19 ドキドキするのか、しないのか?


「結構な勢いで転んだけど、痛いところない?」


「ありません。私より松田さんの方が痛かったんじゃないですか? すいません、下敷きにしてしまって」


 思い返せば自分はレックスに転びそうになったところを助けられたのだと、月は慌てて礼を言った。それには片手を挙げて問題ないと応じられ、月は自然な流れを装ってソワソワした気持ちのまま掃除を再開した。


 思いっきり滑って転び満足どころか後悔までした月はそれまでの分を挽回するためにも真面目に作業を進め、レックスもそれに倣った。遊んだりふざけたりする雰囲気は無くなる。ただ、従来お喋りなレックスは常に月に取りとめもないことを話し続けた。


 喋る事が仕事の一部であるレックスの話術は巧みで、月はいつの間にか気恥ずかしさを忘れて口元に笑みを浮かべる。散々二人でふざけあった後だったので、気まずささえ無ければ以前と比べて大分気軽に会話が出来るようになっていた。


 そんな中、月はなんの気なしにポロリと本音を漏らした。


「ふふっ、松田さんってもっと取っ付きにくい人なのかと思ってましたけど、こうして沢山おしゃべりすると、なんか近所の陽気なお兄さんって感じですね。始めは同じ空間に居たり、お顔を見たりしただけでドキドキしちゃってたので、こんなに気軽に話が出来るようになるなんて思ってもみませんでした」


 一か所に集めたローションを掬ってはバケツに入れるを繰り返しており、月は自らの手元に集中していた。


「ふーん、俺が陽気なお兄さんねぇ……。その言い方だと、もうドキドキはしてくれなくなっちゃったの?」


 同じ作業をしていたレックスの問いに月は真面目に何と返答すべきが思考する。


 全くドキドキしなくなくなった訳ではない。月の心臓は予想外の触れ合いには破れそうな程激しく脈打つし、優しい言葉を掛けられたり飾り気のないナチュラルな笑顔を見たりするとトクンと小さく脈打ってほわりと頬やら胸やらが熱くなる。でも、それは出会った当初顔を見ただけで馬鹿みたいにドキドキしていた時とは種類の違うものだった。


 レックスは顔も良ければスタイルも抜群だ。上裸のまま作業をしている上半身は程よく筋肉質で腕も逞しい。ついさっきした会話の中でボディーメイクは仕事の一部だと語っていた。ジムに通ったり家で筋トレをしたりして体系をキープしているらしい。月はレックスの事を女がすれ違ったら十人中九人以上が振り返り、男でも数人は振り返るレベルの外見の持ち主だと認識していた。しかし、今はもう見た目だけでドキドキするようなことはもうないように思えた。


 だから、月は自分の中でまだ整理整頓の出来ていない胸の高鳴りは無視して答えた。


「そうですね。今はお会いした当初みたいなドキドキはないですねぇ。慣れって凄いです」


 笑い混じりに冗談めかした月。対してレックスは手の動きを止め、「美人は三日で飽きる?」と応じた。その声はそれまでと比べて僅かにトーンダウンしていた。


 流石にイケメンで売っているYouTuberにドキドキしないは失言だったかもしれない。そう思ってフォローを入れようと月は顔を上げた。


「そこまでは言っていませ――――」


 頭に思い描いた台詞を全て言い終わる前に声が途切れる。


 声を出せという脳からの信号が、聴覚と視覚と触覚に集中することによって喉まで届かない。


「————もう、本当に、俺にはドキドキしない?」


 低く、感情の種類が分からない声色が月の鼓膜を震わせた。冗談やおふざけのない、真剣でほんの少し憂わしげな双眸と目がかち合う。


 次いでビクリと月の体が震える。


 何故なら頬に触れてきたひんやりとした指先が僅かに肌を撫でたから。


 そして、頬の表面を触れるか触れないかの力でその指先は移動し、月の涙袋に伸びたそれは少しだけ強めに肌を押した。


「睫毛がついてるって嘘吐いて前みたいにこうやって触ったら 、また真っ赤になってドキドキしてくれる?」


「えっ?」


「それとも、もう一回ふざけて助けた振りして抱きしめたら、キョドるくらいドキドキしてくれる?」


「――――えっ?」


 ――――嘘? 振り? それって、つまりどういうこと?


 月は大きく目を見開いた。するとレックスの指先はツーっと肌を下っていき、月の下唇の端を捕らえた。



「どうしたら、ムーちゃんは俺を―――― 」



 レックスの目は月の唇を見下ろし、そこでぐしゃりと表情を歪ませた。



 ――――えっ?



