第2話 人形の声

とある街の外れに、朱宮(しゅみや)家の邸宅はあった。

赤煉瓦の外壁に、青々とした蔦が絡みつき、今はその役割を終えている、屋根の上の、暖炉へと繋がる煙突にまで蔦は及んでいた。昭和初期に、ドイツ風の邸宅をイメージして作られた邸宅という事で、少なくとも築80年以上立っている西洋館だった。大戦の戦火や、戦後の街の区画整理に伴う取り壊し等からも免れて、今尚、住居としての役割を果たしていた。

この朱宮邸には、あだ名が付けられていた。その名も、「人形館」と。

朱宮家は夫妻と一人娘の3人家族であったが、夫妻は人形収集家であり、所謂、アンティークの西洋人形に親子揃って、熱を上げている事は近所でも有名な話であった。

いつの間にか、朱宮エリカの家は、近所では「フランス人形で埋め尽くされてる怖い家。絶対呪いの人形とか持ってそう」「入ったら、人形に呪われそう」等という、噂を好き勝手にして、お化け屋敷のように扱う人も一部ながら存在した。他の近所の住民も、少なくとも朱宮エリカとその両親を変人一家のように見なしているのは、その視線から容易に分かった。しかし、そのような近所の目など、エリカには何の関心もなかった。


高校2年生の朱宮エリカは、今日もまた、通う高校のオカルト同好会の扉を叩いた。

「伊織?お疲れ様。今入っても大丈夫かな?」

今まで先客がいた試しはないが、一応、声をかける。幼い頃から何度も聞いた、すっかり耳に馴染んだ声が、「オカルト同好会」の表札が掲げられた扉の向こうから答える。

「その声はエリカか・・・。良いよ、今、暇だし」

それを聞くと、エリカは扉を開けて、同好会の部屋の中に入る。同好会と言っても、実質、今の部員は、部屋の中で、中央に4つ並べた机の上に本やら、ノートパソコンやらを置いたまま、缶コーヒーを飲んでいる、更級伊織(さらしないおり)ただ一人であった。エリカは部員ではない。更級伊織とは幼少時代からの幼馴染で、かつ、唯一の学校での友達と呼べる存在だから、何か用があってもなくても、この部屋が居心地良く、入り浸っているだけだ。

「そろそろ来るだろうと思ってたから、もう自販で一緒に買っておいたよ、エリカの分。温くなってるかもしれないけど」

伊織はそう言いつつ、エリカにも缶コーヒーを一本手渡す。完全に、この幼馴染には、エリカがいつ頃部室にやってくるか、行動パターンまで覚えられていた。

それを伊織から受け取りながら、エリカは伊織の隣の席に腰掛ける。

オカルト同好会とはいえ、何も魔法陣やら六芒星が壁や床に描かれていたり、或いは呪術的なグッズが置かれている訳でもない。机と椅子が4つに、壁際に4段の小さな本棚が置かれているだけの、地味な部室だ。本棚に詰め込まれている本達の背表紙を目で追えば、神話や都市伝説、民俗学的伝承などに関する古い本が多く、それらが唯一、オカルト同好会らしさを、申し訳程度に醸し出している。それらの本も埃を被って、もう何年も読まれていないのは明らかだった。

「エリカの要望に応えるのに、うちには置いてない本を図書館から借り集めてきて、色々と大変だよ・・・。人形は、ここのオカルト同好会の先輩達も専門外だったみたいだから」

そう言って、伊織は眼鏡を外すと、ふうと一息をついて、また缶コーヒーに口を付ける。ノートパソコンの画面に目を遣れば、Word上に伊織が資料をまとめてくれたものが目に入る。そこに書かれた文章には、「人形」「人形婚の風習」「花嫁人形」「冥婚」「死後婚」・・・そうした単語が幾つも見受けられた。

「ありがとう、伊織・・・。こんなにちゃんと調べてくれたんだ」

エリカは、その資料のまとめを見て、満足して、缶コーヒーを開け、自分も口に運ぶ。それは甘いカフェオレで、エリカが日頃から良く買って飲んでいる物だった。伊織とは、味の好みに至るまで、熟年夫婦か何かのように、お互いの事を知り尽くしている間柄だった。

