第5話 白亜の少女と、伊織の嫉妬

「まさか、貴女が、本当にエルヴィーラの生まれ変わった姿だなんてね・・・」

いつも伊織と放課後、時間を無為に過ごすのに使っている、オカルト同好会の部室で、エリカは、目の前で椅子に座っている、エルヴィーラを名乗る、この白亜の装束に身を包んだ美少女を見つめていた。ありふれた形の、学校の机と椅子が並び、あとは小さな本棚があるだけの、退屈な日常の空気が凝縮したこの部室の中で、彼女という頭から爪先まで非日常的な要素の塊のような存在が椅子に腰かけているのは、違和感しかなかった。

「確かに、服装はあの人形に・・・エルヴィーラにそっくりだけど、貴女が、本当にエルヴィーラの生まれ変わりだっていう証拠を見ないと、私はまだ貴女を信じられないな、エリカと違って」

少女と向き合っているエリカの後ろから、伊織の声が響く。その声は、何故かしら、険を帯びているように感じられた。ちらっと後ろを振り返ると、伊織は、前下がりボブの毛先を揺らして、いつもの机に頬杖を突きながら、何処か睨むような目つきでエルヴィーラを名乗る少女を見ていた。


「お化けじゃないんです、両親の知り合いの外国人の娘さんで、私達の知り合いの、ちょっと変わった子なだけなんです!お騒がせして本当にすみませんでした!この子、非常識なところがあって、でも悪気はないんです・・・」

そんな苦しい言い訳を並べて、教師らに、伊織と二人、頭を下げて回り、どうにか事態は収束を見たようには思われた。最も、エリカの言葉を聞いても、教師も周りの同級生らも、あまり納得しているようには見えなかった。

「ちょっと変わってるだけの子って、でも校庭で、一瞬で姿消したところ、皆で見てるじゃんね・・・?あんなの、生きてる人間に出来る訳・・・」

「絶対、朱宮さんも更級さんも、あの女の子について何か隠してるよね、あんな下手な言い訳並べて・・・」

ひそひそと話すそんな声も、一旦教室を離れたエリカの耳に飛び込んできたからだ。

先程の、そんなやり取りを思い出しながら、エリカは「当分は、奇妙な物を見る目で扱われるだろうな」とは、思った。しかし、それはエリカには大した問題ではない。エリカが人間に興味を持たず、少女人形ばかりを愛するという特殊な嗜好を持っているのは校内では周知の事実であったし、変人扱いは元からだ。

‐それにしても、今日は朝から何とも濃い一日だ。エルヴィーラの人形が行方不明になり、夢に出てきた、幼い頃の伊織の意味深な発言の意味について考えていたら、何故か気恥ずかしくなり、伊織の目を真面に見られなくなった。その二つの事で朝からもやもやしていたら、今度は学校に、自分を訪ねて、エルヴィーラの転生した姿を名乗る謎の白亜の美少女が来訪してきたのだから。このように濃密な日は、人生に片手の指で数えられる程もないだろう。

「私が、エルヴィーラである事、まだ信じられない?エリカも、伊織も」

エルヴィーラは、その濁りのない、透き通った青の瞳で、エリカ、伊織の二人をじっと見つめてくる。窓の外では、今も水の糸のような、春の霧雨が降り続いているというのに、外から入った筈の彼女は、その美しい金髪の一本も、濡れてはいない。これだけでも、彼女が普通の人間でない事は明らかであった。

しかし、エルヴィーラに向かって、伊織は何処か、つんけんとした態度で、エリカより先にこう言い出した。

「貴女が何か、超常現象的な存在っていうのはもう分かったけど、でも、人形が人間の姿になるなんて、御伽話みたいな事、信じろっていうのがそもそも無理でしょ?何か、貴女が、あの朱宮家のエルヴィーラ人形であるっていう証拠はあるの?」

