第4話 転生

「エルヴィーラの人形が無くなった・・・?」

朝、登校して、教室でエリカに出会うなり、彼女から聞かされた衝撃的な知らせに、伊織は驚きに目を見開いた。エリカは頷き、状況を説明し始めた。

「朝起きて、机の上を見てみたら、エルヴィーラの姿が消えていて・・・何処を探してもないの・・・。勿論、お父さん、お母さんにも話して、一緒に朝から家の中を探してまわってみたけど、やっぱりエルヴィーラの人形だけが無くなっていて・・・」

「エリカが、宿題は忘れても、人形を何処かに置きっ放しにしてきて、忘れる事なんて考えられないし、家じゅう探してみても見つからないって・・・それ、まさか、泥棒が入ったとかは・・・?エルヴィーラの人形、すごく作りが良くて価値もありそうだし、それを狙って・・・」

「それも考えたんだけど、でも、私の部屋は2階だし、人が上ってくるなら、足場とかもないから、梯子でも使わないと無理だよ。それに、私の部屋に泥棒が入ってきたなら、いくら眠っていたとしても、物音に全く気付かないなんてありえないよ」

そう言って、深い溜息と共に、エリカは机の上で頭を抱えた。朝から他の事が全く手につかない様子である。エルヴィーラの人形は、まるで神隠しのように、エリカの前から消えてしまった。

「本当、何処に行っちゃったんだろう、エルヴィーラ・・・。もう、朝からうちは大騒ぎだよ、お父さんもお母さんも、エルヴィーラが無くなって、すっかり意気消沈してる感じだし・・・」

「ああ・・・、それはそうだろうね、エリカのお父さんもお母さんも、下手したらエリカ以上の人形好きだもんね・・・」

伊織も、エリカの両親が、週末にもなればエリカと共にアンティークドール専門店に足を運んで、人形用のドレスやらアクセサリーやらの品定めや、新しい少女人形との出会いはないか、いつも探し歩いているような、周囲が若干引く程の人形収集家である事はよく知っている。エリカの両親もまた、エルヴィーラには、他の少女人形達とは別格の愛情を注いでいるようであったから、そのエルヴィーラが姿を消したとなれば、二人共意気消沈している様は、目に浮かぶようであった。

‐ただ、エリカの様子が朝からおかしいのは、エルヴィーラが姿を消した事だけではないようにも、伊織の目には映った。何故そう感じたというと、今日のエリカが何故か、伊織と話す時に、目線を合わせようとしないのだ。

『エリカ、どうしたのかな。今日は、私から目を逸らしてるような気がする・・・』

最初は気のせいかとも思ったが、伊織が目を合わせようと、試しにエリカの顔を覗き込んでみると、今度ははっきりと伊織から、目線を少し逸らした。それも、両頬を薄く赤に染めながら。

今まで、伊織が見た事のないような反応だ。エリカに昨日から今日の間で、何があったのだろうか?

「エリカ・・・エルヴィーラの事の他にも、もしかして、何かあった?」

「えっ?」

「今日のエリカ、私と目を合わせてくれないから・・・それに、何か、顔も赤いし」

エリカは、伊織にそう言われた途端、更に、頬に差した朱色を濃くして、何やら狼狽えた様子でごほごほと咳き込む。

「ちょ、ちょっと、大丈夫⁉エリカ」

「い、いや、大丈夫、だから・・・」

そう言ってエリカは、鞄と共に、机の横にかけていたコンビニのビニール袋から、缶のカフェオレを取り出すと、それを急いで口につけた。それで何とか一息ついた様子になり、取り繕うように、伊織に言った。

「べ、別にそんな事ないよ、伊織・・・!私は至って普通だから・・・」

エリカの下手な誤魔化し方に、内心では少々呆れながら、伊織は

「それじゃあ、もう、私と目、合わせられる?」

と言って、再び、エリカの薄い栗色の瞳を覗き込むようにしてみた。自分の姿が、エリカの瞳の中に映りこんでいる・・・と、思った矢先に、エリカの目から、伊織の姿は一瞬にしてかき消された。エリカが目をまたしても逸らしたからだ。

