第58話 旧小野山小学校
「今日はいい天気ですねえ」
「ああ……そうですね」
この緊迫感しかない状況の中で、タクシー運転手の呑気なスモールトークが俺のイライラを押し上げていた。
運転手にしたら、理不尽でしかないだろう。だが、今だけは許してほしい。緊急事態なのだ、国家の脅威になるほどの。
「行き先は、旧小野山小学校でよろしかったですね? 何かあるんですか、あそこで」
「……その近辺で、仕事があるんです」
「へえ、どんな仕事ですか?」
「すみません、急いでください。もっとスピード上げて」
江戸はどこへ行ったんだ。
このクソ忙しい時に。
展示場で別れてから姿が見えない。本部のエリコのところへ戻ったんだろうか。
時計を見る。約束の時刻まで、あと、十五分。
「お客さん、間も無く着きますよ」
「現金ぴったり出せるんで。領収書お願いします」
台東区役所の隣に鎮座する旧小野山小学校は、元の形状が分からぬほどに、校舎中に蔦の絡まった廃校だった。施錠されているはずの校門の鍵は破壊されている。伊藤部長か奴ら、どちらかの仕業だろう。
校庭は見晴らしが良すぎる。もし屋上や教室から狙撃されたとしたらひとたまりもない。
いくら弾道を変える能力があったとしても、不意打ちには対応できないのだ。
俺は裏口に周り、校舎への侵入口を探した。
伊藤部長からの指示に、細かい待ち合わせなどは指定されてなかった。
おそらく生菓子を買った時点では、部長も細かい指示は受けていなかったのだろう。
「しらみつぶしに探すしかねえな」
まずは校舎の一階へ、足音を消し、蛇のように滑らかに体勢を低くして進む。
警察官なら拳銃を構え、臨戦体制で備えることもできるが、下請け組織はそうはいかない。
俺はポケットから、パチンコ玉をいくつか手に取った。
色々試してみたが、これが能力を使って攻撃するには一番持ち運びやすく、攻撃力が高い。こういう飛び道具が使えることもあって、エリコはこういう場面では積極的に俺を使う。
階段を登り、二階に到達した。
微かだが、スマホの画面を叩くような音がした。
耳を澄まし、神経を研ぎ澄ます。
音のする方へ、ゆっくりと。
気配は消していたつもりだったのだが、教室の方から怒号が聞こえた。
「誰だ!」
伊藤部長の声だ。
何度か打ち合わせをしていて、向こうもこちらの顔を知っている。
ここはすぐ姿を見せるのが良いと思い、教室の入り口に顔を見せた。
「……君か」
伊藤部長は、スマホを握りしめた。
前回会った時よりも、だいぶやつれて見えた。直近に娘の手術が控えていた上、ようやく手術が終わったと思えば、その娘を人質に取られたのだ。無理もない。
「データの受け渡しは、これからですか」
腕時計に目をやる。もう間も無く受け渡し時間だ。
「娘の、ペースメーカーはどうなった」
懇願するような悲痛な表情で、伊藤部長は問うた。思わず「弾丸」を握った手に力がこもった。真実を伝えるか迷ったが、俺は今の現状を、そのまま伝えることに決めた。
「うちの技術者が頑張ってますが、まだコントロールを取り戻せてはいません」
二時を告げる機械的なアラームの音が鳴った。
伊藤部長のスマホからだ。
彼の口から、深いため息が漏れた。歯を食いしばり、唸るような声を吐いたかと思うと––––伊藤部長はまるで野球のピッチャーのように窓に向かって振りかぶり、手に握られていた緩衝材でガチガチに固められたディスクを、窓の外へ思い切り投げた。
開け放たれた校舎の正門から、一台のバイクが校庭に飛び込んできたのが見えた。
同時に俺のスマホが鳴り、慌てて耳につけておいたマイク付きイヤホンで通話を受ける。
弧を描くように落ちていくディスクを眺めながら、俺は窓へと走り出す。サッシへ足をかけ、そのまま空に飛び出す俺の耳に聞こえてきたのは、マリンの声だった。
「杉ちゃん、やった! ペースメーカーのコントロール、取り戻せたよぉ!」
「おっせーよ!!!」
空中でこれまでの鬱憤を晴らすようにそう叫んだ。
伊藤部長が投げたディスクは、フルフェイスのヘルメットを被ったバイカーの手にすでに落ちている。すぐさま走り去ろうとするその背中に追いつこうと、俺は地面を蹴った。
「先輩! 伏せて!」
聞きなれたお調子者の声に、俺は咄嗟に地面に伏せる。
銃声が二発、朽ち果てつつある静かな校庭に響いた。
左方向、蔦でもはや原形のわからなくなったバスケットゴールの影。何者かが潜んでいる。
再び発砲された銃弾は、俺の体をそれていく。
「あー、やっぱ気づかれちゃったらもう銃はだめかあ。こりゃもうこっちでやるしかないね」
諦めたようにそう言い、若い男が茂みから顔を出した。
「お前……! クソが。取り逃しやがったのか、展示場の連中は」
「平和ボケしたこの国の公権力に、俺たちが負けるわけないでしょ?」
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