第8話 報復の螺旋

 早苗は久我原澄子の見舞いに訪れた長男の嫁の桐子を、隅から手招きした。

「ここだけの話ですけどね。澄子さんは碇照子さんのせいで階段から転げ落ちたんです」

「何ですって !? 」

「あの人…照子さんに騙されたのよ。足が弱ってるのに鍛えたら治るからって階段を使うように言われたんですよ。この施設は居住者の階段利用は禁止されているのにね」

「それは本当ですか !? すぐに施設長に言わないと!」

「揉み消されるだけじゃないかしら?」

「…そんな」

「私ね…澄子さんが階段から突き落とされるのを見たわ」

「本当ですか !? 」

「澄子さんは突き落とされたのよ」

「誰に !? 」

「碇照子さんよ」

「何てことを…どうしてそんなことに !? 」

「照子さんは澄子さんの言いなりだったもの」

義母ははは何故言いなりなんかに…」

「お金よ」

「お金 !? 」

「お金を貰っていたのよ」

「まさか、そんなことで…裁判で証言してください!」

「お断りするわ。私の身にも危険が及ぶから巻き込まれたくないのよ」

「でも、犯行現場を見たんですよね」

「あなた、私の身の安全を永久に保証できます?」

「警察に行って公にすればあなたの身の安全は確保してくれると思いますよ」

「思いますよ !? 他力本願の推定では説得力なんてありませんよ! 兎に角、私は巻き込まれたくないんです」

「でも、犯行を目撃したことを教えてくれたじゃありませんか!」

「私に出来ることはそこまでです。あとはご自分でどうにかなさってください。言って置きますが、訴えても裁判に勝つ確率は低いと思います。こうした例は以前にもありましたが、結局、不注意による事故扱いになりました。この施設はそういうところなんです。ここの弁護士は非情に手強いですよ。くれぐれも私が言ったという事が言わないでください。もし言ったら、私は “言ってない” と言います」

 そう言い捨てた早苗は、さっさと自分の部屋に戻って行った。


 久我原澄子の家族は急いで部屋を見舞った。澄子は苦虫を咬んで部屋を歩き回っていた。

「お母さん、どうしたの !? 」

「またお金がなくなってるのよ」

「またって !? 」

「お財布ごとないのよ!」

「事務所に報告しないと!」

「事務所に言っても駄目よ、この施設は居住者のトラブルは世間体を気にして揉み消すだけだから」

「あの人と同じことを…」

「あの人 !? “あの人” って誰よ?」

「確か、徳田早苗さん…と言ったかしら?」

 澄子の顔色が急に変わり、布団に潜って震え出した。

「どうしたの、お母さん」

「今日は帰って頂戴」

 澄子に忌々しい光景が蘇っていた。そのまま澄子は一向に布団から顔を出さなかった。

「お母さん…じゃ、どうするのよ !? 」

「だから今日は帰って頂戴って言ってるでしょ!」

 頑なな澄子に桐子は掛ける言葉を失った。脳裏には碇照子が浮かんだが、施設の人間関係はどうすることも出来ないと思い、一先ず帰ることにし、部屋を出た。途中、転落事故のあった階段に向かった。そこには碇照子が佇んでいた。互いの目が合った。

「もしかして、碇照子さんですよね」

「私は何も…」

 照子は急に逃げようと車椅子の踵を返した。

「待っていただけますか!」

 桐子がとっさに車椅子を止めると、照子は尚且つ立ち上がって逃げようとした。ふたりは揉み合いになった。照子の足が車椅子に躓く形でその体は階段を転げ落ちて行った。桐子は慌てて周囲を見回したが誰もいないことに安堵し、エレベータで一階に下りた。目の前の階段では頭から血を流して倒れている照子の姿があった。数人のスタッフと居住者や訪問者が集まって来て、その姿はすぐに見えなくなった。桐子は急ぎ足で施設を後にした。


