第8話 伊織という少女
「それで、これが、その時に取られた写真と・・・」
目の前で、頬を桃の様に染め上げて、エリカは、緩やかに波打っている長い黒髪の先を揺らして頷く。伊織は、エリカに渡されたスマホの、家族LINEの画面に映る、彼女の姿を見つめていた・・・目に焼き付けんばかりに。
「いや、本当、可愛いな、エリカ・・・。日頃の私服があっさり目なのしか見ないから、それとの差が・・・」
思わずそんな事を呟いてしまったら、エリカから
「そ、そろそろ、スマホ返してくれないかな、伊織・・・?ちょっと、見つめ過ぎ。画面に穴が開きそう・・・」
そこまで見入っていた事に、指摘されるまで伊織は気付かなかった。スマホの画面に映し出されている、エルヴィーラが着ていた洋服を、そのまま身に纏ったエリカの姿を。白のボンネットをその黒髪の上に被り、恥じらうように両手で頬を押さえている。画面の中のエリカも、今、目の前にいる彼女と同じく、その頬を桃色に染めて、スマホのカメラから慌てて目を逸らしていた。
その隣に座る、伊織やエリカが普段着ているのと同じ、制服のブレザーを着た、エルヴィーラは、彼女が少女人形であった時を想起させる、落ち着いたアルカイックスマイルをたたえているのとは、対照的だ。
伊織の関心を自分から逸らそうとするように、エリカは、エルヴィーラの名前を話に出し始めた。
「も、もう、私の方は良いから、それより、エルヴィーラのこの姿を見てよ。私達と同じ制服を着てるのに、この品の良さというか、優雅さ・・・。やっぱり、元人形の子の容姿には勝てないな・・・、同じ制服なのにあの子が来たら、何かランクが上がったような気がするよ・・・」
エリカの制服を着て、その見事な美脚を惜しげもなく、学校指定のチェック柄のスカートの下に出してベッドに腰掛ける、エルヴィーラの姿を見ると、確かにとても自分などではこのように着こなせはしないだろうと、伊織は些かの嫉妬を覚えた。
しかし、伊織が本当に嫉妬を覚えているのは、この、エリカの母親が撮ったという写真が、エリカとエルヴィーラの二人の、きっと特別な時間を切り取った物であろうという事実だ。エルヴィーラの強い要望にエリカが押されて、二人が、制服とドレスを交換したという話を、学校に来てから最初に聞かされた時、伊織の中を、黒い感情が渦巻いた。写真の中のエリカが、恥じらいつつも、甘やかで熱い物を孕んだ瞳で、横目にエルヴィーラに視線を送っているのを見た時、その黒い感情は荒波を立てた。
『何・・・この、エリカのうっとりしたような表情・・・。こんな顔、私の前では、一度も見た事ない・・・』
写真の中で、エリカは、恥じらいながらも、この非日常極まりない、『少女人形だった少女』との時間に甘美を見出し始めているように、伊織には思われてならなかった。‐胸の奥を捩じられるような痛みを感じ始め、伊織は、スマホをエリカの手に返す。その仕草は、少々荒くなっていたかもしれないと、返した後で気になったが、エリカは特に伊織の様子におかしな点は見出さなかったようだ。
『これをまだ現実の事として受け入れられてないのは確かだけど・・・、あの子が、今、どれだけ人間に近い姿をしていたとしても、あの子は元は人形。人形相手に嫉妬してどうするんだ、私・・・』
伊織はそう自分に言い聞かせ、気持ちを一旦鎮める。エルヴィーラが、いつまで人間の姿でいられるのかは知らないが、あの姿は仮初の物に過ぎず、エルヴィーラは結局は人形でしかない。いくら彼女がエリカと結ばれたいと願ったところで、人間と人形がそんな事が出来る筈がないと分かっているのに・・・。
『・・・って、エリカと結ばれるとか結ばれないって、何考えてるんだ、私⁉これじゃ、私も、エリカと・・・本当は、そういう風な関係になりたいって望んでいるみたいじゃない・・・、エルヴィーラみたいに』
恋情を抱く対象が、自分と同じ女性であるというような自覚は今まで、伊織は感じた事がない。別段、小学校も中学校も、高校入学してからも、そのような感覚を覚えた事はない‐エリカ以外には・・・。
二人を遠巻きにして、時折、奇怪な物か何かのように、クラスメイトらがちらちらと見る視線を感じるが、どうでも良かった。伊織は、自分とエリカの世界に、極端に言えば、彼ら、彼女らを必要としていなかったから。
「その写真・・・、私にもLINEで送ってくれないかな」