伊織はどうしたのだろう。単に、目の前の彼女が本当に、エルヴィーラの人形が転生した姿なのか疑っているだけにしては、語気が荒い。虫の居所が悪いのは明白だ。

伊織の事が気にはなったが、今は、目の前の美少女が、本当にエルヴィーラなのかを確かめるのが重要だ。エリカは、手っ取り早い方法を思いついて提案してみる。

「それなら簡単じゃん。エルヴィーラ、この場で、一度人形の姿に戻ってくれる?」

しかし・・・驚く事にエルヴィーラは、この一番単純かつ確実な証明方法に対して、残念そうに首を横に振った。

「ごめん、エリカ・・・それは出来ないの」

「えっ?どうして・・・?だって人形から人間になれるのなら、その逆だって・・・」

「逆は出来ないの。どうやって私が人の姿になれたのか、詳しい事は省くけど、人形の魂と引き換えにする形で、魂が尽きるまでの限られた時間だけ、人間の姿になる事が出来た。次に私の姿が、人形に戻る時は、魂の火が消えて、心のない、ただの物質になった時よ・・・。」

エリカも、後ろの机について様子を見ていた伊織も、息を呑んだ。

「な、何、それ・・・?つまり、エルヴィーラがもう一度、人形に戻った時には、もう私はエルヴィーラと、心でやり取りは出来ないの?」

「そういう事・・・。その時は、もう私は魂を失くした、空っぽの人形になっているから」

どういう原理でエルヴィーラが、人形から人間になれたのか、その原理はこのあやふやな説明では何も分からないが、そのような事など、エリカにはどうでも良かった。それよりも、もっと大事な事が分かったから。エルヴィーラは、自身の魂の火が尽き果てる覚悟で、人間の体を手にしたのだ。どうして、そこまでの事を・・・。

「・・・だから、今、この場で人形の姿に戻ってあげる事は出来ない。その代わり、証拠になるのを見せるわ」

そういうと、エリカと伊織の目の前で、エルヴィーラはドレスのスカートの裾を両手で摘まんで、何と、いきなり裾を持ち上げ始めた。その身を包む純白の服に負けない程の、目のくらむような、長く、細い足の白い肌が見え始めた。

「わっ!!な、何をしているの、エルヴィーラ!」

予想外なエルヴィーラの行動に、エリカも伊織も仰天しながら、慌ててそれを止めようとしたが、やがて、エルヴィーラの艶やかな肌の左足が露わになった。

「これを見て。この左足の傷に、見覚えはない?私の着せ替えをしてくれた時に、見ている筈よ」

咄嗟にエリカは顔を両手で覆っていたが、薄っすらと目を開けながら、エルヴィーラの、剥き出しとなった左足の下腿に視線を向ける。

‐白絹のようなその肌の上に、斜めに一筋、鋭利な物で切ったような傷跡が入っていた。それをじっと、恥ずかしいのを堪えながら見ていたエリカは、「あ・・・」と声を上げる。

「この傷・・・確かにエルヴィーラの左足にあった!確か、手荒に扱った覚えもなかったのに、いつの間にかついていた傷だ・・・。伊織も、見た事あるよね、この傷!」

伊織とも朱宮家では、人形の着せ替えで遊んだ事はあるから、エルヴィーラの左足のこの謎の傷は、伊織もよく見ていた筈だ。

ところが、エリカが振り返って、そう声をかけた時、伊織の反応は珍妙な物だった。

伊織は、エルヴィーラの人形と同じ、左足に刻まれたその切り傷の痕を見たまま、固まっていた。エリカの声にも全く気付いていない様子で、目を見開いて、何故か、顔は青ざめて、凍り付いたようだ。

「伊織?どうしたの?」

「あ・・・ご、ごめん!うん、私も、エルヴィーラの足の傷、そういえばあったの思い出した。何処で傷ついたのか、全然分からなくって、初めて見つけた時、かなりエリカ、哀しんでたよね・・・」

伊織の声は上ずったようで、目線も何処か定まらず、何か、酷く狼狽している様子に見えた。

この足の傷は、両親にすら話してはいない筈。エリカと伊織の二人で、見つけた時は内緒にした筈だ。二人以外には、エルヴィーラ自身しか知り得ない。それをこの少女は知っていた。

「今もまだ、本当の事って信じられないけど・・・貴女、本当にエルヴィーラなのね・・・。でも・・・」

エリカは、先程、彼女が話した、人形が人間の姿に変わるには、人形の魂を削らなければいけないという話を思い出す。エルヴィーラは、それだけの代償を支払って、人間の体を手に入れて、エリカの前に現れてくれたのだ。その理由が、まだ分からない。