「でも、これ、自分で作っておいて言うのもなんだけど、私は、エリカがどういう人間か知ってるからいいけど、これ、他の人が見たらドン引き物だよ・・・。最愛の人形と本気で『結婚』したい、結ばれたいとかさ・・・」

伊織は、画面をスクロールして、下にページを送りながら、続きをエリカに見せてくれる。戦争で亡くなった旧日本兵に、遺族が哀悼の意を込めて奉納した「花嫁人形」の話など、「人形婚」に関連していそうな事例や、地域の伝承が幾つも例としてまとめられていた。

「私は、本気だよ。だって、エルヴィーラの魂がそう望んでるんだから。あの子の声がそう言ってるんだから、私と結ばれたいって」

エリカの眼差しは、あくまで真剣な物だった。彼女は、自分の家の人形の間の、中央に鎮座している、あの純白の衣とブロンドの髪の、世にも美しい人形の事を思い浮かべながらこう言った。

「エルヴィーラ、ね・・・。小さい頃に、私が、初めてエリカがエルヴィーラと、人形と結婚したいって言い出した時は、流石に驚いたよ。エリカが、人形しか愛せない子なんだっていうのを、まだあの時は知らなかったから」

伊織は、幼い頃から朱宮家を何度も訪れた事があるから、彼女の家に飾られている、数多のアンティークの西洋人形達もよく見ていた。その中で一際輝きを放つ、エルヴィーラの人形の事は、伊織の印象にも強烈に焼き付けられていた。西洋人形に、エリカや彼女の両親のように詳しくはない伊織でも、エルヴィーラの出来映えは群を抜いている事は一目で分かった。

「エリカは、今でも、エルヴィーラもだけど、人形の声が聞けるの?」

伊織はそう尋ねてくる。エリカはこくりと頷く。

「うん・・・、でも、小さい頃はもっと感受性?が鋭かったのか、色んな子の心の声が聞けてたんだけど、最近はそれもだいぶ、聞こえなくなってしまって・・・ちょっと寂しい気もするね。でも、本当に強い思いを抱いていそうな子の声なら、今でもはっきりと聞き取れるよ。つまり、エルヴィーラの思いもそれだけ、強いんだと思う」

エリカは、家にある西洋人形達の事を、人形ではなく、子と呼ぶ。まるで、生きている人間のように。

「人形の心が分かる、心の声が聞こえるんだって言っても、信じてくれたのは伊織だけだったよね、幼稚園の頃・・・。あの頃の私、本当に人形だけが友達だったし、実際、心で会話出来ていたから、それでもいいとさえ思ってた。伊織がいなかったら、今もずっと一人だったかも」

エリカは、自分の話を、幼稚園の先生も、他の園児も誰一人、信じてくれなかったあの当時の事を、ふっと思い出す。信じてくれたのは、ただ一人、伊織だけだった。

伊織は少し照れくさそうに笑うと、わざとらしくノートパソコンの画面の文章に集中するように、視線をエリカから逸らした。

「いや、何となくだけど、あの頃のエリカの言ってた事、私には、構ってほしくて嘘を言ってるようには見えなくってさ・・・。あの頃、エリカ、家からエルヴィーラの人形を、おままごとの為に黙って、持ち出して怒られた事とかもあったじゃん?」

エリカ以上に西洋人形の美に心酔している、人形収集家の両親から説教を食らった頃の事を思い出し、エリカは苦笑する。

「はは・・・、あの時はお父さん、お母さん二人から説教されたな、苦い想い出・・・。よく覚えてたね、伊織も」

「エリカに会うまでは、私も人形なんて唯のおもちゃで、心なんてある訳ないって思ってたよ。でも、エリカがエルヴィーラと話してるのを見た時、ああ、人形にも心があるんだって分かったよ。だって、人形の表情が変わる筈ないのに、エリカが『エルヴィーラ、楽しい?』って聞く時には楽しそうに、逆に『哀しい?』って聞く時は反対に哀しんでるように、本当に見えたから」

エリカは、伊織の話に耳を傾けながら、幼い日に、唯一の親友であった伊織と一緒にしたままごとの時間を思い出した。確か、あの時はエルヴィーラが二人の娘の役で、自分と伊織がお父さんとお母さんの役だった。どちらがどちらの役だったかはもう思い出せないが。

あの頃の自分は、本当にエルヴィーラと心で会話が出来ていた。彼女の青い瞳は一見、不変なようでありながら、その瞳の青く小さな海に秘められた感情を、エリカは聞き取り、理解する事が出来た。

