終の介護屋敷

伊東へいざん

第1話 憧れの『里山ベネッセ』

 草薙慈治は、『ビー、ビー…』と夜間オンコールに飛び起きた。暫く事態が呑み込めないでいたが、頭の焦点が作動して、やっと仕事先の仮眠室だと気付いた。“…またか” と溜息を吐いた。


 親子、夫婦ならまだマシであろう。相手が他人となれば一段階話が違う。それも、20年前に還暦を過ぎて、今、生活の進路を変えるために勤務せざるを得なかった老人施設で、歳の差がいくつも離れていない老人の介護の仕事は二段階話が違うだろう。この施設の入居者はそれなりの経済力ある立場。生活のために勤務している同年代の老人をどう見ているかで事態に大きな差が生じる。


 今回、慈治が担当した入居者には運が悪かったとしか言いようがない。徳田早苗82歳。田園調布の邸宅に一人住まいだった早苗は生活の不便を覚え、この丘に建つ瀟洒な介護付有料老人ホーム『里山ベネッセ』に入居して来た。初めのうちは草薙と年も近いという事で友好的なそぶりだったが、妻の名前が同じ早苗だと言った慈治の言葉に徳田早苗はあからさまな不快感を示した。更に経済的に格段の差があることが分かると、その態度は一変し、日増しに辛辣になって行った。仕事なんだから介護のプロなんだから何歳であろうと丁重な介護が出来て当たり前だと嘯き、そのうち、慈治を召し使いのように見下すようになった。慈治は介護職に就く若者が思いがちな、高齢者の役に立ちたいとか、感謝されたいと思って勤務したわけではない。年金だけではこの先、病気の妻との生活が立ち行かなくなる事を懸念し、定年後の隠居生活から奮起し、老体に鞭打って人手不足の介護職に就いた。少しでも賃金を上げようと必死で勉強して介護福祉士の資格を取ったし、もうすぐケアマネージャーの資格も取れそうだ。“草薙さんは免許がないから送迎しなくていいから羨ましい” などと上司の後藤次盛にしょっちゅう皮肉を言われるが、職場の人間関係は耐えられる程度のものだ。しかし、担当する入居者からの理不尽なハラスメントには自尊心を切り裂かれるばかりで辛い毎日となっていた。慈治は若くない。もう後に引けない職場での先が見えなくなっていた。ストレスで言葉が荒くなり、優しくする気力もなくなり、いつか徳田早苗を虐待しそうな自分が怖くなっていた。

 それでも慈治は絶えていた。それは、何れこの『里山ベネッセ』で妻と暮らす夢があったからだ。施設での全てを把握し、悪しきは改善し、より快適な終の介護生活を送ろうと思っていた。慈治の妻は既に車椅子でなければ移動が出来ない常態にあった。運よく今はまだ認知症を心配する事もなかったが、何れ介護を必要とする日が来る事は分かっていた。そして、介護が必要となった時には『里山ベネッセ』に引っ越し、自分はそのまま勤務しながら妻には快適な生活を送らせてやりたいと思っていた。


 慈治の妻の名は早苗。勤務先の『里山ベネッセ』で悩まされている居住者の徳田早苗と同じ名前である。最初は名前が同じという事で親近感を懐いたが、とんでもない女だった。妻の早苗と出会った時は “素敵な名前だね” なんてぬかしてしまったが、名前で人など判断できるものではないと、妻と同じ名前であることで余計腹立たしくなった。

 妻と初めて出会ったのは勤務の出向先だった。慈治はかつて警察官として勤務したが、裏表の甚だしい職場の人間関係が肌に合わず、一年足らずで離職し、警備会社に再就職して定年を迎えた。妻の早苗は、警備会社の最初の出向先である大手電機メーカーの社員だった。社員の出入を管理する慈治は、早苗が社内ストーカーを受けて悩んでいることを知るようになったある日、血相変えた早苗が管理室の戸を叩いた。

