第13話 気持ちの名前
エリカは茫然としたまま、ふらふらと、オカルト同好会の部室に戻っていった。今、教室に戻る気にはとてもなれなかった。
並べられた机の上には、まだ温かいカフェオレの缶が、二つ並んだままになっていた。椅子に座り、殆ど量の減っていない、伊織の飲みかけのカフェオレの缶を握って、エリカは、先程の伊織の叫んだ言葉達を思い出していた。
『私は、何も気付いていなかった・・・、伊織が苦しんでいた事に・・・。こんな近くにいて、伊織の事を唯一の親友とまで思っていながら、伊織がどんな目で私を見てたのかを・・・』
毒を飲み込んでしまって、何とかして吐き出したいのに、どうにもならぬまま全身に広がっていくような感覚に、前髪をかき上げて、頭を抱え込む。
「最低だ・・・私。何が唯一の親友よ・・・、人形の心の声は聞けても、伊織の心の声は、何も聞こえてなかったんだ・・・」
部屋を飛び出す時に、一瞬見えた、伊織の頬を零れ落ちていく雫が、目に焼き付き、忘れられない。
伊織と出会ってから、喧嘩だって勿論何度もあった。しかし、今日の伊織の眼差しが含んでいた、エリカに対する失意のようなもの。未だ嘗て、伊織からあのような感情を向けられた事はなかった。
少女人形が好きで、昔からずっとエルヴィーラの美しさに熱を上げてきて、今回、どのような奇跡かは分からないが、エルヴィーラが人間へと転生した事で、エリカの頭はすっかり舞い上がっていた。その傍で、伊織がどのような気持ちを膨らませていたのかにも気付けないままに。
『エリカに見てもらえるのならば、私も人形になりたい・・・!』
伊織は涙しながら、そう言っていた。伊織にそんな言葉を吐かせる程に、自分は、自覚もないまま、彼女を追い詰めてしまっていたのだ。
「伊織は、そこまで、私の事を・・・」
かつてエリカが、「自分は人形をしか愛せない」と話した事を、伊織は今もはっきりと覚えているのだろう。エリカが人形しか愛さない人間ならば、自分もまた人形になれば、エリカに愛してもらえると・・・。
そこまで考えたところで、エリカは、ふと、ある疑問に行き着いた。
『待って・・・。そういう意味で言ったのならば、伊織のいう、私の事が好きっていう感情って、もしかして・・・』
エルヴィーラが人間の姿になって現れた、ここ数日の騒ぎの為に、頭から離れていたとある夢の記憶が蘇る。
確か、幼い自分と伊織が、エルヴィーラの人形を家から持ち出して、外でおままごとに使った時の夢だった。あの時、エルヴィーラを娘役にして、エリカと伊織のどちらがお父さん役とお母さん役をするか、という話になった時、夢の中の伊織はこう言っていたのだ。
「私達二人共、お母さん役になってもいいんじゃないかな・・・」
と。あの時の幼く、無知なエリカは、伊織の言葉の意味をよく理解していなかった。しかし、今になって、先程の伊織の放った言葉も思い返してみると・・・、伊織がエリカにずっと隠しながらも、抱き続けていた気持ちの名前が、ようやく、エリカには分かった。
「・・・馬鹿だ、私。こんな形でしか、伊織にあんな言葉まで言わせてしまわないと、たった一人の幼馴染で、親友の抱いてた、本当の気持ちに気付けなかっただなんて・・・」
まだエリカの耳に焼き付いたように離れない、先程の伊織の言葉・・・『エリカに見てもらえるのならば、私も人形になりたい』。あの言葉は、伊織の、エリカへの愛の告白だったのだ。それに気付いた時、エリカは頬から首元にかけてが、急に熱くなっていくのを感じた。
「でも、今の伊織はきっと、私が、伊織よりエルヴィーラの方が好きで、大切なんだって思い込んでしまってる・・・。完全に私が悪いのは分かってるけど・・・、でも、どうしたらいい?どうしたら、伊織と本当に仲直り出来る・・・?」
今、伊織の元へ行って、「ジュリアの霊障に対して、伊織にも力を貸してほしい」などと、ぬけぬけと口にする事は到底出来ない。伊織は、昨夜、家をジュリアに襲われた事をエリカがすぐに自分に話してくれなかっただけでも、除け者にされた、自分は伊織に必要とされていないと怒り、そして失意に沈んでいるのだ。
