47 癒し

 美来は種田が如才なく差し出した手帳とペンを受け取り、自らの連絡先を記入した。


 その手帳が種田の手元に戻ったタイミングでレックスは静かに喋り出した。


「俺はね、蒼龍が俺にを今でも許していないんだ。…………けれど、は割と許してる。それがどうしてか分かる?」


 その問いに対して美来は極小さな、子どものような弱弱しい声で「私と違って誠意があったから……」と呟いた。


 レックスから直接許さないと同意の事を言われた美来は思った以上に意気消沈しているようだった。誠意を語る辺り、自身の言動に対する反省も見える。


 この面会にも少しは良い意味があったかなと、月は何となしにレックスを見上げた。そのタイミングで何故かレックスが僅かに視線を上げ、どこを見る事なく軽く笑った。美来もその気配に顔を上げてレックスを注視する。


「それはまぁ大前提なんだけど。アイツ、母親と謝りに来て以降全く姿を見せなかったくせに、急に俺の前に現れるようになったんだ。連絡先や住所は一切教えてないのに。それから下手すりゃ実家の家族より顔を合わせてる。でも、昔の事に関しては一切話してない。さて、どういうカラクリだと思う?」


 レックスは言いながら、ずっと手に持っていたコートを羽織り始めた。もう、この場に留まるつもりは無いらしい。しかも、月にも部屋を出る準備をするように促してきた。考える余裕がなくなった月が椅子に掛けてあったコートに身に着けている間、美来は真剣に考える表情をしていたが、答えには辿り着かなかった。悔しそうに「分からない」と彼女が言うと、レックスはそんな美来にではなく種田と月に声を掛けた。


「種ちゃん、について軽く話してあげて。ムーちゃん、もう行こう」


 言うなりレックスは別れの言葉を口にすることなく部屋から出てしまう。月は慌ててその後に続いた。その際にちらりと見た種田が心の底から驚いた顔をしていた。


「望月さんって……えっ? あっ、ああっ! そういう事か!!」


 月の背後で種田の声が響いたが、レックスが足を止めなかったので振り返る事なくそのまま部屋を後にした。





 レックスはエレベーターを操作すると下降ボタンではなく上昇ボタンを押した。実はビルに付属の駐車場がないのだ。よって種田がすべてを片付けて車を入り口に外付けするまでは、ビル内で待機する必要があった。なので、先程までいた会議室の一階上に他のレンタルスペースを借りており、そこにレックスと月は向かった。


 月は無言で促されるままそのレンタルスペースに入る。そこは下のシンプルな会議スペースとは違い、パーティールームとしても使えるような部屋だった。システムキッチンとダイニングセット、ソファまで完備されていた。レックスは部屋に入るなり、ソファに倒れ込むように横になった。


「だっ大丈夫ですか!?」


 慌てて駆け寄ると、レックスは持っていた鞄で顔を覆った。


「無理、全然大丈夫じゃない。しんどい、疲れた。脳みそ爆発して、ゲロ吐きそう」


「ええええっ」


 これは一体どうするべきかと月は心底慌てたが、直ぐにレックスは鞄の陰から顔を出した。


「って、途中まで割と本気で思ってたんだけどね。今は思った以上に全然平気。元気だし、気分も別に悪くない」


 そう言ったレックスは元気があることを体現するように勢いよく腹筋の力だけで上体を起こして座り直した。そして、自分の座っているすぐ横の座面をぽんぽん叩いて月に座るように促す。月は少しばかり躊躇したが、今は変な遠慮をするタイミングでもなかと、レックスが示したところから人一人分のスペースを空けて隣に腰を下ろした。


「遠くない?」


「いえ、適正距離かと」


 背もたれに体の側面を預けつつ長い脚を組んで正面から見つめられ、恥ずかしさから目を逸らす。それでも、この場で言うべき言葉の選択肢はそれほど無く、月は最も無難で重要だと思える事を口にした。


「お疲れ様でした。元気が少しでもあるなら良かったですけど、無理はなさらず種田さんが来るまでゆっくり休んで下さい。……それから、何も喋るなって言われていたのについ感情的になって出過ぎた真似をしました。ごめんなさい」