「ちょっとだけここに匿ってください!」

 取り敢えず慈治は早苗を管理室の中に入れ、表から見えない位置に座らせた。間もなく、早苗を追って男性社員が窓口に立った。

「あの、誰か来ませんでしたか!」

「誰かって? 女の人なら急いだ様子で出て行きましたよ」

 男性社員が後を追おうとしたので慈治は呼びとめた。

「外出するならここに名前を記入してからにしてください」

「すぐ戻るからいいだろ!」

「決まりですので名前を記入してください」

 面倒臭がりながら男性社員は名前を殴り書きして出て行った。そこには “菅原” と記された。慈治は匿った女性に確かめた。

「彼、菅原さんって言うんですか?」

「違います。村岡です、村岡明彦です」

「偽名で退出ですか…では、本部に報告するしかありませんね」

「私の事も?」

「いえ、私にはあなたの記憶はありませんから…どうなさいます? このまま早退なさいますか? それとも社に戻りますか? 戻るなら彼が帰って来る前に戻ったほうが…」

「ありがとう」

 早苗が社屋に戻ろうと立ち上がった時、村岡が戻って来るのが見えた。

「ちょっと待って!」

 早苗を制し、慈治は管理室を通り過ぎようとする村岡を呼びとめた。

「村岡さん!」

 一瞬、早苗にはまさかの不安が過った。振り返った村岡に、慈治は管理室から身を乗り出した。

「やっぱり村岡さんですね。困りますよ、偽名で出ようとなさったら。何故偽名なんか使ったんです?」

「それは…つい…でも、どうして私の名前を知ってるんだ?」

「そりゃ分かりますよ、会社から名簿を頂いてるんですから」

「あ…そう…それより出て行った女性は戻って来ました?」

「ええ、戻って来ましたよ、警察が2名」

「警察 !? 」

「何かあったんですか?」

 村岡は “…さあ” と動揺して言い淀んだ。疾しい行いだとは自覚しているようだ。慈治の天邪鬼が顔を覗かせた。

「入管名簿に記入してください。本名を」

 村岡は不承不承記入した。

「あ、それからさっきの偽名のところも書き直してください」

「直しておいてよ」

「それだと本部に報告しなければならなくなります」

 村上は仕方なく従った。

「それとね。警察官が2人入って行ったということで、村岡さんは何か知りません? 何かトラブルでもあったかどうか…」

 村岡の表情が更に不安に襲われた。

「あの…」

「どうしました?」

「なんか体調が悪いので、やはり今日はこのまま早退します。総務に報告しといてくれないかな」

「それは構いませんが…そうですか? お大事に!」

 村岡は急いで会社を後にした。警戒しながら管理室を出た早苗は慈治を振り返った。

「今日はありがとうございます。私は佐々木早苗と申します」

「警備の草薙慈治です」

 ふたりの会話は続かなかったが、互いに好印象を持った瞬間だった。


 この経緯から二週間ほどしてまた早苗が管理室にやって来た。慈治は察した。

「また追われてます?」

「…ええ」

「どうぞ」

 早苗を前回と同じ “特等席” に匿って間もなく、村岡がやって来た。

「あら、村岡さん、外出ですか?」

「いえ、ちょっと外の空気を吸おうかと…」

「そう言えば、さっき警察の方が来ましてね。村岡さんの事を…村岡さんって村岡明彦さんですよね」

「私の事を?」

「ええ、何か会社で面倒なことにでも巻き込まれていますか?」

「いえ、そんなことは…」

「私はこの会社は特別でしてね。お付き合いしている人がいるんですよ。佐々木早苗さん…ご存じですか? 知りませんよね。彼女がね、ストーカーに遭っているみたいなんですよ。本人は何も話しませんがね。そいつを見付けたら暗闇で半殺しにしようと思っているんですよ」

「は…半殺し !?」

「あ、すみません! つい本音が…警備員がこんな事を言ったらダメですよね。それに元警察官たる者の言うべきことではなかったです。カーッとなったら自分は危ないタイプかも知れません。内緒にしておいてください。それだけ私は彼女が好きなんです! ストーカーの件、村岡さんにもご協力お願いします」

