第10話 バックステージ

 山並の姿が見えなくなったことを確認すると、笹嶋はわざとらしく小首を傾げながら、杉原に呼びかけた。


「私たちもそろそろ失礼しようかしらね!」


「……そうしましょう」


 杉原の同意に、にっこりと上品な笑みを返した笹嶋は、ひらひらと手を仰がせながら定員を呼び、会計を済ませた。


 取り止めのない和やかな会話をしながら、二人は扉の外へ出る。店を出る前にあらかじめ杉原が呼んでおいたタクシーが、店の前には止まっていた。


 笹嶋は小さな体をタクシーの奥に押し込み、「あなたも乗りなさい」と、手招きをした。


 杉原は「悪いですよ」と、仮面が張り付いたような完璧な謙遜の笑顔で応える。しかし笹嶋に促され、結局は車に乗り込んだ。


 タクシーが、夜の井の頭通りをゆっくりと走り出す。


 乗車直後は黙っていた二人だったが、走り出して少しして、押し込めていた言葉を杉原が暴発させた。


「なんだよ、ナンパ研修って! マジで名誉毀損で訴えるぞ!」


 思い出して恥ずかしくなったのか、杉原は真っ赤になって怒っている。


「何言ってんのよ、こんのド下手くそが。あたしがいなけりゃ、まだ連絡先も交換できてないわよ」


 痛いところを突かれ、杉原が怯んだのをみて、笹嶋はたたみかけた。


「あのね、ああいう、それなりにプライドが高くて、仕事ができて、人を信用できない女っていうのはね。どんなに上辺だけの美しさを見せても、絶対引っかからないわよ」


 タクシーの運転手が、笑いを堪えている。杉原にミラー越しに睨まれた運転手は、「すんません」と、謝意のこもっていないセリフを読んだ。


「あなたが演ったみたいな、完璧なジェントルマンはね、まだ恋愛経験の浅い、うぶで無知な女の子とかには有効だけど。ある程度熟してて、目が肥えて、男を批評するようになった女には胡散臭く感じられる。とくに賢い女は、その裏の裏を見ようとする。そこでうまくなびかないからって、強硬手段になんか出てみなさい。シャットダウンよ」


 暑くなったのか、笹嶋はかぶっていたウイックを剥ぎ取った。まとまっていたダークブラウンの長髪を、丁寧に肩まで下ろす。


「もうちょっと時間をかけなさい。焦るのはわかるけど。みっともないところ、人には聞かれたくない失敗、隠された弱みみたいなのをね、コミュニケーションの中にうまく混ぜ込みなさい––––庇護欲を掻き立てるのよ。完璧な男が自分だけに見せる弱み。まあ、ギャップ萌えってやつかしらね」


「……なるほど」


「やっぱり、顔面がいい男はだめね。努力が足りないわ」


「そりゃ偏見だろうが」


 ハッハと、陽気に笑った笹嶋は窓の外を眺める。


「あと、ウソの中にホントを混ぜること。あんたがターゲットに接近するための『研修』を受けたのはホント。ターゲットっていう本命に振られたのもホント。あんたが顔がいいことにあぐらを書いてるのもホント」


 杉原は、散々「顔がいいだけの男」と揶揄されて不服ながらも、学ぶところがあるのか、今は黙って聞いていた。


「あの子の感じだと、たぶんまたあんたがいきなり一対一で誘っても、逃げられるわね。もう一、二回は手伝ってあげるわよ。そのあとは頑張んなさいよ」


「形無しっすね、先輩」


 運転手の男がちゃちゃを入れる。小突いてやろうと片腕を上げた杉原だったが、事故が起きるリスクを考えたのか、苛立ちを抑えながら腕を下ろした。


「だいたい、なんであんたが、この役目を引き受けたわけ? いつもの仕事の方が向いてると思うけど。表向きの理由以外に、なんかあるんじゃないの?」


 笹嶋という女は、賢く、人の感情の機微に敏感で、抜け目のない女だった。「部下」のいつもとは違う意向の裏に、隠された何かがあるのではないかと考えているようだった。


「あんたには関係ない」


「あんたじゃなくて、エリコさんって呼んでっていつも言ってるでしょ! この子はもう」


 面倒くさそうに、杉原は自分側の窓に顔を向けた。


「その年でエリコさんはないだろ。若作りババア」


「あ、今あんたボソッと、ババアって言ったでしょ!」


 ぐうの音も出ないほど言いたい放題言われた杉原には、もはや幼稚な反撃しか残されていなかったようだ。


 ぎゃあぎゃあと言い合う賑やかで怪しい三人組を乗せた車は、東京の夜の闇に消えていった。

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