昔に比べれば、こうして、一年、また一年と大人に年が近づくにつれて、エルヴィーラの声さえはっきりと聞こえなくなっている気がする。エルヴィーラ以外の、他の人形達の声を聞く事はほぼ無くなった。

それでも、エルヴィーラの心が、「エリカと結ばれたい」と願っている事だけは、はっきりと分かった。決して妄想などではなく、エルヴィーラの目を見れば、その思いだけはエリカの中に聞こえてくる。

エリカはポンと、伊織のブレザーの肩に手を置いて、労うように言った。

「人形をしか愛せないなんて、変な友達でごめんね。おまけに、『人形と結ばれたいから、人形婚に関する伝承について、オカルト同好会の力で調べてほしい』なんて、多分他の人が聞いたら、絶対頭おかしいと思われそうなお願いまで聞いてもらっちゃって」

黒髪の前下がりボブが似合う、この小柄な友人は、ふっと苦笑のような声を漏らして、答えた。

「エリカが変人なのは今に始まった事じゃないでしょ。幼稚園からの付き合いなんだし、今更このくらいのお願い聞いても驚かないよ・・・。まぁ、でも、高校生なっても、エルヴィーラと結婚するんだ!っていうあの宣言をまだ忘れてなかったのは、流石にちょっと驚いたけどね・・・」

「あの日は辿り着けなかったけど、今度は必ず、あの街外れの教会まで行って、エルヴィーラとの結婚式を挙げるんだ」

果たし得ていない約束がエリカと、あの人形-エルヴィーラの間にはある。伊織と二人で、こっそりエルヴィーラの人形を持ち出して、街の外れにある、打ち捨てられた、古いゴシック様式の廃教会を目指して歩いた、遠い日の事をエリカは、昨日の事のように思い出せる。

あの日の事を話に出すと、伊織の眉間が、何か苦い感情に、少しだけ皺を寄せたように見えた。しかし、それも一瞬の事。伊織は、早々に表情を元に戻すと、パソコンの画面に視線を戻す。

「で・・・、エリカが知りたがっていた、人形婚の話だけれど、まぁ、日本も、色々とそれらしい風習はあるみたいだね。戦争で、独身のまま亡くなった兵隊さんに捧げられた花嫁人形のお話とか。後は、結構怖い伝承もあったから、調べてて背筋がヒヤッとした・・・。エリカの魂が・・・、エルヴィーラに連れていかれちゃうんじゃないかって・・・」

「エルヴィーラは、そんな怖い話に出てくるような人形じゃないよ。あの子は、私と純粋に結ばれたいって思ってるし、私もそうなりたいって思ってる・・・」

エリカは、そう断言する。エルヴィーラのあの澄み渡る青の瞳に、所謂、世間でいうところの「呪いの人形」のような、邪な物は全く感じられなかった。

そして、エリカは伊織に尋ねる。

「それと、伊織・・・もう一つ、頼んでいた事なんだけど・・・」

「ああ・・・勿論、忘れてないよ。まぁ、エリカのもう一つのお願いの方は、もっとびっくりするような話だったけどね」

「人形を・・・エルヴィーラを、人間にする方法は、見つかったの?」

伊織は、前下がりボブの髪の端を揺らして、無言で画面を下へとスクロールしていく。それを見ながら、エリカは生唾をごくりと飲み込む。

「も、もしかして、何か見つかったの?そういうお祈りとか、魔法とか?」

「色々調べてはみたけれど・・・、やっぱりいくら探しても、人形を人間にするような儀式も、魔術も、そんなのは見つからなかったよ、私の調べられた範囲では、ね」

伊織は肩を竦めた。エリカは

「そ、そうだよね・・・、いくらなんでも、そんな御伽話みたいな魔法とかある訳ないよね・・・はは、無茶な事、お願いしちゃってごめんね、伊織・・・」

と、口では言いながらも、少なからず落ち込んでいた。心の何処かで、世界の何処かに、人形を、生きた人間に変えられる魔法も存在するのではという一縷の望みも潰えた。

「いや・・・流石に無理あるでしょ・・・エルヴィーラを、人形を魔法で人間の女性の姿にして、エルヴィーラと結婚式を挙げたいだなんて、そんな、絵本の中の世界じゃあるまいし。エリカが人形の声を、昔は自由に聞けていたように、世界の中には科学じゃ説明出来ない特別な力とか、魔法みたいな現象があるのは私も認める。けど、人形を生きた人間にする方法なんて、いくらなんでも・・・。こればかりは私もどうにもしてあげられない」

