第8話 思わぬ場所で

 今日予定されているオリエン項目を全て終えた山崎は、男所帯の特別事業部にやってきた紅二点を、エレベーターホールまで見送った。


 精神的に疲れた様子の二人の姿が扉の向こうに消えるのを見届け、自分の業務に戻ろうと振り返ると、想定外に目の前にあった鋼鉄の胸板にぶつかった。


「うわっ、部長」


 驚いて飛び退く山崎を、鋭い眼光で睨んだ男––––特別事業部第一部を預かる部長の、伊藤晋也は、部下のリアクションには特に言及せず、用件を聞いた。


「どうだ、新人は」


 質問に対応する体勢を整えた山崎は、手短に印象を答える。伊藤は長い説明を嫌うのだ。


「真面目そうですし、人柄も問題ないかと。ただ、事業部としてはありがたい人材ですが、これまでの彼女たちのキャリアを考えると、ご本人たちは今回のポジション、不服に思われるかもしれません」


「仕方あるまい。国と会社の未来がかかってるんだ。たとえ雑用係だろうと、使えない人材は選べない。不服と思われるなら、テスト期間の間に辞めてもらうまでだ」


 自衛隊上がりの伊藤は、筋肉質な腕を胸の前で組み、エレベーターホールを睨んでいる。


「相変わらず、手厳しいですね」


「当たり前だ。俺たちは子どものおもちゃを作ってるんじゃない。国防の要となる製品を作ってるんだ」


 そう言うと伊藤は、特に他の用件はなかったらしく、すぐに山崎に背を向け、部長室へ戻っていった。事務職らしからぬ体格の圧力から解放され、その場に残された山崎は、ホッと息をついた後、執務エリアへと戻っていった。



 ⌘



 二日間の研修期間を終えた私は、疲れ切っていた。普段聞き慣れない情報のオンパレードで、頭の中の知識が交通渋滞を起こしている。


 だが、初日の「四億五千回」のインパクトもあって、研修に関しては真面目に取り組んだ。


(しかし、いくらパスワード管理ツールがあると言っても、ひと月に一回のパスワード変更は面倒だなぁ)


 だが、これだけ鉄壁のセキュリティで守られている重大機密を、自分が漏らしたらと考えただけでも肝が冷える。気を引きしめなければならない、という意識はこの二日で高まった気はする。


 まだ実務内容は聞かされていない。明日の出勤時に、秘密保持誓約書を書いてから初めて明かされるらしい。


(希望のキャリアとは違っちゃったけど、せめてやりがいのある仕事だといいな)


 荷物をまとめ、スプリングコートを引っ掛けて外へ出た。本当なら葛木さんを夕食に誘いたかったが。残念ながら保育園のお迎えがあるということで、実現しなかった。


 せっかく定時帰りができているので、何となくまっすぐ帰りたくなくて、新宿駅の駅ビルで服や雑貨を見て回っていたが。ギラギラと輝くネオンや無限に湧いてくる人波に酔って、自然と足が駅のホームへ向かう。一日パソコンの画面を見ていたので、もう少し落ち着いた、開放感のある場所でゆっくりと過ごしたい。


 行くあても決まらぬまま、小田急線の路線図を見上げると、「代々木上原」の文字が目に入った。


(あ、そういえば。山崎さんが、代々木上原に素敵なお店があるっていっていたっけ)


 山崎さんは、オリエンの合間にいろいろ雑談を振ってくれた。彼が話しやすい雰囲気の人物だったこともあり、葛木さんも私も、自分の趣味や好きなお酒の話などもしていた。


 私がドイツビール好きというのを知って、彼は私と葛木さんに、代々木上原のおすすめのお店の割引券をくれていたのだ。


 財布から取り出してみると、何と使用期限が明日までだった。


 ちらり、と腕時計を見る。


(七時前か。夕食がてら、一杯だけ飲んじゃおうかな)


 少し軽やかになった足取りで、私は代々木上原駅で電車を降り、スマホで出したお店の地図と睨めっこしながら、駅前の通りを歩いて行く。


 ごく稀に友人と訪れることもあるが、一人で代々木上原に来るのは初めてだった。この辺りは閑静な住宅街だが、美味しい個人店も多い。値段は少々お高めな店が多いが、総じてはずれが少ないのだ。


 目的の店は駅から降りて五分ほど歩いた先の裏路地にあった。年季の入った木製の扉を開くと、そこには温かな電灯のオレンジの光に包まれた、ログハウス調の内装のアットホームな空間が広がっている。


 思ったより店は広く、テーブル席は十席ほどはあるだろうか。緑色のエプロンをかけた店員の女性が、私に気づいてカウンター席へ案内してくれる。


(さてさて、何にしようかしら。手始めにソーセージと、ザワークラウトをつまみつつ、ビールはうーん、悩むなあ)


 豊富なメニューを前にワクワクしていると、カランカラン、と来店を告げる鐘の音が鳴った。


 何気なく視線を上げたその先には––––なんと、あの男が立っていた。

 


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