第9話 ジュリアの憎しみ

学校を出てから、自宅の門を潜るまでの時間がこれ程に長く感じられた事は、エリカには未だかつてなかった。その原因が、「エリカの家に寄ってもいい?」と自分から尋ねていながら、朱宮家に向かう道すがら、ずっとエリカの少し後ろを歩いて、全く話しかけようともして来ない、伊織にある事は明らかであった。

『伊織・・・本当に、今日はどうしたんだろう・・・?』

伊織の様子は、学校で話していた時から既におかしくはあった。エルヴィーラについての話題・・・それも、エリカが昨日、朱宮家の人形の間で経験した、奇妙な体験についての話を聞いた時から。

『エルヴィーラの事、大好きだけど、大嫌いっていう、あの言葉の意味も良く分からなかった・・・。伊織の伝えたい事が、私には分からない・・・』

今日の伊織は、やり場に困った鬱屈した感情を自分の中に堆積させて、ずっと燻っているように思われた。その感情が何なのかをエリカも知りたいが、今の伊織に聞いても、素直に教えてくれるとは到底思えなかった。彼女は、エリカに話しかけられるのを避けているように、常にエリカの少し後ろをキープしながら、決して横に並ばないようにして、歩いているのだから。

「結構久しぶりじゃない?私は、今も良く出入りしてるけど、あの人形の間で、伊織が人形を見たいなんていうとかさ。以前は、私が人形について、あれこれ説明をずっとするもんだから、伊織、ちょっとうんざりしてそうだったのに・・・」

帰り道の途中、沈黙に耐えかねて、伊織の方を振り返り、声をかける。

伊織は、エリカに話しかけられた事にも気付いていない程、何かに熱中して、考え込んでいるようだった。その表情は何処か、幼い子の拗ねた顔のようにも見えた。

「伊織ってば!」

「え?あ、ああ、ごめん、エリカ。何か言った?」

「もう・・・やっぱり、聞こえてない。伊織が、人形の間を見たがるのなんて久しぶりだねって言ったの」

エリカの言葉に、伊織は「ああ・・・」と呟くと、エリカに比べて短めで、活動的な印象を与えるボブの横髪の、毛先を落ち着かぬ様子でくるくると指先でいじった。

「ちょっとね・・・色々、エルヴィーラの事で、人形について今日は色々話したから、何となく、また見てみたいなって思いついただけ・・・。特にジュリア人形を、久しぶりに見たいな」

「ああ、ジュリアも、綺麗な人形だものね、そう言えば、昔、伊織がうちに遊びに来ていた頃も、お人形遊びは、伊織は絶対ジュリアしか選ばなかったわね」

思い返すと、幼い頃の伊織は、ジュリア人形の事を大切にしていた。きっと、彼女には色々と思い入れのある人形なのだろう。

「そうだったな・・・。ジュリアが今、どうしてるのか、今日の話も聞いたから、気になってね・・・」

ぽつぽつとだが、ジュリア人形の話題ならば、伊織も言葉を返してくれるようにはなり、エリカは一旦胸を撫で下ろす。伊織の方も、少しの張り詰めた空気を伴う沈黙が解れたおかげか、今度は彼女の方からエリカに尋ねてきた。

「あと・・・エルヴィーラは、今は何をしてるの?今もずっと、エリカの家の中?」

やはり、気になるのはそこか・・・。そう思いつつ、エリカは答えた。

「エルヴィーラには・・・取り敢えず、ずっと私の部屋にいてもらってる。カーテンを閉め切って、絶対に外からも見られないように気を付けてって、釘をさしてね。兎に角、自分の洋服が、人形の時のままの、あのドレスしかないんじゃ、人前に出られないから、今日、お母さんがエルヴィーラ用の洋服を買いに、デパートに出かけてるわ。私が、着る物はいつも適当でいいって言って、洋服にはあんまり興味示さないのもあってか、お母さん、だいぶ張り切ってる。娘が急に二人になったみたいってね」

