第10話 狐への嫁入り 前編
狐の嫁入り、そんな言葉が世の中にはある。これは日が照っているのにも関わらず雨が降っているいわゆる天気雨の事を指すが、他には夜間に無数の狐火がまるで提灯行列のように列をなしている事も指していて、本州や四国、九州では怪異の一つとされている。
私もこれまでに天気雨には何度も降られており、その度に雨が降り始めた事を恨んでいたが、もう一つの狐火の件なんてまったく知らなかった。そもそもそういう物には興味がなかったのだ。
だけど、私は狐の嫁入りならぬ狐への嫁入りを果たした普通じゃない人間であり、私の旦那様である狐も普通の狐じゃなく神使という神様の使いで、それも綺麗な顔をした双子なのだ。
そんな二人と私が出会ったのは、私がまだ普通の人間として人間達の中で働いていた頃で、働いていた会社がセクハラやパワハラが横行していた上に残業代も定時退社もないドがつくレベルのブラック企業だった。
初めて入った会社がそこだった事や上司からダメ人間だの社会の歯車にもなれない奴だの言われてきた事もあって、私はすっかり自分に対して自信をなくし、どうにか深夜に帰れたその日もため息をつきながら帰宅していた。
「はあ……私って本当にダメダメだ。私、どうして生きてるんだろ?」
そんな事を考えてもしょうがないし、会社自体に問題があるから私がダメダメというわけではなかったけど、心身ともに疲弊していた私にとってそこまで考える事すら困難だった。
だから、そんな思考には至らず、帰っている間はひたすら自分を責め続け、次第にこんな私なんて死んでしまえば良いんじゃないかと思うようになった。
その時に感じたけれど、人というのはすぐに行動に移そうとすれば結構出来るようで、私はもう死んでしまおうと思い付き、そのままアパートに帰らずに自殺をするのに良さそうな場所を探し始めた。
けれど、そんな場所なんて当然あるわけなく、次第に私は満足に死ぬ事すら出来ないのかと自分を貶し始め、そのまま歩いていくと、いつしか私は霧深い森の中に入っていた。
「ここ……どこだろう? でも、不思議と怖い感じはしない……初めての場所なのに、どうしてだろう……?」
自分の周り以外は霧に覆われて何も見えないという森の中なのに私はまったく恐怖を感じておらず、それどころかどこか気持ちが落ち着いていくような感じがしており、その内に少しずつ死のうとした事をバカらしいと思えるようになっていた。
それと同時に死ぬくらいなら会社を辞めてしまえば良いと気づき、会社や上司達への暴言を吐きながら歩いていたその時、少し離れたところに深紅の鳥居が立っていると気づいて私は神社があるのかもと感じてそのまま歩き続けた。
すると、厳かな雰囲気を出しながらポツンと立つ大きな鳥居が見え、その大きさと存在感に圧倒されながらも私は鳥居の前で一礼をして中へと入った。
その瞬間、視界が白い光に包まれて目を瞑り、一体何なのかと思いながら目を開けると、目の前にはさっきまで無かったはずの神社が出現していた。
「え……ど、どういう──」
「……おや、これは珍しい御客人だ」
「……え?」
落ち着き払った声が背後から聞こえて振り向くと、そこには綺麗な深緑色の着物姿の男性が立っていて、肩にかかる程に長いサラサラとした銀色の髪は雪のように白い肌を引き立たせ、雑誌やテレビに出るモデルですら歯が立たなそうなその綺麗な立ち姿に私は思わず見惚れてしまった。
「あ、あなたは……?」
「私はこの神社の祭神だ。名前は……まあ、少し長いから
「守名さん……私は
「そうか。よろしく頼む、東狐さん」
「あ、こちらこそ……あの、ここって何という神社なんですか?」
ここに着くまでに神社の名前を示す看板のような物は見かけなかった。しかし、神社に名前をつけないとは思えないのでそう訊くと、守名さんは優しい微笑みを浮かべながら答えてくれた。
「ここは
「ここと縁が……」
「ああ、そうだ。この神社にも東狐さんにも『狐』という字が入っているから、それで引き寄せられたのかもしれない」
「え、縁ってそんな簡単な物なんですか……?」
「そんなものだ。名前が似ていたり生まれが同じだったりという簡単な理由で縁という物は結ばれるし、時には前世からの縁なんていうものもある。もっとも、それが良縁か悪縁かはわからないがね」
「は、はあ……」
正直、守名さんが神様であるという事や縁の話というのは胡散臭いといっても良かったし、さっさとここから離れて家に帰っても良い気はしていた。