「ほら、やっぱり!一体どうしたの・・・」

伊織はこんなエリカの反応の理由に、皆目見当がつかず、エリカの机の横に立ち尽くす。昨日、オカルト同好会の部室で別れた時までは普通に話していたし、エリカも昨日までは、伊織の目を見て話していた筈だ。エリカのこの反応は、怒っているのともまた違うようだし、それでは、何故、伊織への態度がこんなにぎこちなくなったのか、伊織は全く理解が及ばない。エリカは、長い睫毛に縁取られたその目を、伏目がちにしたままで、一言、ぼそっと呟いた。それは、伊織にはこう聞こえた。

「伊織が・・・、私の夢に出てきて、あんな事、言うからだよ・・・」

「夢?何を意味の分からない事言って・・・」

夢?とは果たして何の事なのか、それをエリカに問い質そうとしたところで、伊織の耳に、朝のホームルームの始まりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。ガチャガチャと他の生徒達は、各々の机へと戻っていく。そろそろ担任も教室にやってくるだろう。まだ、聞きたい事が色々あったが、

「次、時間ある時にまた聞きにくるからね・・・」

と、エリカにそう言い残して、伊織も渋々、自分の机に戻っていく。

自分の机に戻るとはいえ、クラス内の席順はまだ、2年に進級した際の、名前順に並べられたままだから、苗字が「更級」である伊織は、「朱宮」のエリカの席の、すぐ目の前なのだが。

ホームルームの最中、担任の教師が伝達事項をクラスに告げている間も、伊織の一つ後ろの席のエリカは、心ここに在らずといった様子で、幾度か深い憂いを帯びた溜息が漏れ聞こえてきて、その度に伊織の集中を削いだ。エルヴィーラの行方も勿論気にかかっていたが、何やら、その他にもエリカが伊織にひた隠しにしている事を暴かねばならない。

春の気まぐれな空は、朝から雲に覆われていたが、ホームルームが終わる頃には、天気予報も告げていなかった霧雨を降らし始めた。

「雨だ・・・、そういえば傘、持ってきてなかったな・・・」

伊織はそんな事を思いながら、ふと、後ろに座るエリカの方を、ちらりと振り返る。

エリカも、机から窓の方を、頬杖を突きながら見つめて、何やら、様々な思いに沈んでいるようだった。

『人形の事について話さなければ・・・、綺麗なのにな、エリカは・・・』

伊織は、少し憂いを帯びたエリカの姿を見て思う。今までにも、エリカの容姿の端麗さに惹かれたクラスの同級生らが、何人も、彼女に話しかけてきた。しかし、彼女ら、彼らは皆、エリカと少し話してその内面を知ると、口々に

「朱宮さんって、顔はいいけど、変な子だよね。人形の声が聞こえるとか、心を通わせてるとか、しまいには、『私は人形しか愛せない』だとか・・・。もしかして、結構イタイ子?」

「いや、あれはイタイ子アピールじゃなくって、本当に、ちょっと頭おかしいのかも・・・。人形の事、話してる時の目が、ガチだったから・・・、あまり関わらないでおこうよ」

と、概括すれば、「気味の悪い、イタイ子」という印象を持つようになり、二度と相手にしなくなるのが常だった。

今もまたエリカは、美貌の下に、『人形をしか愛せない』という奇異な特性を隠して、見る者にアンニュイな印象を与えるその目を、今日は更にもの憂げにしながら、糸のような霧雨の先にくすんでいる校庭を眺めていた。

すると、校庭に向いている窓側を眺めていた、一人の女子生徒が、急に素っ頓狂な声をあげた。

「え・・・、何、あの子⁉なんか・・・変な子が校庭に入ってきてるんだけど」

その声に反応して、その生徒の周辺にいた、彼女のクラスメイトらも、興味を持ったのか、ぞろぞろと窓際に集まってくる。

「何?どうしたの、急に大きな声出して」

「いや、校庭見て!本当に、変な恰好の女の子がいるの!それも、雨降り出してるのに傘も差さないで・・・。何だろう、あの服・・・ゴスロリとかそっち系?」

一人、また一人と、春雨が垂れていく窓の傍に寄っていき、校庭に現れた、珍妙な恰好の侵入者に注目しているようだった。伊織も、流石に気になって、窓の方へと近づいていく。