 約束を破ってしまった上に冷静でもなくなってしまった。おまけに涙すら流した。


 今更ながら思い出すと恥ずかしいやら情けないやら申し訳ないらで、合わせる顔ない。考えれば考えるほど月は自らのやらかしに顔を上げられなくなった。


「ほんと、マジでルール違反。よって違反行為に対してペナルティを課そうと思います」


 思わぬ事を言われ、一体何を自分はさせられるのかと月が恐れ慄く。その一瞬でレックスが人一人分空いていた距離を一気に詰めた。


「えっ、ちょっ、まっ松田さん?」


 気がついた時には月はレックスの腕の中にスッポリ収まり、頭を抱えるように抱きしめられていた。


 何だこれは!? 罰? ペナルティ!? えぇっ? ご褒美の間違いでは!? あっ、いい匂いする………


 月が理解不能な状況に陥り現実を逃避しかけた時、レックスの声が耳元で震えた。


「――――ありがとう。ムーちゃんが居てくれたから因縁深めて最悪の気分で解散しないで済んだ。俺……ムーちゃんの事。信じられなくて酷い態度取ったのに…………優し過ぎ」


 掠れた声には力が入っておらず、ハグするというよりも前から寄り掛かられて脱力している感じだった。張り詰めていたものがここに来てやっと緩んだのだろうと推察した。


 とはいえ、今の状況は先程とは全く違う種類の緊張を月に生じさせる。


「いえ、迷惑にならなかったのなら、よかったですっ」


 若干声が上擦る。一世一代の決心で臨んだ面会の後のレックスに恥ずかしいから離れてくれと言って良いのかどうかが分からず、身を硬くしたまま停止。するとレックスが軽く体を離し、至近距離から顔を見つめてくる。


「力み過ぎて、唇から血が出てる」


「……大丈夫です。こんなの舐めてたら治ります」


「舐めてあげよっか?」


「ははははっ、すんごい冗談ですね!!」


 ものすごい事を言われた事は分かったが、月はアレコレ考える前に笑って流した。するとレックスは再び距離を詰めてきて、月の頭に頬をすり寄せる様にした。


「まっ松田さんの方が大丈夫ですかぁ!?」


 以前もレックスはドキリと心臓が跳ねるような距離の詰め方をしてきた事は度々ある。その度に月は高鳴る胸を抑えて何とか冷静に対応してきたつもりだった。今回も感情的になって人恋しくなったレックス特有のスキンシップなのだと、どうにかこうにか自分に言い聞かせる。そうやって受け入れたは良いものの、いつもなら割と直ぐに離れていく体温が一向に遠のかない。となれば今まで思考が回らなかったところまで考える時間が生じてしまう。


 なっ、何で、松田さんっ、私のこと、抱きしめてるの?


 脳内がとっ散らかり、頬が急激に熱くなる。現状をどう受け止めれば良いのかが分からず、ただただされるがままに抱きしめられている時だった。


 背中に回っていたレックスの大きな手が月の背中をするりと撫でた。


「はぁ、こんなに心の底から女の子が愛しいこと、今までにあったかなぁ……」


「ひゃっ!?」


 右手は上から下へ。左手は背中からウエストへ。コートを未だに身に着けているにもかかわらず、ゆっくりと掌が背中を移動した後に先程よりも強めにギュっと引き寄せられた感覚が妙にしっかりと背中を伝って脳まで届く。瞬間電流が走ったかのようにゾクゾクした何かが肌を駆け抜け、月の喉が鳴り、体が震えた。すると、レックスが弾かれたように月を腕の中から解放した。


「ごっこめんっ」


「い、いえ……」


 気まずい沈黙が数秒。


 レックスの自分に対する距離感がバグっている。嫌ではない。まして好きな相手からのハグなど胸が高鳴って仕方がない。しかし、心臓に掛かる負担が莫大過ぎる。


 こんな風に触られると勘違いしそうになっちゃうから、やめて欲しいっ。


 月は心の中で切実に願いつつ、何とも言えない雰囲気になった室内の空気を変えるべく話題を提供した。


「とっところで、さっき言ってたって何者なんですか!?」


 どもりながら妙にハキハキとした口調で逸らしていた視線をレックスに戻す。すると見上げた頬が心なしか赤い事に気が付く。しかも、話を聞いていなかったようで、一人で口元に手を当てながらぼそぼそと何やら呟いている。