それに・・・伊織の隠してきた気持ちにやっと気づけたのは良いが、伊織の告白にどう答えるつもりなのかも、まだ自分の中に答などない。益々、伊織の前に立った時、どのような言葉を口にしたらよいのか、分からなくなる。エリカの頭の中は、思考回路が複雑に絡まって、最早ほどけないような状態だ。
ただ、自分が、伊織に対して、幼馴染、または親友に向けるそれとは違う意味の「好き」という気持ちを向ける事は出来るか。その手がかりだけでもエリカは知りたかった。
何気なく見つめていた、机の上の、伊織の飲みかけのカフェオレの缶が目に付く。つい先程まで、伊織の唇が付けられていた、その缶の飲み口に目が留まる。小学生レベルの発想で、あまりのうぶさを我ながら情けないとは思う。しかし、エリカは今までの人生で人形にしか興味を示さず、家族と伊織以外との人間関係は無きに等しかったから、所謂恋愛に関しての自分の思考のレベルは、実際、小学生の頃からほぼ成長はしていないだろう。
「いや、ほんと、こんな事で、自分の気持ちを確かめようとするとか、小学生と同レベルね・・・私」
そんな自嘲めいた台詞を口にした後、エリカは缶を手に取り、先程まで伊織の、あの薄い唇が触れていた飲み口に、自分の唇をつけて、一口飲んだ。当然ながら、そのような事をしても、エリカの唇にはただ、缶の金属の冷たさが残るだけだった。
しかし、その冷たさの中に、今は、伊織の唇の感触が、温かさが僅かに残っているような気がして、エリカの頬は、熱を帯びていく。
今までも幼馴染で親友なのだから「一口飲ませて」と、伊織と同じストローに口を付けた事など何度もあったし、だからといって何か感じる訳でもなかった。
しかし、今日からはそれも変わってしまった。もう、自分と伊織の関係が、今までの単なる幼馴染には戻らない事を、この頬の熱さ、速まる動悸からエリカは知った。
‐ふと、エリカは、背筋に寒気が走るのを知った。そして、一瞬、
『フフフ・・・』
という笑い声が聞こえた気がした。この邪悪な気配、この声・・・、その主をエリカはすぐに悟る事が出来た。
「・・・この気配は、ジュリア⁉まさか、学校に・・・?」
急いで、部室の窓に駆け寄り、カーテンも窓も開け放つ。そして、部室から見える範囲を見渡してみる。校庭の隅にも、端に並んでいる木立の木陰にも、何処にも、ジュリアらしい姿は見つからない。もしもジュリアまでもが、人間に転生していて、学校に侵入してきたなら、今頃とっくにエルヴィーラの時のような騒ぎになっているだろうから、流石にそれはないだろう。しかし、この邪悪な気配は何処から・・・。
午後の授業の始まりの時間が近づいていたから、重い腰を上げて、エリカは部室を出た。伊織の代わりに職員室に部室の鍵を返却して、重い足取りで教室へと帰る。昼は食べていなかったが、食欲など全くなかった。教室で伊織と会ってしまったら、何も話せないのは明白だったし、自分の気持ちも、昼休みの前までとは全く変わってしまったと思うと、伊織の顔も直視出来ない。
ところが、教室についてみると、自分の一つ前の伊織の机には、鞄も既になく、教科書も何も残っていなかった。困惑し、普段は話しかける事もない、ただ席が近いだけの仲良しグループの女子達に話しかける。
先日のエルヴィーラの一件があって以来、エリカと伊織は、教室内では露骨に遠ざけられる存在となっていた。話しかけられた時、グループの子達も明らかに警戒した様子を見せて、口早に「何?」と聞いて来る。
「あ、あの・・・、伊織はどうしたか、知らない?先に教室に戻ったと思ってたんだけど、机見たら鞄も何にもなくて・・・」
両親、そして伊織以外の人と話すのは苦手だ。それでも、我慢して返事を待つ。3人組の彼女らは顔を一旦見合わせた後、そのうちの一人がこう言った。
