第13話 焼死体
慈治が最上階に向かってすぐ、『里山ベネッセ』に、熊城の焼死体を引き取った息子と名乗る男からの連絡があった。
「警察署での遺体検案が終了しますが、火葬までの安置先に困っております。3日間ほど便宜を図って頂けないかと…御社にとっては加害者ですが、かつての居住者でもあるので…」
「熊城さんが『里山ベネッセ』に入居の際にはいらっしゃいませんでしたよね」
「入居の事は知らなかったものですから…」
「失礼ですが、お名前をもう一度…」
「あの…熊城です」
「下のお名前を窺っても宜しいでしょうか?」
「熊城…守です、熊城守」
「息子さんの熊城守さんですね」
「はい」
「では『里山パーチェ』の施設長に問い合わせてみます。折り返しご連絡を差し上げますので、このお電話番号で宜しいでしょうか?」
「これは出先の電話ですので、後でこちらから連絡します」
「そうですか。では10分ほどしたら『里山パーチェ』のほうに直接お電話ください。電話番号は…」
崎山は施設長不在中の電話だったので仕方なく『里山パーチェ』の連絡先を伝えて電話を切ったが、違和感を覚えた。何故、自分の連絡先を言わなかったんだろう…と思いつつ、施設長の次盛に連絡すると、火葬まで『里山パーチェ』で一時預かりするとのことだった。
翌日、警察の司法解剖から引き取った熊城の遺体が、熊城守の付添いで『里山パーチェ』に運ばれて来た。三日程預かる契約が成された。
しかし、予定の期日が過ぎても熊城守からの連絡がなく、契約書にあった電話も通じなく、延々と引き取りに現れなかった。次盛は内容証明を送った。すると、10日程経ったある日、やっと熊城守が現れた。次盛が応対した。
「あなたは熊城さんの息子さんじゃありませんよね、田崎守さん」
熊城の息子と名乗った男は、実は生前の熊城と同性愛関係の田崎守という男だった。
「熊城さんのご遺体はどうなさいますか? お約束の期日は疾うに過ぎ、お支払いも滞っております。このまま放置なさいますと死体遺棄に抵触しませんか? 弁護士さんならお詳しいと思いますが…」
「そもそも私の縁戚ではありませんので…」
田崎守は熊城の遺体を引き取りに来たわけではなかった。
「今日は何の為にお見えになったんですか? ご遺体のお引き取りではないんですか? 安置料のお支払いも約束のお日にちが過ぎ、加算されておりますよ」
「・・・」
「あなた様との契約でお預かりしておりますので、弊社との契約を一方的に破棄なされば、内容証明でお伝えしたように、止むを得ないのですが死体取扱規則に則って死亡地の長に引き渡すことになります。それで宜しいでしょうか?」
田崎は支払いも遺体の引取りも明日来ると言って帰った。しかし、数日待っても田崎は現れなかった。怨恨がらみの田崎の悪質且つ幼稚な嫌がらせだった。熊城の遺体は死亡地の長に引き渡され、火葬後、無縁仏として埋葬された。
「請求はどうします? これ、犯罪ですよ」
「小金のために波風を立てても仕方ないでしょ。香典代わりだ。オレが補填して置く。遺体安置の前にベネッセの居住者の人選はもっと厳しくしないと遺憾な」
次盛は変わったなと里子は微笑んだ。しかしこれは、次盛なりの一連の報復の一端でしかなかった。苦痛の元凶は徳田早苗である。その元凶によって思いのままに動いた実母・時任ゆめも、その先に居る君塚清も次盛にとっては報復の対象である。“シャンソンの夕べ” を恒例にしたのは、父の寛治郎が彼らを受け入れたからではなかった。全く逆である。息子の次盛に父が与え賜うた罪滅ぼしを意味する報復のチャンスである。時任ゆめと君塚清を “シャンソンの夕べ” の釣餌の元で、次盛がいつでも彼らを抹殺出来る場をお膳立てしたのだった。その一方で、報復の射程内にあった徳田早苗に靡かない息子夫婦、そして熊城の悪事を暴いた孫の眞子は、次盛の報復の対象外となっていた。
「美春は?」
「お休みです。何か職場に来辛いみたいです」
「どうして?」
「さあ、どうしてでしょうね」
「・・・」
「美春ちゃん、今日は自宅じゃないかな?」
次盛の屈託なさに、里子は助け舟を進呈した。
「ちょっと出掛けて来る」
次盛は車を出した。
「…お坊ちゃま、変わってないか」
里子は溜息を突いて苦笑いし、仕事に戻った。
オーナーの寛治郎に呼ばれた慈治は、恒例の寛治郎自らの紅茶の振る舞いに与っていた。傍では手持無沙汰に執事の金蔵が控えて佇んでいた。入れた紅茶の香りが室内を包んだ。
「新しく入居する村岡明彦さんの件だがね…」
と言いながら、寛治郎は慈治に紅茶を薦めた。慈治は一礼したが紅茶には口を付けなかった。
「…仕方なくてね」
寛治郎は紅茶を啜ってから大きな溜息を吐いた。
「正大党幹事長の川口彰生氏の紹介なんだ」
あの村岡が正大党幹事長と繋がりがあるなどとは、慈治にはどうしても想像付かなかった。しかし、そういうことなのである。
「川口さんは私の学友でね。この施設建設の時も随分と口添えを賜ってしまった人なんだよ」
