第6話 雨上がりの花見

踊り場での、後味の悪いやり取りの後、伊織は結局、エリカに対して話しかけてくる事はなかった。

‐最も、伊織との間に、訳も分からないままに生じたこの空気を気まずいと思う余裕も、エリカにはなかった。あの、正体不明の白亜の美少女を取り敢えずオカルト同好会の部室に置いてきた後、教室に戻ってきたエリカと伊織の二人を待っていたのは、奇怪な存在を見るような、クラスメイトらの眼差しであったから。

皆、エリカに対して、正面きって何かを言ってくる事はない。エリカの嗜好を知っているクラスメイトらはエリカを「気味悪い」「イタイ子」と陰口では叩くものの、直接関わろうとはしてこなかったが、今回ばかりは、今までとは様子が違った。

『あの、フランス人形みたいな恰好した変な子、結局、朱宮さんと更級さんが連れていって、学校の何処かで、下校まで朱宮さんを待ってもらってるんだって・・・』

『前からイタイ子とは思ってたけど、あんなおかしな、気色悪い子ともつるんでたなんて、いよいよヤバくない?朱宮さん・・・。それに、何故かそんな朱宮さんと仲良しの更級さんも・・・』

『更級さん、朱宮さんの事になると、今朝もムキになってたもんね・・・。幼馴染らしいけど、更級さんもやっぱ、ちょっと頭おかしいのかも・・・。流石に朱宮さんよりはまともそうだけど』

昼休みに入るや否や、今朝のあの、謎の少女の校内侵入騒動の顛末に関して、クラス内はひそひそ話で埋め尽くされた。それらの声は、エリカの耳には羽虫の飛ぶ音のように耳障りで不快な物に感じられた。自分を変人扱いされるのはまだ良いものの、伊織までも頭がおかしいように扱われる事は、エリカには耐え難かった。

そして、その伊織もまた、様子がおかしいのだ。いつも、エリカよりずっと真面目に授業も聞いている筈の伊織が、今日は、騒ぎが落ち着いて授業再開されてからも、ずっとシャーペンを持ったままぼんやりしているのが、後ろの席のエリカからはよく見えた。いつもなら、伊織のシャーペンは黒板の板書を、機械仕掛けではないかと思う程の精密さと一定のリズムで、ノートやルーズリーフの上を行き来している筈なのだ。それが、少し身を乗り出し、伊織のノートを覗き込んでみると、一文字も書かれていなかった。エリカに、綺麗な文字で正確な授業の板書をテスト前に見せてくれる彼女と同じとはとても思えない。

昼休みの時間も、エリカは、前の席の伊織と机をくっつけて弁当を広げるのがいつものパターンなのであるが、今日は、エリカが声をかける間もなく、伊織は何処かに消えてしまった。一人、クラス中から遠巻きに注がれる好奇心と忌避の感情が混じった視線に晒されながら、口にする昼食は全く味がしなかった。

今日ほど、放課後が来るのが待ち遠しかった日はなかった。朝から降り続いていた霧雨も、放課後の頃には止んでいた。これなら濡れる心配なく、エルヴィーラを花見に連れていけそうだ。

前の席の伊織に目を向ける。伊織は、てきぱきと荷物を鞄に仕舞い込む。その背中に声をかけようとしてみるが、何と言って良いのかが浮かばない。

席を離れようとしていた伊織は、立ったまま、机の前で所在無げにしているエリカの様子に気付いたのか、足を止める。伊織と目が合ってしまった。

「どうしたの・・・?雨も止んだし、エルヴィーラを早く、花見に連れていってあげなよ。あの子、ずっとオカルト同好会の部室で待ってるから。あ、あと、お昼に購買のパン買っていってあげたら、元人形なのに、普通に食べてたよ」

「あ・・・、お昼全然見ないと思ったら、エルヴィーラの様子見に行ってくれてたんだ」

「うん。流石にちょっと様子は見ておいた方が良いかなと思って。教室、居辛かったし。不思議な子だよ、元は人形なのに、私達人間と同じように、食べたり飲んだりも出来るなんて。本当、見てて、益々訳が分からなくなったけどね・・・」