「更級さんなら、教室に駆け込むくらいの勢いで戻ってきたかと思ったら、急に荷物まとめ出して、通りかかった先生に『すみません、急に気分が悪くなったんで、早退します』とか言って、急いで帰ったよ。昼休み始まった時、朱宮さん、更級さんと何処かに出て行ったけど、朱宮さんこそ、更級さんに何があったか知らないの?」
‐昼休みのあのやり取りなど、話せる筈がないし、彼女らには話す義理もない。伊織は帰ってしまったのか。しかも、ばつの悪い事に、二人で教室を出るところを見られていたらしい。
グループの中の他の一人が、意地の悪い笑みを浮かべつつ、こんな事を言った。
「朱宮さんと更級さん、二人で何処かに行って、それからしばらくしたら、更級さんだけ半泣きになって、バタバタ教室に駆け込んできたから、皆びっくりしてたよ。朱宮さん、更級さんを泣かすような事でもやっちゃった?いや、もしかして、恋のもつれだったりとか?二人、いつも距離近いし、そういうのだったりしてね」
それ以上は聞きたくなかった。今のエリカの気持ちで、そんな話は洒落にもならない。こんな集団に、当たらずしも遠からずな推察をされてしまっているのが腹立たしくもあった。エリカは「教えてくれてありがとう」と、極めて社交辞令的なお礼だけ述べると、速やかに自分の机に戻る。スマホを開くと、一件だけ、ぽつりと伊織からのメッセージが残っていた。
『ごめん、さっきはおかしな事を言って。昼休みの私の言葉は忘れて。今日は気分が優れないから早退する。何か、ジュリアの事で起きたら、何でも言ってね』
スマホを握ったまま、エリカは、
「忘れられる訳ないでしょう・・・」
と呟いた。
昼休みが終わる直前に教室に戻ってきた子らが、口にしていた話に、エリカは戦慄した。
「ねえ、部室のある棟の近くで、お昼間からお化けが出たらしいよ!この前の真っ白い、人形みたいな恰好の女の子といい、うちの学校、最近やばいよね・・・」
「お化けって、どんな?」
「それがね・・・、フリルの沢山ついてる、ゴスロリ?みたいな黒のドレス着てる女の子。そんな恰好して昼間の校庭にいる時点で絶対普通じゃないでしょ。木の影に隠れて校舎の方を見上げてたんだって。でも、気付かれたら、パッて一瞬のうちに消えたって」
エリカの背中を冷や汗が流れる。その服装の特徴、更には、一瞬で姿を消せる超常現象的な能力・・・。
『嘘・・・、まさか、それってジュリア・・・?』
寒くもない教室で、カタカタと、体が震え出す。忽然と、朱宮家から姿を消したジュリアが、エルヴィーラのように人間の体を手にして、エリカのいる学校にまで現れていたのに違いない。そう考えれば、先程感じた、あの邪悪な気配も説明がつく。
『やっぱり、あの時、オカルト同好会の部室で感じた、ジュリアの気配は、気のせいなんかじゃなかった。あの時、私はジュリアに見られていたんだ・・・』
ジュリアが迫ってきている・・・。エルヴィーラは、ジュリアの狙いは自分だからエリカは大丈夫だと言ってはいた。しかし、ジュリアが憎しみに取り憑かれるあまり、復讐の相手を選ばなくなったら、エリカや、エリカの両親にも危害を加えてくるかもしれないではないか・・・。これからも、エルヴィーラの言うように安全だという保証は全くない。そう考えだしたら、エリカは体の震えが止まらなくなった。
授業の始まりの時に、教師からも
「朱宮さん、大丈夫?すごく、具合悪そうだけど」
と声をかけられた程だった。
結局、午後の授業は、膨れ上がるジュリアへの恐怖心と胸騒ぎから、ろくに耳に入っては来なかった。エリカは、黒板の代わりに、空席になった伊織の机をぼんやりと眺めていた。伊織がもしここにいてくれたなら、この恐怖もどれ程和らいだだろうか。自分が如何に、伊織という存在に精神的に依存していたかを思い知らされる。
『伊織は、私なんてどうせ何の力もない平凡な人間だから、エリカは頼らないって言ってたけど、それは違うよ・・・。だって、今、こんなに、伊織がいないと、心細くて仕方ない私がいる・・・』