自分の母のはしゃぎぶりを聞かせると、伊織も苦笑いを浮かべる。

「エリカのお父さんとお母さんなら、まぁ、あの異常な事態にもあっさり適応できてるのも分かる気はするね・・・」

苦笑いでも、伊織の表情が少しでも緩やかになった事に、エリカは取り敢えず安堵する。

そうして、住宅地の中を通る道を、二人で歩いていると、やがて、伊織ももうとっくに見慣れたであろう、朱宮家の邸宅の一角が視界に飛び込んでくる。青々とした、木立の春の新緑の狭間から、「ドイツ屋敷」とも、近隣からは呼ばれる赤い屋根の家が見えてきた。

エリカの母親は、まだデパートから帰ってきてはいないらしい。

「エリカ!それに伊織も!待っていたわ!」

エリカの部屋の中で、約束を守って留守番をしていたらしい、人間の姿のエルヴィーラは、部屋の扉が開く音を聞くや否や、まだ廊下側にいるエリカと伊織にぶつからんばかりにして飛びついてきた。

「エルヴィーラ・・・それって、私の私服・・・?」

あのふわふわとしたフリルや生地の触感が感じられない事に違和感を覚えて、彼女の恰好をよく見ると・・・、上は白系のTシャツに、下は紺のデニムという、休日のエリカの一張羅の私服をそのまま、彼女は着ていた。

「ああ、これね。私が人形の時から着ていた服で出歩くと、目立ちすぎるっていうから、取り敢えず、今日はうちにあったエリカの私服を貸してもらったの。これが、現代の女の子の服装なのね。こんな風にズボンを履くのって、何だか新鮮な気分。すごく動きやすいです」

そう言って、エルヴィーラは後ろで、ゴム紐で簡易に括ってポニーテールの形にした金髪を靡かせて、初めて着る、現代の服の質感に色々と感想を述べる。そして、ドレスと比べて、その動きやすさや軽さに驚いているようだった。

自分が着ている時は、地味極まりない恰好である筈なのに、エルヴィーラが着ると、途端に、あの質素な上下のシャツとデニムの組み合わせですら、大変爽やかに着こなせている。それは、エリカには埋めようもない、人形として生まれてきた彼女のその圧倒的なスタイルと、美貌という素材の差にあるとしか考えようがなかった。

「エリカ、どうしたの?何か、複雑そうな表情だけど」

「いや、大丈夫・・・。前に制服とドレスを交換した時もそうだったけど、素材の違いって偉大なんだなって事を思い知っただけ・・・」

伊織に、エリカはそう答える他なかった。

頭の中身を、強引に本題へと戻す。エリカは、エルヴィーラに対してこう告げた。

「エルヴィーラ、これから私、伊織と人形の間に行こうと思う。伊織が、人形の間の子達・・・特に、ジュリア人形を見たいんだって」

エリカのその話を聞いた瞬間に、エルヴィーラの顔から、楽し気な色は瞬時に拭い去られた。エルヴィーラは、一瞬にして真剣な面持ちに変わると、エリカと伊織の二人を交互に見た。

「え、エリカ、本気で言ってるの?昨日、あんな事が起きたばかりなのに・・・?昨日は、まだ幸い、あの子達の恨みによる実害は出てないけれど、このままじゃ、いつ、嫉妬や憎しみで暴走する少女人形が出てこないとも限らないのよ?特に、ジュリア人形に関わるのは絶対ダメ。あの子は、あそこにいる人形達の中でも、一番、籠っている念が深くて、危険度も高いから」

真剣な声色だった。エリカの隣にいた伊織が、エリカに事情を説明する。

「エリカにとってエルヴィーラが大切な人形であるのと同じくらい、私には、あの部屋の、ジュリア人形は大切な人形なんだ。そんなに長い時間は、あの部屋に留まらないし、万一、人形の間で何か危険な事が起きそうだったら、エリカを連れてすぐに逃げるから」