「……今じゃ、ないよな。…………もっと、ちゃんと場を整えて、ムードももう少し……。種ちゃん来ちゃうかもしれないし…………」


「あの、聞こえました?」


「えっ? んっ? 何か言った?」


「望月さんって誰ですかって」


 先程から月は自らの鼓動の音が騒がし過ぎてレックスの声がいまいち頭の中に入って来ていない。話題を変える事に一生懸命過ぎて意味深なレックスの発言は完全にスルーしてしまう。レックスの方も振られた話題に関して答える必要性を感じたのか、直ぐに返答してくれた。


「ああ、望月さんはね俺のファンクラブの会員だよ」


 月は首を傾げた。レックスのファンクラブ会員と先ほどの美来との会話が全く結びつかない。そんな月の表情を見たレックスがくすりと笑う。


「その人のフルネームはね望月っていうんだ」


「えっ? …………あっ! もしかして、お母さんの旧姓ですか?」


「ピンポン」


 望月は両親の離婚が成立して以降の蒼龍の苗字だった。レックスの話によれば、自らの全く与り知らぬ所で蒼龍はファンクラブに会員登録していたのだという。そして、ファンクラブ限定の握手会の際に堂々とレックスの前に現れ、他人行儀に「ファンです。一生応援します」と握手を求めて来たのだとか。その後も蒼龍はファンイベントがあれば会場内にほぼ必ずと言って良い程現れるようになったとか。


「最初は何を考えてるんだって、かなり鬱陶しかったんだ。顔見るだけで嫌な事思い出すしね。でもさぁ、個人的な接触を一切試みずに完全にファンとしての距離感で本気で応援される内にこっちの調子も狂ってきちゃって。俺のファンって何だかんだで女子が多いんだけど、その中に混ざって厳つい男が本気でイベント参加してくるから他のファンの間でも有名になっちゃってさ。いつの間にか俺の男性ファンのリーダー的存在になってSNSとかで俺の動画の面白さとかを発信とかしてくれちゃったりしてるの。罪滅ぼしのつもりかってはじめの内は嫌だったんだけどさ、周りのファン達がアイツをメチャクチャ評価するようになって。どうやら本気で俺の動画を見て楽しんでくれていて、いつの間にか“望月さん”っていう俺の一ファンっていう扱いをせざるを得なくなっちゃったの。んで、今では昔の事を何の説明もしてない種ちゃんにも認識されるような個性派ファン筆頭ポジションに収まってる」


 蒼龍の事を語るレックスの表情は穏やかだった。どうやら、思いも寄らなかったレックスと蒼龍の新しい立ち位置は上手くいっているようだ。


「種田さんはさっき驚いた顔をされてましたけど」


「だろうね。通称“望月さん”で名前とかほとんど誰も口に出さないし。けど、種ちゃんは記憶力良いから普段は意識してなくても、有名なファンのフルネームくらい脳みその引き出しから出せるタイプなんだよね。蒼龍なんて名前滅多にないからさっきのやり取りだけで、俺の言いたい事を把握して上手く対応してくれてると思う」


 確固たる信頼があるのか、レックスは下の会議室でされているであろうやり取りを不安に思う事はないらしい。


「言いたいことっていうのは……」


 控えめに問えば、レックスは切なげに目を伏せた。


「別にファンになって欲しいわけじゃなくて……純粋に反省した上で、蒼龍みたいに形にこだわる事なく誠意というか、押しつけがましくない情をみたいなものを見せられたら、少しは絆される事もあるかもねって。まぁ、あの性格だと蒼龍と同じ様にはならない可能性の方が高いし、同じ事を表面上しただけじゃ意味ないって事は種ちゃんは言ってくれると思うけど」


「少しでも許せる可能性がある道を示してあげるだけでも、優し過ぎるくらいだと思いますけど」


 わざわざ今の蒼龍の立ち位置を美来に教えてやるのは少々甘い対応なのではないかと、月は無意識に頬を膨らませた。先ほどまでの態度を思い浮かべると、蒼龍同様の反省を美来がする姿はどうにも想像出来なかった。


 そんな月の頬をプスリとレックスの指が差し、空気を抜いた。


「ムーちゃんが優し過ぎて、気持ちが軽くなったからするりと出てきちゃったんだ。まぁ、現状許すつもりは無いし、自分が貶めた元恋人が今俺にどういう誠意を見せているのかを知ってもらいたかったっていうのもある」


