第6話 泥船

 徳田一派と言えども何の事はない、久我原澄子と碇照子が使い物にならなくなると、徳田早苗に群がっていた金魚の糞どもは散々金品を受け取っていながら胤を返して、自分は何も関係なかったような空々しくも慇懃無礼な態度を決め込んでしまった。久我原澄子の認知症が公になると、我先に媚を売る居住者らが奥枝有紀らのもとに殺到した。

「それは素敵なブレスレットですね」

「ありがとうございます!」

「流石、徳田早苗さんのセンスはいいですね。お大事になさってくださいね」

 細谷衣子の笑顔は一瞬にして青褪めた。誰にも気付かれないように徳田早苗の支持者として暗躍した衣子は、有紀にはその正体を見透かされていた。慈治である。有紀と慈治の信頼関係は慈治の就職前から構築されていた。徳田早苗が強引に台頭して来た頃から慈治が有紀に施設の裏情報を流していたのは、何れ妻を入所させるこの施設の空気を汚されたくなかったからである。有紀にしても銀幕を去って終の棲家とするこの施設が、軽薄な居住者による薄汚い力関係で汚されることは赦せなかった。不本意だったが “桜侠会” からの情報が必要だった。徳田早苗の暗躍が始まり、二人の忍耐の日々は続いたが、慈治は居住者の動向を逐一有紀に報告し、有紀はそれに応えて “桜侠会” からの情報による熊城一晃や時任ゆめの背景や身近で起こった日々の変化を伝えながら進展を注視していた。徳田早苗は自ら動くことは殆どなかった。必ず下僕にした居住者を動かすことが分かった。そして、徳田早苗に最も苦痛を感じさせるために、真綿で包むようにその下僕をひとりづつ落としていく作戦に出た。

 久我原澄子が入院を余儀なくされた時、病院への一切の見舞いを断らせたのは、自分の悪事がばれることを恐れたからである。医師・看護師以外接触することのない白いカーテンでの隔離は高齢者にとっては危険なスポットである。高齢の入院患者は高い確率で退院後に認知症を発症していることが発覚することを知っていたからだ。案の定、久我原澄子は一ヶ月の入院期間の間に認知症を発症した。そして徳田早苗からの施設でのプレッシャーで澄子の症状は急速に悪化した。階段から落ちた時、最も危機感を抱いたのは碇照子である。徳田早苗の信頼を最も得ていた二人のうちの一人が欠けた。当然次は自分の番である。それを逸早く察知して機転を変えたのが三番手の細谷衣子である。しかし有紀に鞍替えしようとして即座に突き離されたのだ。それを見た慈治はすぐに車椅子で庭を散歩中の徳田早苗の耳に入れた。

「細谷衣子さんがあれだけ嫌っておられた奥枝有紀さんとニコニコ仲良くお話しなさってましたよ。雪解けは必ず来ますね。私も嬉しいです」

 そう言って機嫌よく徳田早苗のもとを通り過ぎた。ショックなのは徳田早苗である。照子を見切って衣子に重きを置こうとした矢先の慈治の言葉である。急いで施設内に戻ると “シャインルーム” から出て来た衣子が見えた。その胸にはいけしゃあしゃあと自分がプレゼントしたブレスレットがある。

“無神経な女め!”…徳田早苗は今にも衣子を絞殺さんばかりの形相で睨み付けた。廊下を曲り掛けた衣子は、ふと振り向いた先にその顔を見てしまった。一瞬、心臓に針が刺さったような衝撃が走った。衣子は一目散に自分の部屋に急いだ。

“自分の部屋が安全だとでも思ってるの、あのババアは…” …徳田早苗はゆっくりと深呼吸をしてから、怒りの顔が無機質になり、そして薄い微笑みを浮かべてから車椅子を進めた。


 数日後、徳田早苗の孫・眞子が訪ねて来た。“子飼い” の下僕・熊城一晃が施設での祖母が誤解による孤立で追い詰められているのを見兼ねて連絡した…という筋書きである。

「あなたのお父さまにご相談しようと思っても、中々お忙しい御方なのでその機会もなく、日に日にお窶れになるお婆さまを拝見するに連れ、事は急を要すると思いましてご連絡を差し上げました」

「熊代のおじさま、わざわざありがとうございます! で…私に何が出来るのでしょうか?」

「直接お会いになって、お婆さまを励ましてくださればそれで宜しいかと…兎に角、お部屋に行って差し上げてください」

「分かったわ。熊城のおじさまはお元気なの?」

「勿体ないお言葉です。私はもうお婆さまのお陰で老後もこのとおり元気にさせていただいております」

「それは良かったわ。ではお婆ちゃんの所に行ってみますね」

「お喜びになると思います」

熊城の眞子を追う温厚な表情は見る見る冷めた。“孫まで利用するとは…” …大きなため息を吐いて自分の部屋に戻って行った。


 徳田早苗は、孫の突然の訪問に女優さながらの涙で歓喜する祖母を演じた。

「元気だったの !? とっても会いたかったけど眞子ちゃんの青春にお邪魔しちゃいけないと心に誓っていたの。来てくれるなんて夢にも思わなかったわ! お母さんには言ってきたの?」