そんな言葉が唇の上を滑り出るように、口から飛び出て、エリカの表情が桃色に染まったままで固まった時、伊織は自身の舌禍を悟った。
「い、いいけど・・・。本当に、お母さんも、こんな写真ウキウキで撮って、おまけに家族LINEにまで乗せるんだから・・・どうかしてるよ、うちの家族は・・・。昨日の夜から私、エルヴィーラとのこの写真のおかげで、ずっと黒歴史を公開され続けてるような気分・・・」
そうは言いつつも送ってくれるんだ・・・と思いながら、エリカの厚意に甘える事にする。やがて、自分のLINE画面に浮かんだ、エリカとエルヴィーラの写真を見て満足する。最も、伊織の目は、西洋人形の、白亜のドレスに身を包んだエリカの方をしか見ていなかったが・・・。その写真をすかさず、自分のスマホの中に保存した。
エルヴィーラの今の所在が気になり、エリカに尋ねてみる。
「それで・・・エルヴィーラは今日は何してるの?ずっと、エリカのうち?」
「うん、この写真の後、私の普段の私服に着替えてもらって、取り敢えずはずっとうちにいてもらっている・・・。あの容姿だから、家の外に出したら、嫌でも人目についてしまうし・・・。あ、あと勿論、私を探して勝手に学校に来たりは、絶対しないでねって釘は差しといたから」
「また、あんな風に私達の前に、学校でも現れたらたまんないからね・・・。昨日の一件だけでも、相当にエリカも私も、ヤバい子扱いで見られて、腫れ物扱いなのに・・・」
昨日の写真についての話から、話題が離れると、エリカの頬からも少し朱色は薄れていった。その代わり、次は、何を思い出したか、彼女の視線に今度は、影が差すように見えた。表情の移り変わりが朝から激しい幼馴染だと思いながら、伊織は、エリカにまた尋ねる。
「何か、エルヴィーラの事で、他に気になる事でもあった?」
エリカの目は、伊織よりも、少女人形を見つめている時間の方がきっと長いし、伊織の気持ちに気付いていない時も多い。しかし伊織には、自分以上にエリカをよく見ていて、彼女の機微に気付ける人間はいないという自負がある。エリカに誤魔化されない自信はあった。
長い付き合いだから、エリカも、伊織の目は誤魔化せない事はよく分かっているようで、彼女は眉間の肌に微かに皺を寄せると、額に手を当てつつ、こう言う。
「さっきの写真を撮る前ね、うちの中の人形の間に、エルヴィーラと一緒にいた時にね・・・」
人形の間で起きた、奇怪な現象-ジュリア人形から、憎しみと哀しみの入り混じった視線を向けられ、更には呪詛ともとれるような言葉を頭の中に吹き込まれた。
エルヴィーラは、あまりに美しく作られた人形であるが故に、他の少女人形達と共存が出来ず、今までも人形達から嫉妬の対象にされて、朱宮家に来るまで、いくつもの家を転々としてきていたのだ‐。
そうした話をエリカから、伊織は聞かされた
昨日の一部始終をエリカから聞かされた時、伊織は、一応のオカルト同好会の部員として、人形にまつわる怪異譚もいくつも読んできた経験から、不吉な予感がしていた。
「ジュリアって、私もよく知ってる。あの黒髪に、黒いドレス着てるあの人形の子だよね。あのジュリアが、エリカの頭の中に『ユルサナイ』って言葉を流し込んできたの?」
「うん・・・、ジュリアの憎しみの声には、エルヴィーラも気付いてたみたいで、今、あの人形の間は危険だから、近づかない方がいいって言われた・・・」
「それはどうして?」
「きっとジュリアは、人間の姿になったエルヴィーラに嫉妬や、憎しみを燃やしていて、持ち主である私にも、何をするか分からないからって・・・。でも、ジュリアの声は、私には、憎しみとかそういうドロドロした感情だけじゃない気がした。私は、ジュリアの「ユルサナイ」っていう声は、きっと、エルヴィーラの事ばっかり見てた、私にも向けられていたような気がして・・・」
エルヴィーラや、或いはジュリアに限らず、長い間、人の家で過ごしてきた、大切にされた人形には、洋の東西を問わず、情念というか、魂のような物が宿る・・・、その事は伊織も、人形に関する国内外の怪異譚を幾つも読んで、確信していた。
エルヴィーラ自体には、人に災厄をまき散らすような邪悪な物は宿っていなくても、他の少女人形達から、その美しさ故に憎しみを買って、家の中の雰囲気を暗くしてしまい、何度も、持ち主が変わってきた。そして、それに近い事が、今は朱宮家でも始まろうとしているというのか。
