25 父親とトラウマ
駅から歩いて徒歩十分。人で賑わう大通りから一本奥まったところにあるドイツビールが自慢の少しこじゃれたバーレストラン。以前に職場の若い社員に勧められたと言って和司に連れて来られた店だ。面会中の気まずい空気を紛らわすために、ビールが飲みやすくて美味しいとぎこちなく笑ってみせた月の言葉を真に受けたのか、和司はそれ以降毎回会う時にこの店を指定した。
月は少し早く店に着いてしまい、夜の冷え込みが強くなってきたこの季節にわざわざ和司を待つために寒い思いをする必要はないと、中に入って待つことにする。カウンターや樽のビールサーバーが近くに設置されている立ち飲み席もある中、人の行き来が少なそうな隅のテーブル席を店員に指定して座らせてもらう。来店するのは数回目だったが、どんなメニューがあったのかビールとウインナーくらいしか覚えておらず、月はすることもないのでメニューを眺めて時間を潰した。
すると沸々と緊張が胸に競り上がってくる。
考えるな……、でも、今日は聞けるかもしれない。
大きく脈打つ心音を感じながら月の脳裏にレックスの大型看板のメッセージが過る。
『隠さないで、輝いて。』
今日なら、思い切って――――
月が無意識に心臓の前のパーカーをくしゃりと握り込んだ時だった。
「もう着いていたのか。待ったか?」
低音に声を掛けられ、勢いよく振り向くとそこには和司が立っていた。
月に会えたことが嬉しそうな表情を浮かべて、流れるように会話をはじめる。
「久しぶり。今日は寒いな。でも一杯目はビールでいいよな? 何か頼みたいメニューはあったか?」
和司は月の対面の席にジャケットを脱ぎながら座り、初任給でプレゼントしたビジネスバックを背もたれと背中の間に挟み込む。あれこれと甲斐甲斐しく話し掛けてくるのもいつものこと。
「ああ、そうだ――――」
捲し立てるように会ってすぐに話しはじめた和司が何かを思い出したかのように正面から月を見る。
月の心音がここ数か月中で一番大きく体内で響く。そして――――
「元気だったか?」
膨らんでいた期待が一気に萎む。
それだけ? それだけなの?
優し気な笑顔を浮かべているくせに、色々気にして来るくせに、私と会いたがるくせに――――
――――どうしていつも、私の名前を呼んでくれないの?
期待という砂にほんの少しの勇気という名の水を加えて作り上げた砂の城。それを披露する前に無邪気に遊ぶ子供によって蹴り飛ばされて跡形もなくなったかのような残酷な喪失感が月を襲い、呑み込んだ。
「……うん、まぁ、元気だった」
笑顔は出ない。けれども、無表情でもいられず。申し訳程度に片方の口角を上げて、目はどこを見ることなく会話に応じる。
そうして、感情が伴わない無意味な夕食が始まった時から、月の脳裏には毎度同じ光景が蘇る。
人生でワースト一位の最悪な思い出。
時は千穂と和司が月に離婚を宣言した日の前夜、小学三年生の時だった。
***********
いつの頃からかは覚えていないが、当時の月は両親が喧嘩ばかりをしている事には気が付いていた。なるべく月にその姿を見せないように気を使われている事も分かっていた。だから険悪な二人に気が付かない振りをして、子どもながらに仲を取り持とうとした。わざとお道化て家族三人での会話を促したり、片方としていた会話にもう一人を巻き込んだり。それが小学低学年の少女の日常だった。
そして、残暑が終わって学校で秋の読書週間が実施されていたとある日。子どもながらに仲の悪い両親に対して隠れて小さな溜息を吐いていた月の日常が唐突に変化した。
その日の夜、月はいつもの時間に眠りについた。そして、ふと目が覚めた。何故自分が目覚めたのかが分からないままもう一度眠りにつこうとした。しかし、普段だったら成功する入眠に失敗する。
「もう、いい加減にして!!」
「それはこっちの台詞だ!!」
普段だったらくぐもった声しか聞こえないはずなのに、はっきりと千穂と和司の怒鳴り声が月の耳に届いた。時間を確認する余裕はなかったが夜中なのは間違いなく、当時住んでいたマンションでは近所迷惑になる声量だということは小学生の月にも分かった。
ただ事ではない。
寝起きにもかかわらず急激に高まる不安感に支配された月は両親の様子を窺うべく、静かに自分の部屋を出た。
リビング扉のすぐ横に辿り着き、月はそこで立ち止まる。普段両親の喧嘩に干渉しない月は直ぐにでも止めに入りたい衝動を堪えて、タイミングを計った。その慎重さがなければ、その後の月の人生は大きく変わっていたかもしれない。
千穂と和司は興奮状態であれこれと普段の鬱憤を言い合っていた。それは日常生活の細かなこと、和司の仕事の事などからいつの間にか教育の話に移行した。
自分のことで両親が声を荒げて争っている。
流石に様子を窺う余裕がなくなった月はいつの間にか流れていた涙をパジャマで拭ってリビングのドアに手を掛けた。その瞬間だった。
「そもそも、お前はどうしてあんな変な名前を付けたんだ!! あの子が可哀想だ!!」
「はぁああ!?!? 今更何言ってんのよ!? アンタだって最終的に賛成したから付けたんじゃない!!!!」
「それはお前がどうしても付けたいって全く譲らなかったからじゃないか!! 俺は元々キラキラネームには反対だったんだ!! あの子の将来のストレスの事なんて全く想像してなかっただろう? ただ自分が満足できる可愛い名前を付けたいから付けたんだろう!? 昔から考えなしで、その場限りで熱くなって融通が利かなくて、お前のそういう無神経なところが嫌いなんだ!!!」
その後、千穂がかつてない剣幕で怒鳴り声を上げ和司に向かって手を上げた。その光景を月はリビングのドア越しに見た。しかし、目で見えてはいても脳はその光景を流し見るだけだった。ドアに伸ばした手もピクリとも動かない。
月の脳は衝撃のあまり、もう一つの事しか考えられなかった。
――――お父さんは私の名前が可哀想な名前だって思っていたの?