「連絡をくれた熊城のおじさんに、ここに来ることは内緒にしてほしいって言われたから、私がここに来ることはお母さんもお父さんも知らないわ」

「熊城のおじさんが連絡してくれたの?」

「うん、お婆ちゃんが元気なさそうだからって」

「じゃ、ここに来たことは内緒にしないとね」

「どうして?」

「…だって、熊城のおじさんが告げ口した人みたいで悪いじゃない?」

「そう…じゃ、黙ってる」

「それがいいわ」

「何か私に出来ることはない?」

「来てくれただけで充分よ。眞子ちゃんの顔を見たら元気が出た」

「そう」

「あ…でも、ひとつだけあるかな」

「なあに?」

「一階に、ここの居住者が寛げる “シャインルーム” っていう広い部屋があるのね。どうもそこで、いつもお婆ちゃんの悪口をみんなに触れて回る人たちがいるみたいなの。おかげでお婆ちゃんはこの部屋を出られやしない。何とかやめてほしいんだけど、お婆ちゃんには注意する勇気なんてない。施設の人に頼んでも“思い過ごしだろう” って取り合ってもらえないし、我慢するしかないのよ」

 自分が下僕らを使って有紀たちにやっていたことである。

「酷いわね。何か原因とかあるの?」

「お婆ちゃんの事が羨ましいのよ。衣装とかアクセサリーとか身に付けているのを見て、何もかも恵まれていると思ってるの」

「お婆ちゃんはお洒落だものね」

「何もかも天国のお祖父ちゃんから頂いたもの。身に付けていると、お祖父ちゃんが見守ってくれていると思えるの」

 全部、早苗自身が買い集めたものである。生前の夫には苦言ばかり呈されていたが、早苗は全く聞く耳を持たなかった。

「いいわ。で、誰に言えばいいのかしら?」

「でも…やっぱり眞子ちゃんにそんなことをさせるわけにはいかないわ」

「大丈夫よ。おばあちゃんと仲良くして欲しいって言うだけだから」

「そう? でも無理しないでね」

「私、これからレッスンがあるの。下の “シャインルーム” で寛ぐ人たちにお婆ちゃんの事を頼んだら帰るね」

「ありがとう! 気が向いたら…あ、なんでもない。気を付けてね」

「うん! 気が向いたら、また来るわね!」

 部屋を出る眞子を見送ると、早苗は気怠くベッドに入って横になった。その口元が陰惨に緩んだ。


 眞子が “シャインルーム” を覗くと、何人かの居住者が寛いでいた。中でも三人組の女性たちが一番目立っていた。その三人に近付いた眞子は、三人のひとりが奥枝有紀であることを知り、祖母に言われたことなどすっかり飛んだ。

「奥枝有紀さんですよね! 徳田眞子といいます。ここに入居している徳田早苗の孫です」

「…そうなの !? 」

 安乃の驚きに微笑んだ眞子はすぐに有紀に視線を戻した。

「私、有紀さんの映画観ました。大好きになりました!」

「ありがとう!」

「あの映画を見てから、私、女優さんになりたいと思いました」

「そうなの!」

「今、レッスンに通ってます!」

「あら、頑張ってね!」

「ここで暮らしてて不便なことはないですか?」

「不便なこと?」

「私、有紀さんの役に立ちたいです!」

「でも、眞子ちゃんにはお婆ちゃんが居るでしょ」

「…私…」

「どうしたの?」

「お婆ちゃんは嫌いです」

「嫌いなの !? 」

「ええ…ここには来たくなかったけど、熊城一晃さんという人に頼まれて…」

「熊城さんに?」

「私を今のタレントスクールに入れてくれた人なので…」

「断れなかったのね」

「お婆ちゃんがどんな人か…私は幼いころから母が苦労してたので知ってます。お婆ちゃんはみんなにひどい目に遭っていると言っていたけど、きっと逆だと思っています。お婆ちゃんの方が皆さんにご迷惑を掛けているんだと思います」

 有紀たちは眞子の話を聞いて微笑んだ。

「私は…お婆ちゃんが嫌いです」

「…そう…じゃ、私と一緒かな?」

 糸田嘉子が口を開いた。

「ごめんね。眞子ちゃんって言ったかしら?」

「はい」

「今は誤解が解け始めたんだけど、ちょっと前までね。私たち、施設中の人に痛い視線を注がれていたの」

「お婆ちゃんの所為ですね」

「…ま、そういうことかな」

「私…有紀さんの味方です! おばあちゃんじゃなく、有紀さんの役に立ちたいです!」

「ありがとう…あなたはとっても賢い子ね。でも大丈夫。この施設の嫌~なことに、眞子ちゃんは巻き込まれては駄目。女優になることだけ考えて頑張りなさい」

「また会いに来ていいですか?」

「そうね…出演が決まったらまた来ていいわ」

「はい!」

 三人は眞子の帰る後ろ姿を見送った。情に訴えようとした徳田早苗の作戦は、思わぬ形で潰えた。残る下僕は熊城一晃とはいえ、それは徳田早苗が思っているだけで、熊城の性格からして早苗に対しては特段の思い入れはない。事態に何の進展もなく、日毎自分を見る居住者たちの目が敢えて無関心の体から、あからさまな蔑視に変わったことで、やっと早苗は、自分が施設で孤立していることを自覚するしかなかった。

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