第5話 小細工
早苗は糸田嘉子の報復を恐れ、身の回りを手下で固めなければならないと、自分に従順になる居住者の物色を始めた。早苗の金品の贈答作戦は面白いほど効果があった。施設の中心人物らしき碇照子と久我原澄子らは真っ先に懐柔することが出来た。彼女らはねずみ講のように “早苗信奉者”を募り、徳田一派は瞬く間に施設に於ける一大勢力となった。更に早苗は財力を利用して、施設を寄付金漬けにし、入居者の選別にまで干渉するようになった。思いのままに施設を暗躍する早苗のことを、奥枝たちは隠語で“徳派員”と呼ぶようになった。
危機感を抱いたのは糸田嘉子だけではない。銀幕の奥枝有紀も萱場安乃も、早苗の言いなりになっている施設長の今井の理不尽な干渉と無視に遭う幻滅の日々となった。コロナ禍という大義名分で、奥枝有紀らの貴重な情報交換の場であるフリースペスの応接間 “シャインルーム” の使用が一日10分までとなった。部屋から応接間まで最低でも5分は掛かる。たった15分のために三人で合流する壁は大きな負担になった。更に食事はそれぞれの部屋で済ませることになった。居住者たちが気の合った者同士で集う “シャインルーム” は閑散とし、相互間の交流は完全に失われた。奥枝有紀らは仕方なく、スマホのテレビ電話で急場を凌ぐしかなかったが、少なからず室内に入り込むテレビ電話での緩衝にはお互いに抵抗があった。
施設長の今井が寄付漬けで早苗の言いなりになっている以上、理不尽を抗議しても善処される目途はなかった。しかし、施設を移ることは敗北を意味する。早苗の失脚まで耐えるしかないのかと有紀らは苦悶していた。
その最中、有紀の予想は的中した。糸田嘉子へのあからさまな嫌がらせが始まった。部屋を出ようとしてドアを開けた時が最初の兆候だった。一面、嘔吐物で汚されていた。その翌日にも、深夜に排泄物が塗りたくられていた。施設長の今井は、認知症の老人の過ちと結論付け、悪意の可能性は否定した。ところがその現場を夜勤で見回り中の慈治は、排泄物を塗りたくっていた犯人を目撃していた。慈治は迷ったが、その場を退いた。施設長には話して犯人を責めたところで、その背景で糸を引いている人物には到達し難いだろう。それに、認知症の成せる業とされれば根本的な解決は望めない。暫く様子を見ることにしたのだ。同時に糸田嘉子へのフォローは忘れなかった。夜勤明けにすぐさま嘉子の部屋に寄り、“自分が必ず真相を明らかにするから”と約束して帰った。
事件は慈治の夜勤明け中に起こった。何者かが嘉子の部屋に押し入った。コールで駆け付けた新人介護士の小泉京司のお陰で寸でのところで傷害は免れた。その結果、嘔吐物も排泄物も何者かの意図が働いているのではないかと言う推測が介護士たちの中での大勢を占めた。ベテラン介護士の崎山忠正と看護師の飯山鶴子は敢えて施設長追求の矢面に立った。
「私の見解が甘かったというのですか!」
施設長の今井はいきり立った。
「甘いとか、そういう話ではありませんよ。特定の居住者が続けて危険と迷惑を蒙っていらっしゃるんです」
「それはたまたまであって、殊更神経質になる事でもないでしょう」
「同じことが徳田早苗さんの身に起きても施設長は同じ見解ですか?」
「それはどういう意味だね」
「どういう意味か分からなければ説明しましょうか? ここに居る誰もが思っている疑問だと思いますよ」
施設長の今井は黙った。
「警察に通報しないんですか?」
「それは…」
「では、この次また糸田嘉子さんに何か起こったら通報していただけますか?」
「・・・」
「施設長がなさらないんであれば私が通報してもよろしいですか?」
「・・・」
「では了承して頂いたものと理解します。では業務に入ります」
そう言って崎山と鶴子が介護の業務に向かうと、畠山美春以外のスタッフらはそれに続いた。美春だけは施設長に従順と思いきや、それは的外れだった。
「陰で糸を引いているのは早苗さん? これ以上、放っといたら施設長の立場がヤバくなるんじゃない?」
「バカなことを言うんじゃない!」
「そうよね。折角の金蔓は大切にしないとね。さて私も施設長を見倣って実のある仕事をしないと」
コンビニのおにぎりを食べ終えた美春は席を立った。