伊織は、少しは落ち着いてきたようにも見える。今なら、もう一回声をかければ・・・。

「ねえ、伊織・・・。折角だから、伊織も一緒に・・・」

その提案には、しかし、伊織はきっぱりと首を横に振った。

「エルヴィーラが、一緒に花を見たいのは、エリカであって、私は含んでないから。エルヴィーラは、エリカと結ばれる為に、先にちゃんとした『恋人』になりたいって言ってるんでしょう?それなら、私がついてくるのはおかしいよ。二人で行ってきて」

言っている理屈の上では、確かに伊織の言う事は正しい。しかし、そう言う伊織の表情には影が差して見えるのが、エリカの足を止めていた。エルヴィーラは大切な人形だが、伊織は大切な親友なのだ。

「でもそれじゃ、伊織を締め出してるみたいで・・・」

「もう良いって、私に気を遣うのは。私は今までもずっとエリカといたし、これからの時間も一緒にいられるけど、あの子は・・・エルヴィーラはそうじゃないんでしょ?願いが叶えば、元の人形に戻ってしまうんでしょう?それなら、時間の限られているエルヴィーラの方を優先してあげて」

言葉自体は、物分かりの良い友人らしい台詞を並べているが、「もう良い」という部分の言い方に、伊織が内に秘めている、負の感情が垣間見えた。

伊織は、この話はおしまい、とばかりに机を離れようとして、思い出したように、肩にかけた鞄から鍵を取り出して、エリカに手渡した。

「はい、うちの部室の鍵。これないと入れないでしょ?エルヴィーラを出したら、ちゃんと先生に返しといてね、じゃ、また明日・・・」

そして立ち去り際に、伊織は振り返ると

「あと、朝は、あんな態度とっちゃってごめんね、エリカ・・・」

と、言葉少なに謝ってきた。その表情は一見なんとか笑ってみせているものの、後ろ暗い物を感じさせる笑みだった。


「雨が降った後なのに、結構まだ残っているわね、桜」

エルヴィーラと並んで歩きながら、エリカは、やはり時間はかかっても、一度、家に帰って、彼女に服を着替えさせるべきだったと後悔した。まだ梢に残る花達を惜しんで、この桜並木の道に足を運んでいる、通行人たちは、皆、西洋人形そのものの恰好をした、酷く時代錯誤で、かつ桜という日本的な物とは非常に親和性の低い、エルヴィーラという存在に目を丸くして、好奇の視線を送ってきたからだ。

ありふれた赤リボンに紺のブレザーという、高校生の平々凡々とした制服姿の自分の隣に、19世紀末の雰囲気を漂わせる、白亜のボンネットを頭に被り、ボレロで肩を覆い、白のドレスを着ているエルヴィーラの姿は不釣り合いも甚だしい。

こうなったら周囲の目は、気にした方が負けだと、開き直るしかなさそうだった。

エリカは、エルヴィーラに尋ねてみる。

「そういえば、エルヴィーラが桜が好きだったっていうのは知らなかったけど、昔、見た事あるの?前の持ち主の女の子のところで、とか」

露に濡れたアスファルトの上には、まだ色鮮やかな桜の花弁達が何枚も貼りつくようにして落ちていた。並木道の傍を流れる川面も、その多くを桜色の筵で埋め尽くされていた。

エルヴィーラは、青の瞳に、枝先の桜の花を映しながら、愛おし気にその花を指で、優しく触れる。桜の花弁に付いていた、霧雨の名残の露が、その細い指先を湿らせた。

「もう、70年以上昔の事よ・・・。私がこの国に、日本に来てから初めて、出会った女の子がね、私を家族のお花見に連れて行ってくれたのよ」

雨が上がった後で、大気が冷えている為だろうか、未だ冷たい春風が、桜の下に立つ、エリカとエルヴィーラへと吹き付ける。背筋が震え、コートを着てくればよかったとエリカは少し後悔した。

二人に吹き付ける風に、エルヴィーラの金髪が乗って、雨雲が引き始め、差し込み始めた弱い春の日差しを受けて、その繊細な一本、一本までが、金粉でも放つように、煌めいていた。