伊織の話を聞いた後も、まだエルヴィーラは、エリカのベッドの端に腰掛けて、難しそうに考え込んでいた。

「・・・分かったわ、ただ、エリカと伊織だけであの部屋に行くのは心配だから、私もついていく。私なら、大抵の人形が何を思っているかは分かるし、危険な事を考えてる人形がいたら、すぐに知らせられるから」

エリカは、エルヴィーラも人形の間に一緒に着てくれるという話を聞いて、幾分か安堵した。エリカの、人形の心が分かる能力は、年を経る毎に次第に弱まっていき、今では、昨日のジュリアのように、格別に強い感情でなければ読み取るのは難しくなっている。それならば、元人形で、他の人形の考えや感情も易々と理解出来るエルヴィーラがいた方が良いだろう。

「うん、そうしてもらえると、凄く助かる!ありがとう、エルヴィーラ。じゃあ、伊織も、それでいいよね?」

そう尋ねようと、右隣に立っている伊織をエリカが見つめた時だった。

伊織の、エルヴィーラに向いている視線に、一閃の嫌悪が走ったのを、エリカは見逃さなかった。

伊織は、エリカをやや強引に横に押しのけるようにして、前に出て、エルヴィーラに近づく。そして、強い口調で、エルヴィーラを詰り始めたのだ。

「どうして、エルヴィーラを連れてかないといけないの・・・?だって、昨日何があったのか聞いたら、ジュリアも、他の人形の女の子達も、急に怒り出したのは、エルヴィーラだけが勝手に人間になったからでしょ?エリカに愛されたいっていう身勝手な理由で。私達の助けになる、みたいな事言ってるけど、元はと言えば、危険な状況作った原因は、貴女の勝手な行動のせいだって、エルヴィーラには自覚あるの?」

「ちょ、ちょっとやめてよ、伊織、急に何言い出すの!」

目の前で突然、エルヴィーラを面罵するような言動を始めた伊織に驚き、エリカは止めようとする。

「だって、もしもエリカが少女人形達に襲われたら、そもそも、そうなったきっかけはエルヴィーラが人間になった事じゃない?それなのに、エルヴィーラはそんな事も分からずに今もこうしてのほほんと、人間の体を手に入れた事に浮かれて過ごしてるから・・・見ていて頭に来るのよ!」

昨日の話をしてから、伊織の虫の居所が、どうも悪そうだった理由が分かった気がした。伊織は、朱宮家の人形達に不穏な空気が漂いつつあるのは、そもそもエルヴィーラが人間に転生した事がきっかけで、にも関わらずのんびりしているように見えるエルヴィーラに苛立っているようだ。

「ご、ごめんなさい、伊織・・・。私は、そんなつもりでは・・・」

伊織に詰め寄られ、詰られて、彼女よりエルヴィーラの方が背は高いにも関わらず、エルヴィーラが今は萎縮しているからか、縮こまって見えた。

「そうよ、エルヴィーラがきっかけになったのは、事実の一つではあるけど、だからって、今、エルヴィーラをそんな風に責めてもどうにもならないでしょ?伊織、怒りたい気持ちも分かるけど、ここは一旦落ち着こうよ。この子もこんな風に事態が動くなんて思ってなかったんだから・・・。それに、いざとなれば、エルヴィーラは私を守るって約束してくれてるんだから、伊織の心配してるような事には、私はならないよ」

