2 玄関開けばYouTuber!?
月の仕事は家事代行だ。調理の専門学校を卒業してからすぐに勤務して、今年で二年目。
家事代行を仕事として選んだのは、何でも人並みにしか出来ない月が唯一人並み以上に出来る事が家事だったからだ。
小学四年生の時に両親が離婚し、月は母子家庭の子どもとなった。それを機に、それまで週に数回パートに出るだけだった千穂が異様な程忙しくなる。スナックを経営するための様々な勉強を始めると同時にパートの時間を増やし、寝る間も惜しんで月との生活を安定させようとしたのだ。その姿を見て、月もただ養われているだけでは駄目だと、幼いながら自覚した。そうして始めたのが家事だった。
掃除に洗濯に料理。それまでほとんど手伝ったことがなかった。それらを教える余裕のない千穂の横に立って見様見真似で全てを覚えた。失敗しながら少しずつ上達し、六年生になる頃には一人で何でも出来るようになった。それからずっと五島家の家事は基本的に月が担当している。
家事が唯一の出来る事。ただそれだけで仕事を選んだ。
就職した家事代行会社は【にこにこHOUSEWORKERS】。掃除・洗濯・整理整頓・料理・植物の水やりやクリーニングの受け渡し、その他細々した作業まで、様々な家事を顧客に代わって行うのが仕事。因みに自宅と代行先の直行直帰が可能。
月は契約社員として就職した。正社員で応募することも出来たがそうはしなかった。本社で営業や人事をするよりも、自分の得意が活かせる現場で黙々と家事のスキルを向上させるほうが性に合っていると判断したからだ。
しかも、契約社員は最低限の基本給にプラスして歩合制で給料アップが見込める。担当の顧客を持つこと、初回お試しコース利用者の代行に赴き定期契約を結ばせることでポイントになる。月は自己紹介の時こそ変に緊張してぎこちないが、それが済めば無難に愛想が良い。仕事は丁寧で早く、若くて体力もあり、料理上手。そんなところが気に入られて固定客が多く、お試しから定期契約を取るのも得意だった。よって下手な正社員より稼いでいる。しかし、その分、課せられる仕事がハードになりがちだった。
その日も厄介な仕事が入っていた。
曜日は水曜。夢見の悪かった朝の記憶を脳の隅に追いやって出勤し、午前中は固定客の洗濯と掃除。正午からも他の固定客の所に訪問し昼食と作り置きおかずを作るなど忙しくて働いた。それらはいつも通り滞りなく終わらせた。問題はその後だ。
五月の青天の空。広々とした片側二車線の道路脇に並ぶ青々とした桜並木。一月前はさぞ圧巻の桜吹雪が見れたんだろうなぁと月が呑気なことを考えたのは現実逃避のためだった。
爽やかな風が吹き抜け、前髪がふわりと浮き上がり視界がクリアになる。そのタイミングで葉桜から視線を逸らし、道すがら敢えて見ないようにしていた方向に目を向ける。見上げた先に迫力満点でそびえ立っていたのは、顎を天に向けないと頂きが見えないようなタワーマンションだ。
「変なお客さんじゃ無ければいいんだけどなぁ……」
月は仕事用のタブレットに表示されている今日の指示書と地図アプリ上のマンションの所在地を見比べ、一致している事を確認して溜息を吐いた。
勿論、タワーマンションに住んでいる客だから問題があるわけではない。家事代行利用者には富裕層が多く、高層マンションに住んでいる客も少なくはない。お金持ちは長期契約に繋がりやすく金払いも良いので通常だったらウェルカムだ。
しかし、今回は少し都合が違った。何故なら、普段は一人で赴く初回お試し利用の業務に上司社員が付き添うと言ってきたのだ。
通常、社員が業務にくっついて来る事はない。しかも今回一緒に現場に赴くのは営業部長と広報部長の二人。入社式以来一度も遭遇することがなかった会社のお偉いさんだ。イレギュラーにも程がある。
何故こんな事に……。
心の中で嘆きつつ視線をタワーマンションの正面に向ける。すると、曖昧にしか覚えていない上司二人が並んで待っている姿を見つけてしまう。
