第7話 朱宮家

朱宮家の邸宅は、その赤煉瓦作りのドイツ風の外観や、家の中に西洋人形が複数保管されているという話から、「ドイツ屋敷」だとか、或いは少々不気味な物を指すような意味を込めて、「人形館」という仇名を近所の人からは付けられている。2階建ての、赤い屋根の古い洋館で、赤煉瓦作りの壁には蔦が一部絡みついている。その正面玄関は、庭に茂った木立の間を伸びる、敷石の道の先に垣間見える。

その朱宮家に、春の雨上がりの夕方、エリカがエルヴィーラを連れて帰った時、母親は、エリカの隣に立つ、白亜の装束の美少女を前に目を丸くした。

しかし、エリカの母親も、この謎めいた美少女が朱宮家に迎えられた日の事を正確に覚えていて、更には、朱宮家の人形の間に置かれた西洋人形についても、朱宮家しか知らない筈の、彼女達の名前を全て言い当てる様まで見せられると、最早、彼女がエルヴィーラであると信じない訳にはいかないようだった。

「・・・信じられない・・・こんな、御伽話みたいな事が、本当に起きるなんて。貴女、本当にあの人形のエルヴィーラなの?」

人形の間の、半円形に並べられた数多のアンティークドールの少女達の前に立つ、エルヴィーラの姿を前にして、エリカの母親は、未だ驚きの冷めやらぬ様子で口を手で覆っていた。

「もう、朝から学校は大騒ぎだったよ・・・エルヴィーラが学校までやってきたものだから、皆、幽霊だ、お化けだって怖がって・・・。何とか、私と伊織で、エルヴィーラを皆の目からは隠したけれど、私、明日から、もう完全にヤバい子扱いだろうな・・・」

少々の苦笑いを交えながら、エリカは母親にそう言った。正体不明の、幽霊ともお化けともつかない謎の美少女と関係があるらしい、というだけでも、もう自分と、そして伊織は明日からは普通の子としては扱われない事だろう。

「まぁ、いずれにしても、人形のお洋服そのままの恰好では、外を出歩く事も出来ないわね・・・。エルヴィーラに、エリカの服をいくつか貸してもいいかしら?」

エリカは、エルヴィーラが、この美しい白亜のドレスから、平凡な自分の私服を着た姿に変わるのを想像すると、その不釣り合いにまた苦笑いが出そうだったが、了承した。エリカは、人形の為に店でアンティークの人形用の装飾品を買ったり、洋服を物色する事なら時間を忘れる程に熱中出来たが、自分の服に関しては無頓着な部類の人間だ。

エリカには

『美しい人形を更に美しく見せる物の為なら、時間は惜しまないが、自分を美しく見せる為に時間は費やさない』

という考え方であったから、自分が着る為の洋服のショッピング等には殆ど関心を示さなず、いつも質素な私服しか着ない。伊織からも

「人形に着せる服にはあんなに拘って、何時間でも探すのに、エリカ自身が着てる服はすごくあっさりしてるよね」

としばしば言われていたが、それはエリカに、自身が着飾る事への関心が無かったからに過ぎない。

母親が出て行き、人形の間にエリカとエルヴィーラの二人は取り残される。エリカには、物言わぬ少女人形達の青や栗色の瞳が、嫉妬と羨望を込めて、人間となったエルヴィーラを見つめているように感じられた。

「ほんの昨日まで、私も、彼女達と同じ人形だったなんて、信じられないような感覚よ・・・」

エルヴィーラは、少女人形のうちの一体を手に取って、じっと見つめる。そして不思議そうに人形の硬い材質の肌と、人の柔らかい肌になった自分のそれを触り比べていた。

「エルヴィーラ自身も、どういう仕組みで人間の姿になれたのかは覚えてないわけ?」

「ええ。だって、朝、目覚めた時にはこの姿になっていて、この家の庭に横たわっていたんだもの。本当に、どうやって人間になれたのかは私自身でも分からない。それで、エリカの部屋の中も見てみたけど、姿がなかったから・・・」