「でも・・・さっきのエルヴィーラの話なら、人形が人間になるのって、凄く大変で、リスクを負う事なんでしょう?それだけの事をして、人間の姿で私の元に来てくれたのは何故?」

エリカの問いに、エルヴィーラは、事もなげに答えた。

「何度も誓い合った、あの約束を果たす為に、私は人間の姿になって戻ってきた。エリカと、本当に、人間として結ばれる為にね」

確かに、エリカは高校生になっても尚、人形と結婚出来ると信じて疑わなかった。出来る事ならば、エルヴィーラを人間にして、二人共人間の姿で結ばれたいと、本気で願っていた。その、周りが聞けば荒唐無稽と笑うか、人によっては正気を疑いかねないような内容の願いの為に、伊織にも随分と無理難題を言って困らせてしまったものだ。

しかし、夢にまでみた、エルヴィーラが人間になって、エリカの前に現れるという奇跡が、本当に起きようとは昨日まで考えもしなかった。

「エ、エルヴィーラ、私との約束を叶える為に、そんな無茶までして、人間の体に・・・!あ、ありがとう!」

エリカが、今にもエルヴィーラの手を取って、雨の中なのも顧みずに、教会にでも向かって走り出しそうな雰囲気を悟ったのか、エルヴィーラは、そこで、椅子から立ち上がると、一歩後ろに下がった。その為に、エリカの差し出した手は空振りした。

「え?」

「エリカ、私ね・・・ずぅっと、人形の姿で、とはいえあの家でエリカの傍にいたくせに、今更何を言ってるのかと思うかもしれないけれど、ただ、エリカと結ばれる事だけが目的じゃなくって、エリカと、ちゃんと恋をしてみたい。人間として」

「こ、恋・・・?」

エリカはエルヴィーラの言葉に、差し出した手を引っ込めて、彼女を見上げる。

美しい金髪を靡かせながら、エルヴィーラはこくりと頷く。

「そう、だって、私がこの世界に生み出されてから100年以上になるのに、人形の体の私は、過ごすのは殆ど家の奥深く。今まで、どのご主人様だった女の子もそうだった。だから、折角こうして、神様に祈りが通じて、人間の体を手に入れたんだもの。人間らしい恋というのを、エリカとした上で結ばれたいの」

エルヴィーラは、人形の頃とはまるで違う、しなやかな人間の体を大変気に入ったようで、くるくると、純白のドレスの裾を、その金髪を宙に揺らしながら、一回転してみせて、「ああ、これが、手にしたいと祈り続けた、人間の姿・・・」と悦に入った表情となっていた。今までは自分の意思では全く動かせなかった体が、自由自在に、滑らかに動くという事実に感激しているようだ。

「で、でも、エルヴィーラ。こ、恋なんて、私、した事ないよ。誰かと付き合った事だってないし・・・。だって、エルヴィーラも知ってるでしょう?私は人形しか・・・」

「勿論知ってるわ、エリカは、人形しか愛さないんだって事なら、ね。10年もエリカの事、あのおうちで見てきたんだもの。だから、恋人がしそうな事を一緒に考えて、やっていきましょう。そして、最期は、昔、貴女と伊織が私を連れて行こうとしてくれてた、街はずれの教会に行って、そこで式を挙げるの」

エルヴィーラは、あの時の、エリカと伊織が交わした約束も、ちゃんと覚えていた。

エリカが、エルヴィーラを朱宮家の外に無断で持ち出して、伊織と共に廃教会を目指したあの日の事を。あの時は、途中でエリカの両親に連れ戻され、エルヴィーラを持ち出した事より、子供だけで危ない場所に勝手に行こうとしていた事で、両親からは過去最大級の説教と、しばらくエリカがエルヴィーラに触るのを禁止するという罰を受けてしまったが・・・。

「エルヴィーラは、どんな事を望んでいるの?その・・・、私と、恋がしたいとは言うけど、具体的には」

「そんなに難しく考える必要はないわ。エリカが、楽しいと思えるところで一緒に楽しんで、綺麗だと思えるものを一緒に見て綺麗だねって言い合える。それだけよ。そうね、今の季節なら・・・」

