第3話 祈り

カーテンの隙間から差し込む月の光に照らされ、ベッドで眠りについているエリカの顔を、エルヴィーラは、彼女の机の上から見つめていた。

エリカは、エルヴィーラに、この朱宮家にある他の西洋人形達に対してのそれとは、別格の愛情を注いでいて、いつしかエルヴィーラを自分の部屋の、学習机の上に置いては、眺めるようになっていた。小学校、中学校、そして高校生の今でもエリカは、手持無沙汰になった時にはいつも、エルヴィーラの髪の手入れや、専門店で買い集めてきた、アンティークドール用の服への着せ替えに執心するのだった。

黒髪の繊細な毛先が、白のシーツの上に広がって、長い睫毛が、エリカの閉じられた瞼を飾っている。その姿を見つめながら、エルヴィーラは、70年以上前、戦争中に亡くなった、かつての主人の少女の事を思い出していた。

『こうやって寝顔を見ていると、エリカは、成長するにつれて、あの子に益々似てきている・・・。まるで、あの子の生まれ変わりのように。』

人形専門店で初めて、幼いエリカと出会ったあの日から、エルヴィーラは、彼女の面立ちの中に、70年以上昔に死別した主人の顔を重ね、思い描いていた。

戦争が終わってからの長い時代を、幾つもの少女達と出会っては別れてきたが、エリカと出会った日に、それ以前に出会った少女達の顔は、エルヴィーラの記憶の彼方に消え失せてしまったと言っても、全く過言ではなかった。かつて、自分と結ばれたいと願ってくれたあの少女が、生まれ変わって、再び自分の前に現れてくれたのだと、本気でそう信じた程であった。

そして、エリカについて、エルヴィーラが驚かされた事は、彼女の容姿の他にもう一つあった。それは、エリカが、『人形の声が聞こえる』という不思議な能力というか、第六感とも呼べるような不思議な感覚を持っているらしい事だった。

幼い日のエリカは、エルヴィーラの言葉が、他の人には聞こえないその声が聞こえているようであり、エルヴィーラに、人間の友達と話すように、色々な話をしてくれた。絵本を読み聞かせてくれて、その内容にエルヴィーラが感銘を受けていると、

「いいお話だよね、エルヴィーラ。私もこのお話、大好き」

と、まるで心が読めているかのように語りかけ、自分の膝の上に置いたエルヴィーラを抱きしめた。

‐寧ろ、幼い頃のエリカは、生きている人間と話す時間の方が短いようであった。

『私が人間になれたなら、あの頃のエリカに寂しい思いはさせなかったのに・・・』

エリカは友達を家に連れてくる事が皆無に等しかった。エリカが、家の庭にエルヴィーラを連れ出しては、ずっと話しかけている姿を、奇異な物を見つめるような目で、通りすがった同年代の子達や、その親までもが見つめていた。

『朱宮さんちのあの子・・・、いつもああやって、お人形に話しかけてるよね。ちょっとおかしいんじゃないの?発達障害とか?』

『早く児童精神の病院にでも連れていってあげた方が良いよね・・・』

庭先に出て、エルヴィーラを膝に乗せてはいつも話しかけるエリカを見て、そのような心無い囁きを近所の主婦達がしているのを、エルヴィーラは聞いた事があった。

大人達ですら、そうしてエリカを「奇妙な子」扱いするのだから、近所の子供達は尚更、いつも人形であるエルヴィーラに話しかけるエリカを、露骨に気味悪がり、遠ざけていた。

『エリカはおかしい子なんかじゃない!』

あの頃、もしも人間の体を持ち、人間の言葉を話せたなら、エルヴィーラはそう叫んで、エリカを守ってあげたかった。

しかし、その一方で、エルヴィーラの中に、他の同年代の子供達が一切エリカに近づこうとしない事を、エリカが孤独な少女である事を、心の何処かで喜んでもいた。

『今までの私の主人だった女の子達は、どの子も友達が増えてくると、その子達とのお話や遊ぶ事に夢中になっていって、そのうち、お人形さんなんてもう幼稚だからって言って、皆、私の傍を離れていった・・・。私はその度に寂しかった・・・。だけど、エリカは違う。エリカは、人形しか愛さないから。あの、亡くなった女の子と、エリカは、境遇は違うけど、傍に私しかいないのは同じ・・・』

