少女人形

わだつみ

第1話 プロローグ 約束

人形職人の男は、眼前の机の上に存在している、世に類を見ない程の可憐で、尊き美の権化というべきものを目にして、感動に打ち震えていた。

彼の魂を込めた、最高傑作の少女の人形が、木製の机の上、人形用の椅子に腰かけて座っている。これを自分が生み出したのだという喜びに、職人の男は、この初夏の欧州の某国の、街の外へ飛び出し、石畳の上を跳ねながら、声を上げたいような衝動に駆られた。

工房の、少し高い位置にある窓から眩い日差しが差し込み、室内の埃をちらちらと照らしていた。そして、壁際に目を遣れば、そこには、今までにこの職人の男が、文字通り魂を削る思いで、作ってきた、幾つもの、麗しい少女の人形たちが、煌びやかなドレスやワンピースを着て、そのブロンドの髪や赤い髪、黒髪、色とりどりの毛髪に艶やかな光沢を孕んでいた。これから、商品として売りに出す前に、自分の作品を惜しむ気持ちで、工房に、自分の作品の人形をしばらく飾っておく習慣が男にはあった。

壁際に整列して並んでいるどの少女の人形も、完成の度に、喜びに包まれたが、この、目の前に鎮座している少女の人形だけは別格であった。

白亜のボンネットが、ブロンドの髪を飾り、ドレスに、肩を覆うボレロも純白で揃えている。青い目は、窓から垣間見える、この街の上に広がっている夏の青空よりも濃い青で、薄っすら、朱の差した頬の色合いは、生きている人間と見分けるのが一瞬難しい程だった。

「エルヴィーラ・・・、お前は、私が生み出してきた中で、最高傑作の人形だ。きっと、この先も、お前を超える人形をもう作る事は、出来ないだろう・・・」

その、自分が作り出した、完璧な美少女の姿を顕現していたエルヴィーラの金色の滝のような、流れるブロンドの髪に指先で優しく触れながら、男はそう呟いた。

ふと、男は、ある事を思いつく。この人形が、果たして、本当に、生涯の最高傑作であるかどうかを確かめる為に。

一旦、木の机の前を離れた男は、程なくして、工房の中に整列していた少女人形達の中から、一体の人形を選び、それをそっと、机まで運んできた。そして、エルヴィーラと呼ばれた人形の隣に、もう一つ、人形用の小さな椅子を置き、その上に鎮座させた。

清涼感の強い、エルヴィーラのまとう衣装と異なり、並べられた、もう一体の少女人形は、髪は南欧の人間を思わせる艶やかな黒髪で、瞳の色も黒であった。そして、その衣装もボンネット、ボレロ、ドレス、いずれも、黒を中心に占められ、フリルのみが白のレース生地であった。白と黒、一見すると、対極の色の衣装の、二体の少女人形が職人の男の前に並んだ。

黒の衣装の人形に向かい、男は語りかける。

「ジュリア・・・。今までは、お前が、私の最高傑作だと思っていたが、やはり、こうして見ても、ジュリアの美しさをもってしても、エルヴィーラを超える事は出来ない。今まではジュリアが私の中では、最も美しい人形だったが、今日からはそれがエルヴィーラに変わった」

エルヴィーラの少し前に完成していた、ジュリアと呼ばれたこの人形もまた、完成した時は、男は「人生の中で最高傑作だ」と小躍りした。しかし、このエルヴィーラはジュリアをも超えてしまったようだ。

これで胸を張って、エルヴィーラこそが、自分の最高傑作の少女人形だと言える。

しかし、エルヴィーラの出来栄えに満足していたのもつかの間、男の胸中には、ある、一抹の不安、或いは凶兆ともいうべき予感が湧き始めてもいた。

男は、エルヴィーラの青の瞳を真っ直ぐ見つめ、まるで、生きている人間に話しかけるように、こう告げた。

「お前は、あまりにも美しいが故に、きっと、他の人形の少女達の嫉妬の対象になる事だろう。きっと、隣のジュリアも、お前の姿を見て、もう既に、嫉妬の気持ちが芽生え始めている事に違いない。いつか、お前の美しさに嫉妬を超え、憎しみを抱いた、他の人形の少女から、お前は危害を加えられ、災厄に巻き込まれてしまうかもしれない。そして、その災厄は、お前の愛する主人や、その周りの人達まで巻き込んでしまうかもしれない。そうなっても、必ずお前は、主人やその人達の事を、他の人形の災厄から守るんだよ。それが、私の、エルヴィーラに託す願いだ」