エルヴィーラは、伊織の座る椅子の傍を駆け抜けて、部室の窓から見える、霧雨でくすんだ景色を指さした。水滴が垂れる窓、春霞の彼方に、ぼんやりと、淡い桜色の並木道が見える。

「春だから、桜とか!」

「え、でも、桜は今日の雨でだいぶ散っちゃうだろうし、もう満開は過ぎちゃってるけど・・・、それでもいいの?」

花散らしの雨は、まだ降り続く。雨足は強くはないから、学校が終わる頃には止んでいそうだが、満開を過ぎて、既に数を減らしつつあった花達は、この雨で更に、冷たい路上に多くの花弁の桜色の骸を晒す事になるだろう。

しかし、エルヴィーラは意にも介さぬように、エリカに向かって、にこりと笑う。彼女の微笑む顔を見た瞬間、エリカは『ああ、花が咲いたような笑顔って、こういう表情を言うんだ』と感じた。確かにその瞬間、風に揺られた霧雨の吹き付ける窓辺には、金と白の一輪の花が咲いていた。

「ええ。それでも構わないわ。エリカとこうして、人間の体で一緒に過ごせるだけでも夢のような話なのだから。エリカと二人で花見が出来るのならば、散り際の桜でも構わないわ」

西洋人形の姿そのままの装束に、金髪を美しく靡かせる、そのエキゾチックな見た目から、花見という日本人らしい発想が出てくる事は、少々似合わないようにもエリカには思われた。しかし、エルヴィーラが折角、相当な代償を覚悟の上で、こうして人形から人間の姿になってくれたのだ。それならば、エリカは、彼女の望む事なら可能な限り応えてあげたいと思うようになった。エルヴィーラが、いつまで人間の姿を保てるのか、人形へと戻ってしまうのかは分からないが、その日が来た時に、悔いを残さない為に。

「そっか・・・。うん、それなら、この雨も学校終わる頃までは止むだろうし、放課後になったら、私達3人で花見に行こうよ。伊織も一緒に」

そう、エリカが言った時だった。ガタリと、急に椅子を蹴立てる音が、雨だれの音が微かに聞こえるだけの、静かなオカルト同好会の部室の中に響いた。

伊織が立ち上がっていた。その表情は、前髪とその影に隠れて、エリカからはよく見えなかった。

「・・・エリカ、ごめん。私は、まだこの事態、頭の収集がついてなくって、混乱してるから・・・。ちょっと、今日は、学校終わったらすぐ帰らせて。お誘い嬉しいけど、エルヴィーラは、エリカと恋人らしい事がしたいんだよね?そしたら、私はいない方がいいかなって・・・」

「え・・・?急に、何言ってるの、伊織?折角、私達二人にとっての大切な人形の、エルヴィーラが、どんな奇跡のおかげかは分からないけれど、人間になれたんだよ?伊織も一緒に行こ」

「行かないっていってるでしょ?私、今日は朝から、色々と頭の整理が追い付かなくて疲れてるの。今日は、私の事はそっとしといて」

エリカの言葉を最後まで聞かず、撥ねつけるように伊織はそう言った。それは、今までエリカが、伊織との10年近い付き合いの中で、彼女の口から一度も聞いた事のない声音だったから。

窓外から見える空を埋めている、曇天の雲と、同じ色の不穏が、エリカの胸の中に広がり始めた。どんな奇跡かは分からないが、エルヴィーラが人間の姿になって、現れてくれた。その事実についさっきまで小躍りしていたエリカの心に、一筋の墨が垂れて、その墨が薄っすらと心の清水に浸透し、汚していくように思われた。

伊織は、無自覚のうちに語気が強まっていたのに気付いたようで、ハッとしたように一瞬固まると、気まずそうに、その前下がりボブの髪に横顔を隠すように、エリカ、エルヴィーラの二人から顔を背ける。そして、こちらを見ないまま言った。