家に駆けこむように帰って、母親が仕事に出かけていて、家には両親はいないのを確認し、伊織は安心した。伊織の両親は共働きなので、基本的に日中に家にいる事はない。こうして早退してきて、部屋に閉じこもろうと、早退してきた理由を問い質される事もない。伊織は、制服の上着のブレザーを部屋の壁にかけ、リボンを外して机の上に投げ出した。そして電気も付けないで、ベッドの上に制服のままで横たわると、毛布を被ってしまった。
天井をぼんやり見つめていると、自分がエリカにぶつけた言葉の数々が、部屋の闇の中に、浮かんでは消えていく。そのどれもが直視に耐えない物ばかりだ。
「ほんとに、何やってんの、私・・・。仲直りしなきゃって思って、エリカと今日は話したのに、自分でも制御出来ない感情が途中からこみ上げてきて・・・」
エリカが、家で大変な目に遭っていたのに、その事をすぐに自分には教えてくれなかった事。きっかけはそれだけだったのに、自分が除け者にされたように感じた。エリカに、そんな意図などなかったのは分かっているのに。
『挙句に、エリカが見てくれるのなら、私は人形になりたいなんて・・・。エリカに合わせる顔がない・・・。こんな、最低な流れで告白する羽目になるとか・・・』
自分が発した言葉ながら、その言葉を頭の中で反芻すると、顔が火を噴き上げて、この部屋を埋める暗闇を照らすのではないかと思う程に、羞恥がこみ上げる。エリカは、今頃きっと、伊織のあの言葉の意味をもう理解してしまっているだろう。伊織の抱く、特別な感情を。
その時だった。昨日聞いたばかりの、あの声が伊織の頭の中に響いて来る。
『随分と早いお帰りのようね、私の古い友人・・・』
そして、毛布を被っているにも関わらず、伊織の体を悪寒が駆け抜ける。
「その声は、ジュリア・・・⁉」
ベッドから起き上がった伊織は、見た。暗い部屋の片隅に、白のフリルがあしらわれた黒のドレスを身に纏って、佇んでいる、ジュリア人形そのものの姿をした、黒髪の少女の姿を。
「・・・そんなに怯えた顔をしなくてもいいじゃない。見ての通り私も、あの女と・・・エルヴィーラと同じく、人間に転生させてもらっただけよ。あの女のように上手くはいかなかったみたいだけどね。それに、伊織には害を加える気はないから安心なさい」
そんな事を言われても、この状況で安心出来る人間などいるものか。ベッドの方に歩み寄ってくるジュリアを名乗る少女に、追い詰められたように伊織は、シーツの上を部屋の壁際まで後退する。そこで背中がぴたりと壁に貼りついて、もう逃げ場がないのを悟る。最後の意地で、声が震えそうになるのを抑えながら、伊織は、ジュリアを見据えて、問う。
「な、何が目的なのよ・・・ジュリア!昨日から、私に付きまとって、訳の分からない事ばかり言って・・・、貴女の目的を言いなさい!」
「私の目的?それは簡単な事よ。私の大事なエリカを横取りして、人間になって結ばれようなどという妄言を放つエルヴィーラに復讐する事。そして、その為には、私と同じく、エルヴィーラを憎んでる貴女にも協力者になってほしいの」
カーテンの隙間から差し込む、昼日向の日差しを受けて、ジュリアの顔は清冽なまでに美しい。しかし、その顔には生気は感じられない。長い睫毛に縁どられた目も、その黒い瞳も、何処までも冷え切った印象を与えた。美しく透き通っていても、手を触れると、指先から凍えるような冷たさが骨の髄まで沁み込んでくる。冷たく閉ざされた水晶の美しさだった。
「・・・というより、伊織には既に、昨夜から協力者になってもらっていると言った方が正しいのだけれどね。私のエルヴィーラへの復讐の為に」
伊織のベッドの目前までやってきたジュリアは、形の良い口角をふっと上げて、そう言った。笑っても、ジュリアから漂う気配の冷たさは全く変化がない。
「私が、既に協力者になってる・・・?さっきから何言ってるの、ジュリア。私は貴女に協力なんかするつもりないって、昨日もはっきり・・・」
「もう忘れてしまったの?伊織。貴女の中に、私の魂の一部を注がせてもらったって、私が話した事を」
