第25話 式日
気付けば、ひどく懐かしい、木の匂いのする場所にいた。
ジュリアは、薄っすらと目を開けた。エリカと、伊織と別れてから、どれ程の時間が過ぎたのかも分からない。手足を動かそうとしても、指一本動かない事で、自分の体が人間の姿から、元の少女人形の姿へと戻った事を知る。
ぷかぷかと水に浮かぶような心地で、現世で起きている事を、遠くの水面に映っている映像を見るように眺めていた。伊織が、現世に残されたジュリアの人形を引き取ってくれた時は、本当に胸が熱くなった。
「おや、ジュリア・・・。君に会うとは、いつぶりだろうか」
その、不意に耳に飛び込んできた懐かしい声に、ジュリアは心の目を見開く。
そこには、自分を作り上げた・・・あの人形職人の男が立っていた。
自分がいる場所が何処なのか、初めて悟った。ここは、自分の生まれた欧州の某国の、あの人形工房の中だ。
しかし、この、木の机の香りも、目の前に立つ、鳥打帽にシャツ、吊りズボン姿の、あの人形職人の男も、記憶に残るままであるが、いずれも、ふわふわとした光に包まれていた。自分が、タイムスリップをした訳ではなく、ここが死後の世界の、人形の魂が行き着く場所であり、生前の彼の人形工房を模しているのだとジュリアは理解した。
「こちらこそ、貴方に会うのはいつぶりかもう思い出せないわね・・・。色々とあって、こうして魂を一度失って、貴方と同じ世界に来てしまったわ」
人形の体に戻ったジュリアは、口は動かないので、心の中でそう語る。すると、こちらの世界の彼には、ジュリアの心の声が聞こえるらしい。彼は言葉を返してくる。
「君は、人形工房を・・・私の元を離れていく前と比べて、雰囲気が変わったね」
「どういう事かしら?」
「かつて・・・100年前の君は、私が作ったもう一人の人形、エルヴィーラに、嫉妬を燃やしているような、そんな目をしていたよ。でも、今は、まるで憑き物が落ちたように、澄んだ目になっている。こちらの世界に来る前に、向こうで何か、気持ちの変化があったのかな」
「そうね・・・」
言葉を続けようとしたところで、エリカ、伊織と過ごした日々が、エルヴィーラに憎しみを燃やして人間の姿になり、伊織の気持ちに付け入り、エリカも、伊織も傷つけた事件が・・・、頭を過ぎっていった。そして、伊織の命を救う為に、自分の魂を投げ出した事を。
「現世で私は、過ちを犯した。その償いで、とある人の命を救う為に、自分の魂を捨てた。現世にも、人形の私はいるけど、それはあくまで、私の魂の入れ物だった人形が残ってるだけ。だから、別れ際に私は心に決めたの。次は、綺麗な心を持った魂の人形になって、その人達の元に帰ってくるって。生まれ変わるって。だから、別れだけど、永遠の別れじゃないし、終わりなんかじゃないわ」
人形職人は、寂しそうに、その碧眼の上の眉をハの字にしてみせる。
「そうしたら、また、君はいつか、魂が浄化されたら、その子達のところに帰るのかな?」
「そういう事ね。今、現世にいる方の、人形の私を引き取ってくれた女の子がいるの。彼女の元で、今度は、エルヴィーラへの嫉妬に縛られない、穏やかな日々を過ごして、また彼女の元に魂は帰るわ」
伊織が家にジュリアの人形を引き取ってくれた事は、ジュリアも知っている。
話を聞いた人形職人は「そうか」と、一言呟くと
「それならば、君の、魂の修繕をしてあげないといけないな。いつか、また君の魂が、その女の子の元へと帰っていくまでに。腕の見せ所だ」
と、シャツの裾をまくる。何もかもが懐かしい仕草だ。
「ええ・・・、また、お願いするわ。今度は、飛び切りの、美しい魂に仕立て上げて頂戴な。もう、誰も傷つけない、悲しませない、そんな優しい魂を持った人形に」
