33 転換期
「あの、こんな事を私が言うのも変ですけど、後はお願いします」
かつてない程沈んだ表情で、辛うじて作った笑顔を向けて玄関を出て行った月を見送ったのは種田だった。
家事代行の仕事が終わる正午ピッタリに月は極力音を立てないように玄関を閉じて帰って行った。
「まったく…………喋って浪費した労働時間分くらい延長で仕事していけよ」
悪態を玄関に向かって吐いた種田は踵を返す気になれず無意味にその場に留まった。
室内は空調の音が耳につくくらい静まり返っている。対して体内では轟々と嵐が吹き荒れているかのように様々な感情が激しく渦巻いていた。
落ち着いて心の整理をしなくては。
そうは思いつつも種田は玄関の向こうに消えていった小さな背中を探すように視線を真っ直ぐ前に向けたまま、その場を動こうとはしなかった。
種田は一人、レックスが語った今回の炎上に関する分析を思い出す。それは、種田としてはちょっと飛躍し過ぎではないかと思えるような推測だった。
全てが遠野美来という女のよって仕組まれたこと。
俄かには信じ難い陰謀説だったが、それを裏付けに一役買ったのは月だった。
レックスによってその女のアカウントだと思われるコメントを示され、詰め寄られた月は顔面蒼白になっていた。種田は黙って二人の様子を見ていただけだったが、レックスは月が隠し事をしていた事に傷付き、月はレックスを傷つけた事を敏感に感じ取って大きなショックを受けている事が、それぞれの表情から手に取るように分かった。
その後、レックスは一見冷静さを取り戻し優しい言動を月に対して取った。しかし、それは種田から見て他の女と同じように接しているようにしか見えなかった。月はレックスに心を閉ざされた事もしっかりと感じ取ってしまったようで、肉食獣の開いた口の前でひたすら震える子鼠のような絶望顔でそれまで黙っていた事を語った。
遠野美来という女を公園から遠ざけた後、解散しようと思ったが縋りつかれて解放して貰えなくなり、話を聞くだけだと言って一緒に喫茶店に入ったこと。そこでレックスに謝りたい事があるから直接会わせて欲しいと頼まれ、断った事。遠野美来とレックスが高校時代の知人であり、高校を中退する原因を作ったのが自分自身だと語られた事。それを悔いていると遠野美来が反省した様子で話し、自身のみが把握している事実をレックスに伝えて謝罪する事が、レックスの今後の為になるかもしれないと言われて突き放せなくなった事。そして、そのまま個人的な連絡先の書かれたメモを受け取ってしまった事。
今にも泣きそうになって声を震わせながら、結局最後まで涙を見せる事無く語り終えた月。レックスは高校時代の話が出て来た時点でダイニングテーブルに肘を突いて俯き、その表情を隠しつつ月の話を黙って最後まで聞き終えた。そして、聞き終えた瞬間「わかった。教えてくれて有難う」と張り付けた笑顔を月に向け、それ以降一切月と話そうとしなかった。
呆然と立ち尽くしてその場から一歩も動く事が出来ない月。見かねた種田が朝食を出していつのもように仕事をするようにと指示出す。すると、月は小さく頷いた後によろよろと動き出し、仕事だけはしっかりとし始めた。一方のレックスは朝食が運ばれてくる前に無言で寝室に籠り、出て来なくなった。
種田にとって月が語った遠野美来の話は然程衝撃的ではなかった。何故なら種田はレックスが高校を中退していることは知っていたし、その理由を頑なに語ろうとしないことから、そこに何かしらのトラウマが存在する可能性をかなり前から認識済みだった。女を信用せず、表面上の付き合いだけで心を開かない事も知っていたので遠野美来が中退の原因だと聞いても、やっぱりなと思う程度だった。