「えっ?」は声にならなかった。


 下手に発声してレックスを刺激してはいけない。そう思わせる程度にレックスの表情は内面的で、普段は曝け出されないもののように見えた。


 ぐしゃりと歪んだ異様に整ったイケメンの顔は、今にも泣き出しそうだった。


 ————ムーちゃんは俺を、何?


 ————私に何を求めているんですか?


 声に出して問う事が出来ない。それくらい繊細な扱いが必要そうなレックスの————松田樹の感情の発露。


 表情に目を奪われると同時に胸がどうしようもないくらい締め付けられた。そして自らが大きなコンプレックスを抱えているが故に、月はレックスの心の内側を想像してしまう。


 ————松田さんも辛いナニカを抱えているのかもしれない。


 レックスの表情の理由をそんな風に想像した途端、月の心臓は高鳴り始めた。


 切ない胸の締め付けがより強くなると同時に全身がじわじわと熱を帯びてくる。いつしか手足の指先までが熱くなり、心臓がかつてない程ドクンドクンと大きく脈打つ。不躾な胸がキュンと鳴っている事に月は自分自身で気がついてしまった。


 ――――この人、ただ明るくて楽しいだけの人じゃない。何かを抱えて生きてる人だ。だから、松田さんの言葉は私の胸に響いたんだ。だから、“ムーちゃん”なんて呼ばれても平気だったんだ。……松田さんはきっとの人なんだ。なのに、人を笑顔にする力を沢山持っている。私にはない強さを持っている。


 月は熱に浮かされたように未だに触れられている唇を僅かに開く。


「松田、さ、ん?」


 黙っていたら心臓がどうにかなってしまいそうだった。ほぼ無意識に手を動かし、自らの下唇に触れているレックスの指にそっと触れた。瞬間、レックスは弾かれたように手を引いた。


 その勢いに目を見張っている間にレックスの表情は悪戯な笑顔に変化する。


「なーんて、ドキドキしちゃった? 初心なムーちゃん?」


 小首を傾げられ、色っぽさを意識した戯けた表情が月を正面から見つめる。それは動画でよく見るキメ顔で、千穂は画面に噛り付いてその顔を凝視して蕩けていた。しかし、月はその顔には全くドキドキしなかった。


「……ドキドキしました。初心だって分かってるのなら、そうやって視聴者さんをメロメロにする上級者テクニックを私に向けて、からかうのは止めてくれませんか?」


 月は精一杯眉を寄せ、頬を膨らませて見せた。何が何でも自分の中の異様な胸の高鳴りが何に反応したのかをレックスに悟られないようにしなくてはと、在りもしない演技力をどこからか掻き集めてきて演じてみせた。


 レックスは隠していた感情の発露を誤魔化して無かった事にしようとしたのだ。ならば、掘り下げてはいけない。無理矢理暴いてはいけない。例えその隠された内面込みで心が惹かれているとしても。


 心の触れられたくない部分に触れられる苦痛――――呼ばれたくない名前を呼ばれる苦痛を月は十二分に知っている。


 レックスが必死に隠そうとしたを知るにはまだ早い。


 月はレックスが笑っていつものペースに戻ったことを確認して安心し、表面上はいつもの自分を演じ続けた。




 それから少し経過して、唐突に室内にコール音が響いた。レックスは掃除の手を止め立ち上がり、LDKの壁に設置されている受話器を取る。常時のトーンで応答している相手はおそらくコンシェルジュで種田が戻ってきたのだろう。


 予想通り、レックスが受話器を置いて少し経過すると種田が手に複数の紙袋を持って玄関に現れた。


「種ちゃん、おかえり~」


「何で、二人して俺が出て行った時より酷い有様になっているんだ!? その上、そのだらしのない格好はどうしたレックス!? 」


 呑気なレックスの間延びした声に続いて、顔を赤くした種田の怒号が響く。


 種田はレックスに小言を数個投げつけた後に、月に向き直り、レックス以上に小言をぶつけてきた。しかし、月はその声を話半分にしか聞けなかった。何故なら種田の顔を見た瞬間にそれまで言語化されていなかった自身の中にある感情に名前を見つけてしまったから。


 一緒に居ると楽しくて、笑いかけられたり優しくされると嬉しくてドキドキして、触れられると心臓が跳ねて、その隠された内面を思うと胸が締め付けられ――――他の誰かに奪われるかもしれないと思うと居てもたってもいられなくなる。


 ――――そういう感情を、人は、一般的に、“恋”って呼ぶよね?


 自分に投げかけた問いに答えてくれる者はいない。ほぼ確信に近い感情を肯定しきれない。


 月は恋愛の境界線の上に片足で立った。


 上げられた方の片足は、アンバランスなライン上から前後のどちらに足をつく?

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