かつてないプレッシャーに月はもう一度溜息を吐いた。ただ、その息を完全に吐き切る前に、小走りで上司の前に進み出た。別に遅刻している訳ではなかったが、下っ端従業員の悲しい性だ。
「時間はいつもの初回お試し利用と同じで三時間。作業内容は掃除と整理整頓。リビングダイニングにキッチンがメインで時間があったら風呂場とトイレだ。君はいつも通りに仕事をするだけだ。だから、ヘマはしないでくれよ。社運が掛かっているんだ」
「社運ですか?」
飛び出してきた仰々しいワードに月は目を剥く。
指定された部屋に向かうエレベーターの中、上背も恰幅もよい四十代半ばの営業部長の太い声に顔色を青くした月。その顔を見て、一緒にいた広報部長がフォローを加えた。こちらは痩せ型の男性だ。営業部長と同じくらいの年齢に見えるが、物腰が柔らかい分接しやすいタイプだった。
「大丈夫。五島さんはスタッフの中でも一番仕事が丁寧で正確、お客様からの評判も高いから今日の同行者に選ばれたんだ。気負う必要はないよ」
「そう言われましても……。そもそもお二人はどうして今日いらっしゃったんですか?」
月の言葉に広報部長は目を丸くして営業部長を見た。
「事前に説明していないんですか?」
「ああ、スタッフがやることはいつもと変わらないからな。事前に教えて浮足立たれて仕事の質が落ちるのも、余計なことを周囲に言いふらされるのも困る」
浮足立つ? 言いふらす? 月には何のことだかさっぱり分からなかった。
そうして、現状の把握すらまともに出来いままエレベーターは無情にも目的の階に到着してしまう。そこは家賃が幾らか考えると目が回りそうになるかなりの上層階だった。
大社長か政治家か。どんな顧客が出てくるのかはまったくの未知。何が何だかわからないが、やることがいつもと変わらないというのなら焦る必要はない。
月はそう割り切った。部長二人が全てを把握している。いつもの業務外のことは全てお任せモードでいようと心に決めた。
絨毯敷の高級感溢れる内廊下を歩いて最奥にある部屋の前に辿り着き、営業部長が代表してインターフォンを押す。玄関が開くまでの僅かな間、広報部長がチラリと振り返ってきて小声で不穏な事を言った。
「出てきた人にどんなに驚いても叫んだりしないでね」
「えっ?」
顔を見たら叫んでしまうような相手とは一体どんな客だ。もしかして、ヤの付く職業の親玉が傷だらけの顔で出てくるんじゃなかろうな!?
そんなことを想像してゾッとする。けれども直ぐに事前チェックした今回の指示書に記載されていた内容を思い出し、ヤの付く職業の親玉が出てくる可能性がほぼないことに気が付いた。
【
顧客の個人情報だ。二十三歳で親玉はあり得ない。ほっと胸を撫でおろす。そう月はこの時点で高層マンションの高層階に住むには随分と年若い顧客であるという点には気が回っていなかった。
重厚な玄関扉がゆっくりと内側から開かれる。
「こんにちは~。今日は宜しくお願いします」
少しばかり間延びした男の声が妙に耳に引っ掛かり、ドアハンドル付近を見ていた視線を上げる。そうして視界に入ってきた顔を直視して、息を呑む。否、月の息は止まった。
「―――――――…………レックス、さ、ま?」
思わず口から漏れたのは、毎朝聞き慣れて耳に馴染んでいた千穂が使う呼称。
茶髪に金メッシュ。左右対称の整った顔面パーツ。すらりと高く引き締まった体躯に甘い声。
今朝も画面越しに見た、馬鹿みたいに整った容姿の男がドアに手を掛けて立っていた。
それだけでも死ぬほど驚いた。にもかかわらず、レックスは月の声に反応してくすりと笑った。
「“様”は大袈裟だなぁ。でも、僕の事知ってくれているんですね。有難うございます」
自分一人だけに向けられた視線と台詞と笑顔。返す言葉が全く出てこない。
――――眩しい。なんだこれ? 眩しい!?
混乱極まった月は思いっきり滑らせた自らの口を両手で押さえる事しか出来ない。
当然、イケメンに対する文句の言葉など一ミクロンも頭に浮かんでこなかった。
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