加えて、その言動を全面的に信用するのならば月には責めるべき点が殆どないとも種田は考えた。無理矢理縋られたら、人目を気にしてとりあえず冷静に話が出来る店に入ろうと提案するのは常識の範囲内だ。そして、月はレックスに直接会いたいと要求をされてもしっかりと断っている。その上で勝手に意味深な過去を語られ、レックスの今後の為になるかもしれない、などと言われれば拾うも捨てるもどちらの選択肢も手元に残しておきたくなるのは当然の心理だ。少なくとも種田にはそう思えた。
また、遠野美来とのやり取りを月がレックスに伝えなかったのは、会わせる気が無いから余計な波風を立てる必要がないと黙っていただけで、悪意など一欠片もなかった。そんな事は種田でさえ普段の月を見ていれば軽く想像を巡らせるだけで分かる。そもそも月に遠野美来に関する話題をレックスの前で上げるなと言ったのは種田だ。
とにかく月の姿勢全てには“レックスの為に”が貫かれており、責めるどころかレックスは感謝しても良いくらいだと、客観的には見えた。
種田はそれ故に、傷つき全く冷静な判断を月に対して向けてやれないレックスの姿に衝撃を覚え、胸の内をざわつかせていた。
「地雷は……嘘を吐く事、もしくは裏切りってところか?」
これまで種田が見て接してきたレックスを分析した結果出て来た二つの可能性。月は不運な事に女という立場で、自身の意思とは関係なくレックスの地雷を踏んだ。月はレックスにとって特別だった。それ故にその身が背負っていた期待は重く、その反動も大きい。他者が相手なら反応すら示さなかったであろうスイッチの表面を撫でるような行為だけで地雷を押してしまったのだ。
少しの同情と大きな嫉妬。
胸中のそれらを噛み締めながら、種田は廊下の壁に肩を凭れ掛からせた。
「あぶねぇ。マジで取られるかもしれなかった。ははっ、墓穴掘りやがって。やっぱり、女なんてレックスには必要ねぇんだよ。俺が居るから、いいんだよ」
呟いた種田の視線はさっきまで月の靴が揃えてあった三和土をぼんやり見つめる。
「女同士で足引っ張り合って、結構なことじゃねぇか。これで、俺がレックスの一番に近付いた」
種田は無理矢理にでも口角を上げた。これで良いんだと口の中で何度も呟き、月の気配を探っている自分に気が付くと、それを振り払う様に頭を振って玄関に背を向けた。
種田の脚は自然とレックスが引っ込んだまま出て来ない寝室に向かった。寝ているのであれば睡眠優先でよいが 、そうでなければ軽くでも食事を摂らせなくてはいけない。午後は事務所で複数の打ち合わせの後に撮影の予定が入っていた。正午ジャストの今、食事を済ませて一時間後には車で出発しなくてはならない。
恐らく事務所に行ったら否応なしに炎上に関する説明を求められる。今後の対策はどうするか、何かしらの声明を出すのかなどの検討を元々あった会議の合間にすることになる可能性が高い。それまでにレックスには冷静に話を出来るまでとは言わないが、冷静に話を聞ける程度には心を整えて欲しいというのが種田のマネージャーとしての本音だった。
ただそう思うと同時に種田個人としては、こんな時くらいレックスにゆっくりと休養を取って欲しいという思いもある。望まれるのならどうにかスケジュールを調整して仕事をオフにすることだって喜んでする。ただ、レックスにとって仕事をすることが時に現実逃避の手段になる事を種田は知っていた。
過去、レックスは何か嫌な事がある度に仕事に没頭していた。一心不乱に仕事をする事で頭が冷えると同時に感情の整理が出来るようで、ある程度の時間集中させてやれば疲れるどころかスッキリした顔になっている事が殆どだった。
よって、下手に元々あった予定を変更してまで休息を与えようとすれば、逆にレックスは感情の整理が出来ず、不安定な精神を引きずってしまうかもしれない。
かといって、今回は一晩中働き詰めていたにもかかわらず、少しも吹っ切れた感じがレックスにはなかった。
問題の根が深過ぎる。
