第7話 最も狙われる部署

 研修室を出ていく山崎の背中を見送り、私たちはお互いに笑顔を向け合った。


葛木春子かつらぎはることいいます。先月まで航空機事業部のマーケティング部にいました。よろしくお願いしますね」


 彼女の慈愛に満ちた笑顔は、大人の包容力を感じさせる。とりあえず優しそうな人が同僚でホッと胸を撫で下ろした。


「初めまして、山並美冬です。私は財務経理本部からの異動で。秘書業務は全く経験がないので、ご迷惑をおかけしないように頑張ります」


「財務経理本部? そっか、それは大変ですね……私は昔、一時期秘書課にいたこともあったので、困ったことがあったら言ってくださいね」


 葛木さんと会話を続ける中で、ようやくまともに呼吸ができるようになってきた。この部屋に入ってから、あまりの無機質で空虚な空間に圧倒されて、押しつぶされるような感覚に襲われていたのだ。他愛無い会話を彼女とすることで、少しずつ落ち着きを取り戻すことができた。


「でも、珍しいですねえ……財務経理からここの事業部の秘書のポジションへ異動だなんて。ご自身で希望を出されたの?」


「いえ、元々ずっと経理畑で……今回の辞令はほんと、寝耳に水なんです」


「そうなの……」


 彼女は眉尻を下げて、同情の眼差しを私に向けた。


「私もね、急に異動を言い渡されて。もっと色々、前の部でやりたいことがあったんだけど。やっぱり、ワーママっていうのが引っかかったのかな」


「お子さんがいるんですか。全然見えないです」


 私の驚いた様子を見て、葛木は、ふふ、と恥ずかしそうな笑みを漏らした。


「嬉しいことを言ってくれますね。二歳の双子がいるの。とても可愛い盛りなのだけど、定期的に熱を出してね。一人が治ればもう一人が感染して、もう大変。旦那は仕事が多忙で、あんまりい家にいなくて。子どものことでちょくちょく早退してたし、もしかしたらそれが人事評価に響いたのかなって」


 おどけた様子で、仕方がないわね、といった彼女は、少し悲しそうだった。まだ初対面なので、彼女の人となりはわからないが、丁寧で優しげな話し口を見る限りでは、真摯に仕事をしていた人なのだろう。ほとんどワンオペ育児をしながら、彼女なりに頑張ってきた中で、認められずに異動させされてしまったことが、彼女の心に影を落としていることは容易に想像できた。


「戦力にならないから異動させられたって訳じゃないかもしれないじゃないですか。もしかしたら、葛木さんの能力を買って、ぜひにってことで異動になったのかもしれませんし」


 ふわり、と大輪の花のような笑顔を見せた彼女は、女の私が見惚れてしまうほど美しい。まつ毛が長くて、色が白くて。お人形さんみたいな人、というのはこういう人のことを言うのだろう。


「ありがとう。優しいのね」


 和むと同時に、心がちくり、と痛んだ。さっきのセリフは、半分自分への慰めでもあった。でも、いつまでも塞ぎ込んでばかりはいられない。男に頼らずに生きると決めている以上、自分の身は自分で立てていかなければならない。


 その後も女子トークに花が咲き、和やかに会話が進む間に、ノートパソコンを小脇に抱えて山崎さんが戻ってくるのが見えた。


「遅くなりました。では、今日のオリエンを始めますね」


 メガネをかけた、スポーツ刈りの彼が演台に立っていると、なんだか大学の講義を受けている気分になった。しかし、単なる部署異動でこんなにきちんとオリエンの日程とオンライントレーニングの日程が取られているなんて珍しい。転職したわけではあるまいし。


「まず、今日行うオリエンの意義についてご説明しますね。お二方が所属されることになる、特別事業部はですね、三河工業の中でも最もサイバー攻撃の標的になる部署なんです。そのため、他の部署よりもより高レベルなセキュリティ意識を身につけていただきたく、こうした場を設けています。オンライントレーニングも、ほとんどが情報セキュリティ関連のものなんです」


 防衛事業っていうくらいだから、それなりに想像はしていたが、そこまで脅威にさらされているとは思っていなかった。明らかに怪しい迷惑メールなどは、うちの部署でもよく受け取っていたが。


「まず、PCは持ち出し禁止。どっかに置いてきちゃったりしたらアウトですからね。USBメモリの使用も基本禁止。マルウェアの感染経路になる可能性があるからです」


 私は恥を偲んで、遠慮がちに聞いた。


「あの、マルウェアって……」


「コンピューターウイルスのことよ」


 葛木さんが優しく教えてくれた。彼女はずっとうなづきながら聞いているので、私よりセキュリティについては明るいのかもしれない。


「あとはね、うちの場合『標的型攻撃』っていうのを受けがちです。標的型攻撃っていうのは、無差別に攻撃してくるんじゃなくて、何かしらの目的を持って付け狙ってくる攻撃のことです。標的型攻撃の犯人は、金銭目的のサイバー犯罪グループであることもあれば、国家の支援を受けたサイバー犯罪集団や、軍隊のこともあります。うちが契約しているようなサイバーセキュリティ会社とかだと、こうした標的型攻撃を行うグループを特定して付番して、監視していたりします。攻撃のパターンを分析して、対策を取ったりするんですね」


 楽しそうに若干話が脱線した山崎を見て、多分この手の話題が彼は好きなのかもしれないと思った。そんな中、既に少し眠たくなり始めている私がいる。


「ちなみに、かつて東京でオリンピックがあった時。開催期間中、大会関係者・関係機関にどれくらいのサイバー攻撃が行われたかご存知ですか? 山並さん」


「え! えーと……存じ上げません」


 しまった、あくびを必死に噛み殺しているのがバレただろうか。まるで先生にたしなめられた子どものように、しおれながら答える。


「四億五千回です」


「えっ、億ですか」


 私も驚いていたが、今回は隣の葛木さんも驚いていた。


「はい。ちなみに、うちが戦闘機の開発事業を拡大するという発表をして、現在までの期間、それと同等くらいの攻撃を受けてます」


 私たちは絶句した。IT担当者ではないので、実際の脅威に対処するわけではないのだろうが。それだけ管理する情報や、怪しいメールに対して気を配っておかなければならないということだ。


「だからね、今日から三日間の研修は、たかが研修と思わず、会社の財産を守る覚悟で挑んでください。私たちみんなが戦闘の最前線にいることを忘れないように」

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