 慈治は豪快に笑った。

「元警察官だったんですか?」

「ええ」

「どうしてお辞めになったんですか?」

「ここだけのお恥ずかしい話なんですがね。陰険な上司が居ましてね。それだけじゃなく、女癖も悪くて婦人警官にはセクハラしてばかり。しょっちゅう場の空気が悪くなるんで、或る日、ぶん殴ってやったんですよ。それで懲戒免職」

 慈治はそう言ってまた豪快に笑った。

「どんな場合に於いても、暴力はいかんでしょ」

「ですよね。でもこの手が勝手にねー…見境ない正義感の塊なんですよね」

村岡は顔を引き攣らせて社屋に戻って行った。早苗は不安げに “特等席” に固まったままだった

「村岡さんはもう居ませんよ」

「あの…懲戒免職の話は…」

「話半分ってとこです。陰険な上司に嫌気がさして退職したのは本当ですが、私はいたって温厚です。裏表のあるずるがしこい人間ですら警察官が務まるということが不愉快だったんです…すみません、少しでも歯止めになればと…」

「いえ、ありがとうございます! 事件が起こってからしか動かない警察なんて頼りにはなりませんから私もあまり…」

「ほんとにね。事件の未然防止なんて謳ってるけど、あんなの絵に描いた餅ですよ。結局、住民の方は自分の身は自分で守るしかないのが現実です。警察官は制服による威嚇と、尋ねられた道案内ぐらいしか出来ないのが現状です。警察官は聖職だなんて思われてますから、陰で何をやらかしてても表沙汰にならなければ尊敬の対象なんです。気持ち悪過ぎますよね」

 早苗はくすくす笑った。

「すみません。青臭過ぎました」

「そう言う考え方…嫌いじゃありません」

 早苗は慰めてくれたが、慈治は余計なことを言ってしまったと後悔した。

「草薙さんはここにいつまで居られるんですか?」

「出向先は半年交代らしいんで、あと一ヶ月くらいかな? ストーカーの件は大丈夫です。その時になったら交替の警備の者に頼んでおきますから」

「草薙さんが本当にお付き合いしている人なら良かったのに…」

「そうですね…え!?」

 以来、ふたりは互いを異性として意識し、好意を持つようになった。慈治は村岡が朝夕管理室前を通る度に“ストーカーの相手、分かりました?”と聞き続けた。村岡は次第に会社に居ずらくなり…というより、社員用の通用口を通るのが憚られ、いつの間にかその姿は消えた。

 慈治が早苗の勤務する会社の警備から他の出向先に移る日、慈治の手には緑のリボンで包まれた贈物があった。

「気に入らなかったら捨ててください」

「捨てるなんて! 気に入りました!」

「中身が分からないのに?」

 早苗はケラケラと笑った。

「…ありふれてるけど…寒くなるので」

 そう言って早苗は社屋に入って行った。帰宅して包みを解くと、贈物の中身はマフラーだった。淡いカーキ色とグレーと薄茶色の渋い配色だった。慈治は気に入った。

慈治は贈物のお礼をするために早苗を誘い、プレゼントされたマフラーをして行った。まだマフラーするには早い、10月の晴れた日だった。何をお返しにしていいかまだ決まらず、プレゼントを探しながら商店街の坂を下って待ち合わせの駅に向かったが、これといったものが見付からず、空腹だったこともあって、臭いに魅かれて買ったのが大きな肉まんだった。それを機会にふたりの交際が始まった。それから定年まで約40年勤め上げ、定年後、慈治は様々な嘱託に就きながら十数年の歳月が流れた。子宝には恵まれなかったものの、波風の少ない老後を送って来られたのは奇跡的だった。


 慈治は今、やっと誰もが入居を羨む『里山ベネッセ』の嘱託の座を得たことで、妻との将来設計を建て直せるかもしれない段にはなったが、徳田早苗という邪悪な壁に阻まれながら、辛うじて自分を保ってもがいていた。

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