第12話 決裂

見慣れた、家族の団らんの場だった筈のリビングには、まだ回収しきれない硝子の破片が散乱して、朝日にその断面を晒して光っていた。無惨に破壊されたリビングの窓硝子には、応急処置として青いビニールシートをかけられていた。

朝起きてから、あの後の事を両親に聞いてみたが、リビングの窓硝子の割れ方は警察も見た事のない異様な物であり、石など何かが投げ込まれた形跡もない事。

また、門の前には、防犯カメラも設置していたが、リビングの窓硝子が破壊された時刻-つまりは、エリカとエルヴィーラが、朱宮家の門の前に立つ人影を見た時刻-は、録画された映像に突如として白と黒の砂嵐が吹き荒れ、何が起きていたのか全く見られない状態となっていた事。その2点が分かっただけであった。

「大丈夫、ちゃんとお巡りさんが今捜査してくれてるから、エリカは怖がる事はない。うちに何の目的があってこんな事をするのか、全く心当たりがないが、すぐに犯人を捕まえてくれるよ。ジュリアの人形が消えてしまった事は、確かにショックだが・・・、昨日のあの出来事と関係がある筈はない。安心して学校に行くように」

朝、出勤の前に父はそう言って、エリカを何とか安心させようとはしてくれたが、エリカの直感は、これは普通の人間の犯行などではない事を知らせていた。

『違う・・・これは、ただの人間の嫌がらせや脅迫じゃない・・・。昨日、窓が壊される前に、うちの門の前に立っていたあの人影は、エルヴィーラも、邪悪な空気を感じるって言っていた。ジュリアの気配がしたって・・・。でも、あれがジュリアだったなら、同じ人形のエルヴィーラが全く意思を読み取れなかったのは何故なの?』

いくら考えても、昨日の人影の正体の検討がつかない。

エリカはリビングの惨状を見ないようにしながら横を通り過ぎ、玄関に向かう。

玄関までエルヴィーラが見送りに来てくれた。

「エルヴィーラ・・・私が学校行ってる間、お母さんと、この家をよろしくね・・・」

パジャマから着替え、白のブラウスと藍色のスカートを清楚に着こなしているエルヴィーラは、エリカの言葉に頷いた。

「昨日の事が霊障だとしても、恨みを持った人形が霊障を起こすにも、霊力を消耗するわ。ジュリアの仕業ならば、あれだけの物を破壊したなら、きっと今はだいぶ霊力を消耗している筈から、しばらくは動けないし、霊障も起こせない筈・・・。だけど、油断は出来ない状態だから、この家と、それからエリカの周りの気配にも注意を払っておくわ。何かエリカの身にあったら、すぐに駆け付けるから」

「うん、お願い、エルヴィーラ・・・」

台所の方から、エルヴィーラの名前を呼ぶ、エリカの母の声がする。それに応えて、エルヴィーラは、スリッパの音を鳴らしつつ、廊下の向こうへと去って行く。エリカの母は、エルヴィーラが人間に転生してから、まるで娘が一人増えたかのように、彼女の事を扱っている。

‐今は、エルヴィーラの力を信じて頼るしか、エリカにも、両親にも方法がない。

「しばらくはジュリアも霊障を起こせない筈」・・・その彼女の言葉を信じて、扉を開けて外に踏み出す。空は、五月を先取りしたかのように晴れ渡って、庭の花壇の、母が育てている草花達を爽やかに、色彩豊かに照らしていた。今のエリカの胸の中とは対照的な、のどかで変わらない光景が広がっていた。

ただ・・・昨日の人影が立っていた門を開いて出て行く時、エリカは、このように心地よく晴れた暖かな春の日の朝というのに、背中に氷塊を押し付けられたように、背筋を悪寒が走り抜けるのを感じた。昨晩の邪気の残り香を、はっきりと感じたのだ。

その邪悪な空気は、人形の間でジュリアを抱き上げた時に、自分の体を駆け抜けた物と全く同じだとエリカは確信した。

『ユルサナイ・・・』という、あの時のジュリアの呪詛の声を再び聴いた心地がして、エリカはそれを振り払うように首を振ると、いそいそと門の前を後にした。

『今日は、学校に行ったら、伊織にもちゃんと謝って、伊織から本音で話を聞かないと・・・!』


伊織は、朝起きてから、教室に辿り着くまでの間、ずっと、全身に謎の重怠さを感じていた。いつも寝起きが悪い訳ではないのに、今日は危うく遅刻しそうな程に、体が重くて、ベッドから出られなかった。

『何だろう・・・夜更かしした訳でもないのに、体が怠いな・・・』

そんな事を思いながら自分の席について、背伸びをする。鞄から取り出して、手鏡を除くと顔色が悪く、鏡の中の自分の顔によく目を凝らすと、目の下にはくまが出来ていた。

「げっ・・・、くま出来てるじゃん・・・、ちゃんと寝た筈なのになんで・・・?」

昨日、エリカの家を訪れた後から、伊織の身にはよく分からない事続きだ。どうにも気分が落ち着かない。

『エリカの家では金縛りにあうし、挙句に帰り道では、ジュリアの声?を名乗るなんかが語りかけてくるし・・・私、頭おかしくなってないよね、本当に?』

そんな危惧さえ頭に浮かんでくる程だ。

昨日の夕方、ジュリアを名乗る声に『手を組んで、エルヴィーラを壊して、エリカを取り戻そう』と誘いを持ち掛けられた。事情を知らないエリカ以外に、こんな事を話したら、ほぼ確実に誰もが伊織の事を、精神を病んだと思う事だろう。しかし、伊織には、昨日のあの声が、幻覚などではなく、本当にジュリアの声だと何故かすんなり信じられた。

『あの子は・・・私がエルヴィーラを壊そうとした事を知っていた・・・。エリカの傍に居続ける為に、私が墓まで持ってくつもりだったあの秘密を』

机の上に置いた手を握りしめる。

『ジュリアは私に、自分の魂の一部を取り憑かせたみたいな事言ってたけど・・・仮にそうだとしても、あの子に協力なんて出来ない。エリカから、エルヴィーラを奪うなんて事は・・・。それに今日は、エルヴィーラに昨日当たってしまった事、エリカに謝らないとと思って、学校に来たんだから・・・』

そう思っていた矢先に、エリカが、教室の中に入って来るのが見えた。昨日までは何げない、伊織にとっては日常風景だった筈のそれが、今ではこの体を硬直させる。

何があったのか分からないが、エリカの表情は酷く冴えなかった。彼女が、自分の一つ後ろの席に・・・、声をかけようと思えば互いにすぐ声の届く距離の席に近づいて来る。進級してクラス分けした時の五十音順の席順のままで、席替えをしなかった担任の事を伊織は恨めしく思った。これでは、心の準備をする余裕さえない。

ガタリと席を引く音がして、エリカが軽やかに椅子に腰を下ろす音が聞こえた。振り返る勇気がないまま、伊織はスマホを取り出し、適当にSNSの画面を開く。そして、スマホに集中していた為に、エリカが来た事に気付かなかった振りをした。姑息な真似だと自分でも思う。

・・・その時、伊織の背中にツンツンと何かが触れる感触がした。サッと振り返ると、エリカが俯き気味になりながら、畳んだメモ用紙を手に持って、伊織の方に向けていた。伊織は、その紙をひったくるように受け取ると、開く。

『教室では話しにくい事だから、昼休みになったら、私と一緒に教室を出て、オカルト同好会の部室で話そう。エルヴィーラの事、ジュリアの事・・・』

エリカの方が先手を打ってくるとは思わず、伊織は紙を広げたままで固まった。

再び振り返り、エリカがどのような表情をしているのか、確認する度胸は、今の伊織には到底なかった。


いつもはあれだけ長く感じる午前の授業の時間も、今日は時計の針の回転が速まったのかと思う程に、流れるように過ぎ去ってしまった。伊織は、昼休みを告げるチャイムの音を今日ほど早く聞いた日はないように思った。