「何があったの?」

何気なく、同級生らに声をかけると、皆、一様に校庭の上を移動している、白い点のような物を指さした・・・。伊織がそれに、よく目を凝らすと、それは人の、少女の姿をしていた。金色の滝が流れるような、ブロンドの髪は、霧雨の中だというのにさほど濡れた様子もなく、靡いていた。そして、服装は、尚の事、奇妙だった。頭には、それこそ近代の欧州の絵画か、西洋人形でしか、被っているところを見ないようなボンネットを被って、肩は白いボレロに包まれ、そして白亜のドレスを着ている。

‐その、異様な純白の出で立ちに、しかし、伊織は酷く既視感があった。

「待って・・・あの服装、それにあの金髪・・・あれって、まるで・・・」

「伊織、何を見てるの?」

その時、横からエリカの声がした。エリカも、窓際の方が騒がしくなっているのを見て、気になって校庭の様子を見に来たらしい。

「エリカ・・・。校庭に、変わった服装の女の子がいるんだけど・・・あの服装って、なんか、見覚えない・・・?」

胸に沸き起こったこの疑いを、確信にする為に、伊織は、エリカにも校庭の少女を見るよう促した。エリカは、言われるままに校庭に目を遣って・・・、そして、息を大きく呑んだ。

「え・・・?何、あの女の子・・・?あ、あの服装に、あの金髪は・・・まるで・・・」

「そう。まるでエルヴィーラみたいな恰好だと思わない?」

校門は既に閉じられているのに、どうやって入ってきたんだろうとか、あの子は外国人かなとか、様々な声がクラス中を飛び交っていた。いくら少女の姿とはいえ、部外者が校庭に侵入してきたのだから、校内は騒がしくなり始めた。隣のクラスの方も生徒達の声で騒がしくなっており、あの少女への注目が学校全体に広まりつつあるのは明らかだった。やがて、校舎から、教師が二人、傘を差して、飛び出ていくのが目に入った。目標は、言うまでもなく、あの、西洋人形のような身なりをした奇怪な、しかし美しい少女だ。

教師らは警戒して距離をとりつつ、何か、少女に向かって話しかけていて、それに対して、正体不明の美少女も言葉を発していた。どうやら、言葉は通じる相手らしい。

しばらく問答した後、教師らは首を横に振りながら、彼女を校門の方に追いやるように近づいていった。どうやら、当然の反応ではあったが、追い出そうとしているようだ。

すると、その時、伊織も、エリカも信じられない事が校庭で起きた。

教師二人が近づいていこうとした瞬間に、白亜の美少女は、ぱっと、煙が宙に舞って消えるように、姿を消してしまったのだ。それも一瞬のうちに。

「消えた⁉ど、どういう事?」

伊織は、窓に顔をくっつけんばかりにして、その衝撃の光景に、声を上げた。

その瞬間、教室内はどよめいた。常識では説明不可能な出来事が起こり始めている事は、もう、誰の目にも明らかだった。

「これ、夢じゃないよね、現実の事だよね?あの女の子、何処に消えたんだろう・・・」

エリカも、困惑を極めた表情で、この奇怪な現象を見つめていた。クラス内は

「ま、まさか、あの女の子・・・幽霊⁉」

「きっと、そうだよ!だって、校門は閉まってた筈なのに入って来られる時点でおかしいし、それに近づこうとしたら、消えるなんて、幽霊だよ!恰好も、絶対、普通の女の子じゃないし・・・」

と、今や半ばパニックに近い状態になりかけていた。

エリカの隣で、伊織は、騒然となるクラスの様子を眺めていた。いつも通りの朝の授業が始まる筈だった教室内の光景は一変した。

そんな中、更にそれを助長するような知らせが、伊織とエリカのいる、2年生の階にももたらされた。

生徒指導室の顧問の、ジャージ服姿の男性の体育教師が血相を変えながら、教室を回って、二人のクラスにも駆けつけてきた。そして、教室にいた担任を見るなり、慌ただしく訪ねた。