詳細な事情は知らずとも種田とてそのくらいの事は分かった。
とにもかくにも、種田に出来る事など限られている。先ずは仕事のパートナーとしての役割をしっかりとこなしつつ、様子を見て精神的なサポートをする。
そう意気込んで寝室のドアをノックする。返事がない事を確認すると、普段通りに躊躇なくその扉を開いて中へ足を踏み入れた。
遮光カーテンがしっかりと閉じられた室内は薄暗かった。月が家事代行として掃除をするようになって以降、雑然とすることが殆どなくなった寝室。ただこの日、月はこの部屋に足を踏み入れる事が出来なかった。普段なら綺麗に整えられているはずのベッドの濃紺のシーツと掛け布団はクシャクシャのままで、その上にレックスはだらしなく寝転んでいた。眠ってはいないようで、眼前でスマホを操作していた。ただでさえ悪い顔色が薄暗闇の中でスクリーンの光に青白く照らされて、まるで幽霊のようだ。
「寝るならスマホを弄るな。スマホを弄るなら目が悪くなるから電気を点けるかカーテンを開けろ」
まるでお節介な母親のような台詞が種田の口から出た。普段のレックスだったが軽快に「種ちゃんは俺のかーちゃんかっ!」とツッコミの一つも入れてくるところなのだが、そうはならなかった。レックスは声を掛けられてはじめて種田の入室に気が付いたようで、緩慢に視線をスマホから逸らし、目だけで種田を見上げた。
「……寝てないなら飯食え。体調はどうだ? 仕事はこれから行くんだろう?」
レックスが視線だけ寄越して何も喋らないので種田がその分纏めて問いを投げる。レックスは虚ろな目で種田を見つめるだけで返事はしない。どうやら他の事を考えていて話を聞いていないようだった。
種田は肩を竦め、数歩分移動してレックスのベッドの真横に立つ。とりあえず体調だけでも確認しようとレックスの額に手を伸ばした。
するとその手が額に辿り着く前にレックスの手によって取られる。拒絶された。瞬間的にそう捉えた。しかし、眼下で開かれた口から出て来たのは種田の予想とは真逆のさらに斜め上をいく台詞だった。
「男同士で付き合うのってどんなところが楽しいの?」
「はっ?」
しっかり聞き取れているにもかかわらず、頭が追い付かず種田は目を見張って固まる。対してレックスは種田の手を握ったまま、再び耳を疑ってしまうような事を言った。
「調べて初めて知ったけど、同性カップルってここ数年で増えたのかと思ってたけど、男色って考えは昔から当たり前にあるんだね。子孫を残すっていう本能に逆らって愛情のみで結びつく同性カップルは異性カップルより絆が強固で、実はとても綺麗で尊い恋愛なんだって。そういうネット記事幾つか読んで、結構納得した」
今度は種田の方が言葉を発する事が出来なかった。まずレックスが何を言っているのか瞬間的に理解が出来なかった。次いで脳が働き出して何を言われたのかを理解すると頭の中はパニック状態になった。
かつて、レックスは同性愛に全く興味を示さなかった。恋する対象は女の子だからと、告白をばっさり斬られた記憶は種田の脳内に未だに鮮明に残っている。その後も男に興味があるように見えた事など一度もなかった。
にもかかわらず、そんなレックスが種田の手を柔く取りながら同性愛を肯定することを複数口にした。種田を見上げてくる顔はベッドの上に居るだけあって、まるで夜の誘いをしているようにすら見えた。
長いことレックスに想いを寄せていた種田は頭の中で何度か思い描いた事のある光景が目の前に広がっている現状に、ドギャンとおかしな音を立てて心臓が脈打つ。
しかも声を発せない種田と対照的にレックスは種田の手に触れたまま饒舌になる。
「改めて考えてみて思ったんだけどさ、種ちゃんは凄く俺の事を理解してくれてると思うんだよね。仕事に関しては言うまでもないし、私生活の部分も俺のして欲しい事として欲しくない事を何も言わなくても分かってくれるしさ。俺に出来ない事とか沢山出来て、ホント凄いと思う」