だから、少し髪は短く、強気な印象を与える目のあの少女・・・更級伊織が、エリカの前に現れて、二人が仲良くなった時には、少なからず、エルヴィーラは寂しい思いをした。


それに・・・、エリカと、エルヴィーラの間を裂こうとするものは、生きている人間だけではなかった。

エルヴィーラは、エリカの部屋を満たす、静まり返った暗闇の中、『声』を聞いた。しかし、エリカはまだすやすやと寝静まっており、彼女の発した声ではありえない。彼女の両親もとうに眠っている時刻である。

しかも、その『声』は、人の発する話し声ではなく、エルヴィーラの心の中へ、直接、沁み込んでくる。それもよく聞けば、一つではなく、何重にも重なり合った、呪詛のような声だ。

『許さない・・・許さない・・・エルヴィーラばかり大事にされて・・・』

『声』達は、エルヴィーラへの怨念を込めて、そのように囁いている。

『今夜も来たわね・・・』

エルヴィーラは、自分へ送られてくる怨念の『声』には、もう慣れていた。

これは、朱宮家の人形の間に置かれている、他の多くの少女人形達からの、憎しみの籠った『声』だ。

『貴女がこの家に来たせいで、私達は、エリカに遊んでもらえなくなった・・・。貴女さえいなければ・・・』

しかし、エルヴィーラは、今更、他の少女人形達からの嫉妬や憎しみを込めた『声』などに動じる事はなかった。こうした事は、今までも数知れず経験してきたから。

この世に生み出されてから100年以上の月日の中、思い出せない程の数の人形収集家の家を渡り歩いてきた。既に沢山の少女人形がある家に迎えられた場合、エルヴィーラの新しい主人になる少女は、エルヴィーラに夢中となって、今まで遊んでもらっていた、少女人形達に、見向きもしなくなった・・・。言い方を変えれば、彼女達は『捨てられた』のだ。そして、目を向けられなくなった少女人形は皆、一様にエルヴィーラの美しさを妬み、自分達の主人である少女の心を奪われた事を恨んだ。

『お前はその美しさから、他の少女人形達からは、きっと憎まれる事になるだろう・・・』

かつてエルヴィーラをこの世に生み出してくれた、欧州の某国の人形職人の男は、生まれたてのエルヴィーラにそう語りかけていた。彼の言葉は現実の物となり、エルヴィーラは行く先々で、先の住人ともいうべき少女人形達の嫉妬、憎しみ、恨み・・・そうした負の情念の矛先となった。

但し、この朱宮家に限っては、今までにエルヴィーラが渡り歩いてきた、どの家にもなかった、特別な存在が・・・『先客』がいた。

彼女の『声』は、他の数多の少女人形らの『声』を、一掃して、払い除けるように清冽な空気と、一方ではエルヴィーラに対する一際強い哀しみ、憎しみを併せ持っていた。

『エルヴィーラ・・・。まさか、この国で、この家で再び会う事になるとは思ってもいなかったわ・・・。貴女は、私から、『最も美しい少女人形』という立ち位置を奪っただけでなく、生まれた時からずっと私が見守っていた、エリカまでも奪っていくつもりなのね・・・』

『この声は・・・ジュリアね』

人形の間の中央に、鎮座しているであろう、自分とは対照的な、黒を基調としたドレスに身を包んだ彼女からの『声』だと、すぐに気付いた。

朱宮家に迎えられた日、エルヴィーラは、予想だにしなかった相手と再会する事になった。

それは、100年以上前の自分が生まれた日、同じ人形工房で、既にこの世に生を受けていた少女人形のジュリアだった。彼女もまた、エルヴィーラの生みの親と同じ職人の手によって作り出された人形であった。