「朱宮エリカさんのいるクラスはここですかっ⁉」

「は、はい、私のクラスですが・・・」

担任のまだ若い女性の教師は、その勢いに圧されながらもそう答えた。この流れで自分の名前が出てくるとは、夢にも思わなかったであろうエリカは、大層驚いた様子で教壇の方に振り向く。クラスの子らも、一斉に、エリカと、隣にいる伊織の二人へと目が向く。

「さっきの・・・、あの真っ白い、フランス人形みたいな恰好した、名前も分からん女の子が・・・消えたと思ったら、今度は校舎の中に現れたんです!もう、訳が分からんですよ・・・!その女の子が、こんな事を言ってたんです。『私は、朱宮エリカに会いに来たの』って!何が目的かも、あの子が誰かも分からないけど朱宮さんに近づこうとしてるのは確かです!」

「何ですって・・・!」

あの、西洋人形のような恰好をした少女が、消えたと思ったら次は校内に瞬間移動したように現れた事。更には、「朱宮エリカに会いに来た」と言って、校内を闊歩しているらしい事・・・。その二つの情報で、クラス内は完全に大混乱になった。

「しゅ、朱宮さん、貴女、一体何したのよ・・・⁉幽霊に狙われるなんて」

「朱宮に会いに来たって事は、まだあの女の子、朱宮を探して、校内にいるって事だろ⁉」

騒動の中心に、訳も分からぬままに投げ込まれる形となってしまった張本人のエリカは、伊織の傍で固まってしまっていた。皮肉な話であるが、伊織は、エリカと共にこの高校に入学して丸一年と少しの期間で、これ程エリカが学校で、同級生皆から注目された瞬間を見た事がなかった。

誰かの心無い声が、エリカと伊織が凍り付いたように立っている窓際の一角めがけて飛んできた。

「もう訳わかんないけど、あの幽霊?お化け?か知らないけど、あの女の子の狙いは、朱宮さんでしょ?だったら、朱宮さんに教室出て、あのお化けの女の子に会いに行ってもらえば、私達には無関係じゃない!」

「やめなさい、そういう言い方は!皆、こういう時こそ、一旦冷静になって!朱宮さんを悪者にしては駄目よ!」

若い担任の女性教師は何とか生徒達に呼びかけ、騒ぎを抑えようとしているが、一度火のついた騒ぎは、その程度では収まらない。

完全に、あの少女の正体は、幽霊かお化けで、理由は分からないが狙いはエリカであるという共通認識が出来上がりつつあった。そして、その発言は、兎に角エリカを放り出して、あの少女に会わせれば、自分達は何もされないだろうという、利己的な考えに基づくものだった。伊織は思わず、エリカを背中に隠すようにし、声の主に対して言い返す。

「何言ってるの⁉相手は、正体が何かも分からない女の子で、そんな相手に会ったらエリカ、何をされるかも分からないんだよ?危険な目に遭うかもしれないのに、勝手な事言わないで!」

「で、でも、更級さんは、朱宮さんの仲良しみたいだからそう言うんだろうけど、でも、朱宮さんを庇ったら・・・あのフランス人形みたいな女の子が、関係ない私達にも危害を加えるかもしれないんだよ!そうなっても、更級さんは良いの?朱宮さんの為に、他の子はどうなっても!」

そう言われると、伊織も言葉に詰まる。

「そ、それは・・・!」

「伊織・・・もう大丈夫だよ。私・・・あの女の子に会ってみる」

前のめりになる伊織の腕を引いて、エリカが発してきた言葉に、伊織は

「な、何を言ってるの?エリカ、話聞いてた⁉あの女の子の正体は、何か分からないんだよ、お化けか幽霊とか、怪しい物だったら、どうするの⁉」

と言って、必死に制する。しかし、エリカは、そっと、伊織に耳打ちしてくる。

「私ね・・・、あの女の子が、そんな悪い物だとは思えない。それに、あの恰好は、間違いなく、私の大好きなエルヴィーラの来ていた洋服よ・・・。考えてみたんだけど、もしかしたら、あの女の子の正体は、お化けでも幽霊でもなくって・・・」