何とか、一触即発な空気を鎮めようとして、伊織にそう言い聞かせる。しかし、伊織は渋々身を引いたものの、その表情はとても納得しているようには見えなかった。

寧ろ、一瞬、エリカに向けられた視線には、酷く苦々しい物が混じっていた。

「ほ、ほら、伊織。エルヴィーラがいる方が、人形の異変とかにもより気付けるかもしれないから、エルヴィーラも人形の間に連れて行こう?」

そう言ってもう一押しして、ようやく伊織は、エルヴィーラが来る事を承諾した。

そこから、階段を降りて、一階の人形の間に着くまでの間、伊織は、エルヴィーラには口を利くばかりか、目線を向けようとさえしなかった。


「・・・久しぶりに来たけど、ここは何度見ても本当に凄いな」

人形の間に通された時、開口一番にそう伊織は言った。彼女は、エリカとエルヴィーラを扉の所に残したまま、少し埃の匂いもする部屋の中へ歩んでいく。

近い物を挙げるとするならば、雛祭りの時に飾る、お雛様の並んでいる段が近いだろうか。瞳の色も髪の色も一人として同じ物はいない、西欧風の衣装に身を包んだ可憐な少女人形達が、段を成して、ずらりと並べられている様は、見る者を圧倒する迫力があった。そして、エリカの両親は、「手入れをしてあげないとすぐ埃だらけになるし、経年劣化してしまうから」と、朱宮家に迎えた彼女ら一人、一人を大切に、定期的に手入れしたり、着替えさせたりしているというのだから、エリカでさえ、その愛の深さには恐れ入る程だ。

伊織は、各段に座っているドイツやフランス産の少女の人形達を眺めていたが、やがて、一つの人形の前で足を止めた。そして、その人形の目線に合わせるように膝を曲げると、彼女の黒髪を、その指で梳きながら、しばらく会わなかった旧友に再会したかのように、親し気に語りかけた。

「久しぶりだね、ジュリア・・・。貴女は、いつ見ても美しいね・・・」

伊織の目線の先にある人形・・・、それこそが、昨日、エリカが抱き上げていた時に、心の中へと不気味な声で言葉を送り込んできた人形の、ジュリアだった。伊織は、しばらく、その黒髪の感触を愛でた後に、ジュリアを抱き上げた。

「伊織、その人形は、ジュリアは危ない・・・!すぐに離れた方がいいわ!」

思わず、エルヴィーラが一歩前へ踏み出て、伊織に警告した。しかし、ジュリアを抱き上げたまま、伊織は冷たい一瞥をエルヴィーラへと向けた。

「私には、何も感じないけど?この子は、私にとっては、大切な友達なんだから、邪魔をしないで」

そう言って、近づくのを拒否されてしまった。エリカも、昨日の一件があったから、伊織に何か起きないか、気が気ではなかった。しかし、ジュリアは何故か、伊織には何をする訳でもないようで、本当に伊織は何も感じていない風だった。

「やっぱり何も起きない‐」

そう、伊織が言いかけた時だった。今まで余裕な様子だった伊織が、目の前に広がる段上の少女人形達を見て、突如凍り付いた。伊織の姿を見ていたエリカも、急に体に、不快な感覚が突き刺さるのを感じた。それは何本もの氷柱で、体中の肌を薄く刺されるような、冷たく、痛いような感触であった。そして、その違和感は明らかに人形の間の中から向けられていた。

エリカは恐る恐る、人形の間の中の、立ち並ぶ少女達の顔に、瞳に目を遣る。すると、青や茶や栗色の彼女らの、動く筈のない瞳は一斉にこちらを向いていたのだ。

しかも、常に笑みをたたえている筈の彼女らの表情は、何処か怒りを含んでいるように見えた。

そして彼女らの視線の先を辿っていくと、そこにはエルヴィーラが立っていた。

この異様な雰囲気に、伊織も硬直して、ジュリアの人形を元の位置に戻す事も失念したまま、凍り付いてしまっていた。助けに行かねばとエリカは、伊織の元へ駆けだそうとするが、金縛りが始まったようで、足が全く動かせなくなっていた。喉からも声が全く出せない。

「まずい・・・人形の子達がまた怒ってる!二人が危ない・・・!」

そうした中、エルヴィーラだけは、金縛りにもあわずに自由に動く事が出来ていた。

エルヴィーラは、金髪のポニーテールを揺らしつつ、部屋の中央で金縛りにあって、立ったまま動けなくなっていた伊織の元へと駆け寄り、彼女の手を硬く握った。

エルヴィーラに触れられた途端、伊織の体の金縛りが解かれた。

「・・・っ、エルヴィーラ・・・⁉」

状況を呑み込めずに戸惑っている伊織に、エルヴィーラは張り詰めた表情で言った。

「伊織、早く、その子を・・・ジュリアを元の場所に戻して!それ以上、その子に触ってはいけない!」

有無を言わせないその口調に、流石に伊織も従わざるを得ず、すぐにジュリアを、元々の場所である、段のほぼ中央に戻した。エルヴィーラはそのまま伊織を連れて、入り口の扉の前で硬直していたエリカの肩にも手を置いてくれた。

