番外編 撮影旅行③
旅館は山間部に立地し、観光地を見下ろせる斜面以外は森に囲まれている。さわさわと木の葉が揺れる音を聞きながら見る星々は情緒があり、通常なら感嘆とリラックスの溜息の一つでも吐くところだ。しかし、月は感嘆とリラックスなどとは程遠い精神状態で湯船に浸かっていた。
脳内を渦巻くのは旅行前に種田に言われたアレコレ。風呂に入る前から全身茹で蛸状態。風呂を上がった後の展開が読めず、もしかしたら種田が言った通りの流れになるかもしれないと思うと、声にならない声を上げて脳内に広がりそうになる妄想をかき消した。
月にとってレックスは“はじめて”の塊だ。自らの名前にコンプレックスを抱いて以来はじめて下の名前をあだ名にしてして呼ばれ、今では家族以外ではじめて自分の名前を呼ぶ事を許している。本気で好きになったはじめての相手。はじめて好きと伝えられ、伝えた相手。初彼でファーストキスをした。どの経験も月にとっては心が熱くなる刺激的なものだった。
レックスとならどんな事でも乗り越えられる。それは月の中にある揺らがない想いだった。しかし、それと沸き上がる羞恥心が中々うまい具合に混じり合わない。
恋する乙女として初夜というイベントを全く想像しなかったかといえばそうでもなく、月とて人並みに興味はある。キスだけでどうしようもないくらい幸せなのに、その先の触れ合いなんてどうなってしまうのだろうか。そんな幸福な悩みと共に、自分のさして女らしくない体ではガッカリさせてしまうのではないかと想像して冷や汗をかく。
レックスは女性不信はかなり内側の精神的な部分の話だ。女性ファンを大切に思っているし、割り切った関係の恋人は何人も居たことを月は知っている。大人の触れ合いに関してレックスの経験値はかなり高いのだ。となればピヨピヨのひよこレベルの初心者である月などが相手になったら興醒めさせてしまうのではないか。そんな不安が脳裏を過ぎる。
レックスは人を見た目で判断しないし選ばない。それはわかっているし信じられる。けれども、性的な事にもそれが適応されるのかは分からない。
どうしよう。どうしたらいいの。どうするべきなの。
繰り返してもどうしようもない事を考えている内に月はのぼせてしまい、ふらふらな状態で湯から上がる事になった。
「とりあえず、俺が好き勝手やるから月はこれまで同様促されるまま撮影してくれればいいから、よろしくね」
月はハンディサイズのカメラを手に固まっていた。キングサイズのベッドを挟んで向こう側に湯上がりのレックスが立っている。しっとりとした髪と温まって血色の良くなった頬がやたらと色っぽく、旅館の浴衣姿がさらに色男度を上げている。
見惚れて数秒、ベッドの対岸にいる自らのチンチクリン具合に月は項垂れた。同じ柄の浴衣を着ているのに男のレックスの方が何倍も色気があるのはどういうことだと、膝を折って嘆きたくなる。
しかも、さんざん意識して出来る限りの覚悟をしてベッドルームに足を踏み入れたにもかかわらず、レックスは完全に撮影モード。優しくはあるが二人きりの時に醸し出す甘さはない。加えて、男女でベッドに入る事に対して抵抗や照れなんて微塵もなく、意識している様子もない。
一日撮影していて疲れているだろうし、もしかしたら今日はこのまま撮影をしたら眠るだけかも。
月はそんな事を考えながら、レックスの指示通りにビデオを構えた。
「今日は疲れたけど、楽しかったね」
レックスがベッドに入り、促されるままベッドに入る。
枕に背中を預けつつ、同じように座っているレックスにビデオを向ける。
「今日はもう寝よっか。暗くするよ」
ベッドボードのスイッチを調整し、間接照明の淡いオレンジだけが灯される。撮影だとわかっていても月の緊張は高まってしまう。
布団に潜り込むレックスに合わせて月も同じように布団に入る。
「ふふっ、まだカメラ構えてるの?」
枕に沈んでいた頭がくるりと振り向き、カメラ目線で目を細められてドキンと心臓が跳ねる。
「俺の寝顔もそれで撮るつもり?」
不意に楽しそうに笑う顔が自分ではなく視聴者に向けられたものだということを強く意識する。月を見ているようで、レックスの目が見ているのはレンズの向こうの視聴者だ。すると途端に切ない気持ちになる。
