36 レックスの過去②

 それは樹達が二年生に進級した四月の出来事だった。


 放課後、樹はどうしても会いたいと美来に呼び出された。その呼び出しの内容は蒼龍の誕生日プレゼントを一緒に選んで欲しいという、ありきたりでありながら油断を招く内容だった。


 樹は美来を信用していた。親友である蒼龍が惚れ込んだ相手という点がそう思わせている部分が大きかった。


 結果的に蒼龍の為になる事ならばと呼び出しに応じ、誕生日プレゼントを買い終えた夕方の帰り道。樹は美来を家に送っていく途中の公園で告白された。


「…………はっ?」


 いつの間にか日が沈み、外灯にぽっかりと照らし出された公園のベンチ。肌寒い空気の中、乾燥して喉が渇いたと言った美来に付き合って自販機でジュースを買い、そこに腰掛けていたレックスは手元のペットボトルを派手に地面に落とした。ただ、それに構う余裕は一切無かった。


 何を言われたのか分からず、樹は目を見開いて固まった。そんな樹の視界の中で美来は顔を真っ赤にしながら最初に言った告白を繰り返した。


「私…………蒼龍くんよりも松田くんの事の方が好きになっちゃったの」


「なっ、何言ってんの!? そんなこと言われても困るっ。つうか、俺なんかより蒼龍の方が何倍もイイ奴じゃん。何で俺なんかっ」


 言葉に詰まった樹に美来は切なげな表情を向けつつも、蒼龍にとってとても残酷な事を言った。


「蒼龍くんも松田くんもとってもいい人だと思うの。優しいくて面白くて、一緒にいると楽しい。蒼龍くんは柔道がとっても強くて凄いと思うけど、松田君だって運動神経いいよね、写真部なのに。だけど、決定的に二人には違うところがあるの――――」


 レックスはその先は聞きたくない、と心の中で切実に願った。しかし、その想いは美来には伝わらない。


「――――松田くんはとっても格好いいの。本当に王子様みたいに綺麗に整った顔しているよね。女の子なら誰でも好きになっちゃうよ」


 結局顔かよっ。


 レックスはこの時点で美来に対する好感度を急降下させた。


 当然、告白は断り蒼龍の事を大切にするように必死になって説得をした。蒼龍がどれ程イイ奴で、どれ程美来の事を想っているのかを懸命に訴えた。そもそもレックスには彼女がいた。この日だって、本当は彼女も一緒に買い物に行こうと誘い、偶々予定が入っていて来られなかっただけなのだ。どう考えても美来と付き合うなどという選択肢生まれなかった。そう言えば美来は目から涙をぽろぽろ零して頷いた。


「分かってるの、私が松田くんの彼女になれない事くらい。けれど、今の気持ちを胸の内にしまっておくのが苦しくて、どうしてもこの想いを知ってもらいたくなっちゃって思い切って話したの。彼女にして欲しいなんて我儘は言わない…………だから、一つだけお願いを聞いて欲しいの」


 お願いとは何だと身構えた樹だったが、密かに用意しておいた贈り物を受け取って欲しいと言われて拍子抜けする。物を貰うくらいで全てが解決するならどんな物でも貰ってやると内心で大きな事を言った樹は立ち上がった美来を目で追った。


「今用意するから、目を瞑って待ってて。サプライズっぽくしたいの」


 言われるがままに目を瞑り、美来が用意をし終えるのを待つ。正面で美来が鞄の中を漁る物音がした。その音を聞きながらレックスはふと疑問に思った。


 恋を諦める為ならば贈り物をするよりも普通は何か物を譲って欲しいと求めてくるのではないだろうか。万が一自分が交際をオッケーしていたら用意していた贈り物はどういう扱いになっていたのだろうか。そもそも、告白してきたということは自分が蒼龍を裏切って美来と付き合う可能性があるとほんの少しでも思われていたのだろうか。蒼龍の親友で、彼女だっている自分は一体美来にどんな目で見られていたのだろうか。


 そんなことをぼんやりと考えていた樹は完全に油断をしていた。


 ふと気が付いたときにはおかしな程近くに美来の気配を感じた。それに驚く間も与えられず、唇にフニッと柔らかい何かが押し付けられた。


 はっ?


 声にならない声が頭の中で響いて、唇に触れたモノの正体を確認するべく瞼を開く直前。


 カシャッ


 無機質で軽い、そして聞き慣れた音が耳に滑り込んできた。瞬間、樹は形振り構わず体を捻りながら目を見開いた。


「ふざけんなっ!! 何してんだよ!?!?」


 かつて女子に対して発した事がない怒号が自分から飛び出す。それを止める術は無かったし、止める必要もないと樹は思った。


 身体を捻って避けたのは美来の唇で、耳に入った無機質な音はスマホカメラのシャッター音だった。


 見上げた先にはスマホを手に持った美来が居て、始めは樹の反応に驚いたような顔をしていたが、直ぐこれでもかと言うほど目に涙をいっぱい溜めて俯いた。


「ごめんね。でもっ、私本当に松田くんのこと好きだから、特別な思い出が欲しかったの。……私のファーストキス貰って欲しかったの」


 はぁっ!?