 下の方から少し騒がしい声がした。桐子が帰ったのを確かめようと布団から出て恐る恐る部屋の外を窺うと、突然目の前に早苗が現れた。

「澄子さん」

「・・・!」

「…このまま私と関わりを持たないつもりなの?」

「私はもう…」

「それならそれでもいいのよ。照子さんは今日もあなたのリハビリのために階段の所で待っていたわよ。でも、大変なことになったの」

「あなたと同じように階段から転げ落ちたのよ。目を開けたまま動かないみたい」

「どうして!」

「どうしてって…あなたが付き落としたからよ」

「私じゃない! 私じゃありません!」

「でも、私はあなたが付き落とすところを見たわよ」

「私じゃない!」

「あなたが今までどおり私の役に立ってくれるなら、黙っててあげてもいいのよ」

「そんな…」

「澄子さんは退院後、認知症を発症したでしょ。きっと無意識に照子さんを突き落としたのね。そこだけ記憶が飛んでるのよ」

「・・・」

「よく考えてね」

 早苗が満足げな表情で去って行った。澄子は恐怖と悔しさで失禁していた。


 碇照子の死には警察の検証が入った。しかし、事件性はないとされ、階段の改善を要請されるだけに留まった。

 徳田早苗からのオンコールが響いた。畠山美春がうんざり顔で呟いた。

「…またか」

「誰?」

「徳田のお婆ちゃん…私、あの人、苦手…」

「しょうがないわね。いいわ、私が行くから」

 美春は小池里子に両手でハートマークのサインを送った。里子は笑いながら早苗の部屋に向かった。

 勤務当初から里子は美春の面倒見が良かった。親子どころか孫程にも年の離れた美春を放っとけなかったのは、里子の過去に理由があった。里子は長く看護師を勤め、娘の律子との母子らしい時間が取れなかった。律子は早くに結婚し、娘を出産後に離婚。将来を悲観して母子心中に至った。里子は責任を感じて看護師の職を離れて、この施設に就職した。一方の美春は、身勝手な自分をいつも庇ってくれる里子を次第に慕うようになっていった。

「私、お婆ちゃん子だったから里子さんと一緒に居ると落ち着く」

「私の後ばかりくっついて歩かないで、言い付けられた仕事はちゃんとやらないと…」

「は~い! でも、もうちょっとここに居ていいでしょ?」

「いいわよ、あと5秒ね」

「里子さん」

「さあ、仕事、仕事!」

「私、相談があるんだから、5秒じゃ無理!」

「何なの、相談って?」

「乗ってくれるの?」

「いいわよ、5秒だけなら」

「だから~相談を5秒でなんて無理でしょ」

「どんな相談なのよ?」

「専務に愛人になれって言われた」

 里子の動きが止まった。

「専務って次盛さんのこと !? 」

「他にも専務が居るの?」

「…いないわ…その話、本当なの?」

「嘘云ったってしょうがないでしょ?」

「で、あなたは次盛さんのことをどう思ってるの?」

「どう思ってるのって急に言われても…ホテル行っただけだから…」

「行ったの !? 」

「いろいろ話してくれたわ…ほら、居住者に徳田早苗さんっているじゃない」

 里子の目が光った。

「ええ、いらっしゃるわね」

「あの人、お父さんの元婚約者だって言ってた」

「・・・」

「自分からお母さんを引き離した人だって…だから、いつか殺してやるって」

「…そうなんだ」

「私からこんな事聞いたって言わないでね」

「言わないわ…それに、次盛さんの望みなら、私は協力したいくらいだわ」

「えっ! 殺すのを!」

 ふたりは思わず物騒な会話になって周りを警戒した。

「徳田早苗さんは身勝手が過ぎる。次盛さんでなくても、そう思ってる人は他にも居ると思うわ。日本は法治国家なんかじゃない。性悪には手も足も出なくして悪人を放っておく “放置” 国家よ。誰かが闇から闇に葬らないといけないのよ」

「私も徳田早苗さんは嫌い。あんたは “娼婦” の臭いがするって言われた。私、娼婦の臭いする?」

「娼婦の臭いって…嗅いだことが無いから知らないけど、香水きつい時があるわね」

「だって専務からプレゼントされたのだから付けなきゃと思って」

 また徳田早苗からのオンコールが鳴った。

「さ、仕事、仕事! もうすぐ夕食の配膳よ!」

 里子はいつもあっけらかんと懐いて来る身寄りのない美春を孫のように可愛かったが、この日の美春との会話で、次盛と自分に共通性があることを知った。美春が次盛の誘いで関係を持ったこと以上に、次盛が早苗に対して殺意を抱く程の憎しみを持っていることを知って、里子の心は騒いだ。