その瞬間にエリカも、体に自由が戻った。エリカは、伊織とエルヴィーラが人形の間から飛び出てきたのを見届けると、すぐに、人形の間の開き扉を閉め切った。

あの部屋の中から、漏れ出てくる空気に、エリカも邪悪な何かを感じ取ったからだ。閉ざされた、人形の間の扉の前でエリカ、伊織、エルヴィーラの3人はしばらく、お互いに言葉を交わす事もなく、立ち尽くしていた。

「・・・な、何なの・・・今のは・・・?寒気のような、痛みのような、変な感覚がしたと思ったら、指一本動かせなくなってた・・・。エリカも何か感じた?」

金縛りから解放されたばかりの伊織は顔から血の気が引いており、ゾッとした表情で、制服のブレザーの上から自分の両腕を摩っていた。

「う、うん・・・、部屋の中の人形の子達の視線が、一斉にこっちに向けられた気がして・・・それで、気がついたら金縛りみたいになって・・・」

エリカも伊織も、二人共同じ奇妙な感覚を覚えていたようだ。一体さっき、何が起きていたのか。それを知りたくて、エリカは、隣に立つエルヴィーラに尋ねた。

「エルヴィーラ・・・さっきのあの人形の間の異変・・・あれは、やっぱりあの部屋の人形の女の子達が怒っているの?それに、伊織に向かって『ジュリアにそれ以上触ってはいけない』とか言っていたけど・・・」

エルヴィーラは頷く。

「あの部屋の人形の中でも、ジュリアが・・・特に怒ってるし、憎んでる。人間になった私の事をね。そして、他の一部の少女人形達の、私やエリカへの憎悪を煽って、色々と悪い事を企んでいるみたいね」

ジュリアの名前が、またエルヴィーラの口から出てきた。その名前を出す時、エルヴィーラがいつも浮かべている、あの屈託のない笑顔は拭い去られて、険しい眼差しに変わっていく。その様子を見ていると、エリカは、彼女とジュリアの間に何か、因縁のような物でもあるのだろうかと疑ってしまう。思い返せば、エルヴィーラが、他の少女人形達の中で、名前で呼んでいるのはジュリアだけだ。そして、ジュリアに対するエルヴィーラの警戒心は、他の人形に対するそれよりも格段に強いのは明らかであった。

「エルヴィーラは、昨日もジュリアが特に危ないって言っていたけど、どうして、ジュリアが特別に危険な人形だって分かるの?もしかして・・・エルヴィーラは、ジュリアの昔の事、何か知ってるの?」

エリカは思い切って、ジュリアの事について、彼女に尋ねてみる。エルヴィーラは、形の良いその眉を一瞬、ピクリと引き攣らせ、口元も強張らせた。その反応だけでも、彼女とジュリアとの間には、口外したくない何かしらの因縁があるのは一目瞭然だ。

「・・・あまり、聞いたところで心地の良いお話ではないですよ?ジュリアは・・・、人間で言うならば、私の姉のような存在なのです。ジュリアも私も100年以上昔、同じ職人の手によって作られましたから。作られたのはジュリアが先で、私が後。だから、ジュリアは、人間に例えるなら、私の姉という事になりますね。私とジュリアは、売りに出される時を待つまで、生まれた人形工房で、短い間とはいえ、同じ時間を過ごした仲でした」

エリカも、傍で話を聞いていた伊織も、目を丸くして、エルヴィーラの話に耳を傾ける。まさか、エルヴィーラとジュリアが同じ職人の手によって生み出されていて、かつても二人が一緒に過ごした時間があったとは。

