第4話 波乱の幕開け

 『里山ベネッセ』で著名なシャンソン歌手のゆうべが催された。シャンソン歌手の時任ゆめは徳田早苗の親友だった。日頃、あまり居住者が一堂に会することはないが、この日は日本を代表する往年のシャンソン歌手の時任ゆめのステージとあって、その名を知る居住者は我先と集まって来て、日頃は閑散としているリビングは満員となった。ピアニストは時任ゆめがこよなく信頼を寄せる君塚清と言うこれまた第一線で活躍するピアニストという豪華な組み合わせ。早苗が居住者でなければ恐らく実現しなかった催しである。

 冒頭の挨拶で時任ゆめは『里山ベネッセ』の居住者となった徳田早苗の名前を出した。拍手の中、早苗は舞台に上がり、満面の笑みで得意げに会場の居住者たちを見渡した。居住者としての徳田早苗の華やかな施設デビューでもある。そして次の瞬間、その表情が強張った。居住者の中に厳しい表情の糸田嘉子を見てしまったからだ。

催しが済んで部屋に戻った早苗の心中は穏やかではなかった。あの女は必ず仕返しをして来る。よりによってこの施設に居たとは思いもよらなかった。やられる前にやらなければならない女だと早苗の目は血走っていた。


 徳田早苗が入居してから施設の雰囲気にどことなく違和感のような空気が漂い始めた。

「あの人のこと…知ってる?」

 銀幕の奥枝の視線の先には最近まで見掛けなかった異様な風体の入居者が歩いていた。

「私も気になっていたのよ。なんか異様で気味悪い人がまた入って来たなと思っていたのよ」

「有紀さん、知ってるの?」

「知ってるも何も、熊城一晃…在りし日の助監督よ」

「助監督 !?」

「偉大な監督である桜井我人のもとで修行してる助監督仲間が次々に監督として巣立って行く中で、あの人だけが卯建うだつが上がらなくてね」

「それであの恰好?」

「まあ、あの恰好は彼の出世を封じた元凶とも言えるわね」

「何か深いわけがありそうね」

「桜井我人が映画からテレビに転向を薦めてあげたのよ。今では当たり前になった特撮にね」

「あの変身する子供向けの?」

「当時はまだ怪獣ものだったわね。そしてテレビでの特撮人気をさらったのよ」

「そこで開花したのね」

「開花したのは彼の趣味ね」

「趣味?」

「彼は映画時代から女装にのめり込んでね。知ってる? 新宿にある女装の老舗…」

「女装の老舗ってあるの?」

「“輪廻の館” っていう有名な店」

「知らないわよ、そんな趣味ないもの」

「あなたは毎日女装してるじゃない?」

「これでもまだ女です…って、女の場合は男装するの?」

「そういうことね」

「あれよね、今でいうLGBTとかの性的マイノリティっていうの? それが封鎖された社会での捌け口なのかしら?」

「そういう人もいたかもしれないけど、ただの女装趣向の人もいるのよ」

「あの人はどのタイプなの?」

「彼はバイセクシャル…映画界には結構居たわ、あなたたちの知ってる有名俳優にもね」

「ああもうそれ以上言わないで。夢が壊れる」

「彼は特撮界でもチャンスを掴めなかった。そして特撮会社の社長の計らいで中野にあるタレントスクールに役員待遇で都落ち」

「役員待遇ならいいじゃない?」

「そうね。水が合ったみたいよ」

「女装はどうなったの?」

「水が合ったというのは、今まで以上に “輪廻の館” に入れ込みやすくなったという事ね」

「そっちかあ」

「映画界のように同性からの誘いの機会もなくなって、益々 “輪廻の館” に固執して行ったのね」

「映画界って、同性からの誘いが多いの !? 」

「…多いのよねえ」

「夢が瓦解していく…」

「そのうち “輪廻の館” に通い詰めるにはお給料では足りなかったのね」

「ついにサラ金に手を出した !?」

「会社役員なんだから経済的には少し楽になったんじゃない?」

「そうよ、でなければこの施設には入居出来ないでしょ」

「それもそうね。宝くじでも当てた?」

「そのタレントスクールというのは、新人の売り込みよりレッスンと定期公演で利益を上げているんだけど、そこには帳簿に計上されないお金があるのよ」

「・・・」

「タレントの保護者からの寄付と、親バカの袖の下、それから観劇者から舞台出演者へのご祝儀…」

「それを自分の懐に入れたの !? 」

「全額そうしたらバレるわ。だから彼は、寄付は “一時預かり” の意味で自分の名義で領収書を保護者に渡してたの。“一時預かり” だから追及されるまで帰す必要はないし、ばれたら後で返せば罪にはならない。更に、出演者のご祝儀は中身を少額にすり替えた」