「君、朝食は家で済まして来なさい!」
言い終えた時には既に美春の姿はなかった。施設長の小言の余韻だけが虚しく籠った。施設長席に腰を下ろした今井だったが、今日は妙に座り心地が悪かった。自分に叛けられた介護士たちの表情が浮かぶ。統率力が及ばなくなりつつある不安がそうさせていた。
糸田嘉子に対する嫌がらせは夫の死によってそれきり治まったが、今度はベテラン介護士の鶴子への圧力が始まった。居住者の家族からのクレームが矢継ぎ早に続いた。。詳しく言えば、早苗の息が掛かった居住者の家族からのクレームである。口火を切ったのは久我原澄子の家族である。娘の田中桐子がえらい剣幕で施設長の今井に迫って来た。
「母を殺すつもりですか!」
「久我原澄子さんのお嬢さんですね? 落ち着いてお話しして頂けますか? 何があったんでしょう?」
「このところの介護の扱いが乱暴で、この施設が怖くなったと言ってるんです! 担当は誰ですか!」
「えーと、久我原さんの担当は飯山鶴子ですね」
「今すぐに担当を変えてください!」
「飯山はベテラン介護士で看護師免許もあり、居住者の皆さんからは高い評価を得ている介護士です。久我原さんからも特に何も聞いてません…何かの間違いではないでしょうか?」
「怪我をさせられているんです! 肘に包帯をしています! 気が付かないわけはないでしょ!」
「包帯には気が付きませんでした。いつの事です?」
「私には分かりませんよ! 母はおとなしい性格だから黙って我慢してるんです!」
久我原澄子は凡そおとなしい居住者ではなかったので、施設長の今井はピンと来るものがあったが、それに関する言葉は飲み込んだ。
「すぐに病院で手当てを受けてもらいます。飯山鶴子には詳しい事情を聴いて、然るべき処分を検討します」
娘の田中桐子は怒り心頭のまま帰って行った。それを見送ったかのように鶴子が事務室に入って来た。
「飯山さん、あなたにクレームだよ。何があったんです?」
勿論、鶴子にとっては身に覚えのないことである。
「何もないですよ。それより、久我原澄子さんに何があったんです? 娘を使ってまで私にクレームを付けなければならない理由は何でしょう?」
「娘を使って !? 」
「施設長…糸田嘉子さんのご主人…自殺なさったそうですね」
「それと君へのクレームとどういう関係があるんです?」
「ここの居住者の誰かに追い詰められてのことという専らの噂ですよ」
「いちいち根拠のない噂を信じてどうするんです!」
「そうですよね。私へのクレームも根拠のないものですが、施設長は私には聞かずに一方的に居住者側の言い分だけを信じてますよね」
「それは…」
施設長は苦虫を齧ったように黙り込んだ。鶴子へのクレームは翌日も続いた。碇照子の息子・和晃が部屋の現金がなくなったと言ってきた。担当者が財布から抜いて部屋を出るのを照子が見たと証言していたという。
「担当者は誰ですか?」
「…また飯山さんか」
施設長が吐き捨てるのを崎山は捉えた。
「碇照子さんの担当者は確かに飯山鶴子さんです。しかし、今日は彼女は出て来ておりません。明け番の休みになっています」
「どういうことですか?」
「どういうことでしょうね。お母さまは飯山くんだと仰ってるんですか?」
「…はい」
和晃のトーンが落ちた。
「もう一度お母さまに確認してもらえますか?」
「私は時間が無いのでこれで失礼します。そちらのほうで善処してもらえますか?」
「分かりました。お母さまの仰るとおりだとすれば警察に通報して然るべき対処を検討します。しかし、お母さまの勘違いだとすれば認知症発症の可能性がありますので、この施設では特別室移動ということになります」
和晃は動揺しながら引け腰になった。
「宜しくお願いします」
和晃は早々と施設を後にした。和晃は照子の性格をよく知っていた。“母は誰かに頼まれて嘘を突いている。嘘でないとすれば、介護士の言うとおり認知症を発症したのかもしれない” と察し、これ以上この件に関わるべきではないと、彼の本能は母に距離を置こうとしていた。
徳田一派から貴重な戦力のひとりが離脱した。久我原澄子が階段から転げ落ちて、骨折したのだ。『里山ベネッセ』に救急車が呼ばれ、澄子は病院に搬送されて行った。徳田一派では “攻撃” の旗頭だっただけに、一派の動きは暫くおとなしくなった。