『自分こそが、最も美しい少女人形だ』というジュリアの自負は、エルヴィーラの誕生によって打ち砕かれる事となった。二人を生み出した職人の口から、直に、

「ジュリアの美しさも、エルヴィーラの前には叶わない」

と告げられたあの時、隣に鎮座していたジュリアから向けられた、あの強烈な憎しみの視線をエルヴィーラは、忘れる事はなかった。

自分の誕生によって、ジュリアの誇りを傷つけたあの日から、100年近くが過ぎ、故郷を遠く離れた日本の地にやってきて、エルヴィーラは、もう二度と彼女には会わないで済むだろうと安堵していた。

それが朱宮家でよもや、再会する事になろうとは。エリカの腕に抱かれたエルヴィーラが人形の間に入った瞬間、少女人形達の中央に置かれていたジュリアの、刺し貫くような視線が、エルヴィーラへと向けられた。その、人形の間に一瞬走った異様な雰囲気は、エリカと彼女の両親も感じ取る事が出来たようで、

「な、何?今の?凄く、寒いというか、ゾクッとする感じがした・・・」

と、三人とも顔を見合わせていた。ジュリアと、エルヴィーラの間にある因縁など、エリカも彼女の両親も知る由もなかった。

『この家に、ジュリアが先に来ていたとはまさか思わなかったわ・・・。しかもジュリアも、エリカの事を狙っている・・・。私がこの家に来てから10年が過ぎた今でも』

エリカの、少女人形に対する愛が徐々にエルヴィーラへの偏愛となるにつれて、ジュリアのエルヴィーラに対する憎悪は並ならぬものとなっていった。エルヴィーラが来る前まで、ジュリアがこの家で一番、エリカに大切にされていた少女人形だったのだから、エリカの一番で無くなった彼女が、エルヴィーラに憎しみを燃やすのは、当然ではあった。


『ジュリアに奪われないうちに、人間の姿になって、エリカと結ばれたい・・・。出来るなら、エリカが、完全に『人形の声を聞ける力』を失くしてしまう前に。

かつて、死別したあの子とは、あれ程、お互いに思い合っていて、結ばれたいと願ったのに、結局、その願いは叶わぬままに、あの子は亡くなってしまったから・・・。私はもう、70年前と同じ後悔はしたくない。今度こそ人間の姿になって、愛する主人と結ばれてみせる。その結果、私の魂が無くなってしまったって構わない・・・』

エリカの安らかな寝息を聞き、彼女の寝顔を見つめ続けながら、エルヴィーラの中にそんな決心が芽生え始めていた。

もう、残された時間は長くはない事をエルヴィーラは分かっていた。エリカが、次第に、少女人形の声を‐それが、エルヴィーラの声でも、聞こえなくなってきているのが分かったからだ。

昔のエリカとならば、言葉は発せなくても、不自由なく、心の中で会話が出来ていた。しかし、エリカのこの不思議な感覚も、成長して、彼女が大人に近づくにつれて、薄れていっているらしい。今や、エリカは、他の少女人形の声は全く聞けなくなってしまったし、あれ程思いを通わせていた筈のエルヴィーラでさえ、最近は断片的にしか、思いを伝えられなくなっている。エリカが「少女」である事を完全に終えてしまう前であり、まだかろうじて人形の声を聞ける、今を逃しては、もう、エリカと結ばれ得ないことを、エルヴィーラは知っていた。

だから、エルヴィーラは懸命に、神へ祈った。70年前と同じように。カーテンの隙間から垣間見える、月だけが浮かび、その他に何の存在も感じられぬ、空虚な夜空にも、神はいる筈だと信じて、祈り、祈って、祈った。

人形としての魂は永久に失われてしまっても、人間の姿になれるのならば、構いはしないと、心の中で繰り返して。


懐かしい夢を見ていたようだった。

エリカは夢の中で、幼き日の自分に戻っていた。人形の声を自由に聞く事が出来て、人形と結ばれる事だって可能だと、純真に信じこんでいたあの頃に。

それは、一度、両親に無断で家からエルヴィーラの人形を持ち出して、伊織と、外の公園でままごとをした時の、一場面のようだった。完全な夢の中の話なのか、それとも埋もれていた記憶の断片が、掘り起こされたように出てきたのかは、はっきりしない。

ピクニック用のシートを敷いて、二人で持ち寄った、ままごと用の玩具を並べていく。エルヴィーラの人形をエリカが持ち出した時、伊織は、一見気の強そうな印象を与えるその眉をひそめて、こう言った。