しかも、エルヴィーラの話によれば、今度は、ジュリアや、他に人形達も何か、エリカに危害を加えるかもしれないというではないか。
「それって、つまり、エルヴィーラが、どんな奇跡か分からないけど人間になってしまった事で、他の少女人形達が・・・特にジュリアが憎しみを燃やして、それで、エリカにも危険が及ぶかもしれないって事⁉」
「しっ・・・!ちょっと、声大きいよ、伊織・・・!声小さくして、一旦落ち着いて」
思わず椅子から腰を浮かしかけた伊織に、エリカはそう言って宥めてくるが、これが落ち着いてなどいられるものか。自分の立った一人の親友で幼馴染のエリカが、危険な目に遭うかもしれないなど、座視している事は出来ない。
「エルヴィーラは・・・あの子は身勝手だよ!そんな危険な目にエリカを巻き込んででも、自分がエリカと結ばれたいとかいう、訳の分からない自分の願望を叶える事しか頭にない。ジュリアがそんなに怒っているのなら、エルヴィーラは、素直に身を引いて、人形に戻るべきだよ。エリカの事を大事に思ってるのなら」
「伊織が心配してくれてるのは分かるけど・・・それでも、私は、エルヴィーラの願いを叶えてあげたい。伊織にも話したでしょう、あの子が私と結ばれるっていうのに拘っているのは、ずっと昔、戦争の時代に、あの子と、持ち主の死別した女の子との間で果たせなかった約束があるからなの。その無念を晴らしてあげたくて・・・」
エリカは、自分の身に災厄が降りかかるかもしれないと言われているのに、まだ、エルヴィーラの願望を優先するのか。伊織は、若干の苛立ちを滲ませながら、尚も続けた。自分の口調が、少しずつ強く荒くなっていくのを感じるが、迸る言葉は止まらない。
「だから、それがエルヴィーラの勝手な都合だって、私は言ってる。70数年前に死別した持ち主の子の面影がエリカの中にあるからって、戦争中に亡くなった昔の主人の子とエリカはそもそも、全くの別人なんだし、エリカはその子の代用品でもなんでもない。なのに、エルヴィーラは自分の都合や願望ばかり優先で、自己満足の為にエリカを巻き込んで、危険な目に遭わせようとしてるんだよ?あの子の為ってばかりエリカは言うけど、自分の身はどうなってもいいって言うの?人形の魂が邪悪に堕ちたら、その霊障はほんとにヤバいんだよ?特に、ジュリアは、エリカとの関わりも深かった子だから、恨みに気持ちが変われば、尚更・・・」
「ジュリアは、私に危害を加えてきたりなんかしないわ。ジュリア以外の人形だってそう。私は、あの家の人形の女の子達皆を愛してるし、大切に思ってるから」
エリカとは、人形の話になると平行線になり、こちらの心配が伝わらない事は昔から多かった。それ程までにエリカは、あの家の少女人形達の事を信じ切っていた。
しかし、伊織は、とてもエリカのような楽観視は出来ない。人形の念の強さは、時に、人に大怪我をさせたり、場合によっては死に至らしめたりする程の強烈な呪いに変わり得るのを、海外の「呪いの人形」に関した事件の記録などでいくつも伊織は見てきた。
長い年月を経て、魂と情念が宿った人形の怒りに触れれば、人の命など容易く奪い去られてしまうのだという恐ろしい実例の数々を。
‐特に、朱宮家に置かれている少女人形達の中で、その可憐な表情の下に最も暗く、鬱屈した魂、感情を抱いているは、ジュリアに違いないように、伊織には思われた。
「兎に角、エルヴィーラが人間になってから、家の人形達の様子が変なら、ヤバい事になるかもしれないから、早くあの子には元の人形に戻ってもらおうよ!そうしないとジュリアや、他の朱宮家の人形達が嫉妬から何をするか分からない。エリカも、それにお父さん、お母さんだって危ないかもしれないんだから!」
「な・・・なんで、そんな事言うの、伊織?私は、エルヴィーラが人間の姿になってくれた事、凄く嬉しいと思ってるのに、エルヴィーラに元の人形に戻れだなんて・・・」
伊織は、エリカが底知れぬ能天気に思えて、徐々に苛立ちを募ら始める。彼女の頭の中は、結局は「愛する人形のエルヴィーラが人間になってくれて嬉しい」という幼稚な感情しかない。エルヴィーラだけが成し得た、人間への転生という「奇跡」が、如何に他の少女人形達の羨望と嫉妬と憎しみと・・・そういったドロドロとした感情を彼女らの中に引き起こしているのかへの理解は、今一つだ。
