第14話 報復

 何度目かの恒例 “シャンソンの夕べ” が催された。ピアニストである夫・君塚清のリードで舞台に立った君塚ゆめは得意満面の笑みで居住者の拍手に包まれた。進行の形は君塚ゆめのトークとともに進められるのが常となっていた。夫婦だけにトークとピアノの息もぴったりで、会場は温かいムードに酔った。

 君塚ゆめが4曲目を歌い始めようと息を吸った時、突然、“火事だ!” の叫び声が会場に響き、けたたましい非常ベルが耳を劈いた。会場の居住者は一斉に蜂の巣を突いたように右往左往し、体の不自由な者は置き去りになる醜悪な混乱ぶりを曝した。

「皆さん、どうか落ち着いて!」

 君塚ゆめはマイクに叫んだが、落ち着いている場合でもない、具体的な指示もない叫びにどう従えばいいというのだろう。あれだけ心酔したかのように君塚ゆめのトークに酔っていた会場が、君塚ゆめなど無視の騒ぎになっていた。会場に下りて必死に落ち着くように説得する君塚ゆめだったが、逃げ惑う居住者たちにぶつかって倒れ、“アッ” と言う間に踏み付けにされて見えなくなってしまった。その様子を見ていた夫の君塚清は、妻の君塚ゆめを救いに向かうどころか、居住者たちと競って我先にと避難口を目指した。妻の君塚ゆめは居住者の足下越しに、ひとり逃げる夫の姿を見て愕然とした。

「あなた!」

 その声が届いたのか君塚清は振り返った。しかし、それは一瞬の事で、すぐに居住者たちを押し退けて避難の先頭に立って会場から飛び出して行った。施設の出口付近では避難口を開けて慈治が待っていた。

「さ、皆さん、急いで逃げてください! 君塚先生はこちらから!」

 と、慈治は裏口を差した。君塚は慈治の指示どおり一心不乱で裏口から勢い道路に飛び出した瞬間に猛スピードで向かって来た車に激突して弾け飛び、歩道の電柱に頭と体を強打して堕ちた。運転席には崎山忠正の顔があった。崎山は慈治と目を合わせて頷いた。崎山は暫く君塚清の様子を見、動かなくなったのを確認して徐に携帯電話を取り出した。

「人を撥ねました。動きません。急いで来てください!」


 君塚ゆめは居住者たちが居なくなった会場に座り込んでいた。普段の極上の優しさからは想像も付かない君塚清の逃げる姿が焼き付いていた。君塚清は確かに君塚ゆめを振り返った。しっかり目が合ったにも拘らず、迷いもなく君塚ゆめを後目に逃げたことがショックで、彼女はその場で動けずに茫然としてしまった。


 『里山ベネッセ』前に救急車が停まった。

「刺された女性は何処ですか!」

「刺された女性 !? 私は車で人を撥ねてしまったので呼んだんですが…」

 怪訝な救急隊員のところに慈治が駆け込んで来た。

「刺された女性は中です!」

 救急隊員は急いで慈治に従った。続いて救急車が到着した。

「連絡なさったのはあなたですね!」

「はい、あそこに倒れて動きません」

 救急隊員は倒れている君塚清に駆け付けた。


 “シャンソンの夕べ” の混乱後に後藤寛治郎、次盛、そして入江金蔵の三人が立って居た。その中央にはナイフで胸を一突きされた君塚ゆめが倒れていた。救急隊が駆け付けた時には既に彼女は息絶えていた。寛次郎たちが騒ぎを聞き付けて駆け付けた時には君塚ゆめはその場に倒れたまま動かなかった。

 現場検証が行われ、ナイフからは君塚清の指紋が検出された。しかし、その君塚清は先程道路に飛び出して即死してしまった。現場からは君塚清の犯行を物語る物証しか出なかった。


 再び『里山パーチェ』に通勤するようになった美春は、朝と帰宅の着替えのたびにロッカーの小箱と睨めっこするのが常となった。気にはなるが開けて中を確かめるのは気が引けた。“あと二人なんだ。それまでこれを預かっていてくれ” とは頼まれたが、開けていいとは言われていない。美春は天真爛漫ではあったが律儀な子だった。そして、或る日、ついに小箱を開けても良い日がやって来た。

「中身見たか?」

「いいえ、約束だもの。ロッカーに置いたままよ」

「…そうか」

 今まで見たこともない慈愛に満ちた次盛の微笑みだった。

「もう、開けていいよ」

 美春は次盛の微笑みの意味に期待した。期待する手は震えた。小箱の中には婚約指輪がぼやけて輝いていた。夢ではないことを祈った。次盛はその婚約指輪を薬指に嵌めてくれた。温かい手だった。