 里子が、当然怒り狂っているであろう早苗の部屋を訪れると、里子を見た瞬間、早苗の怒りが驚いたように懐かしむ表情に変わった。

「あなた、辞めたのかと思ってたわ」

 里子は早苗の入居当初の担当だった。今は新人介護士の小泉京司が早苗の担当をさせられ、慣れない新人の介護士ぶりに日々苛立っていた。

「今の担当者、変えられない? あなたが担当だったらいいんだけど…」

「ありがとうございます。でもこれは施設の指示ですので…でも入居者様のお世話は平等を期す意味で定期的に交替制なので、そのうちお伺いできるかと…」

「この施設も随分と物騒になったのね」

「そうなんですか?」

「そうなんですかじゃないわよ。警察が来て大騒ぎじゃないの」

「事故があったようですね」

「悠長なことを仰ってる場合じゃないでしょ。死人が出たのよ」

「あら、そうでしたの? 私は別施設の担当をしておりましたので、ここでのことは把握できておりませんで…」

「階段から転げ落ちて人が亡くなったのよ!」

「そうでしたか!」

「そうでしたかじゃないわよ。同じ居住者の方が亡くなったっていうじゃない。どういうことなのか説明してほしいわよ」

「すみません、よく存じ上げなくて」

「噂では、誰かに突き落とされたって話よ」

「酷い噂…そんな噂を誰が流しているのかしら? どなたからお聞きになったんです?」

「そんなの忘れたわよ。誰かが話していたのを小耳に挟んだだけだから…」

「噂には惑わされないほうがいいですよ。幽霊と同じで、実態は往々にして枯れ尾花なんですから」

「枯れ尾花?」

「幽霊の正体見たり枯れ尾花って言うじゃありませんか」

「知ってるわよ…あのね、亡くなったのは碇照子さんという人ですよね」

「そうなんですか!」

「私、あの方が誰に恨まれてたか知ってるわ」

「誰に恨まれてたんですか?」

「久我原澄子ですよ」

「何かあったんですか?」

「そんな詳しいことまでは知りませんけど、恨まれていたことは確かよ」

「それと事故とどんな関係があるんです?」

「あなたも鈍いわね。恨んでいたら、やることはひとつでしょ」

「ひとつ?」

「仕返しですよ」

「碇照子さんが久我原澄子さんに仕返ししたと?」

「そうに決まってるわ」

「碇照子さんはそんな人じゃないと思いますよ」

「でも現実に殺されたじゃありませんか!」

「殺されたんじゃなくて、不幸な事故が起きてしまったとは聞いてますよ」

「殺されたのよ、きっと!」

「徳田さん、悪いほうに悪いほうにと考えてしまうと心がつらくなりませんか? 警察のほうでも事故死だと断定してるそうですから、くれぐれも使用禁止されている階段ではなく、エレベーターをご利用くださいね」

「あら、事故の事、知ってるじゃない」

「ごめんなさい。私からはあまり言えないのよ。もうすぐお昼ですから、他に御用が無ければ、昼食を運んで来ますね」

「・・・」

 里子は、不満げな早苗に満面の笑顔を振りまいて部屋を後にした。


 三人はこのところ満足げだった。三人とは銀幕の奥枝有紀、糸田嘉子、萱場安乃らである。今日も慈治を捉まえて “秘密会議” に興じていた。

「慈ちゃん、このところ随分と施設の風通しが良くなったようね」

「そうですか、それは良かった!」

「何を恍けたことを言ってるのよ。あんたがお掃除してるんでしょ」

「お掃除 !? 」

「慈ちゃんこそ、不埒な居住者を片っ端から成敗している桃太郎侍でしょ?」

「私は温厚な花咲か爺さんですよ…いや、花咲かない爺さんかな?」

「悪の花咲かせない爺さんね」

「うまいこと言うわね」

「でもこのところ、お騒がせグループが一人減り、二人減りでね」

「あのね、私はもう80越えのミイラですよ。命懸けのお掃除なんか出来ませんよ」

「ねえ、次はどこを掃除するの? そろそろ嘉子さんが喜ぶ場所の掃除をしてくれないかしら。何なら私たちが代わりにしてもいいのよ」

 三人の圧はパワーアップしていた。

「ここは銀幕じゃないんですから、他人様のご不幸をいじらないでくださいよ」

「私たち、慈ちゃんの下で必殺仕置き人になりたいのよ」

「ですから、そういうお話は…」

「ところで、慈ちゃん?」

「何です?」

「久我原澄子さんの認知症の進行が速くなったみたいね」

「この間、久しぶりにご家族に車椅子を押された澄子さんのやつれ方…尋常じゃなかったわよ、大丈夫なの?」

「認知症を発症すると、あんなに見る見る衰えてしまうものなの?」

「このところ見ないから、まさか寝たきりになったんじゃないかってみんなで心配してるのよ。どうなの?」

「同じ居住者さんの事は言えないんです」

「そうよね」

「この施設に根が這った皆さんには敵いません。お手柔らかにお願いしますよ。さて、お昼持ってまいりますね」

 三人の圧はいつになく尋常ではなかったが、久我原澄子が今しがた他界し、里子は澄子の検死にあたっていることなど話せるわけがなかった。『里山ベネッセ』では、居住者の死は全て伏せられた。入院か、自宅療養という名目で施設からその姿は消えて行った。

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