「最低ね」

「それがバレたのは、ある舞台に招かれたゲスト俳優に届けられたお得意様のご祝儀ね。そのゲスト俳優はそのお得意様には舞台のたびに一定の金額が包まれていたんだけど、その舞台に限って極端に祝儀の額が少なかったのね。だからゲスト俳優はお礼を躊躇していたのね。お得意様にしてみれば、いつもはすぐにゲスト俳優からお礼の連絡があるのに、すぐには来なかったのね。それでご祝儀がちゃんと届いてるかどうか心配になってゲスト俳優に連絡したのよ。それで誤魔化しが分かったのね」


「そりゃバレるわよね」

「そのゲスト俳優は、またそのタレントスクールからオファーが来たんだけど、その不正を社長に指摘して参加を断ったのよ。それから中野支社は大騒ぎ。本社から名うての経理が派遣されて熊城の悪事が全て晒されてしまったというわけ」

「そして首…」

「には、ならなかった」

「え、どうして !?」

「そのバイ親父は、社長が誘ったカルト宗教の信者なの。その温情で首は免れたのね」

「それにしても哀れな結末ね…でも、なぜこの施設に入れたのかしら? それも社長のカルト温情?」

「社長はそこまで面倒見るほど馬鹿じゃない。経営者は営利に繋がらない身銭は切らない」

「じゃ、誰が?」

「徳田早苗よ」

「そこにあのババアが出て来るわけね」

「徳田早苗にはどうしようもない出来損ないの徳田眞子という孫が居てね。熊城が一肌脱いだことで、そのタレントスクールに通うことになったのね。だからその見返りに社長は熊城を徳田早苗に押し付けたのよ。体のいいクビね」

「女装親父はそういうところは鼻が利いたんだ」

「偶然でしょ?」

「それにしてもセンス悪いわよね。服装は自由な時代だけど、施設内をウロウロされるとどうにも馴染めない違和感よね」

「徳田早苗にとってはそれも自分の権威主張のひとつなんでしょうね」

「やだ、彼がこっちをじっと見てるわよ」

 熊城一晃はにやりと愛想笑いを浮かべながらこちらに向かって来るのが見えた。

「生理的に耐えられそうもない」

「耐えて」

 熊代は愛想よく近付いて来て彼女たちの目の前に立ち、奥枝有紀に視線を絞った。

「やはり、奥枝有紀さんでしたか! 美しさはご健在ですね!」

「ありがとう」

「私の事を覚えてますか?」

「勿論よ」

「あの頃が懐かしいですね。今、あなたのことを話していたのよ」

「そうでしたか! 光栄です」

「今でも “輪廻の館” に通ってらっしゃるの?」

 突然のストレートな切り込みに熊代は言葉を失った。熊城ばかりか糸田嘉子と萱場安乃にも緊張が走った。

「あの…今は…理解ある時代になったので、通う必要もなくなりました」

「そう…いい時代になったわよね」

 有紀は意図的に熊城の服装を舐め回した。

「…はい」

 有紀はゆったりと熊城の言葉を待った。往年のスター女優のオーラが熊城をたじろがせていた。

「では、今後とも宜しくお願いします」

「そうね」

 熊代は深々とお辞儀をして去って行った。

「ああ~なにこの後味の悪い緊張は? それにしても、流石は有紀さんね。スクリーンを見ているようだったわ」

 有紀の表情は厳しかった。

「これからは一層気を付けなければならないわね」

「どういうこと?」

「特に嘉子さんは…」

「私 !?」

「熊城一晃は根っからの下僕よ。欲深い下僕」

「徳田早苗の下僕になったっていうこと !? 」

「それが条件でこの施設に入れてもらったんじゃないかしら」

 安乃には、遠ざかる熊城の後ろ姿が疫病神に見えた。

「…薄気味悪い」

「彼の最初の使命は…恐らく、私たちから嘉子さんを引き離すこと」

「何故私なの !? 」

「あなたのご主人は元糸田薬品の会長。現在、糸田薬品の社長は徳田猛…」

「徳田…」

「そう…徳田早苗の息子」

「でも、夫は職を辞したのよ」

「ご主人に伺ってみたら? 会長職に返り咲きのお話が来てるはずよ」

「何も聞いてないわ?」

「ええ…ご主人があなたの事を慮って復職を迷っているのよ」

「私の事を !? 」

「恐らく、あなたが徳田早苗の下僕になることが条件よ」

「・・・!」

「決めるのは嘉子さん…あなたよ。ただ、ご主人が復職を選択しても、あなたが徳田早苗に刃向えば元の木阿弥。熊城はあなたを監視する下僕よ」

 嘉子も安乃も有紀はなぜここまで裏事情に詳しいのだろうと思った。しかし、有紀は暴力団“桜侠会”組長の娘である。“桜侠会”は戦後から続く暴力団の中で唯一民間軍事会社として進化して生き延びた組織である。世界規模の運営をしているその調査網は警察の比ではない。ここに来て、徳田家の牛耳る糸田薬品は“桜侠会”との市場争いに発展しつつあった。その関係で、居住者となった徳田早苗に関する情報は有紀に伝えられていた。