以前からエリカも思っていた事ではあったが、エルヴィーラの装束と、ジュリアの装束。この二つは、眩い純白と、品位を感じさせる漆黒という対照的な色使いではあるものの、鏡映しのように相似形を描いていた。同じ職人の手による物であれば、何処か、エルヴィーラの装束の中に、ジュリアの面影があっても不思議な事はない。

伊織が首を傾げながら、エルヴィーラに尋ねてくる。

「ジュリアとエルヴィーラの二人の人形を作ったのが、同じ人だっていうのは私も驚いたけど、でも、それでジュリアがどうしてエルヴィーラを憎むわけ?要は同じ親あから生まれた人形だから、ジュリアが姉で、エルヴィーラは妹みたいな物なんでしょ?100年間も離れ離れだった姉妹の、感動の再会!っていう事なら話は分かるけど、憎まれる理由が分からないよ」

エリカも、伊織の呈した疑問には頷ける。エルヴィーラとジュリアに、特別な関係がある事は分かったが、単に同じ少女人形の職人の手で作られただけであれば、ここまでジュリアが邪悪で、強い憎しみの感情をエルヴィーラに向けてくる事などない筈だ。

「姉妹のような関係なのに、ジュリアが・・・あの子がエルヴィーラを目の敵にするなんて、エルヴィーラはジュリアに、恨まれるような事でもしちゃったの・・・?」

エリカの問いに、エルヴィーラは首を横に振る。ジュリアの話題になると、エルヴィーラのその瞳の中の青い海は、海面の色が、憂いを帯びた色へと変わっていく。

「私が直接、彼女に何かをした訳じゃないわ・・・。エリカには昨日も話したと思うけど、私を作った生みの親の職人が、『お前はあまりに美しく作られ過ぎたが故に、他の人形の少女達の憎しみや嫉妬を受ける定めを負っている』と私に言ったの。私がまだ生まれたての人形だった時からそれはもう始まっていて、私が生まれた工房にいた少女人形達は皆、私に嫉妬の目を向けた。でも・・・その中で、一際、私に強い憎しみの目を向けたのがジュリアだったの」

「それは、どうしてなの?」

「ジュリアは、他のどの人形の子と比べても、誇り高い少女人形だったから・・・、私が生まれるまでは、私を作り出した職人も、ジュリアこそは自分の最高傑作の、最も美しい人形だと溺愛して、中々売りにも出さなかったくらい、愛情を受けていたし、だからジュリアも、自分こそがこの世で最も美しい少女人形だって誇って、自負していたんでしょうね・・・。それが、私が生み出されたあの日、崩れてしまった。生みの親の職人からも、最高傑作の人形は私だと言われて、ジュリアは職人にとって一番ではなくなった・・・。だから、誇りを私に傷つけられたと思ったジュリアは、私を恨むようになったのよ」

一番ではなくなった・・・。エルヴィーラの話した事の中で、その部分が、エリカの耳に焼き付くように残った。

エリカは、横に立っている伊織にちらりと目を向ける。彼女は、ジュリアという人形に、朱宮家の他の少女人形達に向ける物とは違う、何か別格の感情を抱いている。

そんな彼女は、エルヴィーラが生まれた事で、ジュリアが一番美しい人形ではなくなったという話に、何か思うところでもあるのか、両手の拳を握りしめて、何か考えているようだった。

「一番じゃなくなった、か・・・」

ふっと、伊織の唇が微かに動き、そんな言葉を発したように、エリカには読み取れた。

エリカが生まれた時から、既にジュリアは、あの人形の間に置かれていた。エリカに物心が少しついて、人形にも興味を示す年になった頃、母親が、『この中でどの子が一番好き?と、幼いエリカに尋ねたら、『あの子!』といって、迷わずにジュリアを指差した、という昔話を、エリカは思い出していた。

そして、その時、確かにジュリアの声で、エリカはこう聞いたのだ。『嬉しいわ、ありがとう』と、エリカの中に彼女が語りかけてくるのを。今にして思えばあれが、人形の声をエリカが人生で聞いた、最初の瞬間だったと思う。