それで、エリカを探して学校までやってきたという訳か・・・と今日のエルヴィーラの行動に納得がいった。

今日、エリカを追って学校まで来てしまった事に関しては、エルヴィーラは何が問題だったのか、まだよく分かっていない様子だった。彼女には、これから人間の姿で生きるなら、かなり沢山の常識を教え込む必要がありそうだった。

「いい?エルヴィーラ、人形だった貴女には、色々と人間の社会の事は分からない事が多いだろうけど・・・くどいようだけど、学校には勝手に入ったらダメ、絶対。今日みたいに、また大騒ぎになってしまうから。それと、お母さんが今、私の私服をいくつか持ってきてくれてるから、それに着替えて、人形の時の洋服はうちの中以外では着ない事。今日の花見の時も、エルヴィーラ、通りすがりの人皆から二度見されてたよ、服装が浮きすぎて・・・」

19世紀欧州風のアンティークドールそのままの、ボンネットを被り、ボレロとドレスで身を包んだエルヴィーラの姿は、恐らく何処に行こうと人々の注目を集めてしまうだろう。恰好だけでもまずは目立たない服装になってもらわないと・・・。

そんな事を考えていた時だった。突如としてエリカは、背筋に氷を当てられるような違和感が走るのを感じた。そして、自分とエルヴィーラの二人しかいない筈のこの部屋の何処かから、体に突き刺さるような鋭い視線が向けられているのを、感じたのだ。

「・・・誰っ⁉」

思わずエリカは声を上げて、後ろへ振り返る。その視線は刹那の間に消えていったが、何処から飛んで来た物かはすぐに見抜く事が出来た。

「・・・ジュリア・・・?」

視線の先を辿っていくと、そこにあったのは、無数に並ぶ少女人形の中でも、一際異彩を放ち、強烈な存在感を持つ、黒衣の少女人形・・・ジュリアだった。

ジュリアもまた、この朱宮家に置かれている人形の中でも、特段に目を引く美しい人形であった。服装の色合いは、エルヴィーラとは対照的で、定番の頭髪を飾るボンネットや、肩を包むボレロ、そして、その下のドレスまで、黒を基調として、その端を飾るふわふわとしたフリルは白く、黒一色で暗い印象にならないよう、アクセントとなっている。髪もエルヴィーラの金髪とは異なり、艶のある黒髪だ。

そんな少女人形であるジュリアの姿を見て、彼女の黒の瞳と目が合った時、エリカは、またしても、寒気のような感覚を覚えた。ジュリアをこうして、しっかりと見つめるのはいつぶりか思い出せない。物心がついてきた時には、エリカの心はすっかり、エルヴィーラに夢中となっていたから。

エリカはジュリアの人形を手に取り、目を閉じて、彼女の声を聞こうとしてみた。先程の視線の主は、このジュリアの人形であるように思えてならなかったから。

年々、少女人形達の声を聞く能力は衰えてきている。幼い頃の、少女人形の声への鋭敏な感受性はもう、高校生となったエリカにはなかった。

眉間が痛くなる程、集中してジュリアの声を聞こうとしていた、その時だった・・・。

『・・・ユルサナイ・・・ユルサナイ・・・!!』

微かに、「ユルサナイ」という単語だけが、ジュリア人形から、エリカの中に流れ込んできた。その声は、美しい少女人形の姿から発せられるとは思えぬ程、憎しみに満ちており、何かを生爪で引っ掻くような不快な音としてエリカには伝わった‐。

「エリカ!その人形を・・・ジュリアを早く置いて、離れて!」

‐エリカの心の中を侵蝕しようとしていた、その不快な声音は、耳に飛び込んできた、木の葉が優しい微風に揺れて、お互いに擦れ合う音を思わせる、あの澄んだ声に遮られた。ハッとして目を開けて、振り向くとエルヴィーラの顔が、澄み渡る青い瞳と、整った鼻梁が、自分の顔のすぐ傍にあった。やはり彼女は、女のエリカでも、見とれてしまう程の秀麗な目鼻立ちをしている。そんなエルヴィーラの顔がすぐ傍にあるのが恥ずかしく、エリカは、すぐに彼女から身を離すと、ジュリア人形を、人形の間の、陳列棚のほぼ中央の、彼女の定位置へと戻した。

