38 レックスの過去④
家族にはかなり心配された。
いじめに遭っていた事は学校には行かないと決めてからはじめて母親に話した。直ぐにでも学校に電話を掛けて力の限り文句を言おうとしたくれた母を止めたのは樹だった。体の外傷などは蒼龍に殴られた時以外は目立ったものはつかず、無くなった物は見つからないまま、壊された物の犯人は不明。仲間が居ない学校でいじめを証明する事は難しいし、担任教師は波風が立つのを嫌う気の弱い勤続二年目の女教師で自分が庇ってもらえるとはとうてい思えなかった。だから樹は学校に行きたくないという事だけを受け入れてくれればそれで良いと母に伝えた。
それから暫くは引き篭もりになった。何をする事なく一日を家で過ごすようになる。
大きな脅威から逃れる事は出来たが、だからといって心穏やかになるかと言われればそうでもなかった。やる事がない余りある時間は自然と思考を悪い方向に導いた。
何がいけなかったのだろうか。
そんな事を考えては泥沼にはまっていく日々だった。
いじめをする主犯が悪い。そいつらをつけ上がらせた蒼龍が悪い。自分の顔面に釣られてホイホイ薄っぺらい好意を寄せて来て、口先だけの甘言を囁きあっさり裏切ってくる女子が悪い。キスしてきた上にその画像を蒼龍に流した美来が悪い。
美来にはいじめを受けるようになってから誤解を解くための助力を願って何度かメッセージを送り学校にも会いに行ったが、避けられているのか全くコンタクトが取れなかった。
――――こんな女子達に無駄に気に入られて、自分の与り知らぬ所で無意識に敵を作ってしまう己のルックスが悪いのだろか?
自身の心身に危害を加える者は必ずと言って良い程樹のルックスについて口にした。男子は全員樹が意中の女子を略奪したかのような被害妄想を抱いており、女子は砂糖に群がる蟻ように樹の見た目に惹かれて近寄って来ているようだった。
それまでの人生はなんの問題もなかった。まして、整ったルックスは人に羨まれ、人を惹きつけ、コミュニケーションを円滑にしていたと言っても過言ではない。友達もちょっとした知人も皆が皆、樹と一緒にいるときはどこか自慢気で、羨ましいと言いながらもとても肯定的に樹の見た目を受け入れてくれていた。
しかし、それは過去であって現在ではなかった。樹は考えれば考える程、自分が今の見た目じゃなかったら同じ事態は起こり得なかったのではないかと思うようになった。
他者の行いに改善を求められない状況にいた樹は自身の見た目をどうにかするという方法でしか現状は改善されないといつしか思い込むようになっていった。
鏡を見るのが嫌になり、見た目を整える行為が怖くなった。元々薄かった髭を剃る事を止め、日課にしていた軽い筋トレも止めた。綺麗になるのが怖くて風呂も体が痒くて仕方がない時だけしか入らなくなった。食事は馬鹿みたいに食べて太ろうとした事もあったが、直ぐに胃腸が多量の食事を受け付けない事に気がつき、ならば体に悪いものを食べれば肌が荒れるだろうと好きでもない菓子類ばかり口にするようになった。
そんな生活を続け、髪も伸び、体の筋肉が減り、肌も荒れてそれまであまり縁がなかったニキビが出来るようになった。しかし、それらの変化は樹の癒しにはなってくれなかった。
体力が無くなり、体調が悪くなった。けれども、いくら見た目を変えようとしても限度があった。不潔な自分はより嫌われるのではないかと、今更ながら考えて、じゃあどうすればよいのだとベッドの上で頭を抱えた。
いっそ整形して人生をやり直そうか。
今更ルックスに何のこだわりもないのだから、出来る限り不細工に顔を変えて貰えば良いのではないか。
本気でそんな事を考えてネットで検索をしたが、金銭面で挫折する。整形代を親に工面してもらうおうという発想は出て来ず、手持ちの金は殆どなかった。何故なら、バイト代と貯金を叩いて高性能高画質なビデオカメラを四月に買ったばかりだったからだ。
遮光カーテンが閉められたままで常に薄暗く、現在時刻が分からない自室のベッドから樹は軽く上体を起こした。そうして、勉強机の上に置かれたまま埃を被っていたそのビデオカメラを久々に目視する。