何が言いたいんだ、と声を掛けたいのに喉の奥が乾いて貼り付いたようになって声が出ない。体も動かなかった。静かな室内なのに自分の心臓が跳ねる感覚が音になったかのように煩い。触れられている手が、熱い。
「頼りがいがあってさ、信頼も出来る。お互いにダメなところを知っていても一緒に居られて、ストレスに感じたりもしない。それって結構唯一無二だよね」
そこまで言ってレックスが寝そべっていた上体を起こした。その視線は未だに種田を真っ直ぐに見つめていて、唇は薄く笑んでいる。
何度となくこの世で一番綺麗で愛おしいと思った整った顔が含みのある視線を自らに向けている。女には決して出しようのない低い声が言葉を紡ぎ、響く音が鼓膜どころか脳まで震わせた。
そしてレックスはさらに確信に近いことを更に口にする。
「種ちゃんはさ、きっと付き合ったら誰よりも俺を大切にしてくれそうだよね。絶対に裏切ったりしないでさ。厳しくも優しく俺と一緒に人生歩んでくれるよね。これまでもそうだったみたいに。勿論俺も大切にするし、苦労とかさせないようにこれまで以上に頑張れる気がする。そういうのも悪くないって思ったんだ」
なんだそれは。どういうことだ。そんな、事を言われたら、俺は勘違いしてしまう。
種田は脳と心に予防線を引くために冗談を受け取るかのように軽い笑いを漏らした。
「ははっ、それじゃあ愛の告白を通り越してプロポーズだぞ」
ほら、いつのもように「そんなわけあるかっ」って餓鬼みたいに笑って見せろ。
そう念じた時、掴まれているままだった手がより強く握られた。同時にクッと音にほとんどならない笑みがレックスからも漏れた。
「種ちゃん以外の男とか考えられないから、それもアリかもね」
「はっ?」
種田は自分の耳に飛び込んで来たレックスの台詞が信じられなかった。理解が出来なかった。だから、確認せずにはいられなかった。
情けないくらいに声が震えた。
「なんだよ、お前っ…………俺の恋人になるって言っているようにしか聞こえねぇぞ」
これが最後のチャンスだ。どうか、どうかっ――――
何かを信仰したこともないのに、無意識にどこかの神に祈ろうとした時だった。
「――――そう言ってんだけど」
ヒュっと種田の喉を細く空気が通って、一瞬で全身の血が沸騰したかと思う程体が熱くなった。
ずっと想い続け、振り向いて貰えず、どんなに願っても自らの胸に飛び込んで来ることがないと思っていた、この世で一番好きな相手が、何度望んだかも分からない願望を叶えてくれると言っている。
好きで、好きで、愛していると言っても過言ではないくらい、好きで。振られても許される限りは傍から離れたくなくて、恋愛感情抜きでも良いから隣に居続けて。その心が奪われる事が許せず、幼稚でダサい事をしてでも自分の許に繋ぎとめておきたかった最愛の男が、自分の望んだポジションに収まりたいと言っている。
「ははっ、…………ふっ、ははっ」
種田は空いているほうの手で額を押えて前髪をくしゃりと掴んだ。
馬鹿みたいに可笑しかった。笑いが堪えられない程に。
夢にまでみた願いが、手中に転がり込んできた。
死ぬっていう程嬉しいはずの瞬間なのに、種田の心は笑えるくらい――――虚しかった。
そしてその虚しさを自覚して数秒、膨れ上がったのはかつて感じた事のない種類の怒りだった。
「馬鹿にすんじゃねぇ。甘ったれんな!!」
掴まれていた手を振り払った種田はそのまま体の横で両拳を爪が皮膚に食い込むほど強く握り込んだ。
手を振り払った先に目を見開いて固まっているレックスが居た。死ぬ程驚いている事は明確で、その表情が悲しみや怒りの表情に変わる前に種田は震えそうになる声を声量で押し切って出した。
「俺はなぁっ、女がダメだった時の代替え品じゃねぇんだよ!!」
「っ!? そんなつもりじゃな――――」
「無いって言い切れるか!? 本当にそうか!? 俺を恋人にするっていうのがどういう事か分かってんのか!? お前、俺にキス出来んのか!?」
種田は感情に任せてベッドに片膝をのせ、レックスの胸ぐらを掴んだ。真正面の至近距離から見下ろしたレックスの瞳が一瞬揺れたような気がしたが、その表情は種田の怒りが伝染したかのように険しくなった。
「出来るっ!!」
「おうおうそうかよ。じゃあしてみろ。お互い初めてでも無いんだし、恋人になるんならなんの問題もないよな?」
勢いに任せて挑発すれば、レックスは目を怒らせたまま種田のワイシャツの襟を両手でひっ掴んだ。それを引き寄せると同時に自らの背中と首筋を伸ばす。
力任せに引かれた種田の唇はレックスの吐息をダイレクトに感じ、互いの唇の表面が触れているのか触れていないのかが曖昧な極至近距離まで近づく。
その瞬間、種田は渾身の力で顎を引いて唇から離れると同時にレックスの額に己のそれをゴンッと鈍い音が響く勢いで叩きつけた。
「痛ってぇ!!」
思わぬ打撃にレックスが思いっきり呻く。そのまま額を押さえて背中からベッドに沈み、痛みに悶えて体を丸くする。
種田自身も痛む額を手で押さえながら、ベッドから下りた。
「っ、何すんのっ!?」
未だに目を白黒させているレックスが声を張る。対して種田は額を押さえていた手をずらしてそれで顔を覆う。そのまま深く長い溜息を一つ。
吐息を吐き出しているいる間に、体内に渦巻く感情一つ一つを拾って何とか落ち着こうと試みる。それでも、心のざわつきは綺麗には治らず、息を吐き切った後にもう一度荒く声混じりに溜息を吐く。その後指の隙間から全力でレックスを睨んだ。
「お前、今、どんな覚悟した?」
「はっ? 覚悟? 何言って――――」
「動画撮影で罰ゲームやる時と似たようなもんだったろう?」
レックスがはっとした表情になる。その表情を見逃さなかった種田はレックスの口から否定の言葉が出て来る前に苦笑を浮かべ、吐き捨てた。
「レックス。お前はな、チャラそうに見えて真面目で優しい奴だからさ…………本当に好きで好きで堪んない相手と今と同じ状況に陥ったら、情緒の欠片もなく喧嘩腰のまま強引にしたりしない。時間も場所も改めて、さぞかし好きな奴を甘やかしたりするんだろうよ」
「そんなこと――――」
「そもそも、お前、俺が女だったら絶対に恋人にしようなんて思わなかっただろう」
今度こそ完全にレックスが固まった。返せる言葉が見つからず、目を見開いたまま身動きが出来なくなっている。それが手に取るように分かった。
図星だから当然だろうな、と種田は心のどこかで乾いた声で笑う。
そうして嘲った途端に、じゅんと胸が湿気る。
なんで、この機に乗じてなりたくてなりたくて仕方なかったポジションに収まりにいかねぇんだよ。こんなチャンスは今を逃したら二度とない。今は流されて既成事実を作って、中身はゆっくりと整えていけばいいじゃないか。形振り構わず愛して欲しいとずっと思っていたじゃないか。誰かに取られるより、自分のモノにしてしまった方が何倍もイイじゃないか。
脳内で今更、悪魔か天使か分からない奴が囁いた。しかし、種田はその囁きを振り払った。
レックスの心の傷が目の前で剥き出しになっている。何度も瘡蓋になっては剥がれることを繰り返したであろう傷口が瘡蓋も皮膚も関係なく抉られて、血を流している。
種田がレックスに恋をしたのは自分の心が傷だらけの時に手を差し伸べてくれたからだった。それまで男が男を好くことが許されない閉ざされた世界で生きていた種田をレックスは外の世界に引っ張り出してくれた。
その恩は恋心より大きい。レックスの幸福は己の幸福より優先するべきものであって、種田の幸福はレックスの不幸の上には成り立たない。
そう思って数秒、種田は心中で首を横に振った。