「ど、どうしたの、エルヴィーラ・・・、急に大きな声を上げて・・・」

エルヴィーラの急な様子の変化に、エリカは呆気にとられていた。エリカの問いには答えずに彼女はエリカの手を取ると、

「人形の間から、一旦出ましょう!」

そう言ってエリカの手を半ば有無を言わさずに引っ張って、人形の間の外まで走り出る。

その去り際にも・・・エリカは確かに、誰もいない筈の人形の間から、再び視線を感じた。陳列棚の中央で、少女人形らの女王のように鎮座している、ジュリアからは特に強く。そして、ジュリアの周りの、少女人形達からまで無数の視線の矢を浴びせられたような心地がした。

このような感覚をエリカは、今まで経験した事がない。

人形の間を飛び出した後も、エリカの手を引いて走るエルヴィーラに、エリカは、抵抗するように、廊下に敷かれた赤絨毯の上で踏みとどまる。そして、エルヴィーラの手を解くと、

「急にどうしたの、エルヴィーラ?何が何だか分からないから、まずはちょっと、私にも分かるように事情を説明してよ、ジュリア人形が危ないとかなんとかさっき言ってたけど・・・」

とエルヴィーラに説明を求める。

エリカにそう言われたエルヴィーラは、廊下の窓際から差し込む、先程よりも低くなって、赤みを帯びた日差しに金髪と、その髪を彩る白いボンネットを照らされて、しばらく立ち尽くしていた。エリカに背を向けたまま立っている為、表情は伺いしれない。エルヴィーラからは、真剣な声色で、こう返ってきた。

「エリカは、あの人形の間にいる子達には、あまり、近づかない方がいいと思う・・・特に、あの黒装束の子・・・ジュリアには」

「え・・・?どうして・・・」

エリカの問いに、エルヴィーラはしばし、言いづらそうに、言葉を詰まらせていたが、やがて、豊かな金髪を夕陽に輝かせ、靡かせて、エリカの方を振り向く。その、瞳には険しい色があった。

「さっきの事で、分かったのよ・・・。人形の間にいるあの子達は、私だけが人間の体を手に入れられて、エリカと一緒にいられるようになった私の事を酷く妬み、憎んでいる。私だけを妬んで、恨むだけならば兎も角、いくつかの少女人形は、エリカの事も恨んでいて、私から、エリカを永遠に奪い取ろうとしているわ」

次々と衝撃的な言葉を、エルヴィーラは並べていく。そして、言葉を一旦切ると、そのしなやかな細い指で、エリカの左胸を急に、トンと突いた。

「あの少女人形達の中には、ここに宿っているエリカの命を連れていってしまってもいいと思ってるような、危険な子もいるわ。永遠に、エリカと一緒にいられるなら、貴女の命を向こうの世界に連れ去ってしまっても構わないって考える、危険な子達がね・・・。そんな危険な子は、勿論あそこにいる子達のほんの一部でしかないけど・・・。特に、ジュリア・・・。あの黒装束の少女人形だけは、別格に危険な子だとエリカも思っていた方が良いわ」

エルヴィーラは、ジュリアの名を、再び強調して言った。

エリカの魂をこの世から連れ去って、永遠に自分だけの物にしたい人形達が、あの人形の間にいる?にわかには、エリカは、自分の耳に入ってくる言葉が現実味を帯びない。

最も、その言葉を発している相手のエルヴィーラが、そもそも、どういう仕組みやからくりかは謎のままだが、人形から人間に転生したという、現実味の欠片もない存在ではあるのだが・・・。