比較的、本気で落ち込んでいるエリカに、少々呆れたように伊織はそう言った。

「でも・・・折角結婚式を挙げるのなら、その前に、人間になったエルヴィーラと、二人で恋人らしい事とか、色々したかったんだもの・・・」

「エリカがファンタジー趣味なのは分かったけど、無理な物は無理なの。それこそ、奇跡でも起きない限りね」

エリカの、「人形の心が分かる能力」は理解してくれた伊織でも、流石にこの願いは打つ手なしといった様子だった。色々と本やネットを調べて疲れたのか、伊織は背筋を伸ばした。

エリカはそれを見ると、伊織の背後に回って、その華奢な肩を揉んであげた。

「伊織、すごい肩こってる・・・。本当に一生懸命調べてくれたんだね、色々と無理難題を言ったのに・・・ありがとうね。お礼になんかおごる?」

「エリカと私の仲なんだから、いいよ、そんなの。私も、オカルト同好会らしい活動全然してなかったから、今回は久々にそれらしい活動になったし」

エリカに肩の筋肉を揉みほぐしてもらって、伊織の表情も少し緩んでいく。

「ふふっ・・・こうしてると、何かさ、老夫婦?みたいな感じしない?」

エリカは何気なく、思いついた事を口に出した。

すると・・・腕越しに、一瞬、伊織の肩がビクリと跳ねあがったのが分かった。

「え、どうしたの、伊織?もしかして私、力入れすぎて痛かった?」

「い、いや、そうじゃないけど・・・」

伊織は何やら口ごもり、それ以上話そうとはしなかった。


隣に座っていた、「私は人形しか愛せないみたい」「人形の心が分かる」という、他の人が聞いたら正気を疑われかねないような言葉を連発する少女は、

「調べてもらったうえに、缶コーヒーまで貰っちゃってごめん!してもらってばっかりじゃ悪いから、やっぱり今度、何かおごるね!」

と言い残して、オカルトクラブ同好会の部屋を去って行った。

それを見届けると、伊織は急に、全身の力が抜け切ったようにだらしのない姿勢で椅子にもたれ掛かった。

正直、先程は隣のエリカが、伊織のノートパソコンの画面を覗き込む度に、自分のすぐ鼻先で揺れる、ロングで、少し波打っている毛先の薄っすら良い香りに胸が高鳴り、平静を装うのも大変だった。シースルーバングの前髪の下、嬉しそうに笑ったり、少し残念そうな表情になったりする、エリカの表情の移り変わりにも、伊織の鼓動は反応して、早くなった。高校に入り、髪型も意識するようになってから、エリカは見違える程に綺麗になった。

「人形の心は分かるのに、幼馴染の心はどうして分からないかな・・・エリカは」

天井を見上げながら伊織は、そんな、恨み言じみた呟きを発した。

エリカの目は、高校生になった今もあの人形に・・・エルヴィーラに夢中だ。確か、エリカの家に来たのは4、5歳の頃だったそうだから、あの人形はもう10年以上、朱宮家にいる事になる。そして、エリカは、今日も言っていたように

「エルヴィーラが人間になれたら良かったのに・・・」

と、ファンタジーじみた事を小学校時代も、中学時代も言っていた。彼女は、単に人形婚をしたいだけではなく、最愛の人形であるエルヴィーラに、人間の姿になってもらって結ばれたいという突拍子もないような願いをいつからか抱くようになっていた。

「奇跡でも起きなきゃ叶う筈がない夢なのに、エリカはいつまで追いかけるんだろうな・・・私達ももう高校生なのに・・・」

エリカは、今も、街はずれのあの古い教会・・・打ち捨てられた廃教会で、人間になったエルヴィーラと結ばれる夢を見ているのだろうか。

そんな夢を抱き続けているエリカに、自分の気持ちは伝えられない。

「私は・・・朱宮エリカの事が好き・・・」

その好きが、親友としての意味ではない事は、伊織ももうとっくに気付いている。そして、その対象の相手が、「私は人形しか愛せない」と言ってしまうような変人であったから、伊織の悩みは深かった。

