第5話 それぞれの想い

20 恋泥棒の胸の内



「よっしゃっ、これで一先ず廊下は綺麗になっただろ!」


 レックスはビニールシートを剥がした後に改めて雑巾で拭き上げた廊下を満足気に見下ろし、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。その横でワイシャツの袖を捲って雑巾を握っている種田が溜息を吐く。


「はぁ、汗を掻くほどの肉体労働をレックスがする必要は全くなかった。他にやるべき事は五万とあるだろう?」


 差し迫った仕事はないが、急ぎでなくてもやらねばならない仕事は腐るほどある。それはマネーシャーである種田もレックス本人も十二分にわかっている。


 種田を見やればそこには不満そうな顔。レックスは苦笑を浮かべて種田の後頭部を小突いた。


「おらっ、原因を作った張本人が俺の行動に文句を言うな。それにムーちゃんが出てきたら下のスタッフ呼んで部屋の中は任せるから、俺の肉体労働はそれまで」


 小突かれた後頭部を摩りながら一瞬気まずげな表情を浮かべた種田は視線を伏せつつ今度は子どものように唇を少しばかり尖らせた。


「だったら、最初からスタッフを呼べば良かったじゃないか。……そんなにあの女と二人きりになりたかったのか?」


 ぶーたれた顔は文句たらたらだったが、帰って来た後の種田の態度にはしっかりと反省の色があった。少々月に突っかかりはしてもぞんざいな扱いはしなかったのでレックスの機嫌は降下しなかった。


「半分正解で半分不正解ってところだな」


 種田は意味が分からないとより眉を顰めたが、具体的な理由を教える気はない。全身ドロドロの自分の代わりに種田に着替えを適当に出しておいて欲しいと頼んでクローゼットに向かわせた。自らはキッチンに向かう。廊下の掃除はほぼ終わった。月に美味しい夕食を作って貰うためにはもう少しキッチンを片付けておかなくてはならない。


 レックスは雑巾をシンクの端に一先ず置いて、キッチンの隅にしゃがみ込みビニールシートを剥がす作業に取り掛かった。その作業た単調で地味。無心で取り掛かって直ぐに思考は自然と先ほどまでしていた会話に引っ張られる。


 脳裏に浮かんだのはローションに濡れてしまった月の姿。本人は本格的に全身が濡れるまでは然程その姿を気にした様子はなかったが、実はレックスの目には気にした方が良いように見えていた。


 厚めのポロシャツに黒のパンツスタイルの月は下着や肌が透けるということはなかった。しかし、濡れたポロシャツの布はペタリと背中に貼り付いて華奢な体のラインを露わにし、尻もちをついた後のそこは透けはしなくても僅かに下着のラインが浮かび上がっていた。


 エロいとまでは言わないがセクシーと表現するには十分な姿になってしまっていた月。本人が気にしていないのにわざわざ指摘して恥ずかしい思いをさせる事もないとレックスの悪い男の部分が黙っていることを選択する。同時に他の男に見せるのは絶対に無しだと判断し、レックスはスタッフを呼ぶタイミングを延期したのだった。


 そんな自分の思考を振り返ったレックスは一人で自嘲的に笑った。


「一丁前に独占欲なんて抱いちゃってまぁ……。結局怖気づいて適当に誤魔化したくせに」


 ビニールを剥がす指先につい先ほど触れた月の頬の感触が蘇る。


 ローションに濡れた指先でなぞった肌は滑らかで僅かに温くかった。そして、不用意に零した言葉に純な瞳は驚きと困惑の表情を浮かべていた。


 レックスは月の瞳に浮かんだその困惑の色が次にどう変化をするのかを見ることを拒んだ。もし、困惑が強まり拒絶の色が出てきたら確実にダメージを受ける。そのダメージを受けたくない一心でレックスは作り上げた空気を自ら霧散させたのだ。


「俺は一体何がしたいんだ……」


 レックスは項垂れつつ、脳裏に改めて月の姿を描いた。







 若い割にプロ意識をしっかり持った感心な女の子。それが月の第一印象だった。


 出会い頭で芸名に様付けで呼ばわり、エアコンの上部を掃除しようとして椅子から転がり落ちた月。かなりそそっかしい家事代行スタッフという印象も無くはなかったが、地味な仕事だと思っていた家事代行業務をクソ真面目にプライドを持って熟す姿と、ゴミ屋敷状態だった部屋を魔法の様に隅々まで綺麗にしてしまった実力は職種に関係なく賞賛に値し、その印象をプラスの方向で固定した。


 また、完璧な仕事に満足して達成感から出て来たであろう笑顔がキラキラと輝いていたのが印象的だった。不意打ちで見せられた純度百パーセントの笑顔は地味な印象だった月をレックスの中で一気に可愛らしい女の子という領域に引き上げた。


 そのイメージは二度目の家事代行時にさらに募った。おもちゃを本気で怖がり自分に縋りついてきた時は男としての庇護欲を擽られ、倉庫内のガラクタを宝物と言われたことで「なんだこいつ、可愛いなぁ」と内心で唸る程度の魅力を感じた。