伊織は溜息を一つついて、自分の後ろの席に座っているエリカに、自分の気持ちをぶつけた。
「エリカが、エルヴィーラの人間への転生に浮かれてるのは、もう分かったよ・・・、たださ、私の方から、率直な意見を言わしてもらうと、私は・・・エリカの家に今もいる、人間になれなかった人形の子達、皆が可哀想だよ」
その伊織の台詞に、エリカは「可哀想って、どういう事・・・?」と問い返してくる。
「だってそうでしょう。エリカが、エルヴィーラに夢中になればなる程、他の人形はもう見向きもされなくなって、ほったらかしにされる・・・。そりゃ、自分だけ人間になれたエルヴィーラには嫉妬もするし、エリカに哀しみも怒りも感じるよ、あの子達だって・・・。特に、エリカのお母さん、お父さんから伝え聞いた話だけど、エルヴィーラが朱宮家にやってくる前、エリカがもう少し小さかった頃は、エリカが一番好きだったのは、ジュリアだったんでしょう?あの黒衣に、黒髪の人形の」
「そうよ・・・今でもジュリアは、勿論私の大切な人形よ。エルヴィーラがうちに来てからだって、ジュリアを蔑ろになんて、したつもりは・・・」
伊織の追及に対して、エリカは口を開いて、そう言いかけるが、途中でその言葉は途切れる。それを見ていた伊織は、畳みかけるように、話を進める。
「エルヴィーラが朱宮家に来てから、他の人形の子達だけでなく、ジュリアにさえも、エリカ、目を向けなくなったよね・・・。人形の事について話す時は、いつも、殆どがエルヴィーラの話ばっかりで、ジュリアや、他の子の話なんて聞いた事なかったよ。それでもジュリア達は、きっとエリカの愛を信じて恨みを抱かないようにしていたんだろうけど、今度のエルヴィーラの一件があって、遂にその感情も外に迸り出たんだと思う。本当に、気をつけた方がいいよ、人形の子達の恨みと怒りには・・・エリカも、エルヴィーラもね」
エリカにそう話しかけながら、伊織は、自分が、エリカに目を向けられなくなった人形の少女達・・・とりわけ、あの美しい黒髪の少女人形のジュリアに、自分を重ね合わせているような心地がしてきた。
かなり、ムキになってエリカに言葉をぶつけてしまったかもしれないと、言ってしまった後で伊織は後悔した。少女人形達が可哀想だと自分の並べ立てる言葉は、「人形」を「伊織」という名前に置き換えても、自分の、エリカにぶつけた言葉の中身は成立するように思われた。
「伊織・・・、急にどうしたの・・・?何か、怒ってるみたい」
案の定、伊織があまりにムキになって言葉を並べ立てて、半ば、エリカを責めるような言い方をした事に、エリカも驚きの表情を見せていた。しかし、このエリカの反応なら、伊織の気持ちの真意には、‐エリカから目を向けられなくなったジュリアや、その他の朱宮家の少女人形達の境遇と、伊織自身を鏡映しのように合わせている事など、伊織の胸に渦巻く、黒い感情も欠片も読み取れてはいないだろう。エリカが人形だけでなく、人の心の声も聞く力も持っていなくて、良かったと思う気持ちと、苛立ちに近い気持ちが今の伊織には混在していた。
いつの間にか、後ろのエリカの席の机に半身を乗り出すばかりにして、伊織は話し込んでいたようで、エリカが若干身を引いていた。
「・・・ごめん、ちょっと熱が入り過ぎた・・・。ただ、エリカは私の唯一人の大切な幼馴染で危険な目には遭ってほしくないし、これから、朱宮家の人形については本当に気を付けないと危ないっていう事を、エリカに分かってほしかっただけ・・・。一応、私もオカルト同好会だからね。強い情念を持った人形を怒らせたら、どんな恐ろしい事になるか、日本のでも、海外のでも、色んな人形の事件を知ってるから、心配になっただけ」
エリカへの思いに至ると、どうしても伊織は冷静を保てない。それでも、何とか気持ちを鎮めて、どうにかそれだけ、伊織は言い切った。エリカは、まだ伊織が何故熱くなっているのかは予想もつくまい。
「でも、伊織の言うように、ジュリアも、他の人形達も、私とエルヴィーラに嫉妬や怒り、恨みを抱いてるとして、私達二人は、どうやって身を守ったらいいの?」
「・・・エルヴィーラが守ってくれるよ、きっと。だって、あの子は、エリカと結ばれたいんでしょう?戦争中に、死別してしまった女の子とエリカが似てて、果たせなかった約束を叶えたいってそんなに言ってるんだから、何があってもきっとエルヴィーラは守ってくれるわよ。私は・・・、残念ながら、オカルト同好会でも、霊媒師でも何でもないから、こればかりは役には立てないかな」