「あの子に連れられて、お花見に行った時も、今日みたいに寒い春の日だったわ・・・。あの子はね、私をずっと膝に乗せて、ずっと私に語りかけてくれてたわ。『エルヴィーラ、見て御覧なさい。あの花はね、桜っていうの。貴女の生まれた、西洋の国では見た事ない花でしょう?桜はね、この国で最も美しくて尊い花なの』ってね・・・。何十年も経った今でも、嬉しそうに、桜の下で、私に花を見せるようにしながら、あの子がそう話していたのを、つい昨日のように思い出せるわ」

エルヴィーラは、雨上がりの冷たい春風に靡く長い金髪を、そっと手で押さえながらエリカに話す。

エリカは、微かに、雨を凌いだ、梢に残る、少し乱暴に触れば壊れてしまいそうな、可憐な桜の花達が、風に揺られて触れ合う、儚い音色を聞いた。花弁の表面に付いていた、小さな丸い水滴達も、風に吹かれてぱらぱらと飛んだ。その花弁達の触れ合う音と、エルヴィーラの、風に木の葉達がさわさわと揺れてこすれ合うような、不思議な印象の声音が入り混じる。

桜の下に佇む、アンティークドールそのものの姿の、白亜の装束の美少女・・・。その声音も、靡く金髪の美しさも合わせて、エリカは、彼女から目を離せなくなってしまう。二人は向き合ったままで、しばらく立ち尽くしていた。

「・・・エルヴィーラの言う、『あの子』ってさ、どんな子だったの?貴女に、桜を見せてくれた、その70年以上昔の、貴女の持ち主だった子は・・・。確か、その頃って、戦争の時代だよね」

70年以上前の時代となれば、確か、太平洋戦争の直前から、戦争真っ只中の暗い時代の筈だ。エリカは、人形以外の事への興味関心は乏しいが、それくらいの知識は流石にある。あの戦争の時代、エルヴィーラは誰と、どのようにして過ごしていたのかが気になった。特に、エルヴィーラが特別に愛慕しているらしい、『あの子』の事が。

「戦争が始まるまだ少し前の時代に、私を買い取って、日本に連れてきてくれた人の娘だったけど、あの子は、体が凄く弱かったの・・・。学校にも殆ど行けずに、家の2階の部屋でずっと療養していた。長い間、家族以外とは話した事もないような子だったの。だから、私があの家に来た時、あの子は、心の底から喜んでくれたわ。人間の友達が出来たように。それからというもの、あの子と私はずっと、朝起きた時から、夜眠りにつくまで一緒だった。『エルヴィーラさえいてくれるなら私、寂しくないよ』って、あの子は言ってくれたわ。」

『エルヴィーラさえいれば、寂しくない』・・・その言葉を聞いた時に、エリカは、70数年の時間を超えて、かつてのエルヴィーラの持ち主の少女と、自分の心が繋がったような心地がした。その少女は、自分と、境遇は違えど、精神の根底にある物は酷似しているように思われたからだ。

エリカは呟いた。

「・・・なんか、その言葉聞いたら、会った事もない人なのに、私、少し親近感湧いてきちゃったな・・・。私も、伊織と出会うまでは、お人形さんに囲まれていればそれで満足、みたいな感じの子だったし、エルヴィーラに出会ってからは、エルヴィーラのいない毎日なんて考えられなくなっちゃったから」

「ええ・・・、エリカと、あの子は何処か似ているわ。でも、あの子と長く一緒にいる事は出来なかった。肺の病気で、あの子は若くして亡くなってしまったからね」

「えっ・・・?亡くなった・・・?」

エルヴィーラは頷く。今まで、愛おしい記憶を辿るように穏やかな眼差しであったのが、急に、その色は哀しみの色へと変わった。彼女の青い瞳も、心なしか、先程までの輝きが陰っているように見える。彼女にとって、少女との死別が相当に辛い記憶である事は明らかだった。

