第21話 救世主

 手が震えている。ふと視線を落とすと、爪まで真っ青になっていた。

 どうしたらいいかわからない。でも決定的なのは、自分が窮地に立たされてしまったと言うことだった。


 何か、言わなければ。だけど、一体何を。

 考えても考えても、言葉が見つからない。絶望に打ちひしがれ、それでもなんとか打開策を見つけようとして前を向いて––––そして、ジョン・キンバリーの背後に立つ男の影に気がついた。


「えっ」


 黒髪短髪の大柄なスーツの男は、ジョンが持っていた書類を素早く取り上げたと思うと、私に席を詰めるように目配せした。


(杉原さんが、なんでここに?)


 ジョンは、まるで射殺すように杉原さんを睨んだ。この場がカフェでなければ、多分、つかみ合いの乱闘になっていよう勢いだ。


「それを、返しなさい。あなた一体誰ですか」


「俺? 俺はこの人の彼氏ですが。ヘッドハンターとの面談が終わったら食事に行こうという約束をしていて、この店で待ってたんですよ。そしたらなんだか不穏な空気になって、彼女が困っているようだったから」


 杉原さんは、片眉をあげ、木箱の中身を確認すると、そのまま勢いをつけてジョンに向けてテーブルの上を滑らせた。


「こういうのは困りますね。話半分で聞いてたけど、これ本当に機密情報なんですかねえ。美冬、この機密書類らしきもの、中身知ってる?」


 杉原さんの言葉を聞いて、急に焦りが顔に出たジョンは、大慌てで荷物をまとめて退席しようとした。彼の後ろ姿に向けて、杉原さんは声を張って呼びかける。


「あと、これは独り言ですけどねえ。スマートフォンでうちの彼女を盗撮してるらしき人間を見つけたから、警備の人に突き出しておきましたよ。その木箱のやりとりより前に捕まってるはずだから、映像とやらは映ってないんじゃないかなあ」


 ジョンは、一瞬歩みを止めたが、そのまま早足でカフェを出て行った。杉原さんは、ジョンの後ろ姿がホテルの外へ出るのを目で確認したあと、私の方へ顔を向けた。


「大丈夫だった? ごめんね、急に横槍入れて。たまたま店内にいるのを見かけて、困ってそうだったから」


 私の言葉を何も聞かないまま、強引に切り込んでしまったことを詫びでいるらしい。断崖絶壁まで追い詰められていた自分としては、まさに救世のヒーローとしか言いようがなかったので、慌ててフォローを入れる。


「いえ、本当に困ってたので……ありがとうございました。本当に、どうしようかと思って……」


 なんとかそこまで言葉を捻り出したが、耐えきれず目から涙がこぼれ出した。怖かった。本当に、怖かったのだと、自分の感情なのに、どこか客観的に見ているようで。まるで子どものように泣き出す自分を、ただ内側から眺めていた。


 下を向いて泣いているので、杉原さんがどんな顔をしているかは見えない。だが、彼の大きくて温かい手が、私の冷たくなった手の甲に、そっと重ねられた。初めのデートで、あれだけ勢いよく突っぱねたのに、重ねられたその手は、真っ暗な暗闇の中に放り込まれていた私の心に、確かに明かりを灯していて。


 限界まで弱っていた私の心は、この手の温もりに、とてもとても、救われたのだ。




「……落ち着いた? もしよかったら、場所、変えない? あんなことがあった場所だし、ここじゃ落ち着かないでしょ。いつものドイツビール屋でどう?」


 ハンカチを一枚、目一杯濡らすまでそのまま付き合ってくれていた杉原さんは、頃合いを見てそう、声をかけてくれた。


「……はい」


 だいぶ気持ちが上向いて、落ち着いてきた私も、周りの目線が気になってきていた。側から見たら、ちょっとした男女トラブルか何かと思われている可能性もある。チラチラと向けられる好奇の目線が、そろそろ辛くなっってきた頃合いだった。


 ホテルを出て、タクシーでいつもの店に向かう。まるで映画のワンシーンのように、東京の夜景は流れていて。まだどこかふわふわとした気持ちのまま、私はタクシーに揺られていた。



 ⌘



(あんなに急いで、どこに行くのかしら)


「笹嶋」もとい、エリコは、エディントン・ホテルの出口で、ジョン・キンバリーを待ち伏せていた。今日は歌劇鑑賞帰りのご婦人風を装っている。このホテルは有名な歌劇団の劇場の近くに位置しているので、この格好が紛れやすいと判断したのだ。


 どうやらキンバリーはこのまま駅にむかうらしい。地下鉄の駅を降りて、ホームへ向かっている。焦っているのか、階段を降りながらスマホをいじっている。仲間と連絡をとっているのだろうか。


 少し離れたところで様子を伺う。この男は完全に黒だ。継続的な監視対象となる。プライベートのアカウントも含めて、マリンがハッキングを試みたが、仲間とのやりとりの内容は確認できなかった。


 暗号化できるメッセージアプリを使用しているか、オンラインメールの下書き機能を使ってのやり取りなど、足のつかない方法で連絡をとっているに違いない。


(資料の受け渡しで仲間と接触するタイミングがあるといいんだけどねえ。次に可能性があるとしたら、山並美冬以外のターゲットから情報を入手したときか)


 間も無く電車がくる。このまま家に帰るようなら、途中でチームメンバーとバトンタッチだ。流石にこの格好で自宅周辺で張っていては目立ちすぎる。


 エリコは、相手に気づかれないようにしながら、ようやく見つけたトカゲの尻尾を、注意深く観察していた。

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