが、自分を包む水流の動きから感じ取れた。

そして、遂にエリカの手が、伊織の腕を掴んだ。エリカの悲痛な叫びが、伊織の耳に飛び込む。

「やっと、追い付いた・・・!ねえ、お願い、伊織。私と一緒に、皆のところに帰ろう?私、伊織ともう一度、やり直したいよ・・・。今度は、伊織の気持ちとちゃんと向き合いたい!」

そう言って、エリカは必死な様子で、伊織の体を引き寄せて、後ろから抱きしめてきた。

「やり直し・・・?無理だよ、そんなの・・・」

逃げられないのを悟った伊織は、後ろから自分に抱き着いているエリカの、顔を見ずにそう答えた。エリカの表情を見て、この気持ちが揺らいではいけない。自分は、このまま、目覚める事のない世界に落ちていくのを、受け入れる気でいたのに。

「エリカの右手、そんなにしたのは私なんだよ・・・?そして、エリカが大事にしてきた、エルヴィーラを傷つけ、破壊しようとしたのも私。私の中に、エルヴィーラを疎ましく思う気持ちがあったから、ジュリアに付け入られて、操られて、あんな事をしてしまった・・・。エリカに手を差し伸べてもらう資格なんて、ないんだよ、私には・・・」

「そんな事ない・・・!私は、伊織に戻ってきてほしいし、隣にいてほしいよ!それに、まだ伊織に謝る事だって出来ていないのに・・・!」

「謝る事・・・?」

「そう・・・、私、バカだったから、伊織の気持ちに気付けなかった・・・。伊織は、私が人形を・・・それもエルヴィーラの事ばかりを見ていたから、自分の気持ちには気付いてくれないって思ったんだよね?伊織が、本当は、私の事を‐親友としてだけではない意味で『好き』だっていう、気持ちに・・・」

冥界と現世の狭間のようなこの、不思議な空間にあっても、羞恥の感情は湧くらしい。伊織は、エリカの言葉を聞いた途端、冷たい水の中でも分かる程、頬が熱くなっていくのが分かった。恥ずかしさから、必死にエリカを振りほどこうとするが、エリカも必死にしがみついてきて離れない。

「で、でも、どうせ、エリカはエルヴィーラにしか興味ないんでしょ⁉あの金髪のお人形さんと早く、、エリカの望み通り結婚式ごっこでも何でも、すればいいよ!!興味のない私の事なんてほっといてさ!」

口走りながら、自分でも最低の言葉を発していると、伊織は自らを責める。エリカにとって、エルヴィーラがどれ程大切な人形かは知っているのに、愚弄するような事を・・・。

「違う・・・!私は・・・、伊織の気持ちにちゃんと向き合う気で、ここに来たの!!エルヴィーラは確かに、大切な人形だし、これからもその事は変わらないよ・・・?でも、私、今回の事で、伊織をジュリアに奪われて、失いそうになって、やっと、自分の気持ちに気付いたの。私も、伊織の事が好きで、だからこそ、失うのが、こんなにも怖いんだって・・・」

エリカの口から発された『好き』という言葉は、伊織の心臓を直接掴んで、ぐらぐらと揺さぶってくるように思われた。伊織は、その言葉をエリカの口から聞ける日をどれ程待ち侘びたかしれない。それなのに、伊織の、肝心な時に素直になれない悪い性質が、またも邪魔をする。

「今更、そんな事・・・どうせ、私を引き留める為に、言ってるだけでしょ⁉信じられないよ・・・!」

『どうして、素直に喜べないの』と、そうした自分の愚かしさを責め立てながら、しかし口では、本心と真逆の言葉を並べ立てる。

すると、エリカは、伊織を後ろから抱きすくめたままで・・・、伊織の耳に顔を近づけて、こう言った。

「じゃあ・・・こうしたら、伊織は私の言葉を、信じてくれる・・・?」

耳元の近くで話された為か、エリカの口から漏れた泡で、耳たぶがくすぐったかった。そんな中、ふっと、言エリカの手が伊織の体から離れたかと思うと、伊織の頬をその両手がいきなり包み込んできた。水の浮力で、そのままゆっくりと、エリカの体が伊織の正面に回り込む。

伊織の頬を包んだまま、エリカの顔が、そして唇が近づいてきた。水に微かに揺れている、彼女の目を縁どるその長い睫毛まで、はっきりと伊織の視界に見えてくる。

そして‐伊織に見える世界の全てが、エリカで満たされた。

「え・・・?エリカ、ちょ、ちょっと待っ・・・!」

咄嗟の事に、完全に伊織の頭の中は白くなり、あらゆる言葉が消え去った。


‐次の瞬間、エリカの柔らかで、温もりのある唇が、伊織の唇を覆っていた。そして、エリカの両手が、今度は伊織の背中に回されて、エリカに正面から抱きしめられる姿勢になった。冷たい水の中を漂って、芯まで冷え切っていた体が、触れた唇、エリカと体の触れ合った部分から、熱が沁み込み、温められる心地がした。

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