伊織の言葉に被せるようにして、ジュリアはそう言った。確かに昨日、夕方の公園でジュリアが初めて伊織に接触を図ってきた時、彼女はそのような事を口にしていた。
「確かに貴女、そんな事言ってたわね・・・、だけど、それがどうしたっていうの?」
「昨日の夜・・・、エリカの家の窓硝子が粉々に割られた事は、もうエリカから聞いたわね?」
伊織は息を呑む。昼休みのオカルト同好会の部室での、エリカとのやり取りを、ジュリアは聞いていたのだ。
「あ、ああ、聞いたわよ。家のリビングの窓硝子が見たこともない割れ方していたって・・・。それと、私がどう繋がるの?」
伊織は、食われまいと非力にも、必死に相手を威嚇する獲物になったような気分で、ジュリアに言葉を返す。
すると、ジュリアは、長いドレスの裾をシーツに擦り付けながら、ベッドの上へと上がってきたのだ。そして、ベッドの上を伊織へとにじり寄ってくる。伊織は最早、強がる余裕すらない。壁に磔にされたように、身動きが取れない。
ジュリアの、すっと真っ直ぐに通った鼻梁も、長い睫毛が縁どる目も目前にまで迫って来る。その黒い瞳の中に、固まっている自分の姿を伊織は見る。
「・・・やはり忘れているみたいね。まぁ、いいわ。それなら、思い出させてあげるから。昨日、貴女に何をしてもらったのか」
そういうと・・・ジュリアは伊織の額に口づけた。その唇の、驚く程の冷たさに、どれ程人間の姿を模倣しても、彼女がやはり人間ではない事を思い知る。
・・・次の瞬間、伊織の頭の中を走馬灯のように、見知らぬ記憶が駆け抜けた。
その中で、黒いローブを着て、フードを目深に被り、伊織は夜の町に飛び出している。そして、夜の闇の中、赤煉瓦に蔦の絡まった壁が印象に残る、赤い屋根のドイツ風の2階建ての洋館が、伊織の視界に入ってくる。見間違える筈もない、エリカの家だ。
頭に流し込まれた記憶の中で、エリカの家の鉄門の前で立ち尽くす、自分の姿があった。
『え・・・?こんな夜中に、エリカの家に、私が?こんな記憶、全く・・・』
記憶の中の自分は、2階の一角の窓に目を向けていた。そこには、カーテンの隙間にエリカとエルヴィーラの姿が垣間見える。何度となく伊織が足を運んだ、エリカの部屋だ。今は、そこに人間になったエルヴィーラもいる。記憶の中の自分は、ほぼ自我のない操り人形のようだ。しかし、その光景を目にした時だけは、記憶の中の自分にも痛みが走ったようで、黒いローブの影を震わせる。
そして、ローブに身を包んだ伊織は、右腕を真っ直ぐにかざすと、一階の、庭に面した大きな一間-リビングの窓に何か、意識を集中させ始めた。次の瞬間、リビングの窓が、奇妙な軋む音を立てて震え始めて‐。
「や、やめろ・・・!!」
伊織は、自分の額に口づけているジュリアを、必死の勇気を奮って突き飛ばした。
心臓が激しく乱れ打っていた。
「嘘だ、嘘だ・・・こんな記憶・・・!夕べ、エリカの家を襲ったのは・・・リビングの窓硝子を粉々にしたのは、私だったっていうの⁉」
髪が滅茶苦茶になるのも構わずに、伊織は頭を抱えて、苦しさを紛らす為に髪を掻き乱す。信じたくない。こんな記憶は、ジュリアが見せた虚像だと信じたかった。しかし、ジュリアのあの口づけをきっかけに、頭の中に全て舞い戻ってきた記憶の、その生々しさは、ジュリアによる虚像などではない事を証明していた。
「やっぱり、私が操っていた間の事は記憶から無くなってるみたいね・・・。私は、残念だけどエルヴィーラのように活発には、人間の姿で動き回れない。だから、代わりに伊織の体を使わせてもらったわ。私の魂の一部で貴女の意識を乗っ取ってね」
ジュリアは、何と恐ろしい事に自分を利用しようとしているのか。
「で、出て行ってよ、私の体から!私の体は、ジュリアが好きに使う為の道具じゃない!!」
伊織は、ジュリアの両肩を掴んで揺さぶり、叫んだ。寒い部屋に置きっ放しにされていた陶器に触れるように、ドレスの生地越しからは、体温が全く感じられず、冷たい体だった。