エリカの言葉を聞いていて、伊織にも、彼女が何を言わんとしているのか、大方、予想は付いた・・・。しかし、それは、幽霊やお化けの存在と同じか、もしかするとそれ以上に、あまりにファンタスティックであり、現実離れした思考であった。

「エリカはまさか・・・、あの女の子の正体が、エルヴィーラが人間に転生した姿だとでも言うの?」

伊織の問いに、エリカは迷う事なく、こくりと頷いた。

「そんな・・・それは、あまりにも現実離れし過ぎだよ・・・エリカ」

「オカルト同好会らしくもない発言ね、伊織。だって、あの子が少なくとも校庭から、学校内まで瞬間移動できるって事を見せられた時点で、現実離れとか、あり得ないなんて、もう言える状況じゃないと思うんだけど」

確かに、もう二人も、あの女の子が、現れたり消えたりしている時点で、もう常識に縛れない存在である事は見せつけられている。ならば「正体不明の美少女は、姿を消していたエルヴィーラ人形が、人間になった姿だった!」という真相であっても、あり得ないとはいえないのかもしれない。

エリカは、まだどよめいているクラスメイトらの方に向かって歩き出す。この美しい、しかし、周囲からは「気味の悪いイタイ子」というレッテルを貼られた少女を、皆は一斉に今は避けた。エリカは、教壇の方に向かって宣言した。

「先生、私、あの女の子に会ってみます。多分ですけど、そんな悪い子じゃないような気がするので」

「しゅ、朱宮さん!駄目よ、周りに流されちゃ!それに危なすぎるわ!待ってて、今から不審者として、警察に電話を・・・」

それを、掌を前に出して制しながらエリカは言う。

「警察呼ぶ必要なんてないです。私が会えば、あの子は、このクラスの子達には何もしないと思うから」

エリカだけを、危ない目に遭わせる事は出来ない・・・。そう思った伊織は、エリカの元に駆け寄ると、彼女の隣で手を上げる。

「先生、私も、エリカに付いていきます!エリカ一人だと危ないから・・・」

まだ、学校に突如来訪した、あの少女の正体がエルヴィーラだと、信じた訳ではない。しかし、エリカの直感を否定できない、邪悪な物を彼女からは感じないというのもまた確かなのだ。少女人形が、人間の姿へ転生するなど、幽霊以上に信じられない話であるのは変わりないが、今は、エリカのこの不思議な第六感のような物を、信じてみようと思った。

クラスメイトらも、エリカ、そして伊織があの、正体不明の奇怪な美少女に会ってさえくれば、この恐怖からもひとまず解放されるだろうという安堵した空気が広まっていた。早くいけという空気すらも感じられ、そのエリカへの薄情さには少なからずの怒りを、伊織は覚えた。

教師らの止めるのも振り切る形で、エリカと伊織は、薄暗い廊下へと飛び出した。直線の廊下の向こうまで見渡したが、少女の姿はない。

「朱宮さん!更級さん!待ちなさい!危ないからすぐに教室へ!」

制止の声が後ろから響くが、それには耳を貸さず、階段を駆け下りて、下の、1年生らの教室のある1階へ向かう。

正体不明の幽霊ともお化けともつかぬ少女が、瞬間移動という現実とは思えぬ方法で校内に侵入してきた・・・。この報を受けて、どの教室も厳重に扉を閉め切り、怯えた空気が漂っていた。

「エルヴィーラ、一体何処にいるの・・・?」

エリカと伊織は、教室の傍を駆け抜け、校内掲示板の前も走り抜けて、昇降口の方へと向かう。伊織は、エリカの身を守るように、その傍に貼りついて、周囲の廊下に目を配っていた。何処から、あの白亜の装束の美少女は姿を現すか分からないし、エリカは何故か、直感的に「彼女は悪い物ではない気がする」と言っているが、伊織はあの美少女への警戒心を解いてはいなかった。