 レックスの指が突くのを止めて、フニフニと月の頬を摘まみ始める。月はされるがままになりながら、素直な感想を述べた。


「私は感情のままに喚いただけですから……。でも、松田さんと蒼龍さんの現状が聞けて少しほっとしました」


「そっか、色々心配かけたよね。もう、俺は大丈夫だから。ムーちゃんに庇って貰って大丈夫になったから、安心して」


 美来が語った過去によってレックスの心の傷が深まってしまったのではないかと一時は不安になった。しかし、目の前で優しく微笑んでいるレックスの笑顔は紛れもない本物見えた。全てが丸く収まったわけでは無いが、レックスにとっては大きな一歩になったのであろうことが窺え、月は改めて胸を撫で下ろす。


「ところでさ、ムーちゃん」


 レックスが穏やかな空気を放ったままにこりと微笑みを深めた。それに釣られてへらりと返事をした月に思わぬ問いが投げかけられた。


「俺を癒すって啖呵切ってくれてたけど、具体的にはどんな風に癒してくれんの?」


「…………えっ?」


 突然投げ込まれた返答難易度の高い問いに言葉が出て来なくなる。勢い余って感情のままに美来に切った啖呵に嘘偽りは一切ない。ないが、改めて具体的にどう癒すのかを問われると恥ずかしさが半端ではない。


「これに、ちゃんと答えるのがムーちゃんに課せられたペナルティーね」


「ええっ!? ここでそういうカードを出して来るんですか!?」


「うん、だって気になるもん」


 月の頬を摘まむ指を離し、ゆったりとソファに凭れたレックスが背もたれ上部にコテンと頭を載せて上目遣いに見つめてくる。


 あざと過ぎる。


 月はレックスを直視する事が出来なくなって部屋の隅に目を逸らした。するとそこには丁度良くキッチンがあった。


「ええっと、健康的で美味しい食事と清潔な住環境、パリッとアイロンがけされた洋服と良質な休息を取るためのサポート、とか、ですかね……」


 無論、月は自分の仕事を頭に思い浮かべていた、しかし。


「…………いいね、それ。プロポーズみたいだ」


 まさかの単語が聞こえてきて月はギュルンとレックスの顔に視線を戻した。言われてみれば確かに“美味しいみそ汁を毎日作ってあげる♡”的な文句に聞こえなくはない。勿論、そんなつもりで言ったつもりは毛頭ない。


「何言って――――」


 顔が赤くなる事はコントロールする事は出来ないので、なんとか言葉だけでも違うと否定しようと口を開いた。しかし、言おうとした台詞は出だし部分だけしか音にならなかった。


 長い人差し指がまた伸びて来て、まだほんの少し血が滲む下唇にそれが触れた。


「でも、俺は言われるより言いたい派」


 細められた双眸の奥の光を見て、月は思いっきり息を呑んだ。


 何故そんな事を、そんな甘い表情と声で、どうして私に向かって、言うんですか?


 月の心中で渦巻く疑問を解消するために心身が働き出す前、レックスは意味深にカラリと笑った。


「まぁ、それより先に“彼女”作らなきゃね」


 言うなりコーヒーを淹れようと急に立ち上がったレックス。月は数秒ソファに座ったままその背中を呆然と眺めた後、自分の職業を思い出して慌てて立ち上がる。キッチンに立つレックスを追い、備え付けのポットで水を沸かすのを手伝おうとする。しかし、その直後、ホテルでもないレンタルスペースにインスタントでもコーヒーがあるのかという疑問が浮上し、二人で在りもしないコーヒーをキッチンで探し回っている内に種田が現れてしまう。なんだか妙におかしくなってケラケラ二人で笑い、それを種田に訝し気に見られている間に、月は意味深なレックスの台詞の真意を確認する事をすっかり失念してしまっていた。







 結局、美来が炎上を仕掛けたかどうかは分からずじまいで面会は終わった。しかし、面会の後にアカウント名【T to G】は突然中立派を止めて、レックスを強く擁護するコメントを乱発した後に沈黙した。


 その後、レックスは事務所HPで今回の炎上に関する声明を文章で公開した。美来との因縁などを明るみに語る事はしなかったが、誠意ある説明がなされたその声明に炎上は徐々に鎮火。一週間も経過すればファンがレックスを擁護しながら炎上を憤る声がSNS上で確認される程度になる。


 レックスの日常は予想より早く彼の許に戻ったのだった。

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