「元々体が弱かったのが、肺炎を拗らせてしまって、それからはあっという間だった・・・。あの子が苦しんでいる間も、私は動けない人形の体では、汗を拭いてあげる事さえも出来なかったわ。ずっと傍にいたのにね・・・。そうやって結局、あの子との約束も果たす事は出来ずに、あんな別れ方に・・・」

約束、という言葉がエリカの耳に残った。その二文字を、エルヴィーラは大変に強い意味を込めて口にしたように思われたから。

「その女の子とは、どんな約束をしたの・・・?」

「・・・エリカが、私に言ってくれていた事と同じよ。いつか、二人結ばれたいねって・・・。あの子は、自分の病気の体では、恋は出来ないっていう事を分かっていた。だから、私は、心の声であの子に語りかけたの、『私が、貴女の花嫁になる。いつか私が人間の姿になって、貴女と結ばれる』って・・・。その子もね、エリカと同じで、人形の心が分かる、不思議な力があったのよ。その力のおかげで、私はあの子と何でも気持ちを通じ合わせられた」

エルヴィーラの答を聞いたエリカは、驚く。彼女の話の中に出てくる70数年も昔の彼女の持ち主の、見知らぬ少女が、様々な点で自分と重なっていて、鮮やかな相似形を成してきたからだ。

「その、亡くなった女の子も、私と同じように、人形の心が分かる子だったんだ・・・。しかも、願っていた事まで、私と同じなんて・・・」

「そういう事ね。私は、あの少女が亡くなる寸前の時まで、必死に神様に祈ったわ、どうか私を人間にしてくださいって。でも、神様は気まぐれな方みたいね。70数年前のあの時は、あんなに必死に祈ったのに、私の祈りは聞き入れられず、約束は果たせないままに、あの子は亡くなってしまった・・・。それが、今回は、こうやって自由に動ける人間の姿になれた」

エルヴィーラは改めて、自分の体が、自由自在に動ける人間の体になった事を確かめるように、その細く長い指を握ったり、開いたりして、見つめていた。

「そして、別れ際に、あの子は言ったの。私に、この先の未来で、新しい主人になる、女の子と幸せになってって・・・。それがあの子との最後の約束。だから、私は、人間の姿になって、あの子との約束の為にも、幸せにならないといけないの」

彼女が、人間の姿になる事に拘った本当の理由は、それか・・・とエリカは思った。人間になって結ばれるという、亡き少女との約束を果たせず、その無念を抱いたまま、エルヴィーラは数十年の時を渡り歩いてきた。そして、昔の主人と同じく、人形の心が分かる力を持っていて、「人形しか愛さない」エリカに出会い、運命を感じたのだろう。

「・・・昔語りが長くなったわね。でも、エリカには、どうして私が人間になりたかったのか、本当の理由を話しておかないとって思って、昔の、私の主人だった人の事を話した」

そう言って、エルヴィーラは話を締めくくる。それと同時に、再び優雅な足取りで歩き出すので、エリカは慌てて、その横に並んで歩く。エルヴィーラは、また、頭上を彩る桜色の雲海を見上げていた。桜の下に西洋のクラシックな洋服姿という組み合わせは、かなりちぐはぐな物の筈なのに、次第に増え始めた木漏れ日に金髪と白亜の装束を輝かせ、花を愛でる彼女の姿は、もうそれだけで、一枚の絵画として完成しそうな程、欠けている部分のない美としてエリカの目に映った。

「私、10年も一緒に過ごしていたのに、エルヴィーラの事、まだ全然知らなかったんだって、分かった・・・。特に最近は、私の中の、人形の心を読み取る力が、段々と落ちてきてる感じもあって、エルヴィーラと話せる時間自体減ってきてたし・・・」

最近は、もう朱宮家にある他の人形の声を、エリカは殆ど聞く事が出来なくなっていた。エリカが人形の声を聞きとれるかは、その人形とどの程度、思いを通じ合えているかによるらしい事は、自分でも朧気には分かっていた。一番心を通わせているエルヴィーラの声さえも、偶にしか聞こえなくなっている事実に、エリカは自分の能力が衰えている事を知り、危惧していた。