 君塚ゆめの刺殺事件から1ヶ月以上が経って、次盛に任意取調べが齎された。

「これはあくまでも確認のための聴取ですのご了承ください」

「何でもご確認ください」

「後藤さんのお宅の事情は一応調べさせていただきました。次盛さんの多感な時期のことですので、何かと傷付いたんじゃありませんか?」

「勿論、あの頃はまだ中学生だったので平気ではなかったですが、両親の問題ですから、子どもの私がどう出来るわけでもないし、そういうものだと受け入れるしかありませんでした」

「お母さまへの恨みのようなものはありますか?」

「あの方はもう私の母ではありませんので、私が関わる意味は中学生の頃になくなりました」

「自分を捨てて、お父さま以外の男性の元に行ったことを恨んでいたんじゃありませんか?」

「確かにあの頃は理不尽なことをする母だと思っていました。しかし、夫である父が受け入れたんです。その姿勢は一貫していました。施設のイベントにもゲストに呼んで陰ながらの応援をしていたんです。恨みがあればそんなことは出来ません」

「あなたはどうだったんですか? あなたは身勝手なご両親を理解できないでいたんじゃありませんか?」

「父は身勝手ではありません。寛大で優しい人です」

「しかし、お母さまのことは恨んでいた?」

「汚らわしいと思っていました。拘りたくないと思っていました」

「あなたは職場で荒れていた時期もあったと伺いましたが…」

「今の仕事に馴染めなかった時期は有ります。高齢者の扱いが苦手で仕事が好きになれなかったんです。しかし、それと両親の事とは関係がありません。今はやっと仕事にやりがいを見出すことが出来ています」

「やりがい…ですか?」

「刑事さんもきっとそのうち、私の施設の重要性が分かる時が来ると思います」

「介護施設が重要なことは理解しています」

「介護施設だけではありません。私の言っているのはその後に必要になる施設です」

「…その後?」

「遺体安置施設です。誰も亡くなってから火葬まで安置場所を盥回しされたくはないでしょ。今は亡くなって24時間後すぐに火葬してもらえる時代じゃないんです。かといって、従来のように葬儀社では火葬までの待機期間、遺体を安置する場所がないんです。団塊の高齢者が亡くなるのと火葬する頻度が大幅にバランスを失っているんです。火葬まで待たされる期間が急速に長くなって来ているんです」

「お仕事にやりがいを持たれていることは良く分かりました。例えば、お母さまの事があって以来、女性に不信感を持ってしまったようなことはありませんか?」

「もうすぐ結婚します。こんなことが無ければ予定どおりに結婚式を挙げられたんです。でも、一応、戸籍上は実の母の不幸なので、式を挙げるのは1年間先になってしまいました。実に迷惑な話です」

 事情聴取は終わった。

「ご足労掛けました。お帰りいただいて結構です」

「司法解剖後、母の…いや、君塚ゆめさんの遺体の引き取り手はあるんですか?」

「君塚ゆめさんのお身内は既にどなたもおられなくて…交通事故で無くなった君塚清さんのご親戚にも問い合わせたんですが、そちらでも引き取る意思はないということでした。このままですとお二人とも無縁仏になるかと思います」

「誰も引き取り手が無ければ、父が引き取ると申しておりましたので、その際はご考慮ください」

「助かります。司法解剖が済みましたらご連絡を差し上げます」

 次盛はどこまでも事務的に応対して事情聴取を済ませ、警察署を出た。振り返って警察の高層ビルを見上げた。

 …あの時、君塚ゆめは茫然としていた。“シャンソンの夕べ”で、かつて君塚清とゆめが初めてフランスで共演した時の思い出の手料理を、『里山ベネッセ』のステージで再現する料理ショーをした時に、君塚清が使った料理ナイフを父から預かっていた。寛治郎と金蔵の立ち会いのもとに、次盛はそのナイフで君塚ゆめの胸を迷いなく一突きにしたのである。寛治郎と金蔵の見守る中で我が息子が母への積年の恨みを晴らした。君塚ゆめは息子の怨念の表情にその苦しみを慈しみ受け入れていた。身勝手な夢を見た現実からやっと覚めた瞬間であろう。同時に君塚清に裏切られたことも全て因果応報…もう抗う事もない。君塚ゆめは抵抗することなく死を受け入れて最期を迎えたのである。

 表で美春が待っていた。

「…良かった」

「こんなとこで何してるんだ? 暇なのか?」

「あなたを逮捕しに来たの!」

「仕方ない。今日の所は逮捕されてやるよ。自白するからカツ丼でも食わせろ」

「じゃ、取調室は “かつ兆庵” にする?」

「いいね」

 ふたりはタクシーに乗り込んで夕方の街に消えて行った。

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