違う。そんな綺麗事じゃない。俺はただ単にアイツの影に怯えながらレックスの隣に並びたくないんだ。
「俺は、性別なんて括りに縛られて愛情を振り分けられたくなんかないんだよ。俺は俺という個人を見て欲しい。俺もお前も……五島さんだって、今の性別に生まれたくて生まれた訳じゃないんだ。お前のトラウマの内容は俺には分からない。けれど、一つだけ言えるのは、お前を傷つけたのは遠野とかいう女であって、五島さんでは絶対にない。でもって、今のお前は俺が女で五島さんが男だったら、五島さんにコソコソ話を聞いていた俺にキレてた。反対に五島さんには自分の事を考えて行動してくれてありがとうとでも言ってると思う」
レックスが黙ったままより体を小さく丸くさせる。
それを見下ろして種田は再び大きな溜息を吐いた後、レックスに背を向けてベッドに腰掛けた。
「いや、違うな。俺が女だったとしてもキレなかったかもしれない。嫌に思っても表面上は笑って無難にやり過ごされただけの可能性が高い。お前が五島さんを今拒否ってるのは、馬鹿みたいにビビってるからだよ。ダッセェ」
馬鹿にするように鼻で笑えば、レックスが背後でピクリと揺れるのが分かった。それでもまだ黙っているレックスに畳み掛ける。
「女にマジになって傷付くのが怖いんだよ。女にビビってる割に女々しいって言葉が今のお前には一番似合ってるよ」
最大限に皮肉った瞬間、ガバッと大きな衣擦れの音が耳に入ると同時に首裏のシャツが引っ掴まれた。
「ぐえっ」
喉が圧迫されて何とも情けない声が上がった。喉の痛みに耐えかねて、引かれるままに背中を倒すとボスンとベッドに体が落ちる。瞬間立ち込めるレックスの香りに気を取られる前にドンッと無遠慮に腹が拳で叩かれる。唸って、何するんだと抗議をしようとしたが、声にはならなかった。
「俺だって自分が一番ダメな奴だって分かってる!! 馬鹿みたいにビビってる! だってしょうがないじゃん!! 信用するのが怖いんだよ!! もしっ、万が一っ、本気になって信じて、それでまた裏切られたら俺は耐えられないっ!! ずっと俺は過去と向き合わないで逃げてきたんだっ。今更――――」
「じゃあ、本当に彼女を、五島さんを切り捨てていいんだな?」
悲痛な表情で見下ろしてくるレックスに対して出来るだけ感情を消して静かに問う。
「この先の人生俺に逃げていいんだな? 俺はお前を甘やかしてやれる。お前は甘えていい。俺のところに逃げてくれても構わない。お前が冷静な心でそう決めるのならそれで一向に構わない」
目を真っ直ぐ見上げると、大きな瞳がぐらぐらと揺れていた。迷う余地がレックスの中にある事が嬉しいと同時に悲しい。
そして種田はレックスが辿り着く答えを悟っていた。
「俺は…………」
種田は黙ってレックスが次の言葉を紡ぐのを待っていた。
ピーンポーン。
予想していなかったタイミングでインターフォンが鳴る。
種田もレックスも驚きの表情を浮かべたが、直ぐに誰が来たのかを察する。コンシェルジュを介せず、このタイミングで部屋の前にあるインターフォンを押せる人物は一人しか二人とも思い浮かばなかった。レックスが顔を上げてドアの方に視線を向け、種田はレックスを避けて立ち上がった。
「とりあえず俺が出る」
そう一言残して種田は寝室を出てそのまま玄関を開けた。予想した通りそこには月が立っていた。
「どうした?」
見下ろした華奢な女は先ほど見上げていた男と比べて何倍も力強い瞳を下がり眉の下で光らせて震える声を発した。
「少しだけでもいいから松田さんと話をしたいんです」
「さっきの今じゃ部屋から出て来ないかもしれないぞ」
「だったら、部屋の外から一方的に喋るだけでも構いません」
種田は何を考える前に月を部屋に上げて寝室の前に導いた。レックスが起きているとだけ伝えて自身は廊下の壁に背を預ける。
なるようにしかならない。