「私は・・・あの家に、朱宮家に並んでる、エルヴィーラ以外の、沢山のお人形さん達と同じだ・・・。どんなに、エリカの事を大事に思ってても、エリカは私を見てはくれない。エリカの目は、あの人形に釘付けだから・・・」

伊織は、何度もお邪魔した事のある、ドイツ風の赤煉瓦の西洋館である、朱宮家を思い出していた。エリカと彼女の両親が「人形の間」と呼んでいた一間は、壮観だった。アンティークの骨とう品店や、西洋人形専門店をエリカの両親が全国行脚して買い集めた、夥しい数の、ドレスやワンピースの西洋人形の少女達が整列していた。

その中で、確かにエルヴィーラは抜きん出た存在であった。しかしある時から、エリカは殆どエルヴィーラの話ばかりをするようになって、膝に乗せて話をするのもエルヴィーラの人形ばかりになった。彼女の母親は

「横浜のお店で、このお人形を見つけた時にね、エリカが、引き寄せられるようにこの人形の前へ行って、『よろしくね、エルヴィーラ』って言ったのよ。運命的な巡り合いだったのね、きっと」

と、エリカの気に入り方を見て、そう話していた。

しかし、エリカは、人形の声が聞ける筈なのに、他の人形達の声は耳に届かないのだろうかと、伊織はある時から思うようになった。エリカがエルヴィーラに夢中になればなる程、他の少女人形達は、その表情に影を帯びていくように、伊織には見えたから。

エリカの母親に勧められて、お気に入りの人形があれば選んでと言われた時に、伊織の目を引いた、一体の少女人形があった。

それは、エルヴィーラの色合いを丁度反転させたように、黒を基調にしたボンネットで、艶やかな黒髪を飾り、白のフリルでスカートの端を飾った黒のドレスを纏う、少女人形だった。彼女と目が合った時、伊織は、その、黒の瞳に吸い込まれそうな心地がして、ずっと彼女を眺めていた。

「ああ、伊織ちゃんは、ジュリアが好きなのね。エルヴィーラが来る前は、ジュリアが一番好きって言ってたわ、エリカ」

そう言った、エリカの母親の言葉が忘れられない。

「え・・・。そうだったんですか」

「ええ。この子もまた素晴らしい人形よ」

そう言って、ジュリアを手渡された時、伊織は、不思議な感触を覚えた。ジュリアに内包された、哀しみや嫉妬、そうした感情が、伊織の中に伝わってくるような心地がしたのだ。伊織には、エリカのように、人形の声も心も分かる能力はないのに。

何度も朱宮家に足を運び、何故か、ジュリアの事が忘れられずに、彼女に触れるようになった。それは高校生になった今でも変わらず、ジュリアにだけは、必ず触れてから帰る事が続いていた。成長するにつれて、ジュリアから感じられる、哀しみの熱量は、どんどん増していくように思われた。

「今はもう分かる・・・。私は、ジュリアに自分を重ねていたんだ。エルヴィーラに夢中になって、目を向けてもらえなくなったあの人形に。エリカの幼馴染で親友でも、恋人としてはきっと見てもらえない私の事を」

女同士だからとか、そうした問題以前に、エリカは少女人形に半ば取り憑かれたようであり、人形しか愛せないという事が、最大で、絶望的な障壁となっていた。

「私が、エルヴィーラ以上に美しい人形にでもなれたら、エリカは私の事を見てくれるのかな・・・」

あれこれ考えた末に、思わず口を突いて出た言葉に、伊織は自ら戦慄する。

『い、いや、いや!何考えてんだ、私!人形に嫉妬してどうする!てか、人形になれたらエリカに見てもらえるとか、重すぎるでしょ!』

そう、自分自身にツッコミを入れた。しかし、実際に伊織は、エルヴィーラに、人形の少女相手に嫉妬していた。

「ああ、もう終わり、終わり!エリカにも調べた事、見てもらったし、早く帰ろう!」

そう言って、伊織は資料の本やら、ノートパソコンを鞄に仕舞い込む。人形への嫉妬でもやもやして時間を潰すなど勿体ない。これ以上、思考が負の連鎖に陥る前に、伊織は、用の済んだ同好会の部室を後にした。


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