だけど、不思議とそうしたいとは思えず、逆にもう少し守名さんの話を聞いてみたいと思っていた。こんなところで油を売らずにさっさと家に帰ってご飯を食べて寝て、明日も会社に行かないといけないのはわかっていてもそう思えたのは、守名さんの出す雰囲気が私にとって心地よかったからなんだろう。
そんな事を思いながら守名さんの事を見ていた時、後ろからゆっくりと近づいてくる足音が聞こえ、誰だろうと思って振り返ると、そこには藍色と紅色の和服姿の男性達が立っており、それぞれ短い金色と短い黒色の髪をしていたが、その綺麗に整った凛々しい顔はまったく同じで、この二人は双子なのだと気づいた。
短い金色の髪の方は私の姿に少し驚いた様子を見せたもののすぐに人懐こそうな笑みを浮かべていたが、黒色の髪の方は私の事を睨み付けており、その凄みに私が怯んでいると、守名さんはクスリと笑ってから私の前に立った。
「こらこら、そんな目を向けるものじゃない」
「……
「彼女は東狐さん、東狐氷雨さんだ。何故かはわからないが、ここへ迷い混んでしまったようなんだよ」
「そうでしたか。それにしても……東狐さん、中々やつれていますね。もしかしてあまり眠れていないとか?」
「あ、はい……私が勤めている会社がいわゆるブラック企業という奴で、さっきまで死んでしまおうかと思っていたんです」
「死ぬ、か……そこまで追い詰められているのに、どうして辞めてしまおうと思わないんですか?」
「……辞める気力すらないんです。あ……そういえば、あなた方は……?」
突然現れた男性達の名前をまだ聞いてなかったなと思っていると、守名さんは優しい笑みを浮かべた。
「彼らはこの神社の神使で、金色の方が
「狐太郎さんと狐次郎さん……」
「……気安く呼ぶな、人間。狐太郎と守代名依神様はお前を警戒してらっしゃらないようだが、私はお前が怪しい者だと思っている。そんなほいほいと入ってこられる場所ではないからな」
「つまり、ここにいる時点で東狐さんは普通の人間とは少し違うってわけですよ。でも、東狐さんから霊力や妖力は感じないし……何かの偶然で引き寄せられたんですかね?」
「恐らくそうだろう。それか、そこまで追い詰められた精神が無意識の内に助けを求め、この神社がそれに応えて呼んだか何か私にも計り知れない力が引き合わせたのかもしれないな」
「守代名依神様でも計り知れないってなったら、俺達の手には負えませんよ。守代名依神様も中々のお力の持ち主なんですから」
「私はそこまでとは思っていないがね。さて……本来であれば、東狐さんは早く向こうへお帰しすべきなんだが……」
そう言いながら守名さんは鳥居の向こうへ視線を向けたけど、その表情はとても険しく、私には見えない何かを警戒しているようだった。
「……今は無理なようだな。仕方ない、ひとまず東狐さんにはここに滞在してもらおう」
「え……」
「なっ……!?」
「……良いんですか? ここは男しかいませんし、お手伝いもいませんから、東狐さんにはいづらい場所だと思いますよ」
「たしかにそうだ。だが、今この向こうへ行ったら、良くない事が起きそうだ。それも命の保証が出来ない程の」
「そ、そこまでの事が……」
「だから、しばらく滞在してもらおう。私も出会ったばかりの相手を喪いたくはないからな。二人もそれで良いか?」
守名さんが訊くと、二人は静かに頷く。
「俺は構いませんよ。人間の女性が一人増えたところで、困る事があるわけじゃないので」
「……守代名依神様が決めた事ならばわたしは反対しません」
「わかった。東狐さんも良いだろうか?」
「……会社を無断で休む事にはなりますけど、もう死にたいとは思ってないので私も大丈夫です。居候にはなるので、ご飯や神社のお掃除は私が担当しますね」
「ありがとう、東狐さん。因みに、部屋はちゃんと二人とは離しておくし、厠も浴場も別々になっていて、衣服や小物で欲しい物があれば用意するから遠慮なく言ってくれ」
「わかりました。あの……しばらくの間、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく頼む、東狐さん」
「よろしくお願いするよ、東狐さん」
「…………」
未だに狐次郎さんには警戒されっぱなしのようだけど、私は三人に対して改めて頭を下げた後、これから住む事になる神社を見つめた。
「……思わぬ事態にはなったけど、三人には迷惑をかけないようにしよう。こうしてお世話になれるだけありがたいんだし、本来私にはそのくらいの価値も無いんだから……」
ポツリと出たその言葉は私の心の中の傷を表しており、三人と一緒に神社に向かって歩いている最中もジクジクと痛んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます