第11話 父と娘
48 父と娘
クリスマスイブが三日後の水曜日に迫った日曜日、月はそれまで一度も訪れた事のない喫茶店に来ていた。
モダンで落ち着いた店内には落ち着いたジャズが流れている。背の高い観葉植物や巧妙な座席の配置により、開放感をキープしつつも視覚的には各テーブル席のプライベートが極力守られるようになっている。聞いた話によると、近くにある芸能関係の事務所に所属するスタッフや芸能人がミーティングに利用する喫茶店らしい。
そんな店の奥まった席に月は腰掛けている。
俯いて見つめるテーブルには一口も口を付けられる事ないまま温くなってしまったコーヒーが二杯。握り込んだ拳は緊張と恐怖で膝の上で震えていた。何故なら、対面の席には和司が座っており、月はそれまで一度も口にした事がない胸の内を全て語っていたからだ。幼い頃に聴いてしまった離婚直前の夫婦の会話から自分の抱えるコンプレックス、前回会った時に怒って去った理由、和司に対する怒りや悲しみの全て。思い浮かぶ限りの全ての事をぶつける様に喋り尽くした。
「どうして私の名前を呼んでくれないの? 私の名前ってそんなに変? お母さんが私にこんな名前を付けたから、お母さんと私と離れたくなった?」
全てを語って聞かせた締め括りに月は聞きたくても聞けなかった問いを震える声で投げつけた。
自分の名前のせいで両親が不仲になったのかもしれない。
月は離婚直前の会話で名前を否定されてから、そんな想いを心の底に抱えていた。そしてその思考は月のコンプレックスを肥大させるのに十二分な効果を発揮した。
今にも涙が溢れてきそうで顔を上げることは出来なかった。心臓がかつて無いほど強くて脈打ち、胸が締め付けられ、呼吸すら浅くなっていた。それでも和司と向き合っているのは、尊敬している好きな人が辛い過去に立ち向かった姿に触発されたから。自分も頑張ってみようと思えるパワーが湧いてきたからだった。
結果、驚くべきことが起こった。
月は和司からうんともすんとも返事がこない事に痺れを切らして顔を上げる。すると視線を向けた先で和司は目元を押えていた。鼻を啜る音が聞こえ、頬を何度も何度も涙が流れ落ちる。それは月が生まれて初めて見る父親の涙だった。
――――すまなかった。俺が全て悪かった。そんな辛い思いをさせていた事に気が付かなかった俺は最低の父親だ。
和司は実の娘である月に対し、テーブルに額を擦り付ける様に頭を下げて謝罪の言葉を並べた。唖然とするしかなかった月の目の前で、和司はいつの間にか皺の増えた大きな手で顔を雑に拭きながらその胸中を語った。
「正直に話す。――――俺はお前に
和司の話は真摯ではあったが、月にとっては辛いものだった。それでも、最後まで聞き切らなくてはと必死で唇を引き結び、縮こまりそうになる背筋を出来る限り伸ばした。
「その不安が一気に膨れ上がったのは離婚に踏み切る直前、恐らく俺達の喧嘩を月が見聞きしてしまった日の少し前だと思う。あの日は――――」
和司は月が知らない出来事を語り始めた。
その日は日曜日だった。当時、和司は社畜と表現するのが正にそれだと言える様な働き方をしていた。休日出勤を余儀なくされ、疲れ果てた体を引きずって家路についたのは夕暮れ時。西日が眩しい中、通りかかったのは自宅近くの公園。子どもが元気一杯にはしゃぐ声が耳に届き、自分にも子どもの様なスタミナが戻って来ればと肩を落とした。そんなタイミングだった。
「ムーンちゃーん、いくよー!」
自らの娘を呼ぶ声が聞こえ目を向けると、そこには月と友達と思われる少女が遊んでいた。二人はボール遊びをしながらはしゃいでいる様子だった。腕時計を見ればもうそろそろ帰宅させてもよい時分だったので、和司は月に声を掛けようとした。久々に一緒に家まで帰り、普段あまり設けられていない娘との会話の時間を作ろうとしたのだ。しかし、和司の声は発声される寸前で喉の奥で詰まる。
「ムーンだって、変な名前」
「ああ、キラキラネームって奴ね。可哀想。自分本位な親がいたもんね。将来自分の子供が恥を掻くことになるってどうして想像出来ないのかしら」
それは公園から帰ろうとしていた母子の会話だった。瞬間的に頭に血が上った和司は怒りに任せて抗議しようと声がした方を振り返ろうとした。
「あっ、お父さんだ!!」
タイミング悪く月が和司に気が付き駆け寄ってきた。月の無邪気な笑顔を見て和司は冷静さを取り戻す。何を言われたか知らない本人の目の前でわざわざ母子を咎めて不快な思いをさせるのは可哀想だ。和司はそう判断してしまった。だから和司は我慢してしまった。抗議したいのを我慢して親子が離れて行く後ろ姿を見送り、心情を誤魔化して月に対して笑顔を返した。
それが良くなかった。
我慢して自身の中にしまい込んだ感情は疲れ切った和司をどこまでもマイナス思考にさせた。もし月が名前のせいで将来恥を掻き、人から憐れんだ目で見られ、イジメの対象になったらどうしよう。そう思うと、名前を決める際に和司が反対したにも関わらず
「俺は大馬鹿だっ。俺は月の事を守っているつもりだった。恥を掻かせる訳にはいかない、好奇の目に曝してはいけないと思いながら、お前に月と名付けた事に自信が持てなかったんだ。千穂のように周囲の目なんて関係なくお前の名前は素晴らしいって胸を張っていればよかったのに、それが出来なかった」
和司から語られた話は二つの理由で月の胸をキツく締め付けた。一つ目は、月の名前が和司に肯定的に捉えられていない事を再確認してしまったから。二つ目は、和司が月を守るためにと思って名前を呼ぶ事を避けていたと知ったからだ。
有難迷惑。そんな言葉が頭に浮かぶ。周囲の目など気にせず、大きな声で名前を読んで欲しかったとどうしても思ってしまう。千穂と同じ様に和司にも堂々として貰えていたら、きっと月は名前にコンプレックスを持たずに澄んだ。少なからず今よりは胸を張っていられたはずだと、今更考えても意味の無い事を考えてしまう。ただ、和司を切り捨てるにはまだ足りなかった。
「――――ねぇ、私の名前って変? 他の人がどう思うかとかじゃなく、お父さんは変だって思う?」
声が震えた。それでも月は涙を流す寸前の精神状態で和司の答えを待った。
数秒の沈黙の後、店内BGMと周囲の雑音に和司の声が混ざった。
「…………さっきも言ったが、初めて千穂に“
そこまで聞いて、月は両手で顔を覆って俯いた。
やっぱり、私の名前はお父さんにとって変なんだ。やっぱり私は、お父さんに愛されていなかったんだ――――。
そう絶望しかけた時だった。
「――――それでも、千穂は一生懸命月のという名前の魅力を語ったよ。ありったけの愛情がその名前に詰まっているんだ。眩しすぎる太陽と違って見上げる事が出来る優しい光を放つ美しい星。
俯いていた月の頭にポンと何かが触れた。それは和司の声に連動して僅かに震える。
「どうして俺はそんな思いをいつの間にか忘れてしまったんだろうな……。言い訳にしかならないが、離婚する三年くらい前から会社の体制が大きく変わって、仕事が忙し過ぎて心の余裕が無くなっていたんだと思う。休日が無ければ、睡眠時間も殆ど無い。そんな日常下で俺は他人の目を気にし過ぎて考え方を誤った。人目や言葉など気にせずに、真っ直ぐ愛してやれなかった……。けれども俺はな、千穂の提案に乗ってお前が“
ボタボタと涙が目から溢れてきて頬を伝う。月はそれを振り払うかの様に首を横に振った。
「嘘だっ! そんな風に思ってたら変な名前なんて言わないよっ!!」
和司の言っている事を信じる事が出来ず、月は頭の上に載せられていた手を振り払った。にもかかわらず、その手はまた優しい手つきで月の頭に戻ってきた。
「っ、不安にさせたよなっ、俺は父親失格だ。気が小さくて、周りの目ばかり気にして今まで生きてきたんだっ。仕事に疲れて、噛み合わなくなっていく千穂に当たって、唯一の癒しだと思っていた娘を守るつもりで俺が一番傷つけていたんじゃ、本当にどうしようもない」
自嘲気味に言い放った後、不器用な掌が月の頭を少しばかり強めの力で撫でた。
「でもな、俺はどうしようもない父親だけど、月の事を嫌ったり恥ずかしく思ったことは一度たりともないっ。これだけは信じて欲しい! 離婚したのも俺も千穂の問題であって、月への名付けが原因なんてことは絶対にない! お前は昔も今も俺にとっては、暗い夜空に浮かんで俺のくだらない人生を優しく照らしてくれる唯一無二の光なんだ。とても大切なんだっ」
切実な声は複雑な感情の隙間を縫うよつに月の心の中心に届いた。
お父さんは私の名前を全否定している訳ではなかったのか。私は別に嫌われていた訳では無かったのか。そっか。そっかぁ……――――
そう思考して月は気が付いた。名前を否定されると同時に自分という存在そのものを和司に否定されたといつしか思い込んでいたと。どうせ私の事なんて嫌いなんでしょ。そう考える度に傷付き、寂しさを募らせ、自分の名前がどんどん嫌いになっていったのだ。父親にすら否定される自分の名前と存在が他者に好かれる訳なんかない。その考えが月のコンプレックスを膨れ上がらせていた。
和司が涙を流して詫び、月の存在を肯定してくれた。胸の内で膨らみ続け大きくなったまま固まってしこりがはじめて柔らかく小さく変化した。
すると月の頭にふと幼い日の記憶が蘇ってきた。仕事が忙しくて殆ど家にいなかった和司が珍しく月と遊んでくれている時の光景だ。月は構ってもらえる時間が少なくとも、優しく穏やかに頭を撫でてくれる和司の事が大好きだったのだ。長いこと忘れていたそんな温かな記憶が月の胸に蝶の様に飛来した。
しばらくの間、月は顔を上げる事も喋る事も出来なくなる。その顔が上がるまでの間、頭の上にのった和司の手は優しくそこに在り続けた。
世の中はこれから真冬になる。しかし、月の心は違った。
長かった冬が終わりを迎え、春の気配が香っていた。
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