人形職人の肩越しに、段に積み上げられた、何体もの少女人形らが見える。
彼女らも、ジュリアと同じように、現世での魂を失って、こちらの世界に・・・この職人の元に帰ってきて、修繕の時を待っているのだろうか。魂の修繕を。それとも、もう修繕を終えて、また、現世の自分の体に戻っていくのかもしれない。
「待っていてね・・・伊織。それにエリカ、エルヴィーラも。いつか必ず、また貴女達のところへ・・・」
ジュリアは、そっと心の中でそう囁いた。
日を追うごとに、強さを増していく5月の日差しが、廃教会を取り囲む若葉達に照り返されて眩しい。
エリカは、廃教会の、礼拝堂に続く階段の最上段に立つ。そして、緊張した面持ちで、蒼空を貫くようにそびえ立つ、この廃教会の三本の尖塔を見上げた。
「遂に、やってきたのね・・・。昔は辿り着けなかった、約束の場所に」
その実感を噛み締める。あの幼い頃は果たせなかった約束を、エルヴィーラと遂に果たす事が出来る。
「伊織・・・準備はいい?」
段の下を見上げると、伊織はこう返してきた。
「誓約を見届けるのが、聖書どころか十字架も持ってない、エセ神父さんでも良ければ」
そう言う伊織も、それにエリカも、二人共、いつもの学校の制服姿だ。学生の身分で、礼服など持っていないので、二人に用意できる正装らしい物といったら、これしかない。
「そうしたら、エルヴィーラ・・・。こちらに、上がってきていいわよ」
エリカは、礼拝堂から少し離れた、青草の上に立っていた、エルヴィーラの方に声をかけた。
「おお、私達はちょっと、いつも通り過ぎるのに対して、エルヴィーラは美しいね・・・。本当、女神様みたいだ」
流石に本格的なウェディングドレスを用意する事は出来なかった。それでも、朱宮家の洋服箪笥を代わりになりそうな物を漁って、一番それらしい、白のレースのイブニングドレスを見つけ出す事が出来た。それはエリカの母親が昔着ていたもので、見つけた時には大層に恥ずかしがられたが・・・。
エルヴィーラはその見事な金髪を、アップスタイルに結い上げていた。後ろ髪はギブソンタックに纏められており、その項の白さもまた、五月晴れの陽光の下で眩いばかりであった。
「・・・エルヴィーラ、そうしたら始めよう。私達の、永遠の誓いを」
エリカは左手を差し出す。エルヴィーラは、感極まった様子で、階段に向かって歩き出した。
伊織は、その光景を、横に立って見届けている。今日の誓の、その証人となる為に。
そして、エリカから託された、とある写真を挟んだ写真立てを手に持っていた。
それは、生前の美代とエルヴィーラが写る、80年前の写真だった。
あの日、美代の墓所から、幸乃の家に帰ってきた時に、幸乃と娘は、人間の姿になったエルヴィーラに大層、驚きつつも、二人共信じてくれた。そして、エルヴィーラに向かい、幸乃は「これを受け取って頂戴」と言って、一枚の写真を手渡してくれた。
あの、白いツツジの花咲く庭で、美代がエルヴィーラを抱いている、80年前の白黒の写真だった。
「美代ととった、あの写真・・・!残しておいてくれたのね」
エルヴィーラは、その写真を見るや、みるみるうちに、その瞳にまた、薄く、透明な膜が張り詰めていく。そして、エルヴィーラの涙は写真の上に零れ落ち、彼女は大切に写真を胸に抱きしめた。
「この写真、差し上げるわ。貴女達に。どうか、朱宮さんのおうちに飾ってさしあげて。その方が美代さんも喜ぶ筈だから。だって、大好きなエルヴィーラの傍にいられるのだから」
そう言って、美代は、この写真をエリカ達に託してくれたのだ。