「・・・ごめん、私、先に教室帰るね。エリカも、早く戻らないと、流石に先生たちから、何してるのか疑われるよ。それと、エルヴィーラは、学校終わるまでは、このオカルト同好会の部室使っていいから、ここから出ない事。例え、瞬間移動の能力があっても、使っては駄目よ。エルヴィーラの姿を私とエリカ以外の人が見たら、また皆が大騒ぎになってしまうから。分かったわね?」

「え、ええ。それは、約束するわ。この部屋で待っていたらいいのね」

エルヴィーラの返事を聞き終えると、伊織は無言でただ頷き、早歩きで部室の扉へと歩いていく。エリカの方も、見ようともせずに。

「ちょ、ちょっと待ってよ、伊織!」

それを追って、慌ててエリカも椅子から腰を上げると、伊織の後を追う。エルヴィーラには「絶対、この部屋からは出ないでね、私が迎えに来るまで!」とだけ言い残して。


頭の中が錯綜しているとは、今のような気分を指すのだろうか。様々な部の、部室の扉が並ぶ階の廊下を足早に歩き、通り抜けながら、伊織はそう思った。部活の時間ではないこの階は、生徒らの声は絶えて、雨だれと、伊織の早い調子で歩く音のみが響いていた。

朝、エリカの自分に対する態度や反応がおかしいところから始まり、何か理由でもあるのか問い質そうとしていた矢先に、校庭に白亜の装束の美少女が現れた。そして、その正体はなんと、エリカの最愛の人形、エルヴィーラが人間に転生した姿だった・・・。

このように朝から、強烈な出来事を立て続けに叩き込まれた日は、伊織の16年の人生で生まれて初めてかもしれない。

『いや・・・エリカの前だから突っ込まなかったけどさ、なんであっさり信じてるの、エリカは・・・!人形が、人間の姿に生まれ変わるなんて、そんな、御伽話みたいな事が、現実に起きてるなんて・・・!』

伊織は、この受け入れ困難な事態について考えていると、もう脳が沸騰しそうであった。しかし、伊織がいくら否定しようとしても、彼女が超自然的な存在であり、そして、エルヴィーラ人形としての記憶を‐本来なら、伊織とエリカしか知り得ない秘密を‐持っている事も事実だった。

あの左足に残されていた、白く細長い線のような切り傷・・・あれは、エルヴィーラの人形にあった傷と、その場所も形も同じだった。

あの傷へと思いが至ると、伊織の背筋に悪寒が走る。今まで、意図して、記憶の中に閉じ込めようとしていた、何年も昔の記憶が生々しく、脳裏の銀幕に勝手に映し出される。

その銀幕の中に、やがて、じわじわと滲み出るように姿を見せるのは、幼い日の伊織だ。場所は、朱宮家の中の、エリカの部屋。アンティークドール用のアクセサリーなどが床に並べられており、お人形遊びの途中のようだ。そこで、伊織は右手にカッターを持ち、エルヴィーラ人形の肩を左手で掴んで、睨みつけている。

途切れ途切れに、昔の自分がこう言っているのが、伊織の耳に残響として聞こえてくる。

『エルヴィーラさえ、いなければ、エリカちゃんは、私だけを見てくれるようになるのに・・・そう、エルヴィーラさえ、いなくなっちゃえば・・・壊してしまえば!』

そう言いつつ、伊織は右手に構えたカッターを震わせながら、その刃をエルヴィーラ人形に近づけていく。しかし、エルヴィーラは、エリカの最愛の人形であり、それを傷つければ、伊織だろうとエリカは決して許さないだろう・・・。その恐れが、刃の震えとなって現れていた。

しかし、伊織の中に湧き上がった暗い衝動が、エリカに恨まれ軽蔑される事への恐れを、僅かに上回ってしまった。伊織は、エリカのドレスのスカートを乱暴に捲り上げると、その、露わになった足に刃を近づけていき・・・そして、切った。

人形の材質が思いの他、硬かった為か、カッター程度では、左足の下腿を斜めに縦断するように、線のように細い傷がついただけだった。

伊織は、あの瞬間、自分にもエルヴィーラの声が聞こえた事を覚えている。

『痛いよ・・・、伊織ちゃん・・・どうして、こんな事するの?』

それと同時に、まるで、伊織自身が、エルヴィーラに憑依されたように、エルヴィーラ人形の悲哀が、苦痛が心の中に流れ込んできた。自分が、エルヴィーラに、大層酷い事をしてしまった事に気付いた。