『エリカの言う事が正しいなら・・・本当に、あのエルヴィーラの人形が、まさか人間に転生して、エリカを探して学校まで来たっていうの?そんな事が、ある訳・・・』

しかし、校庭に佇むあの姿は、間違いなく、エルヴィーラが纏っていたのと同じ、純白のドレス姿だった。それに、彼女が一瞬のうちに姿を消す場面は伊織も見ており、彼女が常識の通用しない、超常現象的な何かというのは、もう認めざるを得なかった。

しばらく、昇降口の前でエリカを待たせて、伊織は生徒らが靴から上履きに履き替える、靴箱前を中心に探索してきた。

「・・・昇降口の靴箱前も見て回ってきたけど、外は雨が降り続いてるのに、あの子の足跡らしい物は全然残ってない」

伊織は、エリカにそう告げた。一通り、1年から3年までの靴箱前を全て見てきたが、春雨が外では風に吹かれて、窓を濡らしているにも関わらず、彼女の足跡一つ、見つけられなかった。

「つまり、あれはトリックとかじゃなくって、あの白亜の美少女は本当に、超自然的な何かで、学校内に入ってきたって事か・・・」

額に手を当て、伊織は目を閉じる。彼女が在籍するオカルト同好会的には、本来ならば食いつくべき超常現象が実際に起きているのであるが、いざこうしてその渦中に放り込まれてみると、混乱と恐怖の感情しか湧いてこなかった。

その時だった。静まり返った1階の廊下に、足音が響いた。伊織はハッとして、目を開いた。

「あ、まずい!私達を先生が追いかけてきたのかな?」

エリカは最初、そんな事を言いながら、足音の鳴った方角へ顔を向けた。伊織も初めはそう思った・・・。しかし、それにしては足音がやけに緩慢だ。優雅さすら感じさせる足取りで、こちらにそれは歩いてきているらしい。

そして、エリカの表情が固まる。彼女につられて、同じ方角を見た伊織も・・・息が止まる心地がした。

この、特段何の変哲もない、高校の校舎にはあまりにミスマッチな存在が、二人の方に向かって、歩いてきていたから。

「あ、あれって・・・!エリカ、隠れて!」

伊織は、怯みそうになりながらも、エリカの腕を咄嗟に掴んで、彼女を自分の背に回す。

立ち竦んだ二人の方へ・・・、金髪の滝の如きブロンドの長髪に、白のボンネットと花飾り。身は、肩を包む白のボレロにその下も純白のドレス。

二人が幾度となく、その姿を見てきた、エルヴィーラにそっくりな出で立ちに、白絹と見紛うような肌と青の瞳の、白亜の装束の美少女が、二人の前に歩いてきていた。

その表情は、人形のままのように、感情を感じ取れなかった。

「・・・エルヴィーラ?貴女、エルヴィーラよね?」

伊織の後ろから、身を出して、肩越しにエリカが呼びかける。伊織が、制しようとするが、エリカは止めない。そうしている間にも、答えずに、エルヴィーラと同じ装束を来た、白亜の美少女はこちらに近づいてくる。伊織の鼓動は早まり、破裂しそうだ。

遂に、二人の目前まで来たところで彼女は立ち止まる。その瞳の中の青い海に、自分とエリカが映りこんでいるのが、伊織からも見える程の距離だ。

その時・・・ずっと表情を変えなかった彼女の口元が、すっと上に上がり・・・初めて見る筈なのに、見覚えのある、アルカイックスマイルへと変わった。

そして、次の瞬間・・・伊織とエリカは、二人まとめて、彼女の腕に抱きしめられていた。その彼女の腕は、人間の物と同じく、温もりが感じられた。

「エリカ、伊織!やっと、この姿で・・・人間の姿で会う事が出来ました!エリカの言う通りです。私は、朱宮家の人形の、エルヴィーラです!」

そう彼女の声が響いた。その声は・・・そうした表現があるのかは分からないが、心地の良いそよ風に、木の葉がこすれ合いつつ、揺れるような、安らぐ声と伊織は感じた。少なくとも、生きている人の声で、こんな声を伊織は聞いた事がなかった。

想像を超える事態の連続にもう、伊織の脳の容量ははち切れんばかりとなっていた。

『エリカと私は今日、何か、とんでもない現象の真っ只中に放り込まれたんだな・・・』

そんな事を薄っすらと考えながら。

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