「エリカ、エルヴィーラを連れてきちゃったんだ・・・」

「え?」

その、幼馴染の思いがけぬ反応を見て、エリカは戸惑っていた。

伊織はエルヴィーラの、ブロンドの髪を優しく撫でながら、こんな事を口にした。

「エリカのうちで遊んでる時も、エリカはこの子がいると、いつもこの子とのお喋りに夢中になっちゃうんだもん・・・。今日は、外で遊ぶから、エリカと二人きりだって、思ってたのに・・・」

明らかに、伊織は、この場にエルヴィーラがいる事を快く思っている風ではなかった。伊織の「二人きり」という言葉に、力が籠っているように感じられた。

「伊織ちゃん・・・?もしかして、拗ねてるの?」

伊織は首を横には振るが、その表情を見れば、彼女がご機嫌斜めである事は疑いようもなかった。

『エリカ・・・、今は、私の事はいいから、伊織ちゃんと、しっかり話してあげて』

困って、エルヴィーラに目を向けると、そんな返事がエリカの心の中へと返ってくる。

『伊織ちゃんはね、きっとエリカの事が、好きなんだと思う。それも、お友達としてだけじゃない意味でね』

エルヴィーラはそんな事を続けて、エリカに言っていた気がする。しかし、あの当時のエリカは、まだ、エルヴィーラの言葉の真意を理解出来るような精神年齢には達していなかった。だから、首を傾げる事しか出来なかった。

『友達だけじゃない意味の、好き・・・?』

『そう。エリカにも、分かるようになる時がきっと来るよ。今は、しっかり伊織ちゃんの事、見てあげよう。そうしたら、エリカにも、伊織ちゃんの好きが、分かると思うよ』

確かこんな内容を話していた気がする。エルヴィーラの言葉は、当時のエリカには難解で、何を意味しているのか分からなかったが、兎に角、今は、しっかりと伊織の事を見てあげるのが大切なのだという事は分かった。

「機嫌直してさ、おままごとしようよ、伊織ちゃん。私と伊織ちゃんで、お父さんとお母さんの役をやろうよ。それで、エルヴィーラが、今は私と伊織ちゃんの子供っていう事にしない?伊織ちゃんは、お父さんとお母さん、どっちがやりたい?」

エリカは、伊織にそう持ち掛けてみる。何げなく聞いたつもりであったが、そのエリカの言葉に伊織は、敏感に反応した。伊織の顔色が次第に赤くなっていく。そして、こんな事を口ごもりながら言った。

「ど、どっちも・・・、私もエリカも、どっちも、エルヴィーラのお母さんの役じゃ、駄目かな・・・?」

その言葉を聞いた時、当時のエリカには意味がよく伝わらなかった。伊織と会う前は、ほぼ友達というものを持った経験のないエリカでも、ままごとで家庭の再現をするならば、お父さん役とお母さん役がいるものであって、二人ともお母さん役、というのは聞いた事がない。伊織の意図が分からなかった。

思わぬ提案に、エリカが戸惑っていると、伊織は顔の前で手を振りながら、

「あ、ごめん!今のなし!変な事言っちゃってごめんね・・・。じゃ、じゃあ、やっぱりエリカの方が、女の子らしいから、お母さん役かな。私がお父さんの役するね」

結局、それ以上エリカに深入りさせないように、伊織は誤魔化したが、その時の、「二人ともお母さん役でままごとがしたい」という言葉はずっと、エリカの頭の隅に引っ掛かっていた。木の葉から漏れる陽の光は、斑点のように二人の頭上に散らばって、その光に照らされた伊織の顔色は、まだ赤かった。

『エルヴィーラの言ってた事は、よく分からなかったし、今日の伊織ちゃんも、何か変だったし・・・。お母さんが二人いるおままごとって聞いた事ないけど、次、伊織ちゃんがやりたいって言ったら、その時はやってもいいかな』

そんな事を考えていたが、エリカの記憶では、それ以降、伊織が遊びに来た時に、ままごとでその話を蒸し返される事はなかった。有耶無耶になったままで、気付けば、二人共、ままごとなどしない年になっていたように思う・・・。