カッターをその場に投げ捨てると、伊織は涙しつつ、エルヴィーラを抱きしめていた。そして赦しを乞うた。

「ごめんね・・・酷い事をして・・・エルヴィーラ!エリカちゃんを取られるんじゃないかって、それが怖くて、エルヴィーラの事を恨んで、こんな事をしちゃって・・・、私を赦して!」

そう言って、震える声で、何度もエルヴィーラに赦しを乞い続けた‐。

思い出したくもない記憶が、脳内に侵入してきて伊織は首を振る。あの時の自分は、事もあろうに、「恋敵」として、人形であるエルヴィーラの事を見ていた。そして、エリカへの思慕と、エルヴィーラへの募る嫉妬が、一瞬、伊織に我を忘れさせ、『エルヴィーラ人形を壊してしまえば、エリカは自分の方を見てくれるようになる』という歪んだ思考へと暴走させたのだ。

「思い出したくなかった・・・、あの日の記憶も、気持ちも・・・!それなのに・・・」

人間の体を得たエルヴィーラの、その左足にも、あの傷は再現されていた。伊織が、一度だけ、エルヴィーラを本気で破壊しようと思ってカッターを握った日に、つけたあの傷が。それは容赦なく、伊織に、昔の自分の過ちを突き付けてきた。

『エルヴィーラは、あんな風に何でもない風を装って、私も友達だみたいな事を言ってたけど、きっと、私がカッターをあの子に振るった日の事、覚えてる筈・・・』

その事実を話されたら、エリカとの関係も終わってしまいかねないのだ。エルヴィーラがあの傷の事を話さないのは、伊織への配慮の為か・・・?

「・・・り、伊織ってば!」

教室に戻る為に、階段に足を駆けようとしていた伊織は、大声で呼び止められた。この時間に、この階にいる人間は、自分の他には彼女しかいない。振り返ると、踊り場までエリカが追ってきていた。こんな近くで声をかけられていたのに、自分は気付いていなかったらしい。

「・・・何?」

表面では冷静を保ちつつも、内心では伊織は戦慄を覚えていた。よもや、自分が去った後のあの部室で、「左足の傷は、伊織につけられた」などと、エリカに、エルヴィーラが告げ口をしていないかと邪推したのだ。しかし、エリカの、緩やかにウェーブのかかる黒の長髪に飾られた顔に、怒りなどはなく、ただ、困惑だけがそこにあった。

「急に、怒ったみたいになって、どうしたの、伊織?」

「別に怒ってなんか・・・」

「でも、エルヴィーラと私が話してる途中から、何かずっと、機嫌悪そうだったよ、それにさっきの出て行き方・・・」

「だから、怒ってなんかいないってば!ただ、朝から色んな事が・・・というか、殆ど、エルヴィーラが人間になったっていう事で吹き飛んでしまったけど、重なって、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまっただけ。それに、あの子が人間になったのは、エリカと結ばれる為、その為に、まずはエリカのちゃんとした恋人になる為なんでしょ?だったら、私はいらないかなって・・・」

自分でも何とも無様な事だろうと思う。要は、伊織は拗ねているのだ。元人形のエルヴィーラ相手に。今の自分は、何をしてほしいのかも言わないままで、拗ねてエリカに八つ当たりしている。こんな事ではエリカを一方的に困らせるだけなのに、感情が先行して動いてしまう。

「伊織はいらないなんて、そんな事、私も、あの子も言ってない・・・」

「もういいよ・・・、ちょっと、今日は私の事は、そっとしておいて。頭を冷やさせてほしいから」

そう言って、踊り場にエリカを置き去りにするようにして、伊織は階段を駆け下りていく。エリカは、伊織の気持ちが分からぬまま、きっと途方に暮れているだろう。

自己嫌悪が心の底に堆積していく。

エリカの『人形の心が分かる』という能力を思い出して、伊織はこんな独り言が口から漏れ出た。

「人形の心は読めるくせに、どうして、人間の私の気持ちは読めないの・・・?」

そんな恨み言だった。

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