「私も、まさか生まれた国から遥か遠いこの日本で、ジュリアと、また一つ屋根の下で暮らす事になるなんて思わなかった。だから、初めて朱宮家に来た時、彼女の姿を見つけた時は本当に驚いた。ジュリアも、きっと私を見て、また、『エルヴィーラに一番を奪われる!』と思ったでしょうね・・・」

確かに、エルヴィーラが来てから、幼い日の自分は、次第にお人形遊びにエルヴィーラの人形ばかりを選ぶようになり、ジュリアに触れる機会は減っていった。その事が、ジュリアの気持ちや誇りを傷つけていたとしたら・・・。

「・・・そういう事で、ジュリアは私に恨みを募らせていたと思うし、きっと、私が人間になれた事で、嫉妬も怒りも爆発してしまったのでしょうね・・・。伊織の言う通り、私の身勝手な願望で、人間になってしまったせいで、ジュリアも他の人形の子達も怒らせてしまった・・・。それは、言い逃れ出来ない、私の責任よ」

エルヴィーラは廊下の窓辺に近づくと、深く溜息をつき、2階から見下ろせる、朱宮家の春の庭の景色に視線を落としていた。エリカも何となく、同じ方向に目を向けると、先程、人形の間で感じた凍てつく冷気や殺気が嘘のように、色鮮やかな花壇の花や、庭に茂る春の野草の花達に蝶が戯れる、のどかで普段通りの光景が流れていた。

・・・先程から、伊織が一言も発していないのにエリカは気が付く。窓から、視線を伊織に戻すと、彼女の顔色は蒼白に近い物となり、暑くもないのに、額には冷汗が浮かんでいた。表情も、苦虫を嚙み潰したように険しい。吐き気でもあるのか、片手を口元にあてている。

「伊織・・・大丈夫?すごく顔色が悪いけど・・・もしかして気分悪い?それなら、ちょっと、私の部屋で休んでいった方が」

先程、人形の間で、ジュリアや、他の少女人形達の強い情念に晒されて、霊障が出ているのかもしれない。そう思い、声をかけるが、伊織は首を横に振って、固辞してきた。

「だ、大丈夫だから・・・、さっきの、人形の間であった事でちょっと驚いちゃって、気分悪くなっただけ。今日はもう帰って、休む事にするね」

「え?でも、まだ人形の間でジュリアを見ただけで、時間も早いし、そんなに急がなくても具合悪いなら、うちで休んでいった方が・・・」

日も落ちるまでは未だ、だいぶ時間があるにも関わらず、急いで帰ろうとする気配を見せ始めた伊織にエリカは、少し休んでいくように声をかけた。しかし、

「い、いや、ちょっと家の方で用事もあったの急に、思い出してさ・・・、ごめん、まだ早いけど今日はもう帰らして!」

などと、不自然極まりない誤魔化しを並べ立てながら、こちらに手を合わせて拝んでくる。

エルヴィーラも

「伊織・・・貴女も、さっきのジュリアの起こした騒ぎに巻き込まれてるから、霊障が出ておかしくない筈よ。少し休んでいった方が・・・」

と伊織に声をかけた。しかし、エルヴィーラの声に対しては、エリカの目にもはっきりと分かる程、伊織は露骨に無視をした。何も聞こえなかったかのように。

そして、エリカの方にだけ「バイバイ」と小さく手を振ると、そのまま、一階に繋がる階段へと向かって走って行ってしまった。

エルヴィーラは、伊織の姿が見えなくなった後、エリカにこう語った。

「私の気のせいなら良いのだけど・・・、伊織から、今、何か、凄く良くない物を感じたわ」

「良くない物?」

「ええ・・・何か、負の感情というか、力のような物が、膨らんで来てるように感じたの。さっき伊織の目を見た時に・・・」

エルヴィーラの言葉に、エリカも、何か、不吉な予感を覚えずにはいられなかった。伊織が、自分の知っている伊織ではない物に変容していく、その始まりを見たような気がしたからだ。

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