樹がそのカメラを買ったのは当時の友人達を撮影するためだった。写真部の樹は人を撮るのか好きで、好んで部活動をする友人の姿を被写体にし、出来のよい写真をプレゼントしていた。スポーツ観戦も好きだったのでしょっちゅう練習試合や大会にも顔を出していた。すると、ある日軽い調子で蒼龍を含めた友人に「静止画も良いけど動画も撮って欲しい」と頼まれた。特に抵抗のなかった樹は手軽にスマホで試合の様子を撮影し、そのまま見せるのは面白味に欠けると思ってアプリなどを活用して動画編集をした。BGMやテロップを入れ込み、自分の声を吹き込んでスポーツニュース風にしたのだ。それが大ウケした。誰も彼もが賞賛してきて、俺も俺もと撮影を頼まれた。それが嬉しかった樹はそれ以来どっぷり動画撮影にハマり、スマホカメラのクオリティに満足出来なくなって買ったのがそのビデオカメラだった。
友人の笑顔が見たくて一生懸命バイトをして買ったそのカメラは数回使用しただけで、美品のまま用済みになってしまった。
売ればそれなりの金になる。部分整形くらいなら出来るかもしれない。
そう考えたとき、急激な虚しさに襲われ、それまで湧いてこなかった怒りがマグマのように沸き上がった。
俺が一体何をした!? 俺は何もしていない! 悪いのは諸悪の根源である美来であり、勘違いしたままキレた蒼龍であり、逆恨みをした男子達であり、見た目だけに惹かれて纏わりついてきた女子達だ。何で俺が学校から離れなくちゃいけない。何で俺が家に籠らなきゃいけない。何で俺が自分の見た目を疎まなくてはいけない。何で俺が不健康になってまで見た目を変えなきゃいけない。何で俺が整形なんて考えなくちゃいけない。俺の何がいけない。俺は何もしていない。俺がどうして我慢しなくちゃいけない。何で俺が自分を大切にしてくれない相手のために傷つかなくてはいけないんだ!!
その日の樹は荒れに荒れた。部屋の中をメチャクチャにして、自分が怪我を負う事などお構いなしで物に当たり散らした。母親が血相を変えて止めに来ても暫くは止まる事が出来なかった。
落ち着いた後、真っ青になって自分を見つめる母親に気が付いた樹は素直に謝り、荒れ果てた自室を見下ろして今のままでは駄目だと強く自覚した。
自分が腐っている。このままではもっと腐っていく。
そんな恐怖に襲われる。ただ、暴れた事で冷静さを取り戻し、久々に自分を客観視する事が出来ていた。
母親をリビングに帰し、自分で自分の部屋を片付ける。懺悔のようなその行為中、樹は久々に冷静になった頭で必死になって今後どうやって生きるべきなのかを考えた。
もう学校には行きたくない。けれども家族に心配を掛け負担になっている現状は変えなくてはならない。自分を傷つけた奴らを見返してやりたい。逃げたまま、やられたままでいるのは嫌だ。
折れていた心に久々にが闘志が湧き上がった。
見た目が良くて何が悪い。中身を見ずに外見だけで人を判断する人間と付き合う価値なんてない。自分はあんな奴らよりも何倍も価値がある人間だって世の中に知らしめたい。学校などというコミュニティーに属していなくても、例えいじめに遭ったとしても負けずに強く生きていけると証明したい。
それらは暴れ回った勢いで頭の中に浮かんだ大それた願望だった。タイミングによってはすぐにそれらの意志は消え、恐怖で萎縮する思考に戻っていったかもしれない。しかし、樹は心が轟々と燃え上がっている最中に奇跡的にも自分にぴたりと嵌る光明を見つけ出すことに成功した。
部屋の片付けをするための集中が切れた樹は暗い思考に戻りたくなかったので明るい音楽を流そうとスマホを手に取った。音楽を聞きたい時はYouTubeで検索を掛ける派だったので、いつものようにアプリを開く。すると何を検索する前にホーム画面の一部に目を奪われた。それは自分より少し年上くらいの男が満面の笑みを浮かべているサムネイルだった。久々に心の底から笑っている人間の顔を見たと感じた樹は無意識の内にその動画を再生していた。
その動画は男が一人でただただスイカ割りをしている動画だった。自宅と思われる部屋の中で様々なアイテムに持ち替えて目隠しをしてスイカ割りをする。編集によって次々と切り替わる映像の中で男は部屋中をしっちゃかめっちゃかにしつつもあくまで真剣にスイカ割りに挑戦をするのだが、様々なプチハプニングによって笑いどころが次々とやって来る。