その目は人間の姿に転生したエルヴィーラばかりを見ているくせに、都合の悪くなった時だけ伊織に頼るような、そんなエリカの姿勢も、今の伊織を苛立たせた。エリカにとって、自分はただの便利屋扱いか、などと拗ねたような事も思ってしまう。その思考が、「エルヴィーラに守ってもらえばいい。私は役に立てない」という突き放した言葉に繋がっていく。
これ以上、エリカと話をすると、益々、自分の内面の汚らしい部分が、口を押さえてもどんどんと漏れ出していくようで嫌だ。伊織は、特に用事もなかったのに、椅子からガタリと立ち上がる。
去り行く前に、言っておかないと気の済まない事があった。伊織の事を、困ったように見つめているエリカの耳元に一言、こう囁いた。
「エリカ・・・私の、本当に素直な意味での、エルヴィーラをどう思ってるのかをまだ聞かせた事がなかったね。エルヴィーラは綺麗な人形で私も大好きだけれど・・・でも、大嫌いな人形でもあるの」
「ええ⁉」
エリカが叫ぶ前に、伊織は、エリカの机から素早く遠ざかっていった。その叫びに、クラス内の他の同級生らは怪訝な顔をして二人に目を向けた。しかし、それが霧雨の日の一件で、一躍有名になってしまったエリカと伊織の変人二人組だと気付くと、サッと目を逸らして、元の、自分達の会話に戻っていく。
「何・・・なんか、あの二人、険悪そう・・・」
「もしかして、変人同士で喧嘩勃発?」
そんな言葉を左から右へと聞き流して、伊織は、教室の出口に向かう。振り返る勇気はまだなかった。
「大好きだけど、大嫌い・・・」
この両価性を含んだ感情を、人形(特にエルヴィーラ)にしか興味のないエリカはきっとまだ分からず、あれやこれや考え込んでいる事だろう。
実は、エルヴィーラについて、まだ他にもう一つ、言えずにいる事がある。初めてエルヴィーラが人の体を得て、話せるようになった、あの霧雨舞う春の日に、言われるかもしれないと背筋を冷たくしていた、伊織とエルヴィーラ本人しか知らない秘密が・・・。
「あの日、エルヴィーラの左足に、傷をつけて、壊そうとしてしまったのは、私・・・。これもまだエリカに言えてない、重大な秘密・・・」
教室を出て、行く当てもないまま、廊下に出た伊織は、ブレザーの胸に手を当てて、ぐっと目を閉じて、奥歯を噛み締めた。目を閉じれば、あの日の・・・今より幾分か体の小さい、幼い自分が鋏を握りしめて、エルヴィーラの人形を睨みつけている姿が目に浮かんだ。脳裏に浮かんだその背中を、首を振ってかき消す。思い出したい記憶ではないからだ。
『あの記憶は、エルヴィーラが知らない筈ないのに、それを口にしないのは、あの当時の私の嫉妬なんて、取るに足らない程度の小さな物だったって事・・・?』
人気の少ない、階段の踊り場に一人立って、伊織は、先程、半ば無理やりにエリカに、自分のLINEへと送らせた写真を開く。人形の衣装と、伊織も着ているのと同じ、この学校の制服。それを交換して着替えた二人の姿が見える。伊織とは、ここまで接した事のないであろう程の近さまで、エリカは、元人形の少女、エルヴィーラに近づいて、頬を染めている。未だかつて、このようなエリカの甘美な表情は一度だって、伊織は直接見た事はないというのに。
その傍でエリカの着ていた制服に袖を通して、優雅にベッドの端に座っている、エルヴィーラの佇まいを見て、今まで感じた事のないどす黒い物が、胸の奥底から黒煙のように噴き上げてくる思いがした。伊織の、エルヴィーラへの嫉妬と恨みの感情は最早、隠しようがなかった。
手が震える程強く、スマホを握りしめる。伊織という少女は、自分も、朱宮家の人形の間に並んで、エリカの事を待っているあの人形の少女達と変わらぬ存在であると悟った。そして、あの朱宮家の人形の中で、密かに気に入っていた人形の事が頭を過ぎる。
「今なら・・・本当は私がエルヴィーラよりも好きな人形である、ジュリアと完全に同じ気持ちになれそうよ」
その日の放課後、伊織は、「今の、人形の間の雰囲気を一度見させてほしい」という口実で朱宮家を訪れる事をエリカに提案し、エリカからはあっさりとOKをもらった。
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