第10話 黙ってなんかいられない

40 思い立ったら吉日

 部屋の空気が重過ぎて、変に緊張してきた。


 月は冬だというのに手に汗を滲ませていた。そして、部屋の隅っこでパイプ椅子に座り、室内の様子を目で一つ一つ確認しながら手に持っていたスマホを両手で握り込む。


 エアコンで温まった空気が充満する部屋のブラインドは全てしっかりと閉じていて、外からの視線を完全にシャットアウト。ホワイトボードが一台真っ白なまま部屋の奥にセットされている。その前に長机が二台、一メートル程の間隔を空け長辺を平行にして設置され、向かい合うようにそれぞれの机にパイプ椅子が二脚ずつ並んでいる。


 場所は都内某所の貸し会議室。十畳ほどの部屋は白い壁紙とグレーのカーペットの組み合わせでシンプルかつ清潔感があった。如何にも小奇麗な会議室と言った室内に、普段の月だったらここでどんな話し合いがされるのだろうかと妄想を膨らまし、OL気分に浸ったかもしれない。しかし、現在はそんな妄想に浸る余裕など欠片もない。部屋には問題はない。問題はこの場にいる人間の醸し出す雰囲気だった。視界の右手には部屋唯一のドアの横で眉間にこれでもかという程皺を寄せて腕組みして立っている種田。左手には顔色の真っ白なレックスが長机に仕事道具を広げ、ノートパソコンのキーボードをカタカタと叩き続けている。


 両人から得も言われぬ緊張感が伝わってきて、ただでさえ緊張していた月の心臓は胸を突き破りそうな勢いで脈を打ち始めた。


 そんな時、手に握りしめていたスマホが震えた。連絡が来る事は分かり切っていたにもかかわらず、月は思いっきりビクついた。その拍子に椅子がガタリと音を立ててしまい、静かだった室内に十二分に響いたその音に反応したレックスと種田が同時に視線を向けてきた。


「どうしたの?」


 顔色の悪いレックスが無理矢理笑顔を浮かべた。月は慌てて手元のスマホを確認する。数回タップをして届いたメッセージを目で追い、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「あっ、あの……遠野さん、このビルに到着したそうです」


「……そう」


 レックスは低く言って視線をノートパソコンに戻してしまう。一方種田はそれまで寄り掛かっていた壁から背を離してドアノブに手を掛けた。


「まずは俺が会って、危険が無いか確認してくる」


 種田は一言そう言って、返事を確認する事なく部屋の外に出て行った。


 危険だなんて、大袈裟な。


 そう一瞬考えた後、相手は女性とはいえ万が一に備えるのがマネージャーである種田の仕事か、と月は思い直す。今回はレックスにとっても種田にとっても特殊なパターンの面会だ。慎重になって当然なのだ。


 種田が立てたドアが閉まる音の余韻が残る室内の静寂。月は自分自身は何をするわけでもないというのに、異様に高まった緊張を持て余した。深呼吸を繰り返して何とかそわそわと落ち着かない気持ちを静めようとする。


 そんな月の視界に入ってくるのは表情が抜け落ちたままのレックス。パソコンに視線を向けてはいるがさっきまで聞こえていたキーボードを叩く音は一切聞こえてこない。手はキーボードの上に載っているが、指先は固く握り込まれているように見えた。


 その心情は計り知れないが、想像する事を止めることは出来なかった。


 きっと凄く緊張しているし、辛いはず。


 ギュっと苦しくなる胸を押さえつつ、月は同日零時を少し過ぎた頃の出来事を振り返った。






 美来の連絡先を聞いて来たレックスは硬い表情のまま声だけを何て事ない風に弾ませた。


「明後日分まで……もう明日か。とにかくやるべき編集を終わらせちゃって時間もあるし。炎上して俺自身があれこれ憶測で悪口言われるのは別に今更そこまで気にしないけど、これまで支えてくれた人とかファンを不安にさせるのは本意ではないからね。あっちは形振り構わず直接会いたがっているっぽいし、丁度いいじゃん。願い通り会って、因縁断ち切ってくるよ」


「えっ、それってつまり、会えるなら明日にでも会うって事ですか?」


 目を剥いて問えば首を横に振られる。


「うんん、明日は移動時間が多めで予定が詰まってるんだ。編集は元々車でする予定だったから、人に会う時間なんてない」


 直ぐにでも美来と面会をすると言い出しそうな雰囲気を感じ取っていた月は一瞬だけ肩をほっと撫でおろし、油断したところで爆弾を投下される。


「この件で長く悩みたくないし、思い立ったら吉日って言うでしょ?」


「えっ? それって、まさか、今日?」


 それまでレックスとやり取りしてきた経験上、行動力がある人だとは思っていたが幾ら何でも急すぎるのではないか。


 月がどうコメントして良いか分からず言い淀むと、その内心を代弁するかのような声が上がった。


「何が吉日だ。今日だってそれなりに予定がある。編集が終わっているのなら今すぐ寝て朝からのスケジュールに備えて欲しいくらいだ。例え都合良く相手のアポが取れたとしても、信用できない相手と会うとなると活動圏内に気軽に招く訳にもいかない。細心の注意を必要とする案件に対して準備期間が短すぎる」


 急いては事を仕損じる、と種田はきっぱりと言い放た。月は尤もだと頷いた。しかし、レックスは止まらなかった。


 二十四時間予約可能で防音性のしっかりしたレンタル会議室を探し出し、自分の都合に合わせて午後十七時をタップ数回で予約してしまう。それから月に美来の連絡先を教えるよう再び要求した。