『来てほしくない場面に限って、なんでこうやって足早にやってくるんだろう・・・』

そんな事を心の中で呟き、伊織は重い腰を上げる。後ろの席に目を遣れば、エリカの姿はもう消えていた。自分が鍵を職員室から借りてきて、開けないことには部室には入れないのに、気が早いなと思いつつ、昼食時でざわつく教室を後にする。弁当を鞄に入れたままだったが、この昼休みは、どうせ口にする気になどなれないだろう。

職員室で鍵を借りて、伊織は部室に赴く。昼休みの時間、人のいない部室の並ぶ階は静まりかえり、足音が、廊下の果てまでも響いた。オカルト同好会部室の扉の前で、立ち尽くしていたエリカが、その足音ではっとしたように、伊織の方を振り向いた。

彼女の手には、カフェオレの缶が二つ握られていた。

同好会の部室に入って、二人並んで、机に腰掛けた。流石に真正面で向き合う形になるのは気が引けたから。エリカが、カフェオレの缶を渡す。

「はい、これ。いつも伊織が飲んでるやつ。というか、缶コーヒーこれしか飲まないでしょ」

長い付き合いで、伊織の好みなら、エリカは何でも知っている。缶コーヒーなら、何処のメーカーの何という商品ばかり飲む事など。今日も例に漏れず、彼女が伊織に買ってきてくれたのはいつも愛飲しているメーカーのカフェオレだ。

伊織は、礼を言って受け取り、缶を開けてそれを一口飲む。エリカはいつも、少女人形の話にさえ触れなければ、伊織に居心地の良い空間を与えてくれる。

そう、少女人形の事に触れなければ・・・。今日も、このまま雑談するだけで別れられたら、どんなに楽だろうか。しかし今日は、伊織はしなければならない、本当はしたくない、少女人形の話を。

「・・・実はさ、私も今日、エリカとはちゃんと謝らなきゃって思ってたとこだったんだよね。昨日の事で。だから、声かけてくれて、丁度良かったよ」

伊織がそう言うと、エリカは「えっ・・・」と小さく口を開けて、驚く。

「本当はエルヴィーラにも謝らないといけないんだけど、学校に連れてきてもらう訳にもいかないから・・・。ごめん、私、昨日はすっごい嫌な奴だったよね、エリカの前で、エルヴィーラの事、あんな悪く言ってしまって、エリカも嫌な気持ちになったと思う・・・。でも、現実に、あの子が人間に生まれ変わったのがきっかけで、昨日なんて、エリカにも人形の霊障が出てしまって、危険な目に遭ったのを見たら、どうしても言わずにいられなかった・・・。あの子が・・・エルヴィーラが現れなければ、こんな事態にエリカの家は陥らなかったのにって思うと」

謝罪の言葉を述べつつも、伊織の手は、スカートの生地を掴んで、硬く握られていた。本当はまだ、そもそもの災厄のきっかけであるエルヴィーラが、のうのうとあのエリカの家に今もいる状況を許せてはいない。しかし、エリカにも嫌な思いをさせたままではいたくないから・・・。

「エリカの方からも話、あったんだね」

「うん、昨日の伊織の怒り方が、やっぱり気になったから・・・何か、私が知らないうちに伊織を傷つけてしまったのなら、謝らないとって思って・・・。私の事、心配してくれてたんだね。でも、私は大丈夫だから。絶対、エルヴィーラが守るって言ってくれたから。昨日の夜の時も・・・」

エリカは、伊織の心配を取り除きたくて言っている事は、勿論分かった。しかしその言葉は裏を返せば、普通の人間に過ぎない伊織には、エリカを守るのに何も役に立てないと言われているようにも聞こえて、伊織は唇を噛む。

・・・と、伊織は、エリカの先程の言葉の最後を思い出す。昨日の夜の時も?