そんな気持ちで待つこと数秒後、月はノックをして入室を求めることはせずその場で声を張った。
「私、遠野美来さんと会ってきます。今回みたいな事は迷惑だって伝えてきます。それで、私が撮影関係者だって事は嘘で、松田さんに会わせる力が無いって事もはっきり言ってきます。…………私の事が信用出来ないのなら二度とここに来れないように契約を切って下さっても構いません。話し合いの場で余計な情報提供がないか気になるなら録音や動画撮影をして証拠をちゃんと残します。出来るかどうか分からないけれど、松田さんに関わろうとする事を諦めるように説得してみます」
そこまで言った月はドアの向こうにいるレックスを直接見ているかのような目をして唇を引き結び、両手を胸の前で強く握り込んだ。
一度口を開いてまた閉じ、もう一度開いてやっと声を出した。
「今まで、ありがとうござきました! わっ私、松田さんに会えて良かったです。コンプレックスを持つようになってから初めて、自分の名前を少しでも受け入れる事が出来るようになったのは松田さんが掛けてくれた言葉のお陰でしたっ。松田さんのお陰で自分の中の問題と少しずつでも向き合って行こうって思えました。私っ、松田さんの言葉で少し強くなれましたっ。…………なのに、私の方は迷惑をかけてばかりでごめんなさいっ」
言葉を切って月が俯く。
ここまでか?
種田が壁から背を離そうとしたその時、月は喋っている内に俯き気味になった顔を勢いよく跳ね上げた。その顔は耳まで真っ赤で、表情は泣く事を必死に堪えている顔だった。
「私っ、松田樹さんが大好きですっ! 一生応援します! YouTuberのレックスさんも好きですけど、私は松田さんにいっぱいのパワーを頂きました。今の松田樹さんに私は沢山助けて貰いました。…………人はそれぞれ抱えているものがあって漫画やドラマはそれを乗り越えてナンボだみたいなところがありますけど、そんな事しなくても、今の松田さんは充分に素敵な人ですっ! 嫌いな人がいたり、受け入れられない事があったり、するのは当たり前で当然な事ですっ。だからっ、無理に笑ったり、自分を誤魔化して、これ以上心が苦しくならないようにっ――――心も体も休憩しながら、元気でいて下さいねっ」
最後の方は鼻を啜って、目に涙を一杯溜めて、それが零れ落ちる前に腕でぐいっと目元を拭った月が種田を振り返った。
「お邪魔しましたっ」
月は無理に笑うなとレックスに言った口で無理に笑った。種田は壁から背を離して月に一歩歩み寄った。
「別に俺だって似た様な事を思ってない事はないはずなんだけどな。…………必要な時に恥ずかしげも無くそういう事を言えちゃうところとかが、敵わないんだろうな」
「えっ?」
種田は赤い目元でキョトンと首を傾げた月の額に手を伸ばし――――思いっきりデコピンした。
「痛ぁっ!! このタイミングでどうして打撃ですかぁ!?!?」
手加減一切なしのデコピンに月が額を押さえて表情を歪める。その頭を種田は無遠慮に掻き回した。
「ちょっ、本当に何なんですか!?」
敢えて髪がぐしゃぐしゃになる様にすれば、月は慌てて種田の手首を掴んで離そうとする。その力に抗って種田は月の頭をガシッと掴んだ。
息を密かに深く吐いて、思い切って喉を震わせる。
「認めてやるから、しっかりやれよ。こっちはいつでも足元掬ってやるつもりでいるけどな」
「何言って――――」
意味が分からないと言いたげな月の声が途中で切れる。
ガチャリと音が鳴って、寝室の扉が開いた。
月は勢いよく振り返り、種田はその頭を離して同じ方向を見た。
「…………もう二度と会わないみたいな言い方しないで」
蚊の鳴く様な細い震えた声が響いた直後、月の体が傾いて種田から離れ、レックスの胸に収まった。
「まっ、松田さんっ?」
突然抱き寄せられて声を裏返す月。そんな月に配慮する余裕のないレックスが感情剥き出しで声を絞り出した