寛治郎は “賜ってしまった” と言った。ということは不本意だったという事だ。慈治は少し気が楽になった。
「何事もないよう…よろしく頼む」
寛治郎の口の重さは村岡の素性は把握済みだろう。内心では寛治郎も “何事もないよう” には行かないだろうと思っている。慈治が呼ばれたのは、どう “何事” を処理するかの期待であろうと思った。
「それと…これは草薙さんの腹にだけ納めておいてほしいことなんだが…」
執事の金蔵は気を利かせてその場を辞した。
「入居者の村岡明彦さんは、複数の前科がある方です。厄介なことに、猥褻行為とストーカー行為の常習犯です」
慈治は “おやっ” と思った。寛治郎はこの情報を誰にも漏らしていないのだろうか…“草薙さんの腹にだけ納めておいてほしい” ということはそういうことなんだろうが、崎山は村岡の過去を既に知っていた。崎山はどこでこの情報を知ったのだろう。
「万全の態勢で臨みます」
慈治は妻の早苗からの最後の宿題のように思えた。この施設での仕事も慣れ、施設長としての責任を果たすのも空気のように感じるこの頃だった。妻をこの施設の居住者にしようと奮闘していた頃のエネルギーなどない。その日その日を平和に送ることが苦痛にさえなっている。妻は居ないのだ。その事が全ての出来事に虚しさを吹掛ける。引き際を見定めようにも濃霧が覆って身動きが取れない。帰宅して妻の早苗の遺影を見つめながら、慈治は置き去りにされた焦燥感で張り裂けそうになる夜を過ごすようになっていた。そんな最中、村岡明彦が現れてくれた。彼は今までもそう生きてきたように、この施設でも必ず問題を起こすだろう。その “何事” を処理した時が引き際である。いや、その “何事” を悠長に待っている時間など老いた慈治にはない。引き際を定めるためにも、村岡には早く “何事” を起こしてもらわなければならない…が、村岡の背景には正大党幹事長の川口彰生が居る。一見、難攻不落の陣に見えるが “しかし” と慈治の脳は不敵に唸っていた。“村岡如き” を人気介護施設の『里山ベネッセ』に紹介するのは、川口にもそれだけのメリットがあるからに他ならない…と。それさえ突き止めれば、あの猥褻狂人とカルト幹事長を施設から蹴り飛ばして、自分は去り際を勇退できるのだ。
再び目的を見出した慈治は妻の遺影に計画の成功を祈願した。
美春の部屋のドアホンが鳴った。開けると次盛が立って居た。
「専務 !? 」
「休み過ぎだろ…早く出掛ける仕度をしろ」
「どこへ行くの?」
「勤務先だよ、早くしろ」
次盛がさっさと車に戻って行った。暫くすると次盛が待つ車の助手席のドアが開いた。美春が乗ると次盛は無表情で車を発進させた。『里山パーチェ』に向かう次盛は何も話さなかった。不安になってふと窺うと、次盛の目に薄らと涙が浮かんでいた。驚いた。今までこんなシチュエーションは考えられなかった。美春も急に嗚咽しそうになって堪えたはいいが、その反動で怒涛のように嬉し涙が噴き出した。『里山パーチェ』の少し手前で車が止まった。
「あと二人なんだ。それまでこれを預かっていてくれ」
「あと二人? これ何?」
「いいから預かっていてくれ」
そう言って次盛は車を『里山パーチェ』に乗り入れて、さっさと施設内に消えて行った。
四角い小箱であった。気にはなったが、美春は職場のロッカーに保管して鍵を掛けた。次盛の言った “二人” …“そういうことだったのね!”と、やっと美春にもその意味が分かった。恐らく自分の少年期に致命的ともいえる不幸を振り撒いた関係者。父の元婚約者である元凶の徳田早苗は他界した。その下僕の久我原澄子と碇照子も他界。そして直近では熊城一晃の焼死。残るは実の母の時任ゆめと再婚相手の君塚清であろう。“シャンソンの夕べ” を恒例にしたのは次盛の報復を許す恐ろしい仕掛けである。 “あと二人” の報復が済めば、あの小箱がどういう意味を成すというのか…美春だけの希望的観測なら何となく想像が付かないわけでもない。あの小箱の中身は、暗に私に無言か協力を促す “婚約指輪” …であってほしいと美春は願った。
『里山パーチェ』では次盛の機転で田崎守の一件を騒ぎなく治めた形になったが、『里山ベネッセ』には新たなトラブルの火種が齎された。そして、崎山は何故、村岡明彦の過去に詳しいのだろうという疑問がずっと慈治の心に残っていたが、慈治は敢えて聞こうとはしなかった。今までもそう言うスタンスで生きて来た。人は言いたくなれば言いたい人に打ち明ける。それが今、崎山にとって自分はそういう対象ではない。慈治としては言いたくないことを無理に聞くようなことはしたくなかった。崎山はどこでその情報を得たのかは話さなかったが、村岡明彦の過去については慈治に話した。何れ、どこで得た情報なのかも話すだろうと、その後も慈治から崎山に問う事はなかった。ただ粛々と自分のやり方で “お掃除” に専念しようと慈治は心に決めていた。
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