「はぁああっ!?!?」


 後にも先にも、樹はこの時ほど心の底から意味が分からないと思った事は人生でなかった。頭の中は大混乱。言葉にしようがない程の焦燥が臓腑の底から競り上がってくる感覚がして、吐き気すらした。自分の陥っている状況が冷静に受け入れられない。けれども、問わずにはいられない事が山程あった。


「ファッ、ファーストキスって、蒼龍とはっ!?」


「……蒼龍くんって凄く奥手で緊張しいなの。もう付き合って半年以上経つのに未だ手を繋ぐところ止まり。まぁ、そのお陰で松田くんにあげられたんだけど」


「いっ意味わかんねぇよっ!! お前、蒼龍の彼女だろっ!? 思い出ってなんだよっ!? しかも、写真撮ったよなっ!? 今直ぐ消せ!!」


 美来の手中にあるスマホを奪おうと手を伸ばした樹だったが、ひょんと跳んで後退した美来がその手を避けスマホを鞄にしまってしまう。


「おいっ! 消せよ!!」


 気が動転したまま樹は立ち上がり、美来の鞄を奪おうとする。美来は鞄を胸にキツく抱きしめて一切離そうとはしなかった。


「ダメッ! さっきの写真は私の人生の宝物にするのっ。絶対誰にも見られないように隠して保存しておくから、消さない!!」


「信用できない!! 今すぐここで消せよ!!」


「絶対イヤッ!! 消さなきゃいけないのなら、私と今すぐ付き合って! 蒼龍くんから奪って!!」


「だからっ、意味わかんないって!! 何で俺が好きでもない相手と付き合わなきゃいけねぇんだよ!! 何なんだよお前!? そもそも俺を好きとかぶっこくなら蒼龍と別れてからにしろよ!!」


 感情に任せた声量で樹は怒鳴った。正論で美来の抵抗を止めさせて画像を消させるためだった。しかし、美来はそれまでと纏う空気を一変させて、低く冷たい声を発した。


「それが出来るならとっくにしてる。…………松田くんだって蒼龍くんが私に凄く拘ってること知ってるでしょ? 別れ話を切り出したところでスムーズに話が進むとは思えなかった。だから順番が違うのは百も承知で勇気を出して告白したの。松田くんがもし彼氏になってくれたら、一緒に蒼龍くんに別れ話を切り出して、上手く話を纏められるかなって」


「……なんだよそれ。もう蒼龍の事は好きじゃないのか? 今のままじゃ駄目なのか?」


 樹は蒼龍の事を思って胸を痛めた。蒼龍が美来を想う気持ちはとても強い。中学時代からの片思いで、違う高校に進学してもその想いが消えることはなく、付き合って以降の愛情はどんどん膨らんでいっているように見えた。


 そんな蒼龍は事あるごとに美来の話題を上げるし、自分が本当に美来に相応しいかなどと自信なさげに語る事がよくあった。男らしい逞しさに面白さ、さらにはリーダーシップもある蒼龍の事を樹は自分より良い男だと常々思っていた。だから何度となく自信を持てと励ましたのだが、その度に「俺もお前みたいにモテたらこんなに不安にならなかったのかなぁ」と冗談口ではあったものの弱々しい事を言っていた。


 そんなに不安になる必要なんて一つもない、本心から何度もそう励ましていたにもかかわらず、根拠のないものだと思っていた蒼龍の不安が最悪の形で現実になってしまっている。そんな現状に樹は青ざめた。


 美来の立場になって考えてみると、確かに蒼龍の美来に対する愛情に比例して執着も強く、それを受ける側には目に見えぬプレッシャーがあるのかもしれない。付き合い始めに美来に中々会わせて貰えなかった事や、会う時は必ずダブルデートだったのも蒼龍の美来対する独占欲から生まれる牽制だったのだろう事にも少し前に分かっていた。


 自分が抱いている想いを凌駕する熱情を向けられる美来の気持ちは樹にも分からない事もなかった。けれども、蒼龍を全面的に友として好いていた樹には美来の内心が分からぬままその気持ちの全てを理解することなど出来るはずがなく、自分を選び蒼龍を切り捨てようという思考を受け入れることなど不可能だった。にもかかわらず――――。


「うん。蒼龍くんの事はもう好きだとは思ってないの。今好きなのは松田くん……。だけど、私の想いは迷惑みたいだから、しつこく迫るようなことは今後しないから安心して。だから思い出だけ頂戴。誰にも見られないように気を付けるから。蒼龍くんとは上手く別れられるように自分でなんとかするからっ」


 美来は鞄を抱えて俯き鼻を啜った。前髪で隠れた目元は見えないが左右の頬を涙が伝うところを視認してしまう。ポロポロ流れる涙に樹は余計な想像力を働かせてしまった。樹はこの日初めて美来に対して負の感情を抱いた。よってそれまでの樹の中に蓄積されていた美来のプラスイメージは未だに打ち消されていなかった。


 自分には理解出来ない美来なりの心の葛藤があったのだろうか。


 と、これまでの印象を優先して思考を巡らせてしまったのだ。


 別に初心ではなかった樹はいつの間にかキスをされた事を非難するのを忘れ、撮った画像を削除する事だけを求めるようになっていた。泣きじゃくる美来を前に責めてその行いを糾弾する空気はいつしか薄れ、撮影された画像に関しても、誰にも見られないようにするから自分の想いを昇華するために数日だけでもこのままにさせて欲しいという懇願に対して最終的に頷いてしまっていた。


 樹は馬鹿ではなかったがまだ高校二年生。それまで人を疑う事無く生きて来た青少年は自分の優しさと寛容さを後に呪う事になる。

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