 ただ、その直後に月が見せた陰りのある表情にレックスは驚かざるを得なかった。


 月は自らの名前が嫌いだと言った。そしてレックスが何の気なしに呼んでいた渾名を拒絶した。今にも泣き出しそうな表情はバケツの中身がひっくり返った時の何倍もレックスの庇護欲を掻き立てた。月が抱えている負の感情の大きさを何となしに察してしまった。そんなレックスはただの家事代行スタッフである月に対して、余りある同情心を持ってその心を癒してやらねばという使命感を抱いき、それを実行に移した。


 月が自らの名を厭うなら自分だけでも好きだと言おう。他の誰が否定したとしても、偶々客として出会っただけの相手だとしても、少しでも力になろうと躊躇なく手を差し伸べた。深い傷を抱えているように見えたから、ほんの少しでも癒しになればと心からの言葉を紡いだ。月にはレックスにそうさせるだけの要素があった。


 そうして、自らの言葉にほんの少し陰りを薄めた月の姿にレックスの心は満たされた。


 それからは会うたびに何となく話をしたくなったから気軽に話しかけた。話してみると月にはそれまでレックスの周囲にいた異性とは違う魅力があり、仲良くなりたいと純粋に思うようになった。


 二ヶ月間様子見をして、月が家事代行業者としても人としても信用に足りると判断したレックスは種田に彼女を会わせる事にした。


 種田が自分の事を諦めきっていないことをその態度からそれとなく察していた。けれども、種田に遠慮して異性との交流を控えようとは思っていなかった。気持ちに応えてやれないのに、変に気を使うのは期待を持たせるような気がして気が引けたのだ。


 そもそも、レックスは月に対して人として純粋な好意はあれど、だと思った事はなかった。故に、種田の機嫌を損ねる事もないだろうと思っていた。


 しかし、会わせてみれば種田は月に対して敵意を剥き出しにしてしまった。しかも、過去に恋人を紹介した時と比較しても明らかに過剰に。


 内心何故だと思ったレックスだったが、種田が月に対して当たりが強い理由はその日の内に自らの心の動きで気がつかされた。


 レックスの周囲には良い意味でも悪い意味でも常識的で優しい人間が多い。十分以上の収入があるにもかかわらず体に鞭打って働くと皆が口を揃えて健康第一だと、体の心配をされる。


 心配される事を拒否したい訳ではない。が、健康が大切な事など言われなくても分かっていた。それでも、体が頭が次の動画を作りたくなる。多くの人に見てもらい、日常に少しばかりの明るさや情報を与え、視聴者に動画を見る前よりほんの少しでも元気に前向きになって欲しい。それと同時に少しでも休憩してしまうと世の中の関心が離れていってしまうような気がして自分でストップがかけれない。昨日より今日、今日より明日の自分を視聴者に受け入れて貰いたいという願望がレックスにはある。それらの欲求を満たす為、体調を気遣われる言葉は有難いと思う反面、レックスには鬱陶しくもあった。


 月は明らかな体調不良のレックスを前にして、動画に対する熱意を優先して褒めてくれた。無理をするより体を労えと言うより、仕事への姿勢を尊敬すると言ってくれた。


 この子は他の人とはどこか違う。そう思うと同時にそれまでに募っていた好感の一部がさらりと愛しさに変わった。そうして温かな心の隅で、種田が警戒した訳を悟る。月に対して抱いた愛しさは、それまでに交際してきた女達に対して向けていた感情とは全く異なるものだった。特別だと思うと同時に触れたいという欲求が小さく芽生える。


 なるほど、確かにこの感情はイレギュラーで種田が警戒するわけだ、とレックスはどこか他人事のように脳の片隅で考えた。


 そうして、自覚した他と類似しない愛しさから生じだ欲望のままに睫毛が付いていると偽って月の頬に指を伸ばした。体調の悪さなどどこかに吹っ飛んでいた。


 子猫のように擽ったそうにしながら、ほんの少し女の顔を出して頬を赤く染める月はいつまでも見ていたと思える程度にレックスの心を満たした。


 そんな感情を抱いて後、笑えるくらい種田が警戒心の強い番犬状態になり、レックスの抱いた気持ちは前進も後退もしなかった。


 種田が予想を上回る敵意で、幼稚で計画性に欠ける手段を用いて月の排除を試みた事には純粋に驚きと怒りが沸いた。ただ、種田の心情含め謝罪をして月本人が許した事でレックスの沸いた感情も治っている。


 現状、種田の暴挙よりも自らのとった言動の方が問題があり過ぎだ、とレックスは自分の額に掛かった前髪を掌で掻き上げ天井を仰いだ。


「あー、自分で自分がウゼェ。……相手がムーちゃんみたいな子じゃなかったらよかったのに」


「いつもみたいな女だったら、割り切って交際出来たって?」


 突然背後から声を掛けられる。レックスは振り返らずに乾いた笑いを零した。


「そうねー。それは言えるー」


 軽い調子で言ったレックスは背後で深々と吐かれた溜息の音を聞いて振り返った。


「俺は悪い男かな?」


 見上げた種田の手にはきっちりと畳まれたレックスの着替え。その顔に浮かんでいる表情を一瞥したレックスは苦笑を浮かべて肩を竦めた。


「種ちゃんも物好きだねぇ。色々知ってる癖に、まだそんな顔してる」


 種田は弾かれたようにレックスを見下ろしていた苦し気な表情を解き、次いで眉間に皺を寄せて吐き捨てた。


「間違いなく極悪人だな」


「罪状は?」


 お道化て問えば、種田の眉間の皺は三倍になった。


「自分の胸に聞いてみろ」

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