「え、待って、昨日の夜って何・・・?あの後も、また、何かあったの?エリカの家で」

伊織の問いを聞くと、エリカは、表情を強張らせた。その顔を一目見ただけで、伊織は胸騒ぎを感じた。事態が更に良からぬ方向へ進んでいる事を悟った。

エリカから、昨日起きた怪事件の一部始終-ジュリア人形が突如姿を消した事、更にその夜、朱宮家の門の前に謎の人影が現れ、エルヴィーラはそれを「ジュリアの気配を感じる」と話していた事、そしてその人影を目撃した直後に、家のリビングの窓硝子が無惨に破片と化した事-を洗いざらい、聞かせてくれた。

「え・・・何、それ・・・」

全てを聞き終えた後、伊織はかろうじて、そう言葉を絞り出す事しか出来なかった。人形の間でジュリア人形に二人が接触した時の金縛りとは、比較にならない程の危険が、エリカの身に忍び寄ってきている事を伊織は知った。粉みじんに割られたのがもし、エリカの部屋の窓だったら・・・と考えただけでも、全身から血の気が引いていく。

「ジュリアの人形も、エルヴィーラがそうだったように、姿を消したって事・・・?しかも、ジュリアが姿を消した後、謎の人影が現れて、窓硝子が割られて、それもどうやって割ったのかの手口が不明だなんて、絶対に普通じゃない。ジュリアの呪いだよ、きっと・・・」

オカルト同好会として、人形にまつわる呪いや怪異譚も幾つも読んできた伊織の頭の中で危険信号が鳴り響く。不吉な予感が胸の中を埋め尽くしていく。

ジュリアの呪い、という言葉を伊織から聞いて、エリカの表情も青ざめていった。

「私・・・やっぱり怒らせてしまったんだ・・・ジュリアの事を。昨日、エルヴィーラも、そう言っていた・・・。ジュリアは、一番でないと気が済まない子だから、エルヴィーラがうちに来てから、私がジュリアよりもエルヴィーラばかりを見るようになったから、誇り高いジュリアは怒ったんだろうって・・・」

エリカの口からエルヴィーラという名前が出てくる度に、胸にズキリと痛みを覚える自分がいるのを、伊織ははっきり自覚していた。そして、その度に懸命に自分を宥める。

『ああ、駄目だ、また、昨日と同じ失敗を繰り返そうとして・・・、エルヴィーラに当たり散らしても仕方ないのに・・・あの子が悪い訳じゃないっていうのは、分かってるのに・・・』

いくら、そう宥めても、心の奥底に無理やり沈めてきた、直視したくない自分が・・・、『エリカには、私だけを見ていてほしい』と身勝手にも願う自分が囁く声は治まらない。

『どうして、エリカはさっきから、口を開けばエルヴィーラ、エルヴィーラって、あの人形の女の子の話ばかりするの・・・?エリカが、エルヴィーラばかりを見るせいで、苦しんでいたのは、ジュリアだけじゃない。私だって同じなのに・・・』

伊織は、少女人形を本気で恋敵のように見ている、愚かしい自分を滑稽だと笑い飛ばそうともしてみたが、出来なかった。伊織の、エルヴィーラに対するこの嫉妬は誤魔化しようのない本音だったからだ。

よく考えれば、先程エリカが思わず口を滑らせて、それに伊織が突っ込まなければ、昨日の夜の事件もエリカは、伊織に話すような気配はなかった。エリカと自分の間柄ならば、本来、何よりも真っ先に話してくれていい程の大事件ではないか・・・。そんな思いも頭に浮かび始めて・・・気付いたら、口を突いて出てしまった。

「・・・ねえ、エリカ、一つ聞いていい?どうして、昨日はそんな大変な事になってたのに、私に聞かれるまでエリカは黙っていたの?なんで、一番最初にそれを私に言わなかったの?」