樹はいつの間にか夢中になって動画を視聴し、ついしかマヌケな男の一挙一動に吹き出し、声を上げて笑っていた。それは人の満面の笑みを見るよりも久振りな事だった。
自分が純粋な気持ちで笑えたことに言い様のない喜びが胸を競り上がってきて、その感情を持て余した樹は同じYouTuberの動画を次々に再生した。
どの動画も自由で、演者の男本人が心の底から楽しんでいるのが分かった。そうでありながらも一生懸命視聴者を楽しませようとしている事も伝わってきた。樹は心が擽られたら素直に笑い、次の展開を楽しみ、一本の動画が終わればもっと楽しませてくれる動画は無いのかと次の動画をタップした。
そんな事を繰り返している内に樹の中に小さな願望が生まれる。
こんな風になれたらな、と。
その男性演者は決して整った見目をしているわけではなかった。自他共に気軽な雰囲気でブサイクだと顔面を評価しては笑いを取り、見た目など何の意味もないと言うかのように気にした様子はない。まして人を惹きつける武器にしているようだった。樹は自分のような心が沈みきった人間を笑顔に導くパワーがあるそのYouTuberを心の底から尊敬し、強い憧憬の念を抱いた。
不意に酷い散らかり様だった部屋の隅に転がっているあのビデオカメラが目についた。そろりそろりと近付いて手に取って状態を確かめる。奇跡的に傷一つついていなかった。怒りに任せて早い段階で投げ飛ばしたはずのそれは、確か手からすっぽ抜けてベッドの上でワンバウンドして視界から消えたのだ。樹はそのまま操作を続け、保存されていた僅かなデータを確認する事なく全消去した。
機材と技術は既にあった。あと必要なのはそれまでの自分を捨てる勇気だった。
樹の脳裏に過ぎったのはYouTubeへの動画投稿をした後にそれが学校に居る奴等に見られ、揶揄われ、罵られ、見下される自分だった。さらには個人情報を世の中に晒され、ある事無い事でっち上げられて世の中でも悪者にされる悲惨な未来だった。心底ゾッとした。しかし、その直後に「だから何?」と囁く自分の存在を見つけて、それを深掘りする。
個人情報を嫌がらせで晒され、悪者扱いされたとして、今の自分は何を失うのだろうか。それまでの生活は家と学校とバイトで成り立っていてそれらは樹の世界のほぼ全てだった。そして今となっては家の中が樹の全てだ。家族に裏切られたらもう生きていけないと思ったが、幸い樹の両親は不登校になった樹にどこまでも優しかった。自分が守られている、想われている、そう思うことが出来たから樹はまだ世界に絶望せずに済んでいる。今後も両親が樹を裏切る事はないと自信を持つことが出来た。
樹の小さな世界の仲間は家族だけで他は敵もしくは信用できない人間。その構図は動画を投稿したところで変わらないのではないか。そんな世界の中に自分の動画を見て楽しんで笑って、全てを曝け出して剥き出しになった自分を受け入れて認めてくれて、励まされたり元気になってくれたりする人がたった一人でもいれば、樹は世の中捨てたもんじゃないと思えた。家族が確固たる一で、それ以外は完全に零からのスタート。YouTubeで人という宝探し。それでいいじゃないか。
外見も内面も、傷つけられた心も反骨精神も、腐って引きこもった自分も、自身の存在を誰かに認めて貰いたいという衝動も、全部全部曝け出して一目なんて気にしないで生きていきたい。笑いたい奴や馬鹿にしたい奴は勝手にすればいい。だから俺もしたい事をする。
思ったが吉日、鉄は熱いうちに打て。樹は片付けもそっちのけで久々に勉強机に齧り付き、動画の企画を練り撮影をした。
荒れた部屋の真ん中にカメラをセットして。一人でベッドに腰掛けて。目に見えない、居るかどうかも分からない視聴者に今の自分を曝け出して、変わるための第一歩を踏み出した。
まずは、本当の自分に戻るところからと変身ビフォーアフター企画。それが、その場の思い付きで作った芸名“レックス”が最初に投稿した動画だった。
ラテン語でrexは王。コンプレックスに負けない王様みたいに強い男になりたい。外聞など気にせず、自分のしたい事をして、自分らしく生きて、それで誰かを笑顔に出来ればそれでいい。
そうしてこの世に生まれたのがレックスというYouTuberだった。
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