あの墓所で自分達3人が見た物-、美代の霊の姿は決して幻などではない。その確信が伊織にはあった。彼女の霊が言った、「この身は滅んでも、絆は終わりなんかじゃない」「エルヴィーラが、幸せになるところを見せてよ」という言葉は、今も耳に鮮明に残っている。
幸乃の家を伊織達が出る間際、夕闇の帳が降り始めた庭で、ツツジの白い花が、急に風で揺れた。甘い、蜜を思わせる香りが吹き抜けた。ツツジの花の揺れる様を見ながら、幸乃が、目を細めて、こう言った。
「そういえば、昔、エルヴィーラの人形と一緒に、私が、伯父の残したこの家で、ツツジの花を見た時も、突然、風も全くない穏やかな日だったのに、花が風で揺れて、甘い香りが運ばれてきたのよ。会った事のない人の筈だったのに、『今、美代さんが来た』ってあの時も思った。美代さんの魂が来たのかもしれないわね」
伊織もエリカも、二人共その言葉に深く頷いた。今、吹き抜けた風の、ツツジの蜜の甘い香りは、墓所で美代の霊に会ったあの時に吹いた風の香りと、全く同じだったから。
伊織が持ってきていた物は、美代の写真だけではなかった。
「貴女も、今日の誓いの証人だからね、ジュリア。一緒に、見届けよう」
伊織は、ジュリアの人形を連れてきていた。今は、彼女の中に、人形の魂は宿っていない。しかし、どれ程の月日がかかろうとも、ジュリアに魂が帰ってくる日を伊織は待つつもりだった。
「美代さん、どうか、見守っていてくださいね。今日も、そしてこれからも、私達の事を。」
心の中で美代に向かってエリカは話しかける。
そうして、階段を、一段、また一段とエルヴィーラが上ってくる。やがて彼女は、エリカの立つ段の一段下で立ち止まると、恭しく右手を差し出した。その手を優しく掴むと、エリカは、右手にずっと携えていた5月の花達を集めた花束を、エルヴィーラに差し出す。エルヴィーラはその花束を受け取る。
伊織は、階段を上っていくと、コホンと咳払いを一つしたうえで、エリカと、エルヴィーラ、両方の顔を見た後、幾分緊張した声で言う。
「朱宮エリカ。エルヴィーラ。貴女達二人は、今日、ここに、永遠の絆で結ばれました。私、更級伊織が、その証人となります。健やかなる時も病める時も、この先ずっと、一緒にいて、離れないと誓いますか?」
「誓います」
エリカとエルヴィーラの声が重なる。
伊織は、気を張った表情のままで、『こんな感じで良かったかな?』と顔をエリカに向け、心配げに見てくる。
お互いの手を取り合って、真剣な表情でエルヴィーラと向かい合っていたエリカだったが、その伊織の心配げな表情に少し頬が緩む。
「な、何だよ、折角、人が大真面目に、二人がちゃんと幸せになるように祈って、これから、エリカとエルヴィーラがずっと結ばれる誓いの証人をやってるのに・・・」
伊織は照れ隠しのようにそう言う。エリカは、伊織の方に目を向けるとこう言った。
「幸せになるのは私とエルヴィーラだけじゃないでしょう、伊織?」
そう言って、エリカは伊織の手を掴んだ。「へっ⁉」と、伊織の口から、素っ頓狂な声が出て、目が点になる。
「証人になる為だけに、伊織に一緒に来てなんて、言う訳ないでしょう?伊織も・・・、ずっと私の傍にいて、幸せになるのよ」
そう言って、エリカは、伊織の手を引いて、階段の方に向かっていく。
「私も、一緒にバージンロードを歩く・・・て事?」
いつもは、エリカの方が常識の抜けたところがあって、伊織に指摘されて、驚く場面が多かったのに、今日ばかりは、伊織が逆に、完全に面食らった様子になっている。
だが、伊織も、驚きから覚めると、エリカにリードされてばかりではいられないとばかりに、その左腕を、エリカの右腕の下にしっかりと組み入れてきた。