しかし・・・エルヴィーラからのこの衝撃的な話を聞いてから、先程の人形の間で覚えた奇妙な感覚を想起すると、あながち、出鱈目ではないような気もするのだ。

取り分け・・・エルヴィーラが強く、気を付けるようにいった、ジュリア人形については・・・。

「ジュリアは余程、私だけが人間に転生して、エリカの隣にいるのが許せなかったのね・・・。彼女が、あそこまでの強い念をエリカに抱いているなんて・・・」

エルヴィーラは窓際に立って、額に手を当てそう呟いた。春の柔らかな夕陽に照らされて、彼女の額にかかる、ふわふわと柔らかな質感のある金髪は眩い程である。彼女の表情は、酷く、物憂げに見えた。ジュリアという名を口に出す度に、彼女の表情に走る険しさ。その完全で、曇る事などないように思われる彼女の笑顔に、雲一つない快晴の空に突然、どす黒い雨雲が一片かかるように現れる、その曇りに、エリカは、ジュリアと、エルヴィーラの二人の少女人形の間に、並々ならぬ因縁がある事を考えずにはいられなかった。

ふと、エリカは、先程、久しぶりにジュリアの人形を手に持った時に、直接心の中に鳴り響いた、あの奇怪な声を思い出す。あの声が聞こえた後から、エルヴィーラの様子も急におかしくなった。

「・・・まさか、ジュリアのあの声、エルヴィーラにも聞こえていたの?私、確かに何か聞こえたような気はしたけど、てっきり、気のせいだろうって・・・」

エリカの問いに、エルヴィーラはこくりと頷いた。

「ええ、勿論、聞こえていたわ。あの子・・・ジュリアの、恨みの籠ったあの声でしょう?あれを聞いたから、すぐにジュリアから貴女を離さないと危険だって思ったの」

「ジュリアの声、恨みと、だけど凄く、哀しい感じもする声だった。許さない、許さない・・・ってずっと繰り返してた。私の事を、ジュリアは恨んでいるのかな・・・」

ジュリアは、エルヴィーラが来るより昔から、この朱宮家に大事に置かれていた人形で、エリカも愛している人形であった。ただし、エルヴィーラが朱宮家にやってきてからは、エリカもエルヴィーラの事を見る時間が長くなって、ジュリアを愛でる時間は、確かに短くなっていた。長い月日を経た人形の一つ、一つにも、魂が宿っているとするならば、ジュリアにもきっとエルヴィーラのように魂が宿っている事だろう。

彼女は、やはり、エルヴィーラばかりを見る、エリカの事を・・・。

エルヴィーラは、エリカの呟きに答える。

「そうね・・・エリカに対しては恨みというか、きっと哀しんでいるのだと思う。でも私には、この家に来たその日から、ジュリアは私に強い嫉妬の目を向けていた。そして、私が人間の体をこうして手に入れて、エリカの隣にいられるようになった事で、ジュリアの憎しみが急激に強まったようね・・・。今、あの子に近づけば、暴走して、主人であるエリカにだって何をするか分からないわ」

そんな昔からジュリアは、エルヴィーラに嫉妬や、憎しみの視線を向けていたのかと、エリカは驚く。エルヴィーラとエリカが、横浜のアンティークドール専門店で運命的な出会いを果たして、エルヴィーラが朱宮家に迎えられて、もう10年になると言うのに。エルヴィーラは、遠い目で窓の外の夕陽を見つめながら、独り言のように呟く。

「私ね・・・、ジュリアに限らずだけど、他の少女人形達からは、常に妬まれ、時には恨まれる存在になるだろうって言われたの。もう100年以上前の話よ。私を作り上げてくれた職人からね」

「それは、どうしてなの・・・?」

「・・・その職人は、私という人形をあまりにも美しく作り過ぎたから。私を作った職人からは、こう言ったわ。既に少女人形がいる家にお前が迎えられたら、新しい主人は、きっとお前の美しさに夢中になって、他の人形に目を向けなくなるだろう。だから、他の少女人形達は、皆、お前に嫉妬と憎しみの目を向ける事になるだろうって・・・。その言葉の通り、色々な家で、無数の恨みの言葉を他の人形の子達から聞いたわ・・・。だから、何処の人形が好きな家でも、私を置いていると、空気が悪くなっていくのを感じたのでしょうね。エリカのように人形の声や心が分からない、普通の人達でもね。それで私を置いておくのが嫌になって、手放してきたわ」