‐はっと目を開ければ、もう何度となく見た、自分の部屋の天井だった。目覚まし時計に目を遣れば、アラームが鳴るように設定した時間よりも早くに起きてしまったらしい。やけに生々しい夢だった。ままごとで遊び疲れて眠りに落ち、目が覚めたら、高校生の体に戻っていたような、そんな感覚さえ覚える。

「目覚ましを追い越しちゃったな・・・」

二度寝するにも微妙な時間であった為、エリカはそのまま起きる事にした。かといって、制服に着替えるのもまだ早い。しばらく、身を起こしたまま、ベッドの上でぼんやりと、先程の、伊織と、エルヴィーラも出てきた夢の内容を思い出していた。

「二人共、お母さん役でままごと、か・・・そういえば、昔、そんな事言ってたな、伊織・・・」

あの当時の自分は、伊織が、一風変わったままごとを提案してきた、くらいにしか思っていなかった。その程度で流してしまったのは、伊織と出会った後も、エリカが、基本的には人への関心は薄く、人形しか愛さないという性質が、あの頃は今以上に強かったからだろう。昔のエリカは、小学校低学年の頃など、通知表に「他の子の気持ちも考えられるようになりましょう」などと担任に書かれてしまった事もある程、生身の人間に関心がなかったから。

人形の声が聞こえなくなり、エルヴィーラと話せる時も少なくなっていったからこそ、伊織以外の人とも最低限関わるようになり、エリカにも少しは人間味が出てきたと言えるのかもしれない。

オカルト同好会にいる、高校の同級生の幼馴染が急に、昔の幼い姿で夢に出てきた事への、何とも言えぬ恥ずかしさもあるのだろうが、エリカは、その他にも、ある事に気付いて、顔が熱くなっていった。

「伊織の、昔言ってた・・・いや、夢の話だから、あの時、本当に言ったかは分からないけど・・・おままごとで二人共、お母さん役をやろうよって言う言葉の意味って・・・。あの時の伊織の反応、それにエルヴィーラの意味深な言葉も考えると・・・、もしかして」

とある可能性が頭に浮上してきて、夢の中の伊織のように、今度は、現実世界のエリカが顔を赤くする番だった。慌てて、首を横に振る。

「・・・って、何、本当かどうかも分からない、夢の話で動揺してるの、私!伊織が、そんな、友達だけじゃない意味で、私の事が好きって・・・、今日も学校なのに、これじゃ、伊織に会った時にどうしたらいいか分からないよ・・・」

エリカは、今まで、異性、同性関係なく、生身の人間に対して、愛情が希薄であった。両親と、そして伊織はその貴重な例外というだけで、今も、エリカが心を躍らせ、愛情を注ぐ唯一の対象は、少女人形の筈だった。伊織にも、友達として以上の感情など抱いた事はない。

それが、本当の記憶か、それともただの夢の話かも分からない事で、伊織への気持ちが揺らごうとしている。

「ちょっと、一旦、頭冷やそう・・・」

このままでは、伊織に顔を会わせにくい。一階の台所に降りて水でも飲もう・・・、そう思い、エリカは、ベッドから降りた。そして・・・エルヴィーラの人形がいつも、鎮座している筈の、自分の机に目を向けた。

我が目を疑った。そこにある筈の、エルヴィーラの人形が、ない。しかも、今になって気付いたが、何故か、閉め切っていた筈の窓も開いていて、春の風が吹き込んできている。

「・・・え?エ、エルヴィーラは、何処・・・?」

エルヴィーラの置き場所を変えた覚えなど勿論ないのだが、それでも、部屋の中を、至るところを探した。果ては、ベッドの下まで覗き込んだが、エルヴィーラの姿が何処にも見えない。

「う、嘘でしょ・・・⁉まさか、泥棒に入られた・・・?でも、窓はしっかり鍵かけたし、全く物音に気付かないなんてありえないし・・・。エルヴィーラ、何処に行ったの?」

エリカは、最愛の人形の姿が見えない事に、半ばパニック状態になりながら、エルヴィーラの姿を探し求め、寝間着姿のままで慌ただしく部屋を出て行った。

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