そう言って職人は、念を送るように、何度もエルヴィーラの繊細な金の毛髪を撫でた。

男は、そうして、二つの美しい少女人形を眺めていたが、一瞬・・・ジュリアの瞳が、エルヴィーラの方を見つめた気がした。

「ジュリア・・・、やはり嫉妬しているんだね、エルヴィーラの事を・・・。これ以上、一緒にしておくべきではなさそうだ」

職人の男は、人形の声が聞こえるように、そう呟くと、ジュリアを椅子の上から抱き上げて、元の、陳列棚のようになっている、工房の棚の一角に戻した。

エルヴィーラだけでなく、もうじき、ここに並んでいる、ジュリアを含む「彼女達」も、いずれ、人形を専門に扱う商店の人間が来たら、そこへと商品として売り渡されていく。

「エルヴィーラもジュリアも、他の子達も、これから、汽車に乗って、船に積まれて、国境を越え、海を越えて、色んな国の女の子達の元に旅立っていく事だろう・・・。大切な友達として。もうすぐ、彼女らも皆見納めだ」

そうして、必ず来る別れを、惜しむように、工房の中心の机に向かい、佇んでいた男の耳に、聞き慣れた、馬の蹄が石畳を蹴りつける音が聞こえてくる。それと共に車輪が軋みながら回転している音も。その音が近づいてくれば、お得意先の、人形専門店の商人の乗った馬車が、この人形工房へと近づいてきたのが分かった。

職人の男は、作業のし過ぎで痛む腰を無理に真っ直ぐ伸ばしながら、椅子から腰を上げた。そして、商人を迎える為に、扉へと向かっていった。


欧州の国々を転々とした後、また、人形専門店に引き取られ、次の買い手を待つ身となったエルヴィーラは、思わぬ出会いをする事となった。

「これは、信じられない程、美しい人形だ・・・。日本にいる、西洋人形の大好きなあの子に買っていってやったら、さぞかし喜ぶだろう」

欧州の街角の、アンティークの人形を多く取り扱っている店の中、物珍し気な目で見つめられながら、パナマ帽にスーツ姿の東洋人の男は、棚に陳列されたエルヴィーラの姿を見て、くぎ付けとなった。彼は、欧州に赴任中の、日本人の商社員だった。

日本人の外交官に買い取られたエルヴィーラは、今までにない程の、長い船旅へと出かける事となった。彼女の瞬きしない青い瞳は、船のデッキの上で時折、男の膝の上に乗せられながら、生まれ故郷が自分の生み出された工房のある国が、西の海の遥か向こうへと遠ざかっていくのを、南海の洋上に見ていた。

「これから、ずっと東の方にある日本ていう国に行くんだよ。君の故郷は遠くなるけれど、でも寂しく思う事はない。私の家に、君の最高の友達になってくれそうな、女の子がいるんだ」

エルヴィーラは男の膝の上で、まだ見ぬ異国の、彼の家で待つという少女の事を思った。

そして、船は横浜港へと着いた。そこから、汽車に乗せられ、行き着いた先は、とある街の一角に立つ、大きな屋敷だった。

そこの屋敷の、更に片隅にある、障子の閉じられた部屋へと、男に大切に抱えられながら、エルヴィーラは運ばれた。

男は障子越しに、娘の名前を呼んだ。すると、やがて、障子がするすると開き、中から、和服姿の少女が顔をのぞかせた。

彼女は、エルヴィーラの姿を見るなり、歓声を上げた。

「なんて可愛らしい、青い目のお人形さん!」

「そうだろう。赴任先の欧州の国の、人形専門店で買ったんだ。名前も、ちゃんと付いているらしい。少し難しい名前だが、エルヴィーラと言うんだそうだ」

男は、畳の上に座りながら、エルヴィーラを、和服姿の娘の方へ手渡した。彼女は、エルヴィーラを渡されるや否や、その人形をぎゅっと抱きしめる。

「ああ、夢のよう・・・。憧れていた、青い目に金髪の、こんなに美しいお人形さんに出会えるなんて。これから仲良くしましょうね、エルヴィーラ」

そうして、少女はエルヴィーラを大切に抱いたまま、畳の上に敷かれた布団の方へ移動した。彼女は、商社員の娘であったが、非常に病弱な体質であり、長らくこうして、自宅の一室で病に臥せていた。