エルヴィーラのような完成された美貌の少女人形が、何故いくつもの人形収集家の家を転々としてきたのか、エリカも不思議には思っていた。他の人形達の嫉妬の対象となり、その家にいられなくなっていたのだ。

「でも、この家だけは違った。エリカが、人形をしか愛さない子で、かつ私の事をしっかりと今まで守ってくれていたから、私は10年間もこの家にいられた」

「守るなんて・・・私は、ただ、エルヴィーラがお気に入りの人形というだけで、そんな大層な事してないよ」

「でも、エリカが傍にいれば、他の少女人形達も、今までのように、私に邪念を向ける事は出来なかった。私をあのように、自分の傍にずっと置いてくれていたのは、日本に来てから最初に私を家に迎えてくれた、戦争の時代に死別した少女と、エリカだけよ」

エルヴィーラの瞳には、エリカへの感謝の意が籠っていた。

「・・・でも、ジュリアだけは、念の強さが一際強いわ。あの子だけは、エリカが傍にいても、私に強い憎しみを送ってくる。エリカにだって、もしかしたら害を加えるかもしれない。だから、今度は、私がエリカをジュリアから守るわ」

「ジュリアも、私にとっては、大切な人形の女の子なのに、何だか、複雑・・・」

エリカはそう言った。

エルヴィーラとジュリア。どちらも間違いなく、エリカには大切な人形なのだ。その二人が対立して、特にジュリアが一方的にエルヴィーラに憎しみを持っているとは・・・。ただ、自分がエルヴィーラばかりを見ていたせいで、ジュリアが憎しみを募らせていたのだとしたら・・・。

エリカは振り返る。閉ざされた、人形の間の扉が目に入る。あの扉の向こうで、今もジュリアは、エルヴィーラへの憎しみと、エリカへの悲哀を募らせ、負の感情に沈んでいるのだろうか。耳をすませてみるが、ジュリアも、他の少女人形達の声も、何一つ聞こえない事に、自分の、人形の声が聞こえるという不思議な力が年々落ちているのを実感させられる。あの不思議な力は自分が、「子供」「少女」という立ち位置から遠ざかっていくのに比例するように、色あせていくのが分かった。きっと、成人する頃にはもう、自分は、人形の声は一切聞こえなくなっている事だろう‐。

そんな事を考えていると、エリカの耳に、母親の声が飛び込んできた。

「エリカー、取り敢えず、部屋に、エルヴィーラの分の服も用意しておいたから、早く着替えさせなさい」

そうだった。エルヴィーラはまだ人形の時のままの、貴婦人の服装なのだ。きっとエリカの、あか抜けない私服は驚く程釣り合わないだろうが、それでも早く着替えさせねば・・・。

「・・・エルヴィーラ、取り敢えず、私の部屋に戻って、着替えよう。その服装のままじゃ、うちから出られないし、色々困るからね」

話を一旦切って、エリカは、窓辺に佇むエルヴィーラに手を差し出す。すると、エルヴィーラは、エリカの体の方をジーッと、上から下まで、興味深そうな様子で眺め始めた。その思わぬ視線の動きにエリカは驚きつつも、尋ねる。

「な、何?どうしたの」

「エリカが、学校にいる時からずっと着てる、その服可愛いなって思って・・・」

「え?」

エルヴィーラが見ているらしかったのは、エリカが来ている制服のようであった。制服とはいえ、特に物珍しいデザイン等は何もない、ありふれた、女子用の紺のブレザーに、学校指定のシャツの襟元は、赤のリボンがせめてもの花を添えている。

「いやいや、こんなの、何処にでもあるような学校の制服だって・・・」

エリカはそう言うが、エルヴィーラは首を横に振って、エリカの方に歩み寄ってくる。

「私ね、エリカが大きくなって、その、学校に行く時にいつも着るようになった服の事が気になっていたの。私も着てみたいなって、エリカの着てる、その服。それを着てる時のエリカ、家とは違う雰囲気で、可愛いなって」