「私・・・、最近は、人形の声、昔みたいに聞けなくなっちゃっててさ・・・。昔なら、特にエルヴィーラの思ってる事は何でも分かった筈なのに、最近じゃ殆ど聞き取れなくなってるのに気付いて、怖かったんだよね。もうエルヴィーラと話せなくなってしまうのかもって。だから、貴女が人間の姿になってくれたの、凄く嬉しい。これでまた、昔みたいに自由に話せるようになったから」

隣に並んで歩くエリカの言葉に、エルヴィーラは桜から、視線を移した。

「私もよ。最近、エリカに呼びかけてみても、気付いてもらえずに出て行ってしまう事ばかりだったから・・・。また、こうやって、貴女と好きなだけ話せるようになれて良かった」

自分は、エルヴィーラの気持ちをまだまだ知らない。今はこうして、彼女が人間の体を手に入れてくれたおかげで、好きなだけ話が出来るようになった。エルヴィーラが何を望んでいるのかを、しっかりと聞いていかねばならない。知っているつもりでいたが、自分はまだ、彼女の事で知らない部分も沢山あるのだと、今日聞いた話だけでも分かったから。

「桜って、美しくて尊いけれど、儚い花なんでしょう?あの子も、そう言っていた。綺麗だけど、すぐに散ってしまうって・・・。そして、一度散ったら、また一年後まで、見る事は出来ないって・・・。だから、こうして人間の姿で、エリカと一緒に見る事が出来て嬉しいわ。見逃していたら、次の春には私は人形に戻ってしまっているだろうから」

彼女はずっと、人間の姿でいられる訳ではない・・・。その現実が舞い戻ってくる。

いつまで、人間の姿のままでいられるのかは、エルヴィーラ自身もはっきりと分からないようだし、勿論エリカも分からない。ただ、分かっているのは、人形の魂と引き換え‐つまり、一度人間になってしまうと、それを維持する為に魂を燃やし尽くしてしまい、次に人形に戻った時には、魂を失くした、ただの無機質な物体になってしまうという事だけだ。そうなれば、エリカは、エルヴィーラとの心のやり取りはもう、不可能になる。

桜並木の途中、茶屋をイメージした、団子やお茶を売るお店があって、エリカはエルヴィーラを連れてそこに立ち寄った。場違いな恰好の同伴者に店の人も少なからず引いていたが、プラスチックのパックに入った団子を購入して、赤の布が敷かれた、傘の下の席に腰を下ろす。エルヴィーラは、3色団子の串を取ると、それを口につけ、自然に団子を串から外して口に入れた。元人形でありながら飲食は出来るらしい。伊織が昼休みにちらっと言っていた事を思い出した。

「伊織も驚いていたけど、エルヴィーラ、人間の食べ物、大丈夫なんだね・・・。何というか、理解を超えてるな、そういうところは・・・」

そう言って、エリカも熱い湯飲みを持って、緑茶に口をつける。手と喉から、体全体に、お茶の熱が、冷たい春風の中を歩いて冷えた体に染み入っていく。

「伊織、大丈夫かな・・・」

盆の上に湯飲みを置くと、エリカは、ぎくしゃくしたままだった伊織の事を思った。

エルヴィーラの騒動の後から、明らかに伊織は様子がおかしかった。つっけんどんになったというか、まるで、怒っているような・・・。一方では、エリカに、何か伝えたい事があるかのような目もしていた。そうして、伊織に思いを馳せていると、今日のエルヴィーラに関した騒ぎですっかり頭から飛んでいたが、急に、今朝の夢の内容が蘇ってきた。そして、その夢から覚めて、学校で伊織と会った時の気恥ずかしさも。