言い終えた時、心の端で伊織は、「しまった」と思ったが、一度放ってしまった言葉はもう回収する事は出来ない。

「さっき謝った時も言ったよね、私、エリカの身に危険が迫ってるの、心配してるんだよ?心の底から。昨日だって、あの後、家に帰ってからもエリカは大丈夫かなって、ずっと心配していたのに・・・連絡一つくれなかったよね、事件の起きた昨日の夜中だって。私はエリカのメッセージなら、真夜中に来たって絶対怒ったりしなかったのに」

ああ、違う、今日は、そんな事を言う為にここに来たんじゃない・・・いくら、そう自分の心情にブレーキをかけようとしても、壊れた暴走列車のように、一度走り出した激情は止まらない。

当然ながら、エリカは目を丸くして、伊織の豹変に硬直していた。

「え・・・、き、急にどうしたの、伊織・・・?ねえ、伊織ってば!」

そんな事を彼女が言っているのが聞こえた気はしたが、轟音を立てて流れる、激情の濁流の中にいるように、その声は伊織の耳に届かない。激情とは、洪水のように、一度、防ぐ堤防が決壊すると最早止められない物なのだと、伊織は感じた。

「エルヴィーラは良いよね、エリカの最愛の人形で、家に帰ればいつも一緒で、今は、あんな綺麗な女の子の体まで手に入れて、朝も夜も一緒なんでしょ?それで、今は、ジュリアの呪いからエリカを守ってるヒロイン気取りでしょう?私だって、エリカの力になりたいって思ってるのに、エリカはエルヴィーラばかりで、私を見ようとはしてくれない・・・」

捲し立てる伊織に、何とか割って入るように、エリカもいつになく強い口調で口を挟んできた。

「ちょっと待ってってば、伊織!急にどうしたの!私、そんな、伊織を除け者にしようなんて思った事ないよ⁉伊織が本気で、私がジュリアの呪いに狙われてるのを、心配してくれてるのだって十分に分かってるし・・・」

「でも、どうせ、何の力もない、霊力があるエルヴィーラや、人形の声が聞こえるエリカとは違う平凡な私には、エリカは頼らないんでしょう?私に相談したって、解決にも力にもならないから。昨日の夜の事だって、どうせ、私に話したって役に立たない・・・って思ったんでしょ」

熱した感情をぶつけ続ければ、それをされた相手の心もまた、熱されていくものらしい。伊織の言葉に耐えていたエリカも、口調が強くなっていく。

「だから、それは伊織の思い込みだってば!私、昨日、ジュリアの気配のする人影に家を襲われた事だって、ちゃんと話す気だったよ、伊織は役に立たないから話さないなんて、そんな事する筈ないじゃない!」

「もうやめて」と、伊織の中で、自分自身に懇願する声も微かに聞こえてくる。「エリカと争いたい訳じゃない、自分は、ジュリアに狙われているエリカの支えになりたいだけなのに」と。

伊織はふっと、一旦言葉を切った。その様子を見て、エリカは少し安堵したかのような表情を見せようとした。そんな彼女に対して、伊織は、追い打ちのような、強烈な一打となる言葉を発してしまった。

「エリカさ・・・、私と、今は人間の姿に何故かなってるけど、元人形のエルヴィーラ、どっちが大切だって思ってる?」

その問いかけこそは、伊織が幼少の頃から、エルヴィーラの人形に夢中になっているエリカに、何度となく投げかけたかったが、どうしても言えずにいた、「究極の二択」を迫る問いだった。今まで、懸命に言葉をくれていたエリカは、この問いを聞いた途端、貝が口を閉ざしたように、口をつぐんで、顔を青くして黙り込んだ。

その反応を見た瞬間、エリカのどんな言葉を聞いても動かなかった、伊織の心が、「パリン」と陶器が砕け散るような音を立てた。この問いは、どんな言葉を返されるよりも、沈黙され、返される言葉が何もない事の方が遥かに苦しい事を、伊織は知った。‐つまり、エリカは、伊織と、人形に過ぎないエルヴィーラを秤にかけて、どちらが本当に大事か、決められないと答えたに等しいから。