「ええっ⁉」

制服のみならず、それを着ている素体に過ぎない自分自身まで、急に可愛いなどと言われてしまった。そもそも、伊織以外の他者との交流が希少なエリカは、「可愛い」などという賛辞は言われ慣れていない。ましてや、目の前で、夕陽の窓辺に佇むその姿だけでも、一枚の絵画のモチーフになりそうな、美貌の持ち主のエルヴィーラに言われても・・・。

「え、エルヴィーラに言われても・・・、私、自分の事は可愛いなんて、思った事ない」

このようなやり取りは、勿論伊織とだってした事がない。伊織もまた、可愛らしさだとか、そういった要素に執着するタイプの人間ではないから、二人の間で「可愛い」という言葉が飛び交うような会話になる事は、まずあり得ない。

だから、気恥ずかしくて慣れないやり取りに、思わずエリカは、顔を背ける。頬が熱かった。全くの不意打ちのような言葉に、脳内がどう処理したら良いか、混線している。

「ねえ、エリカ、着替える前に、お互いの服を交換してみない?私はエリカの制服を着て、そして、エリカは、私の着ているお洋服を着るの」

「は、はぁ⁉無理無理・・・!エルヴィーラだから着こなせているその、ボレロやらドレスやらを、私なんかが着ても、似合う訳ないじゃん!黒歴史にしかなんないって!」

エリカは、顔を真っ赤にしつつ、両手を顔の前でぶんぶんと振って、そう答える。黒歴史という言葉にエルヴィーラは首を傾げていた。どうやら、彼女にはピンと来ない日本語のようだ。

「黒歴史って、どういう意味かは分からないけれど、そんな事はないわ。エリカ、貴女は可愛いわよ。いつもエリカは、私や、他の少女人形の為には、アクセサリーとか、新しいお洋服を買ってきてくれるのに、自分は華やかな服装はしないんだろうってずっと不思議だった。エリカは可愛いのだから、もっと服装も可愛くするべきなのに」

「そ、そんな風に可愛い、可愛いって連呼しないで・・・!」

エルヴィーラは率直に、自分の気持ちを表出しているだけなのだろうが、こんなに、耳にこそばゆく、顔が熱を帯びていくような言葉を目の前で連呼されては、エリカは平静を保てない。

すると、エリカの熱した右の頬に、ひんやりとした物が触れ、頬を包み込む。その柔らかくも、冷たい感触は、エルヴィーラの手だった。どれ程、人間その物の姿をしていても、こうして触れられると、彼女はやはり、常識の範囲を超えた存在なのだなと再認識させられる。

「人間の体って、熱くなったり、冷たくなったり色々するのね・・・。私は、見た目だけは人間にしてもらえたけど、これはあくまで仮初の姿で、何処まで行っても、本質は人形でしかないから、よく分からない感覚・・・。あら?さっきよりも頬が熱くなってきたわね」

誰のせいだと思いながらも、エリカは言い返す。

「・・・今のエルヴィーラは、見た目は人間そのものだけど、やっぱり人間の事をまだ、完全には理解してないみたいね・・・。私のこれは、エルヴィーラにはまだ分からない感情よ」

エルヴィーラは常識を超えた存在であると共に、未だ、人の感情の機微に気付けない部分もあるというところは、元人形らしいとエリカは思った。

「エリカの制服と、私の衣装、交換してくれる?」

エルヴィーラは、エリカが顔から火が出る思いなのもお構いなく、また自分の要望を述べてくる。雨上がりの花見の時といい、エルヴィーラは思い立ったら、抑えが効くタイプではなく、やりたい事は皆やってみるという考えらしい。