「わ、私が、リードするから!わ、私達が、ほ、本当に式を挙げる日だって、こうするんだから、その練習よ」
先程までとは、明らかに違う理由で上ずっている伊織の声や、赤に染まっていく顔色。そして、左隣にはエルヴィーラが、右隣には伊織がいて、この3人で手を繋いで、教会の階段を降りていくという構図が、何だかおかしくて、エリカは笑った。
「3人でこうしてバージンロードを歩くなんて変な感じね・・・。でも、そうね、私と伊織の式の時にはどっちがリードして歩くかは決めないとね」
左隣にいるエルヴィーラが、エリカに言った。
「伊織とエリカの式の時には、私はもう人形の姿に戻っているでしょうけど・・・、必ず、二人の式に私も連れてきてくださいね。それから、あの子・・・ジュリアも」
「勿論よ。エルヴィーラも、ジュリアも、私と伊織のどちらにとっても、大切な家族なんだから。周りが、どんなに奇妙な目で見ようと、二人の人形は連れていくわ」
「私の幸せは、エリカといる事なのは勿論だけど、エリカが伊織と、幸せになるのを見る事だって、幸せなんだから。二人が幸せになる場面を、絶対に見せてね」
その、エルヴィーラの言葉に、美代の残した言葉と、同じものを感じる。きっと、エルヴィーラも、美代の墓標の前で、彼女の霊から与えられた言葉で、成長したのだろうと、エリカは思った。
エリカに手を繋がれながら降りていく途中、エルヴィーラは、昨日聞いたのと同じ声を聞いた。この魂が朽ちぬ限り、忘れる事はないだろう、あの声を。
『エルヴィーラ・・・どうか、エリカさん、伊織さんと幸せになってね』
笑って話しているエリカと伊織には、美代の声は聞こえていない様子だった。しかし、エルヴィーラは、間違いなく聞いた。何処にも彼女の姿は見えないが、美代の魂も、ここに来てくれているのだと悟った。
『美代・・・、また、必ず、あの場所に会いにいくからね。私の、初恋の人・・・』
エルヴィーラも、心の中でそう答えた。
「そしたら行ってきます。エルヴィーラ、美代さん」
エリカは、人形の姿に戻ったエルヴィーラと、そして、その横の写真立てに、大切にしまった、美代の写真に挨拶を告げる。
あの式の翌朝、エリカは、隣に寝ていた筈のエルヴィーラの姿がまた見えなくなっている事に気付いたが、机の上に、見慣れたボレロとドレスの姿の人形となって、座っているのに気づき、安堵した。人間の姿で、思い残す事の無くなった彼女は、本当にまた、少女人形の姿へと戻っていった。
しかし、人形に戻っても、彼女の魂は失われてはいなかった。
『行ってらっしゃい、エリカ』
そう答える、エルヴィーラの声を、部屋から出て行く時に、確かに聞いたからだ。
家の扉を開ける。
門の前には、愛する人の姿が立っている。
「おはよう、エリカ!」
そう言って、伊織は手を振ってきて、エリカも手を振り返す。もう、こうして伊織が朝、門の前で鞄を持って、登校の時は待っていてくれるのも毎朝の風景の一部になった。それでも、伊織の姿を見れば、嬉しくなって、いつも手を振り返し、彼女の元へ駆けていく。そして、ジュリアの話なども聞きながら、一緒に今日も登校するのだ。
エルヴィーラとジュリア。二人の少女人形に出会い、彼女らの気持ちを知った。そして、幼馴染の気持ちの暗い部分にも触れて、痛みも乗り越えた、エリカの春は遠くなり、白いツツジの花弁も土へと帰っていった。再び咲く春を待ちながら。
エリカと伊織が手を繋ぎ、学校へと歩んでいく道は、日に日に日差しは強くなり、既に眩い夏の兆しが訪れ始めていた。
(了)
少女人形 わだつみ @scarletlily1125
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