 月は求められるまま美来の連絡先を教えて良いのか非常に迷った。


 レックスと美来の双方が対話を望んでいるのなら、出し惜しみせずに美来の連絡先の書かれたメモを渡してしまえばいい。そう思わなくもなかったが、気軽にそうする事はどうしても出来なかった。


 月はもうレックスの過去を知ってしまった。美来との因縁と胸の内にある苦悩を知り、それらを踏まえて何故美来を避け会話を拒んだのかも想像してしまった。美来は謝りたいと懇願していた。ならば謝る場を作るべきだ。謝罪を受ける事によってレックスの心は少しでも軽くなるかもしれない。けれども、レックスの話とこれまでの美来の言動、そして今回の炎上に彼女が関与している可能性がある事を加味すると、自分の想像の範囲外の何か悪い事が起こるのではないかと漠然と不安になった。


 過去に身勝手な理由でレックスにキスをし、その瞬間を撮影した美来。その画像を誰にも見せないと約束したのに、当時の恋人である蒼龍に流出させた美来。その後音信不通になった美来。そして今更になって偶然再会したレックスに謝りたいと泣いて請うた美来。レックスの炎上したコメント欄から月にせメッセージを送ってきた美来。


 そんな美来とレックスが二人きりで対面する姿を想像した月は何故だかゾッとして、自らの腕を抱きしめるように抱えた。そして、深く考える前に本能のままに喋り出していた。


「連絡先は教えません。全ての連絡を私が仲介します。でもって、私も話し合いの場に立ち会います!」


 レックスは月の発言が余程予想外だったのか目を丸くして数秒固まった。その金縛りが溶けて直ぐ、これ以上個人的な事に巻き込むわけにはいかないとか、美来と関りを持つのは良くないとか、貴重な時間を無駄遣いさせるのは忍びないなどと言い募った。しかし、月は断固として自らの出した条件を曲げなかった。精神的に不安的になっているレックスを美来と二人にしてはいけないという、根拠はないが払拭できない不安を最優先にしたのだ。プライベートに関わるなとウザがられ嫌われたとしても絶対に譲らないと月は踏ん張った。


 結果、渋々ながらも折れたのはレックスの方だった。ただ、余計な口出しはせずに黙って見ているようにと言い含められた。






 自分は黙って見守るだけ。余計な口出しはしない。


 レックスは出来る限り月に美来とは関わって欲しくなさそうだった。ただ、それは月を邪魔物扱いしているわけではない。レックスの中で脅威のポジションに収まっている美来を危険人物だと認定した上で、近づけたくないという思いが会話の端々からヒシヒシと伝わってきた。


 レックスは今も昔もとても優しい。過去の話を聞いて月はそう思った。


 会う相手が男であったのなら月が出しゃばる必要はなかったが、今回の相手は女。男性には理解できない心理があるかもしれない。不要な口出しはしないつもりでいるが、居ないより居た方がよいと月は自分から積極的に関わる事を選んだ。


 日曜の午前一時の少し前、月は美来への非難の意味も込めて迷惑承知でメモの連絡先に電話をかけた。寝ぼけた不機嫌声で出た美来に丁寧に詫びた上で今以外にはチャンスはないと言い放てば、美来は急にはっきりした声に切り替わった。かなりのむちゃぶりを自覚してレックスに会うための条件を言い渡せば、多少の戸惑いを声に滲ませつつもどうにかスケジュールを調整すると美来は面会を望んだ。


 その電話の際にさり気無くレックスの炎上について話題に上げる。美来は駅前広場での出来事について「私があの時取り乱したせいで迷惑かけちゃったわね」としおらしく言うに止まり、炎上のきっかけになったコメント投稿への関与については完全にノーコメントだった。


 現在時刻は十七時十五分を少し過ぎたところ。諸々の準備の時間を考慮して面会は十七時十分からと指定してあったので、美来は五分間の遅刻となった。先程月のスマホに入った連絡によると、元々あった予定をキャンセルしきれず、間に合うように電車に乗ったが遅延が発生してしまったとのことだった。


 美来到着の報から種田が部屋を出て数分。一体何を話しているのだろうかと想像を巡らせる。女だろうが初対面だろうが関係なく敵意を剥き出しにしてくる種田を知っている月は果たして彼が美来に対して大人な対応を取れるのかと密かに心配していた。


「むーちゃん」


 あれこれと考えて頭の中だけ忙しくしていたタイミングで声が掛かった。はっとして顔を上げればレックスがパソコンの画面ではなくこちらを見ていた。


「どうしました?」


 出来る限り平静を装って返事をすれば、レックスが表情のない顔を僅かに伏せた。


「……やっぱりもう帰らない?」


「……それは私だけですか、それとも一緒にですか?」


 月の問いに小さく「むーちゃんだけ」と返事がくる。となれば、一緒にと言われた時用にと頭に浮かんだ返答とは真逆の答えを返した。


「帰りません」


 月の答えを聞いたレックスは自らの前髪をくしゃりと掴んで数秒黙り込み、次いで大きく息を吐きながら天井を見上げた。


「意外と頑固というか、気が強いよね、むーちゃん」


 表情が見えないので、呆れられているのか否かが判然とせず、どう反応して良いか分からなくなる。


 そして、どう反応を返すべきか迷っている内に部屋唯一のドアがノックされた。


「連れて来た。入って大丈夫か?」


 ドア越しに種田が問うてきた。月は息を呑む。


 視線の先にいたレックスがゆっくりとドアを見据える。その双眸からは先程までとは比べものにならないくらい感情が見えなかった。


「どうぞ」


 感情を殺した無機質な返事に誘われて、ドアがゆっくりと開き、種田ともう一人が室内に入ってきた。


「っ、――――やっと、ちゃんと会えたっ」


 開口一番、美来はこれでもかというほど声を震わせ、ポロポロと涙を零し始めた。

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