「・・・それもエルヴィーラのやりたい事で、やらないと満足しないんでしょう?」

「ええ。私も、エリカの制服を着たいし、エリカが私のドレスを着てる姿も、この目におさめたい」

さらりと述べるエルヴィーラに、エリカは、また顔から火が噴き出る思いに駆られた。


「・・・いい?もう、目を開けても・・・」

自分の腰をコルセットが締める、その慣れない感覚を味わいつつ、エリカは、エルヴィーラに問いかける。エルヴィーラは「ええ。とっても似合ってるわ、エリカ」と言った。

顔を覆っていた両手を除けて、薄っすらと目を開くと、部屋の中の姿見に映る自分の姿が、やがて瞳の奥まで飛び込んでくる。髪にも違和感があると思えば、そこには、白のボンネットが、エリカの黒髪を飾っていた。そして、肩を覆うボレロ、なだらかな腰の曲線を描き、白のドレスが身を包んでいる。

「エリカ、凄く可愛いのに、どうして目をまた閉じるの?」

「だ、だって・・・こんなの・・・あまりに私が似合わなさ過ぎて・・・!」

エルヴィーラの白亜のドレスを着て、白のボンネットに黒髪を飾られた自分の姿が、鏡の中に一瞬見えたが、それを直視に耐えずに目をつぶり、鏡から顔を逸らす。

そして、エルヴィーラへと目を向けると、今しがたまでエリカが袖を通していたブレザーの制服を、エルヴィーラが纏っていた。

「エリカの温もりを感じる・・・。私がいつも着ている服とは違って、何だか、動きやすいですね」

金髪を揺らしながら、エルヴィーラは、ドレスよりもずっと丈の短いスカートに若干の戸惑いを見せながらも、エリカの学校の制服を気に入った様子で着こなしていた。

「・・・着る素体が違うと、こんなにも、制服でも違って見えるんだ・・・。エルヴィーラが来た途端に、いつもの私の制服なのに、何だか、服としてのランクが凄く上がった気がする・・・」

制服のスカートから伸びるすらりと長い、エルヴィーラの脚や、優美な腰回り。

同じ制服でも、あまりの見栄えの違いに自分とのスタイルの差を見せつけられて、エリカは気落ちしそうになる。

「こうして着てみると、ドレスって重いのね・・・、やっぱり。それに何だか、腰がちょっと締め付けで苦しい」

エリカは、一息入れるように、ベッドの端に腰掛ける。エリカの制服を着たエルヴィーラも、それに倣ってエリカの隣に腰を下ろす。

「エリカ。今ならば、貴女が実は、美しいお人形で、神様に、人間の女の子の姿にしてもらったと言われても、信じてしまいそうよ」

そう言いながら、エルヴィーラは、エリカの手に、自分のひんやりとした手を乗せて、そう言ってきた。

「か、からかわないで、エルヴィーラ・・・。私なんかが、貴女みたいな美しい人形と、同じに見える筈がないでしょ・・・」

そう言うエリカの口を閉ざすように、エルヴィーラは、エリカの口に指を一本当ててきた。

「私は、エリカと結ばれる為に、ちゃんとした恋人になりたいから、エリカの可愛い姿を沢山見たいの。自分をそうやって卑下するのはやめて」

こうして、すぐ隣に座るエルヴィーラの、柔らかな金髪がかかる形の良い眉、その見事な鼻梁に、澄みわたる青い瞳、そうした彼女の顔の造形の一つ一つが目に入ると、エリカの脈も速まっていく。

すると、その時であった。エリカの扉がノックされたのちに開いて、エリカの母親が顔を覗かせた。

「エリカ、エルヴィーラ、二人共、着替えはもう済んだ‐」

そう尋ねようとしていた母親と目が合った時、エリカは、エルヴィーラの願望に応えてあげたいと思ってしまった自分を呪った。

「エリカ、お人形さんみたいよ!エルヴィーラも、そうやって、エリカの学校の制服を着てると、全然印象違うわね!是非、記念に写真を一枚撮らせて!お父さんにもみせなくっちゃ!」

そう言って、大盛り上がりした母親に、止める間もなく、素早くスマホのカメラでエリカはエルヴィーラと共に写真を撮られてしまったのだった。

朱宮家の父母は、エリカなど比較にならない程の変人奇人であり、常識の範囲外の事象もあっさりと納得してしまうような人種である事を、エリカは忘れていたのだった。

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