「エリカ、どうしたの?顔色が赤いけれど・・・」

「う、ううん、大丈夫、ちょっとね、伊織の事が気になって、考えていただけ。ほら、伊織、私達の誘い断って、先に帰ったでしょ?」

エルヴィーラの問いに、エリカは出来るだけ何でもない風を装って返す。

朝の、あの夢の中で「エリカと、二人共お母さんの役でおままごとしたい」という意味ありげな、幼い日の伊織の言葉。

そして、今日、エリカが、エルヴィーラに夢中になっていると、面白くなさそうにそれを見つめて、伊織は、エリカに対して、分かりやすくつんけんとした態度になった。

夢の中の言葉は、昔、本当に伊織が言ったのかは分からない。しかし、これらの伊織の反応から、推測される事は、もしや・・・。

『ま、まさか・・・⁉伊織が私を好きなのって、単に幼馴染としてだけの意味じゃなくて・・・』

自意識過剰の勘違いであれば、伊織に合わせる顔がない程恥ずかしい。しかし、エルヴィーラばかりを見ていた、今日のエリカに対する、伊織の急な態度の変化は・・・。

「・・・頭が混乱してきた・・・どうしよう」

急にエリカが頭を抱えた事に、隣に腰かけているエルヴィーラは驚いて

「伊織の事で、何かそんなに悩んでいる事があるの?」

と尋ねてくる。もしも、エリカの想像が正しければ‐、つまり、『伊織は、単に幼馴染という意味に留まらない意味で、エリカの事が好き』なのであれば、エリカは、伊織と、元人形のエルヴィーラとの、奇妙な三角関係に放り込まれる事となる。

首を慌てて横に振る。伊織が、女の子が好きという話も聞いた事がないし、今日のあの態度からだけで、それを考えるのは飛躍しているだろう。一旦、自分を落ち着かせる事とする。

『そうだ、そんな事がある訳ないよ・・・。だって、私の事を好きになる人なんて、いる筈ないんだもん・・・。こんな、人形にしか目がなくて、人に興味を示さない、私みたいな、世間でいうとこの、変人を』

気を紛らす為に、エリカは話題を変えに行く。

「それより、エルヴィーラの事、連れて帰ったら、お父さんとお母さんになんて言おう・・・。上手い言い訳とか思いつかない・・・。でも、エルヴィーラの帰る場所は、うちしかないし・・・」

「ああ、それなら、心配はいらないわよ、エリカ。あのお二人なら、変に言い訳なんて考えなくても、きっと事情を理解してくれる筈よ。まぁ、大層驚きはするでしょうけどね・・・。でも、エリカのお父さんとお母さんだから、人形が人間になったんなんて話を聞いても、必ず分かってくれると信じてる」

「あはは・・・、まぁ、確かにあのお父さんと、お母さんだからね。うちは・・・」

エルヴィーラの妙な自信は、根拠を著しく欠いていたが、エリカは、それに苦笑いしつつ、自分の両親の顔を思い浮かべ、何処か納得していた。あの二人は、エリカをも上回る熱量で、西洋人形に情熱を傾けている。今、隣に座っている美少女が、本当にあの人形のエルヴィーラである事も、信じてくれそうな直感はしていた。

「そしたら・・・、きっとびっくりされるだろうけど、帰ろっか、私と、貴女のおうちに。エルヴィーラ」

エリカは立ち上がると、エルヴィーラに手を差し伸べる。エリカの手を掴んだ、エルヴィーラの手は・・・、人形の手そのままに、冷たかった。その冷たさに、

『ああ、見た目は人間そのものになっても、こういうところはやっぱり、人形のままなんだな』

と、エルヴィーラに、人間と同じように血が流れている訳ではない事を実感する。しかし、食べ物は口に入れられるのは不可解である。食べた物は彼女の体内の、一体何処に消えているのだろう?

エリカに手を引かれて立ち上がったエルヴィーラは、茶屋の近くの土がむき出しになている場所に出来た、小さな水溜りを指さして言った。

「エリカ、あれを見て!綺麗・・・」

そこに目を向けると、水溜まりは、晴れ始めた空を鏡のように反射して、水面には花弁を浮かべている。そこに、木漏れ日の一筋が丁度上手く当たって、水面の花弁達についた水滴をきらきらと光らせている。鏡の上に、小さな玉石をばら撒き、光を当てたようだとエリカは思った。

『伊織にも見せてあげたかったな・・・』

そんな事を思いつつ、エリカとエルヴィーラは、また行き交う群衆の好奇の目に晒されつつ、雨に濡れた桜並木の道を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る