「人間って勝手よね・・・自分達は、私達のような人形を遊び道具として、飽きたらいくらでも使い捨てにしていくのに、捨てられる人形の気持ちなんて考えもしないくせに、こうやって逆に人形に使われる側になると、取り乱して慌てふためくんだから・・・。でも、伊織。貴女とは私は、単に利用するだけじゃない、本当の協力関係になりたいわ」
「は、はぁっ⁉ふざけないで!!こんな、体の乗っ取りするような奴と、誰が・・・」
「伊織は、エリカの事が本当に好きなんでしょう?昔、貴女が私に言っていた事を覚えてるわよ、私もお人形さんになりたいって、そうしたら、エリカも私を好きになってくれるかなってね・・・。エリカは、人形にしか興味がない子だったから」
昔、ジュリアの人形にしたその話も、彼女は覚えていたのか・・・。羞恥に打ち震え、伊織は顔を赤く染める。
「そうよ・・・!私はエリカが大好き!今日のやり取りも見ていたら、ジュリアにも分かったでしょ。面倒くさいくらいに、私がエリカの事を思っていて、エリカが見てくれるのなら、お人形さんにだってなるっていうくらいの女だって事は!」
「でも、エルヴィーラがあの子の傍にいる限り、エリカは、私に対してと同じように、伊織にも一番に目を向けてくれる事はない。伊織も、エルヴィーラの事が憎いでしょう・・・?強引なやり方をしてしまったのは、悪かったと思ってるわよ。だけど、私は本当に、伊織に共感してるの」
「共感?」
「そう。私もまた、エルヴィーラが・・・あの女が来た事で、エリカの一番じゃなくなったから。その代わりに、ずっと伊織が遊んでくれていたけどね。でも、エルヴィーラさえいなければ、苦しまずに済んだのは、私も伊織も同じなのよ。それならば、エルヴィーラからエリカを取り返したいって思わない?全ての元凶の、エルヴィーラに復讐してやりたいって」
伊織の火照った頬を冷ますように、ジュリアの掌が包み込む。次第に、伊織の思考回路が、ノイズが入ったようにぼやけていく。
「復讐・・・?」
「そう。これは、私の為だけの復讐じゃない。私と、伊織の二人の復讐よ。エルヴィーラを追い詰めて、エリカをあの女から自由にする為の。私は、伊織の事を救いたいのよ。何年も、エリカとあの女の人形を、伊織が寂しそうに見てるのを、私、見ていたから・・・私の力ならば、エルヴィーラをエリカから引き離せるわ」
甘言になど、耳を貸すものかと思っていた。しかし、自分を見つめながら、そう語るジュリアの瞳は、いつしか優し気な色に変わっていた。彼女の、伊織の事を心配しているという言葉は、少なくとも嘘ではないような気がした。
「ジュリア・・・、貴女が、私の事を救いたいっていう言葉は、本気で言ってるの?」
「伊織と私は、同じ苦しみを分かち合ってきた友人よ。嘘を言う訳がないでしょう」
「ジュリアと力を合わせたら、エルヴィーラから、エリカを取り戻せる・・・?」
「ええ。二人で協力すれば、絶対に出来るわ」
今の自分の思考の何処までが自分の意思で、何処からはジュリアによって操られているのか、もう境目は分からない。しかし、どんな手段を使っても、エリカの傍にいる事で際限なく続いてきた、今までの苦悩から解放されるならば・・・。
「・・・いいわ。私の体を使ってくれて。ジュリアが、私をこの苦しみから救ってくれるのなら、何でもするわ・・・」
そう言ったところで、伊織の意思は途切れた。
膝の上で意識を失っている伊織の髪を撫でながら、ジュリアは呟いた。
「こんな強引なやり方しか、出来なくてごめんね、伊織・・・。でも、伊織を助けるには、エルヴィーラを・・・あの女をエリカの傍から引き剝がすしか、方法はない。それしか、伊織と、私の苦しみを終わらせる方法はない。始めましょう・・・私達の復讐を」
そう言って、ジュリアは横髪が垂れないように耳にかけると、伊織の頬に口づけた。
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