月はその時に気がついてしまった。和司は最低限しか月の名前を呼ばないことに。仕事が忙しい和司とは滅多に一緒に出掛ける機会など無かったが、数少ない外出の機会の記憶を遡ってみると自分の名前が呼ばれた記憶が全く思い出せないことに。
月は和司の事が好きだった。和司が仕事で多忙故に親子であっても滅多に顔を合わせないような関係だった。それでも、明るくて少しそそっかしいところがある千穂と違い、落ち着きがあって、話をすれば楽しそうに月の報告したい出来事を聞いてくれる和司との時間を大切に思っていた。
名前に関しては、変わっているとは言われた事はあっても、みんな可愛いと言ってくれたので気に入っているくらいだった。
故に、小学三年生のまだまだ小さな体から、これでもかという程血の気が引いた。
――――私の名前って変なの?
これが、月のトラウマでありコンプレックスの始まりだった。
***********
和司は月と会って挨拶するときに絶対に名前を口にしない。会話中も殆ど名前を呼ばない。呼んだとしても、周囲にそれが聞こえないように注意深く声を抑えてぼそりと小さな声で呟くだけ。
この日の和司も相変わらずだった。月と会って嬉しそうに表情を綻ばせ、興味深げに近況を聞いたり、体調やら仕事が順調かとか気にしてきたり、必ず次にいつ会うのかを決めたがったりするくせに、月の名前を呼ぼうとはしない。
だから月は和司と会うたびにコンプレックスを刺激されて滅入る。しかも会った瞬間にどうしようもなく毎回落胆させられるから、小学三年生以来引きずり続けている問いを口にする事が出来ないまま大人になってしまった。
――――私の名前ってそんなに変?
――――お母さんが私に変な名前を付けたから離婚したの?
――――そんなに呼ぶのが恥ずかしい?
月の胸中にあるこれらの疑問はこの日も音になることはなかった。
当然、明るく会話を楽しむ気持ちには一切なれず、月は口下手な和司の話を主に聞く側に回り、時々される質問におざなりに答える。
それはいつものパターンだったが、この日の月は普段に増して不機嫌になっていた。
月はこの日を迎えるまでの数か月でレックスと出会い、自らの名前をそれ以前と比べてかなり肯定的に捉えることが出来ていたのだ。にもかかわらず、和司と会ったことで全てが振り出しに戻ったような心持ちなってしまったのだ。
月の内心を思えばより不機嫌になって当然と言える状況ではあったのだが、そんな内心を和司は知る由もない。
「……どうした? 今日はいつもに増して無口だな。体調でも悪いのか?」
それは月を慮る台詞ではあったが、今の月にとってはただの無神経だった。
長年口に出来なかった問いの代わりに、社会人になって以降ずっと考えていた事が声になって出た。
「もう、会わない」
「えっ?」
「もう、お父さんとは会わない!!」
悲しみと苦しみと遣る瀬なさを怒りに凝縮したような声が出た。突然の大声に周囲にいる客が息を潜めて自分達の様子を窺っているのが気配で分かった。普段の月だったら目立ちたくないから声を潜めるところだが、この瞬間は違った。
こんなに人から注目されていたら、私の名前を呼んで止めることなんて出来ないでしょう!?
興奮した脳内でそう叫んだ後、実際に声に出したのは全く別の言葉だった。
「養育費とか学費とかもう払い終わったから私がちゃんと勉強しているのか定期的に監視する必要もなくなったでしょ? わざわざ翌日に仕事がある日の夜に、仕事人間のお父さんが時間作るのは大変でしょ? だって、子供の頃、運動会とか発表会とかほとんど仕事が理由で来なかったもんね。だからもう無理してスケジュール調整とかしなくていいし。私別に――――」
最後の一言を口にするか一瞬迷う。けれども、和司の言葉が切っ掛けで自らの人生が狂わされたかと思うと、躊躇いはすぐに霧散した。
「――――お父さんになんか会いたくない」
はっきりと言い切った直後、バケツ一杯の冷水を頭から被ったかのように全身が冷えるような感覚に襲われた。
和司が真っ青な絶望の表情を浮かべて月を見ていた。その口元が戦慄きながら開く。
「――――っ、
それは、小さな震えた声だった。
瞬間、月の感情はまた沸騰した。
今更遅い!! 何もかも中途半端!!!!
月は自らの鞄を引っ掴むと、何も言わずに店から飛び出していた。
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