それまでは一緒に旅行に来れるだけで十分に贅沢だと思っていた。なのに、ベッドの中に一緒に入るという極めてプライベートなシーンを他者と共有することに大きな違和感を覚えてしまう。
私だけの恋人なのに。
独占欲が沸々と沸いてきて、こんな撮影早く終わってしまえばいいのに、心中でぼやく。そのタイミングでレックスが「おやすみ」と囁いた。甘い動画用の笑顔を浮かべて月に手を伸ばし、そのままカメラのレンズを覆う。
これで、やっと終わった。
月はベッドの中で初めて肩の力を抜いた。
しかし、予想外の展開が発生する。
「なーんて、本当にこのまま寝ると思った?」
レックスは言うと同時に月との距離を一気に詰めた。ビデオの画角などお構いなしに、これまでにない程密着して抱きしめられる。月は大いに戸惑った。まだビデオは録画状態。声を出す訳にはいかないと、辛うじて声を堪える。
「男女で、恋人同時で、こんな雰囲気のある場所で、更にはベッドの中で、こんな可愛いのを前にしてこのままおやすみなさいなんて野暮な展開はあり得ないよね」
ビデオは下を向いてしまい恐らく暗闇しか撮れていない。にもかかわらずレックスはそれに構わない。片腕が月の後頭部を撫で、もう片方が背中をゆっくりと撫で下ろした。その感覚にビクリと震える。
身に着けている薄い浴衣越しにレックスの体温や体つきをリアルに感じ取ってしまう体勢に月の心拍数は一気に上がった。
撮影中にこんなに密着するなどという事態は想定していなかったため、月の浴衣の裾は布団に入った段階で軽く捲り上がっていた。ビデオを構えていたため直せなかったのだ。捲り上がった裾は抱き寄せられることによってより乱れ、膝が完全に露出している状態になる。それを直したくとも、ビデオを握ったまま抱きすくめられているため腕の自由が利かない。その上、演出の途中なのかもしれないと思うと声を出すことすら出来ない。
「月には悪いけど、逃がしてはあげないから」
「――――えっ?」
名前を呼ばれた事にハッとして顔を上げる。瞬間、レックスが月から腕を離したかと思うと、横向きだった月の肩を押して仰向けにさせられる。気が付いた時には四つん這いで覆いかぶさるレックスの顔を天井の代わりに見上げていた。
薄明かりの中レックスは月を見下ろして自らの唇をチロリと舐めた。
「だから、その分すんごく優しくしてあげる」
「えっ、ちょっ、さっ撮影は――――んっ」
カメラを胸に抱いた状態で目を白黒させる月の唇が塞がれる。月はビデオがまだ回っている状態でのレックスの行動が信じられなかった。さらには言われた台詞が衝撃的かつ刺激的過ぎて、唇が解放された瞬間に強めに抗議の声を上げる。
「松田さんっ、カメラがまだ回っていますっ!!」
それは月の精一杯の抵抗だった。しかし。
「生配信じゃないから、どうにでもなる。月はこういうことに不慣れでしょ? 一度ベッドから出たらそのまま恥ずかしがって逃げちゃいそうだから、ね?」
ね? とは何だ!?
月は心の中でそう叫んだが、それすら声にするタイミングを失う。
「それから、夜のベッドの中で“松田さん”は情緒に欠けるから、呼ぶときは“樹”でよろしく」
「そんなっ、む――――」
無理、がキスに飲み込まれる。今度は先ほどより時間を掛けて離れる。あっという間に思考能力が奪われて、体は熱くなるばかり。二人の間に籠る空気も体温同様に熱くなっている。
このまま、本当に流されてしまうのか?
そんな疑問が月の脳裏を薄く過る。レックスは月の胸元のカメラを回収し、電源を切ってからベッドボードに置いた。低く甘い声がオレンジ色の淡い光が灯る室内の空気に溶け込む。
「今日、ここからは、好きでたまらない本当の恋人にしか見せない俺でいくから、月は取り零さないように全部受け入れてね」
そんな事を言われたら、抵抗なんて出来る訳がない。
月が覚悟を決め、目をぎゅっと閉じて極々小さな声を上げる。
「…………ぅん、樹さん」
そこから恋愛初心者女子は恋人に腕を引かれる形で“夜の愛”の階段を急ぎ足で駆け上ることになった。
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