どこからともなく、居住者の間で囁かれるようになった。なぜ久我原澄子は階段から転げ落ちたのか…居住者の階段利用は禁じられており、必ずエレベーターを利用することになっていた。誰かに突き落とされたのではないかという噂が囁かれるようになっていた。では、誰が? 居住者の間に暗黙の犯人探しが始まった。真っ先に疑われたのは奥枝たちである。いつも一緒の奥枝有紀、糸田嘉子、萱場安乃の三人は、徳田早苗派と対立関係にあることは施設居住者らの誰もが知るところとなっていた。その急先鋒である久我原澄子が階段から転げ落ちたとなれば誰もが疑いを持つには余りある。
徳田早苗はそのチャンスを逃さなかった。
「皆さんはあなた方を疑っておられるようですね。本当のところどうなんです?」
いつものように外の景色を眺めながら、今は10分だけの制限時間を “シャインルーム” で寛ぐ有紀たちの前に現れた徳田早苗は、勝ち誇ったかのような表情で三人を舐め回した。
「私たちは、彼女にとって都合の悪いことを何かしていたのかしら?」
「それは私には分からないわ。ご自分たちの胸にお聞きになれば?」
「都合の悪いことをしていたと “思いたい” から、あなたは私たちに疑惑の目を向けて質問して来たんでしょ?」
「思いたい !? 」
「ええ、あなたの質問は “そう思いたい人” の質問よ…でも、私たちには彼女を階段から転げ落とす理由なんて何もない。第一、あの人には全く関心ないから」
「私たちは久我原澄子さんこそ真犯人に疑惑を向けられた人なんじゃないかと思うわ?」
「…真犯人」
「そう…真犯人は誰かしらね。久我原澄子さんが回復して警察に真実を話したら、下手をすればこの『里山ベネッセ』に殺人犯が出るかもね。そうならないことを祈るわ」
「勝手にお話を作るのね」
「あなたもお話を作るのは好きでしょ、早苗さん。私のお話はこの施設の居住者全員の疑問から出来てるお話よ。真犯人はもうすぐ、彼らの冷たい視線から逃げられなくなるわ」
「真犯人、真犯人って、責任逃れは醜いわよ」
「そうね、責任逃れは醜いわ」
「まるで真犯人を知っているような口ぶりね」
「知っているわよ。それはあなたですもの」
「バカも休み休み言ってちょうだい」
図星だった。早苗は何もかも見透かされているようで反論する言葉が見付からなかった。
「それより…」
有紀は早苗を睨み据えた。
「あなたの会社は大丈夫なの?」
「え?」
「自殺者が出たそうね」
早苗は蛇に睨まれた蛙状態になった。
「株主が騒ぎ出して、現社長であるあなたの息子さんが窮地に立たされているそうね」
内部の人間にしか分からない事情を有紀に突かれた。株主を騒がせたのは、当の “桜侠会” である。毎日、“お嬢”のもとに “桜侠会” の若い衆が報告に来ていたのだ。
「息子さんが退陣という事になったら、こんな下らない噂話なんかしている暇なんてなくなるわよね、早苗さん」
早苗は自分の足元が今すぐにも壊れやすいガラスになっている事に気付いた。このところ、久我原澄子の勢いは早苗を越えるほど増していた。飴をばら撒いているのは自分でも実際に動いていたのは久我原澄子である。下僕は動いている当人を信頼する。早苗は、澄子の人望の勢いが気に喰わなくなっていた。足の不自由な澄子に訓練のためと嗾けて松葉杖をプレゼントし、車椅子無しで度々事務室に行かせる用を言い付けて、エレベーターではなく、施設で禁止されている階段を利用したら一万円提供すると半ば強制していた。澄子は目の前の小金欲しさに術中に嵌り、数回目の時、ついに足を踏み外してしまった。澄子から一万円提供の話を聞いていた碇照子は警戒した。案の定、早苗は澄子の穴を埋めるべく “攻撃” の旗頭役を照子に要求して来た。照子は澄子の二の舞から身を守るために、早苗の再三の要求に仮病を使って部屋に引籠るしかなかった。
徳田早苗は紅潮した顔で有紀たちの前から去って行った。有紀はにんまりした。
「有紀さん、徳田早苗の情報は何処から得たの !? 」
「神のお告げよ」
「そんなあ」
「どうやら “徳派員” は騙るに落ちた感が否めないわね」