「ムーちゃんは俺の唯一の可能性だから離れて行かないで欲しいっ。勝手に絶望してごめんっ…………。ダメな俺の事も受け入れてくれてありがとうっ。……逃げないでちゃんと向き合って大丈夫になる努力をするから、ここに来るのを止めないでっ」
上背があるレックスは月の頭を子どもがぬいぐるみを抱きしめるようにぎゅっとする。月は突然の抱擁に驚きと緊張で体をガチガチに硬くしたが、それでもどうにか腕を上げるとレックスの腕をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫ですよ。私、松田さんが良いって言ってくれるなら、また来ますよ」
月が発した声はまるで母親のようにまろやかで優し気で、レックスの強張った肩から力が抜けていくのが種田の目に映った。
安心が一番大きい。次いで、寂しさ、悔しさ、虚しさ、ちょっとの祝福。
自然と上がった口角は、素直と皮肉のどちらの感情によって釣り上げられているのか。種田本人にもそれは判断することが出来なかった。
レックスが顔を上げ、目が合ったり
「種ちゃんに謝ったら、また頭突きされる?」
答えに自信のない小学生のような弱弱しい問いを種田は鼻で笑う。
「いや。本気の腹パン一回だな」
真っ直ぐ目を見つめれば、レックスは月からゆっくりと離れて種田と向き合う位置に移動した。
「人生で一番甘えたこと言った自覚ある。種ちゃんの気持ちとか優しさを都合よく利用しようとした。俺は最低な奴だって自分でも思う。けど、謝らない。嘘を吐いた覚えはない。さっきのあの瞬間は本気だった。でもって、俺の事を想って色々諭してくれた事に感謝してる。…………良い返事をそっちから貰えなかったって事は、俺は振られたって解釈でいいのかな?」
「…………まぁ、そういう事にしといてやる。俺は告られた方の特権で何も気にしてないって顔して、いつも通りに振る舞ってやるよ。だからお前は暫くの間、一人で気まずい思いでもしてろ」
「ははっ、俺のマネージャーがマジで男前っ。……本当にごめっ、違うか…………本当にありがとう」
レックスが思いっきり頭を下げた。その背後で月が「えぇっ?」と声を上げてレックスと種田を交互に見ている。
まさか、こんな落とし所になるとは。
種田はレックスの後頭部を見つめながら苦笑し、その頭に手を置いた。
「どういたしましてだ、馬鹿野郎」
軽口を装って言ったのに鼻の奥がツンと痛くなった。
けれども、頭を上げたレックスの表情が気まずげながらも笑顔だったから、一先ず落ち込むのは後にしようと頭を切り替えた。
「とりあえず、飯食え。仕事はちゃんとすんだろ?」
俺ってなんで大人で男前でイイ奴なんだろう。
そんな自画自賛を心の中でしながら、種田はリビングに向かって歩き出す。しかし、直ぐに立ち止まって振り返った。
「アンタも家に上がったんなら、さっき延長して働かなかった分くらいの仕事をして帰れ。スープを温め直すくらいの時間はあるだろ? じゃないと給料泥棒だってアンタの会社にチクるからな」
俺が大人で男前でイイ奴なのはレックス限定だからな。アンタにゃ俺が気が済むまで心のサンドバッグになってもらうから覚悟しろ。
最大限の八つ当たりを決行する気満々の種田の心中など知らない月は、言われて初めて勤務時間中に話に集中して仕事をしていない時間があった事に気が付いたらしい。泡を食って「ちゃんと働きますっ」と言いながら種田の後に続いて歩き出した。
その背後をチラリと見れば、レックスが胸に手を当てて目を閉じていた。
相変わらず顔色は悪いが、背筋はピンと伸びている。
「……転換期って奴がとうとう来たか」
この種田の呟き通り、三人にとってこの日は大きな転機となった。
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