『・・・なんで、黙ってるの。言ってよ、エリカ。勿論、伊織の方が大切に決まってるじゃない、って、そう言ってよ・・・!』

最悪の気分だった。沈黙を待つのは地獄だ。しかし、答を口にされて「どちらが大切かなんて決められない」とでも言われたら・・・自分はどうなってしまうだろう。

だから、先手を打って、卑怯なやり方に逃げる。伊織は、わざと大きな音を出して椅子を引き、立ち上がる。そして、まだ黙っていたエリカにこう告げる。

「ごめんね・・・咄嗟に、変な質問しちゃった。もう、いいよ。今の質問は忘れてくれて・・・。私がどうかしてた」

そして、碌に口を付けていないカフェオレを机に置いたまま、エリカを置いて、部室を出て行こうとする。エリカはそこでやっと、遅すぎるくらいにやっと口を開いた。

「ちょ、ちょっと、待ってよ、伊織!今の質問は、どういう・・・」

それを最後まで聞く気はなかった。伊織は部室の扉の前で足を止めると、振り向いて、椅子から腰を浮かしていたエリカに、こう告げた。

「ねえ、エリカ・・・。昔ね、私、ジュリアとお人形遊びしてた時に、こうお祈りした事、あったんだよ。『エリカは、エルヴィーラ人形ばかり見て、人間の私は見ようとしてくれない。エリカが私を見てくれるのなら、私もお人形さんになりたい』なんて、無茶苦茶な願いをね」

そして、頬を何か熱い物が零れ落ちたのを感じながら、エリカにこう言った。

「エリカはやっぱり、人形と私で、私を選べない・・・。それなら、私もあの時、ジュリアに力があるなら、お人形さんにしてもらえば良かった・・・。私もお人形さんになれば、エリカは私を見てくれる?」

そう言い残して、伊織は扉を開けると部室を飛び出した。鍵を返さないといけないが、そんな事はもうどうでも良かった。

後ろからエリカが「待ってよ、伊織!今の言葉は・・・」と何か言ってるのが聞こえたが、絶対に今の顔は見せたくなかった。

仲直りどころか、自分の抑え込んできた、エリカへの醜い独占欲が噴出してしまって、言うまいと堪えてきた事を皆ぶつけてしまった。完全に、仲直りどころか、決裂状態だ。こんな状況で、エリカの顔をどうして真面に見られるだろうか。


校舎の一角の、部室内でのエリカと伊織のやり取りを、人間体のジュリアは、木陰に隠れて様子を伺っていた。伊織に魂の一部を削ってでも、注ぎ込んでおいた甲斐があり、二人の話は全て聞く事が出来た。

「これは思わぬ展開になったわね・・・昨日までよりも、うんと、伊織の心の闇が深く、エルヴィーラへの憎しみ、エリカへの失望は強くなっている」

エルヴィーラに心奪われていたエリカを取り戻したいという気持ちだけでなく、今、ジュリアの中には、人間である伊織と、人形の自分を重ね合わせる意思が芽生えつつあった。

「伊織も可愛そうじゃない・・・。あの人形の女が・・・エルヴィーラが現れたせいで、ずっと、エリカを独占したい欲を隠し続けて・・・よく今日まで爆発しないで、何とかもったものだわ・・・。あの子は、やはり私と似ている気がする」

ジュリアは、復讐すべき相手として、エルヴィーラの顔を思い浮かべる。

「エルヴィーラに効率よく、苦しみを与えるのには、エリカや、朱宮家の人間を傷つけるのもいいかもしれない・・・。エルヴィーラは、今朝から様子を見てきたけど、同じ人形だけあって気配が分かるからか、全く隙を見せない。エリカと、あの子の両親なら、私の気配に気づかせずに近づける筈・・・。本当は、エリカも、あの子の両親も傷つけたくはないけれど、そうすれば、エルヴィーラをより苦しめられるなら・・・」

そして、部室を飛び出していったらしい伊織の姿を追いながら

「今の状態の伊織なら、引き込めそうね。私の方に・・・。あの子の深まった闇に付け入れば」

と呟いた。

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