 数日後、施設に糸田嘉子の夫・糸田貴一が訪ねて来た。

「この間、糸田薬品から連絡があってね」

「今更、何かしらね」

「…復職の話だったよ」

 嘉子は窓の外を眺めたまま貴一の話を待った。

「取締役のポストが空いたそうだ」

「…そう」

「私は今の守衛の仕事が肌に合ってる。何年も音沙汰のない会社から急に声が掛かっても面喰うだけだよ」

「あなたはどうしたいの?」

「・・・」

「戻りたいのね」

「・・・」

「元々、ご先祖の会社だったんだから、そうそう思いを断ち切れないわよね」

「断ったよ」

「いいの?」

「私は大丈夫…きみに不利益になるようなことはないから安心してここでの生活を楽しんでくれ」

「私に不利益?」

「条件を出されたんだ」

「条件?」

「徳田早苗さんとうまくやってもらいたいと…」

「・・・」

「どこまでも執拗だな」

「あなたも早く入居なさればいいのに。ここには私の強い味方が大勢いるわよ」

「そうだな…でも、まだ少し片付けなきゃならないことがあるから」

 そう言って貴一は去って行った。それから間もなくして糸田嘉子は夫の死を伝えられた。糸田薬品との板挟みになった自殺である。貴一は妻の事で脅されていた。自分の存在が無ければ回避されると悟り、妻には何も話さずにこの世を去った。嘉子は有紀たちに寂しく呟いた。

「 “片付けなきゃならないことがある” って、自分の事だったのね」

「徳田早苗って何様なの!」

 萱場安乃が歯軋りをして悔しがった。

「いいの…このままおとなしく引き下がる気はないから」

「当然よ」

「いいこと…当分は “引き下がった” と見せることよ。当然向こうは何らかの報復があるだろうと警戒して脇を固めに入るわ。脇が固まったら油断するのが人間。天狗になりたい人間にはまず油断させることよ。今動いたら多くの力が無駄になる。油断して墓穴を掘ったら、その時よ。泥船からネズミが去ったら一気に沈めに掛かればいいわ。きっと楽しいわよ」

「有紀さん、怖い」

「老いて機敏に動けない老後は、何事もゆっくり気長に楽しまなくちゃ。報復もね」

「嘉子さんは気長に我慢出来る !?」

「出来るわ…夫も亡くなったし、急ぐ理由は何もない。定まった獲物を目で弄ぶ時間が増えたわ。それに、この頃変な噂が立ってる」

「ああ、あれね。徳田早苗と変態・熊城一晃の “老いらくの恋バナ”」

 そう言って安乃は大笑いした。噂の主が美春だということはこの時点では彼女たちも知らなかった。安乃の大笑いを咎めて徳田早苗が近付いて来た。

「施設に似合わない下品な笑い声です事…」

「そうなのよ。施設に似合わない下品な噂を聞いたものですから…」

「どんな噂ですの?」

「ご本人の前ではちょっと…」

「私の噂ですね。私も困ってますの。何の根拠もない噂が独り歩きして…誰なんでしょ? きっとお可愛そうなほどの下品な方なんでしょうけどね」

 有紀が初めて会話に入った。

「でも…火のないところに煙はね。過去に何かトラブルでもお有りでしたの?」

「そんなもの、あるわけないじゃありませんか。八つ当たりには本当に困ったものです」

「本当にそうですね。八つ当たりって、おつむの弱い方のすることですよね。そう言えば、先日の時任ゆめさんのシャンソン…素晴らしかったわ! 彼女の息子さんとの再会が見れるかと思ったんですけど残念でしたわ」

「息子さん !?」

「ご存じありませんでした? この施設の専務の後藤次盛さんは時任ゆめさんの実子ですが…」

 糸田嘉子と萱場安乃は初耳だった。それよりも当の徳田早苗の顔色が見る見る変わった。

「あら、ご存じなかったようね」

「…私はこれで」

 徳田早苗はそそくさと去って行った。

「本当なの !?」

「ええ、お二人も知らなかった?」

「知らなかったわよー!」

「ね、面白くなりそうでしょ」

「なりそー」

 嘉子と安乃はハモって応えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る