彼女にとって、少女人形のエルヴィーラは、かけがえのない、唯一の友達となってくれた。病弱な為に彼女は、女学校に行く事もままならず、幸いにして、家が裕福な商社員の家庭であったが故に、町医者の往診を受けて、何とか生きているような、そんな状態だった。療養の為に家にこもり切りで、親友など出来る筈もなかった。

少し調子が良く、座る事なら出来るような容態の時は、少女は膝の上にエルヴィーラを乗せて、2階の彼女の病床であり、自室の窓から、羨望の眼差しで、屋敷の前の道を談笑して歩いていく、セーラー服の女学生らの姿を見送った。制服を着て、学友らと共に学校生活を過ごす。そのような日々は自分には来ない事は分かっていた。

段々、見ているうちに辛くなって目を背け、膝の上の、エルヴィーラの青い瞳を見つめる。

『寂しいの?』

人形であるエルヴィーラの口が開く事はないのに、エルヴィーラは、心で少女にそう語りかけているように思われた。

少女は、その、心の声を信じた。人形と会話するように、彼女は答える。

「いえ、寂しくなんてないわ、私にはエルヴィーラがいるんだもの。朝、目が覚めた時から、夜、眠りにつくまでずっと、貴女を見つめていられる。こんな事、学校のお友達とでは出来ないでしょう?」

こうした具合で、少女はいつしか、両親や女中の目に付かない時は、エルヴィーラに、まるで会話しているかのように語りかけるのが普通となっていった。

病弱故に、部屋に一人こもりがちだった彼女にとって、少女人形と言えども、エルヴィーラは、生まれて初めての「友達」だったから。

時には、夜、彼女はエルヴィーラを布団の、自分の隣に寝かせて、子供にするように、絵本を読み聞かせる事もあった。人形であるエルヴィーラの青い目は、勿論閉じられる事はないし、表情も、そのアルカイックスマイルから変わる事などはない。それでも彼女の表情は、見ようによっては、少女の読み聞かせる声にしっかり耳を傾けているように見えた。

部屋に降りる宵闇の帳の中で、少女の、絵本を読み聞かせる声だけが微かに響いている。絵本の内容自体は、幸福な結末の西洋の童話であったが、少女の、長い患いによる、心の陰鬱を反映したかのような、影のある声の為に、それは酷く物悲しい物語のように聞かれた。

エルヴィーラに絵本を読み終える頃、少女は、布団の白の上に雫が落ちて、しみになっているのに気付いた。その雫は自分の目から零れ落ちた涙だと、少女が気付くのに時間はかからなかった。

『貴女はどうして泣いているの?哀しいの?』

少女は、今や、耳ではなく心で、はっきりとエルヴィーラの声を聞くようになった。こんな話を両親にしたら、精神病患者の保養院に入れられるかもしれぬが、間違いなく、少女には、エルヴィーラの心の声が聞こえるようになっていた。

「ごめんね、エルヴィーラ・・・、絵本の結末があまりに出来過ぎた幸せだったから、読んでいて、辛くなってしまって・・・。私は、この絵本の結末みたいに、思い人と、幸福な接吻をして、結ばれるような未来は、きっと来ないんだろうなって、思ってしまって・・・。体が弱くて、患ってばかりの私を愛してくれる人なんて、いる筈がないから・・・」

その絵本の最後は、教会を背に、王子と主人公の少女が祝福されながら、幸せな結婚式を挙げている場面で終わっていた。その場面を見た時、少女は、自分に訪れる事のない未来を、突き付けられた心地がしたのだ。

また、エルヴィーラの心の声が聞こえる。

『それなら・・・私が、貴女の、花嫁になるわ。大切な貴女の願いを、私は叶えたい』

「お人形とは言っても、私とエルヴィーラは女同士よ。この日本で、結婚する事なんて・・・」

『いえ、絶対、私は貴女と結ばれてみせるわ。私は、今は人形の体しかないけれど、貴女と結ばれる為に、人間になれますようにって、今日から毎日、神様にお祈りするわ』

エルヴィーラが人間になる・・・。そうなれば、どれ程素晴らしい事だろうと、少女は夢想した。エルヴィーラが人間の体を手にしたら、彼女の温かさを傍に感じながら眠れるようになる。今は、硬い材質の、人形の一部分でしかない、エルヴィーラの艶のある赤い唇も、人間のそれと同じように瑞々しく柔らかみを帯びて、口づけを出来るようになる。そう考えると、訪れる事のない悲哀に沈みそうになっていた少女の心にも、一筋の光明が差し込むようだった。