「あの藪蛇な青褪めた顔…数分話してるうちに10歳老けた感じ」
「こういう綻びって黙ってても広がるのよね」
「片腕がなくなって少しおとなしくなるかと思ったら墓穴を掘りにこちらまで出向いてくれるとは…バカなのかしら」
「このところ、碇照子の顔を見ないわね」
「そう言えば、久我原澄子さんの事故以来よね」
「失ったのは片腕だけじゃないか」
「墓穴を掘って泣き喚く “徳派員” を見たいわ」
これまで有紀たちは、壁に耳ありを警戒して会話してきた。徳田一派に散々嘘で塗り固められた悪意ある噂を喧伝されて来た彼女たちである。徳田早苗の居住者たちに対する偽装誘導を、堕落した報道特派員に見立てて、“徳派員” という隠語で呼んでいた。
『里山ベネッセ』のような隔離された空間は噂に弱い。早苗のような存在はすぐにでも根絶しなければならない猛毒伝染病にも匹敵する。終の癒しを求めてこの施設に辿り着いた居住者にとって、早苗の仕掛けた同調圧力に打ち勝つのは至難の業である。有紀たちは、退屈な施設暮らしにその猛毒を退治することを刺激にしていた感がある。
ひと月ほど経つと久我原澄子が退院して『里山ベネッセ』に戻って来た。施設の入口には、居住者手作りの “退院おめでとう” の装飾が施され、久我原澄子はスタッフ一同の拍手で迎えられた。しかし久我原澄子の表情にはその歓迎に即した喜びの表情はなかった。寧ろ無表情である。その異常に気付いたのは施設のスタッフだけではなかった。有紀たちは勿論の事、出迎えた居住者たちにも容易に分かる澄子の違和感だった。
「そっちか」
有紀の呟きの意味が嘉子と安乃には分からなかった。久我原澄子は一か月間の入院中に認知症を発症していたのである。
「あの人…もう違う世界に行っちゃったのよ」
「違う世界 !? 」
有紀の言葉の意味が分かる頃、早苗も澄子の変化に気付き、だんまりを決め込んでいる碇照子に言い知れぬ憤懣が向かい始めた。
有紀の部屋のドアがノックされた。いつもと違うノックに有紀は警戒した。
「…空いてるわよ…どうぞ」
ドアを開けたのは碇照子だった。
「あら、どうなさったの?」
「助けて欲しいんです」
「誰かに怯えてらっしゃるの?」
「…徳田早苗さん」
「徳田早苗さんがどうしたの?」
「あの人は…」
照子は入口で周囲を警戒し出した。
「兎に角、中にお入りなさいな」
有紀の言葉に照子は急いで部屋の中に入りドアを閉めて鍵を掛けた。
「私が居るから日中は鍵は掛けなくていいわよ。施設の決まりでもあるし…」
「怖いんです!」
「徳田早苗さんに何か言われたの?」
「私も久我原澄子さんのようにされます!」
「・・・」
「もう、徳田さんの命令には従えません!」
「命令 !? 」
「この施設を自分の思うままにしようとしています。私は…買収されて…徳田さんの言いなりに動いていました」
「知ってるわよ。徳田さんの事はもう私たちより碇さんの方がよくご存じでしょ? 対処方法は照子さんの方が分かるんじゃありません?」
「私が何をしようと徳田さんがそこに立ち塞がると思うんです。怖いんです」
「…私が思うに…一番いいのは施設長にご相談なさることじゃないかしら?」
「そんなことをしたら…」
「徳田さんに更にひどいことをされると?」
「はい!」
「だから代わりに私に施設に報告してほしいと?」
「…はい」
「照子さん」
「はい」
「それはあなたがすべきことじゃない?」
「…すみません」
「あなた自身が何もかも話さないとね。それに…私が代わりに報告して、もしあなたが私を裏切ったら…」
「そんなことは絶対にしません!」
「照子さん…私はあなたを信用していないわ。ごめんね」
「…当然だと思います。今まで散々あなた方を裏切り続けて来たんですから…」
照子は肩を落とした。
「ご無理を言ってすみませんでした」
丁寧にお辞儀をして、照子はドアに向かった。
「一つだけなら私に出来ることはあるわよ」
照子は藁をも縋る思いで振り向いた。
「ここに社長の後藤寛治郎さんを呼ぶことは出来るわ」
「本当ですか!」
照子の目から涙が溢れ、その場に頽れた。
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