第32話 下請け組織
私の中で、時計の針が止まる音がした。想定外の回答に理解が追いつかず、脳の機能が一時停止を起こしたみたいだ。
それでもなんとか脳みそを再起動させ、話の内容に追いつこうとする。
「し、下請けって。そんなの警察で、あり得るんですか?」
私の反応は想定通りだったようで、杉原さんはあらかじめ用意していたかのような模範解答で解説を続ける。
「昔はあり得なかったよ。でもね、昨今のニュースや、三河重工のサイバーセキュリティの研修とかでも聞いていると思うけど、今はもう日本も、のほほんと暮らしていられる情勢じゃなくなってきているんだ」
「……組織的なテロが増えてるって話ですか」
「単なる犯罪グループのテロも増えてるけど、それ以上に、水面下で国家レベルのテロ行為やスパイ活動は非常に活発になってきている。今は目に見える形でミサイルを撃ち合ったり爆弾を落としたりはしていないけど––––見えない戦争は熱を帯びてきている。こいつが地表に現れないように、日本の警察も手を尽くしてるんだ」
「だけどね、もう数が多すぎて。警察だけじゃ追いきれないのよ。それで、警察OBとか、警備会社とか、SPの会社とかが運営している私たちみたいな『下請け組織』が公安の仕事の一部を請け負ってるってわけ」
「……はあ」
話の内容は理解できる。だけど、現実の出来事とは思えなくて、どこか
だが、ここであらためて疑問が湧き起こった。
「で、でも。それが杉原さんが私に接触した理由と、どう関係あるっていうんですか?」
私の質問に、杉原さんが非常に気まずそうな顔をした。彼の顔に緊張が走ったのを見て、私もなんだか体がこわばる。
一体この一般人が、どうして公安警察の下請け組織になんて関わることになってしまったのか。
「……昨今の日本の戦闘機や武器は、世界的に見ても非常に品質がいい。結果として、国家的な産業スパイ行為の標的になっている。おまけに日本はサイバー防衛の後進国だ。『狙いやすく高品質なターゲット』なんだよ。そして三河重工については、国内ナンバーワンの規模の防衛事業を担っている上、最新鋭兵器の開発をおこなっているなんて噂も出ている」
一気に話しすぎてしまったのか、杉原さんは若干咳き込んで、喉を潤すためにお茶を一口含んだ。それを見た笹嶋さんは、軽くため息をつき、彼の言葉のあとを引き取った。
「日本政府にとってもね、三河重工は絶対に守らなければいけない企業なのよ。産業スパイ行為を仕掛けてきている組織のうち、ほとんどは面が割れたんだけど。一番執拗に狙ってきていて且つ正体が特定できない組織が一つあって。防戦一方じゃいつまで経っても尻尾を掴めないってことで––––それで。美冬ちゃんにはとおおおっても申し訳ない話なんだけど。囮を立てることにしたのよ。その組織の正体を掴むために」
話を聞きながら、段々と血の気が引いていくのがわかった。そして、話の結論を確かめようと、笹嶋さんと杉原さんの目を順番に見つめて、おそるおそる口を開く。
「あの、まさか……その囮って」
「ごめん。そのまさかなんだよ。簡単にうまい話に乗ったりしなさそうで、仕事熱心で真面目で––––且つ、捜査員が私生活に入り込むすきがありそうな、独身の女性ってことで……」
そこまで言ったところで、杉原さんの隣に座っていた笹嶋さんが、思いっきり杉原さんの横っ面をぶん殴った。
「ってえな、何すんだよ!」
「杉、あんたもうちょっと言葉に気をつけなさい。話し方に配慮が欠けてる」
「あの、ってことは、うちの部長とか、社長とかもこの『囮作戦』に関わってるってことですか? これ、つまり、政府と三河重工の懸念案件に、警察が取り組んでるって話ですよね」
笹嶋さんに殴られたあとが赤く残った頬をさすりながら、杉原さんが応える。
「伊藤部長と、代表取締役、そして限られた役員は把握している。だけど他の社員は一切関わってない」
つまり。この異動は『囮作戦』のために仕組まれたものってことで、私の仕事の評価とかには一切関係なかったってことで。独身の隙がありそうな女っていう視点は癇に障るけど、逆にちゃんと評価されていたからこその抜擢ってこと?
「あの……この『囮作戦』が終わったら、私は元の部署に戻してもらえるんでしょうか」
「それをどうするかはうちが決めることではないのだけど。美冬ちゃんに本件を話すにあたって、先方とも確認してきたわ。元にいた部門へ戻すことと、経理課長への昇進を約束してくれるそうよ。この案件がなければ、来春には昇進を予定していたみたいで。はい、これ誓約書」
テーブルの上に差し出された誓約書には、笹嶋さんが口頭で説明した通りの内容に、代表取締役印がくっきりと押されていた。
机の下で、両の握りこぶしに力がこもる。
これまでこの二人に騙されていた、という憤りはあるのだが、それよりも何よりも、頑張ってきた仕事の成果が蔑ろにされていたわけではない、きちんと評価されていたのだということが自分としては大きくて。
誓約書を視界に入れたまま、気づけば目からは熱いものが流れ出していた。
杉原さんも笹嶋さんも、私が泣いてしまうのは予想外だったらしい。心配そうに顔を見合わせたあと、そのまま私が落ち着くまで、じっと待ってくれていた。
ハンカチで、崩れてしまった目元を抑える。涙が引っ込んできたタイミングで、笹嶋さんに言葉をかけられた。
「本当に、ごめんね。あなたとしたら傍迷惑な話なのは重々承知しているわ。でもね、日本としても、三河重工としても一大事なの。だから、ことが収束するまで、なんとか協力してもらえないかしら」
本当のことを言えば、逃げたい。危ない目にも遭いたくないし、ただ、自分の好きな仕事に打ち込んでいたい。
でもそのためには、どうやっても今起きている問題を片付ける必要がある。ここまで巻き込まれた後で、逆に離脱してしまう方が身の危険がある気もする。
「……乗りかかった船ですし。元の仕事に戻してもらえるなら……やらせていただきます」
私の返答を聞いて、目の前の二人も一気に気が抜けたようだった。笹嶋さんは姿勢を保って居るものの、杉原さんの方はしなしなとソファーの背に体を預けたところを見るに、相当気を張っていたらしい。断られる可能性も考えていたんだろう。
そんな杉原さんの姿を見ていたら、ちょっとだけ気が抜けて、笑いが漏れた。
––––と同時に。相手が警察関係者というのを聞いたことで、見過ごせない過去の出来事が頭をかすめた。
「あの、一つ気になることがあって」
「いいわよ、いいわよ。なんでも聞いて!」
「杉原さん、あなた、初対面の時に、私にキスしましたよね?」
場が凍った。笹嶋さんは横目で杉原さんを睨み、返答を促す。黙ったまま硬直している杉原さんに、私は追い討ちをかけた。
「警察関係者ですよね? 同意なくああいうことをするのって、なにか罪に問われるんじゃないんですか? それとも、『囮作戦』のためなら、ああいうことも許されるんですか?」
「ええっと……あの……」
「ごめん、美冬ちゃん。作戦が成功するまではちょーっと見逃しといて。ことが終わったら、訴えてもらっても、『強制わいせつ罪』でしょっぴいでもらっても全然構わないから!」
「あっ、ちょっ、ババア!」
「侮辱罪も追加だわね」
笹嶋さんの援護射撃に、私は思わず吹き出した。
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