「それは、素敵な名案ね!エルヴィーラの祈りを、神様がどうか叶えてくれますように!エルヴィーラが、人間になれますように!」

少女は、胸元にエルヴィーラを抱き寄せて、そう呟いた。

春、陽気の良く、少し出かけられる日には、両親や女中に連れられて、少女はエルヴィーラの人形を抱いて、近所の桜並木へ花見に出かけた。

「エルヴィーラ、御覧なさい・・・。これが、日本で一番美しくて尊い花、桜っていうの。貴女が生まれた国では、きっと見た事のない景色でしょう?」

少女は、赤子を抱き上げるような姿勢になりながら、エルヴィーラの人形の目に、頭上を埋めている、淡い薄桃色の花の雲が、よく見えるようにした。時折、その雲海の一部が千切れたように、ひらひらと、花弁が少女とエルヴィーラの上にも振ってくる。桜の花弁が、エルヴィーラの金髪にもひとひら付いた。

その花弁を、少女がとってあげていると、少女の一家の傍を通り過ぎた、他の、花見に訪れたらしい客から、ひそひそと、陰口のような声が聞こえた。

「花見に、青い目の西洋人形・・・?鼻もちならない、西洋かぶれの売国一家だこと・・・」

声に振り返ると、少女の抱えるエルヴィーラの人形に、険しい眼差しを向ける、婦人達がいた。皆、割烹着に、白の襷を斜めに掛け、そこには墨で「国防婦人会」と書かれていた。家の外の世界の情勢を知らなかった少女は、何故「国防婦人会」なる婦人達が、そのように険しい眼差しで自分のエルヴィーラの人形を睨んでいるのか、見当もつかなかった。しかし、国防婦人会に気付いた両親は、途端に顔色を変えると、少女に「今日はもう帰ろう」と促した。少女は不本意ではあったが、確かに、エルヴィーラの人形に目くじらを立ててきた、あの割烹着の婦人らの団体からは、「お前達のような人間が人前に姿を見せるな」と強烈な圧力をかけていた。

‐社会の空気を知らないままに成長していた少女は、日本が英米との大東亜戦争に突入した昭和16年の年末以降、どんどん、西洋の華美な物に現を抜かす人間に「売国奴」「非国民」のレッテルが貼られていき、青い目の西洋人形にまで、人々は西洋人憎悪の感情を向けているのだという話を、苦渋の表情の両親から伝えられた。既に、西洋の文物に親しむこの家にもしばしば、「売国奴」などという、根も葉もない中傷の紙がしばしば投函されていた事も。

大正期に米国から友好の証として贈られた、セルロイド製の米国の人形も、迫害の対象となっているのだという事まで聞かされたところで、少女の顔色は一変した。

「嫌よ・・・、エルヴィーラを手放すなんて私、絶対、嫌・・・!あのご婦人達に何が分かるの?この子が一体、戦争で何をしたっていうの?何にも悪い事してないのに・・・!」

少女は、社会が、西洋人形にまで憎悪の目を向けている事を知ってから、更に患いを重くして、自身の部屋に、エルヴィーラの人形と共に閉じこもるようになった。

あの、目つきの怖い国防婦人会やら、愛国婦人会やらといった大人達が部屋に乗り込んできて、エルヴィーラを自分から引き離そうとするのではないかと恐ろしくなっては、布団を頭まで被って、エルヴィーラの人形と共に中へ包まった。

「エルヴィーラ・・・大丈夫だから。ここにいれば、絶対、貴女は壊されるような事はないから。約束したでしょう・・・?エルヴィーラがいつか人間になって、私の花嫁になってくれるって・・・。それまで、貴女を絶対、私の手元から離させはしないから」

時折、階下に何かしらの団体がやってきては、父や母と押し問答をしている声が、2階の少女の病床まで響いてきては、怖くて身を竦めた。

「青い目の西洋人形を隠し持っているだろう!早く引き渡せ!」

「青い目の人形はうちにはないって、何度もお話しているじゃありませんか。お願いだから、もう帰ってください・・・」

そんなやり取りが幾度か会ったように思う。

エルヴィーラの存在を隠しながら、少女は過ごしていたが、昭和19年になると、彼女の病状は更に悪化して、前のように、時折は外に出て、季節の花を愛でるような、体調の余裕は最早なくなった。頻繁に肺病を患うようになっては、繰り返す発熱に、咳と息苦しさで、少女は布団の上で藻掻いた。

『ごめんなさい・・・私が、人間の体があれば、貴女の汗を拭いて、手を握ってあげる事も出来たのに、この人形の体では、ただ苦しむ貴女を、見ている事しか出来なくて・・・』

枕元のエルヴィーラの、心の声が、熱に朦朧とした、少女の意識の中に響いてくる。少女は潤んだ瞳で、エルヴィーラを見つめ、痩せて、手の甲に骨が浮き出てきた手をふらふらと、彼女のブロンドの髪に、そして、繊細な手触りの、髪を飾る純白のボンネットや、肩を覆うボレロに次々と触れながら、掠れた声で呟く。

「大丈夫よ、最近、少し調子が悪くって・・・。ちゃんと、お医者様の言う事を聞いて、栄養を付けていれば、きっと体も良くなって、前みたいに少しは外にも出られるようになるわ。エルヴィーラは、そうして常に私の隣にいてくれるだけでいいの」

しかし、戦況の悪化は、この家庭内にも忍び寄りつつあり、食料事情も日増しに悪くなっていき、十分に栄養を摂るどころか、病人の少女も満足な栄養をとれなくなっていった。両親は、「もっと精のつく物を食べさせてやりたいんだが、今ではもうこれが精いっぱいなんだ、許してくれ・・・」と泣きながら、芋に、酒類の分からない穀物が浮いているような雑炊を渡した。

物資の不足で、食べ物も、薬も満足に届かない状況が続いた中で、少女の病気による衰弱は益々進行していき、昭和19年の年末、雪が降り始める頃になると、最早、少女の回復は絶望的という診断が、往診の医者から下された。

父と母の、すすり泣く声が、遠くに聞こえてくる。部屋の窓からは、暗闇の中に、白銀の粒が煌めいているのが、布団の上からでも見え、雪が降り出したのが少女には分かった。

「ごめんなさい・・・エルヴィーラ・・・、貴女が人間の姿になって、結婚するんだっていう夢は、もう、叶いそうに、ないわ・・・」

肺病で、もう、言葉を発するだけでも苦しい少女は、息切れしながら、布団の隣に寝かせているエルヴィーラに話しかけた。

エルヴィーラの青い目から、人形が流す筈のない涙が、その頬を零れ落ちていくのを、少女は、間違いなく見た。それは決して、高熱が見せた幻覚等ではなかった。

『嫌・・・。私を花嫁にするって、約束したじゃない。私は毎日、人間にしてくださいって神様に祈り続けているのよ、貴女と結ばれる日が来るのを信じて。お願いだから、まだ死なないでよ!』

そう、エルヴィーラの心の声は悲痛な声音で、叫んでいた。少女は、エルヴィーラの硬い頬に零れた、涙を指先で拭いながら、首を横に振った。

「お医者様も・・・言っていたもの・・・。もう、もって後数日の命だって。エルヴィーラと結ばれ得なかったのは哀しいけれど、私との最後の約束だって思って、聞いてほしいの。それは、絶対に、私が死んだ後も引き摺って哀しんでいては駄目。エルヴィーラは本当に素晴らしいお人形さんだから、きっと、これからも、沢山の女の子の家に行く事になるでしょう。その、新しいご主人の女の子達と、必ず幸せになるの。私の事は、時々、思い出してくれる程度で良いから・・・」

『忘れないわ・・・、何十年経とうとも、忘れる筈がないじゃない、貴女の事を』

エルヴィーラの目からは、涙が尚も流れている。

「いつか・・・エルヴィーラが、また、人間の姿になって結ばれたいって思えるくらいの、素敵な女の子の元に、引き取ってもらえる事を、祈ってるわ・・・」

そうして、言葉の通り、数日後に少女は病没した。

少女の父と母は、式日が終わったのちに、少女の部屋にポツリと残された、エルヴィーラ人形の姿を見た。少女が手厚く、彼女を扱っていた事が分かる。その金髪も、純白の衣装も色褪せや乱れはなかった。

そして、その頬を涙が濡らしている様を見た。人によっては、恐るべき怪異だとして腰を抜かしたかもしれない現象であるが、かつて、この人形を、欧州の某国で購入した父親は、その涙をハンケチで拭ってやりながら、呟いた。

「エルヴィーラ・・・、君も、娘の死を哀しんでくれているんだね・・・。君は、娘の最高の友人だったよ。今まで、本当にありがとう」

娘の死の失意に沈む間もなく、年が明けた昭和20年になると、この夫妻が暮らしている家のある地域にも、米軍の空襲がしばしば訪れ、街の建物が破壊され、焼かれるようになっていった。実家のある、地方へと疎開する事になったが、大切な形見の、エルヴィーラの人形は、荷物の中に隠して持っていき、戦火から守り抜いた。

終戦を迎え、やがて、社会に、抑圧されてきた西洋の文物に、自由に触れる事も許される雰囲気がようやく浸透し始めた頃、夫妻は、このエルヴィーラの人形を売りに出す事にした。夫妻もまた、少女から「この素晴らしいエルヴィーラには、新しい女の子の家に行って、そこでまた幸せになってほしい」という遺言を託されていた為、売りに出す事をためらわなかった。

少女の父親は、人形専門店にエルヴィーラを引き渡す時に、実の娘との惜別の時間のように

「どうか・・・次の女の子の家でも、そして、また次の女の子の家でも、何十年先でも、幸せになってくれ、エルヴィーラ。君の幸せを心から願っている・・・」

と、娘も愛していた、金色の滝のように流れる、美しいブロンドの髪を撫でて、目に涙を浮かべて、そう語りかけた。


エルヴィーラは、そして、日本の地でもまた、幾人かの少女の家に招かれ、また、オークションなどに出されては、アンティークの人形専門店のショーウィンドウに置かれる、という事を繰り返した。

そして、あの少女との果たし得ぬ約束を抱いたまま、60年以上の歳月が過ぎたある日、彼女は、初めて、日本の土を踏んだ場所でもある、横浜のアンティーク人形専門店に陳列されていた。新しい買い手を求めて。

この日、エルヴィーラは、とある一家と運命的な出会いを果たす事になるのであった。

人形専門店の中に、小さな女の子を連れた夫妻が入ってきた。陳列棚に並ぶ、西洋人形達を興味深げに眺めて、人形用の帽子やら装飾品やらも手に取っては、夫妻は熱心に何やら話し込んでいる。周囲の人から見れば、それは大した知識量の会話であり、夫妻が共に西洋人形の熱心な収集家である事は一目瞭然であった。

その夫婦に連れられていた、年の頃は4、5歳くらいの女の子が、陳列棚の上に乗せられている、エルヴィーラへと気が付いた。今まで、彼女は他の人形にも色々と目移りしていたが、エルヴィーラと目が合った瞬間・・・幼い彼女の目は、一瞬、大きく見開かれ、そして、エルヴィーラから視線が離れなくなった。

エルヴィーラもまた、この幼い女の子の顔を見た時・・・、その子の事で頭が満たされた。幼い容姿の中にも、あの、若くして夭折した、儚くも美しかった少女の顔、60年以上経っても忘れた事のないあの顔の面影を、彼女は持っていたからだ。

そんな彼女が、エルヴィーラに魅入られたように、視線を釘付けにされて、どんどんとこちらに近づいてくる。

彼女はエルヴィーラの目と鼻の先まで来ると、大きな声でこう言った。

「パパ、ママ!来て!すっごく綺麗なお人形さんがいる!」

その声に反応した夫妻もまた、エルヴィーラの前にやってきた。

「これは・・・凄い完成度の人形ね。100年以上経ってる本物のアンティーク物も、いくつも見てきたけれど、これ程の物は見た事がないわ」

「流石だな、エリカ。もうこの年で、こんなに人形を見分ける審美眼があるとは。僕も、これ程の出来栄えは見た事がないよ」

エリカと呼ばれたその幼い少女は、難しい語彙を連発しながら、エルヴィーラについての論評を始めた両親をポカンとした様子で見ていたが、すぐにエルヴィーラに視線を戻す。

『エリカ・・・。それが、この子の名前・・・。まだ幼いけど、この子の中には、何処か60年以上前の、あの人の面影がある・・・』

エリカはしばらく、エルヴィーラの全身を、隈なく見た後、

「よろしくね、エルヴィーラ」

とまだ舌足らずな口調でそう言って、微笑んだ。その表情を見た時、エルヴィーラは、彼女は、この60年以上の間、出会ってきたどの主人の少女達とも違う、何かを感じた。

エリカの言葉が、両親にとっては、買い取るかどうかの決め手となったらしい。この人形収集家らしい両親は「すみません、朱宮ですが・・・」と、常連らしく店員を呼び止めると、エルヴィーラの買い取りの手続きを早速始めていた。


これが、エルヴィーラ人形と、朱宮エリカという少女の最初の出会いであった。

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