第3話 徳田早苗の入居

 落胆の朝、慈治は妻の死を押して職場に出た。最早『里山ベネッセ』に早苗との未来を構築する夢を失い、自暴自棄になる一歩手前の精神状態を辛うじて保っていたのは、施設長に退職願いを出してから早苗を追う覚悟をしていたからだ。しかし、職場はいつになく騒々しいムードだった。新規の居住者がやって来るという。それなら何も今に始まったことではないだろうと、せめて誰かに退職願を渡して帰ろうと相手を探していると、勤務当初から丁寧に指導してくれた先輩の崎山忠正に声を掛けられた。

「草薙さん、今、手が空いてる?」

「…ええ、あの」

「そしたら鶴子さんに付いて行ってくれるかな?」

「え?」

「美春さんが休んじゃってね、新規の居住者を迎えに行くはずの車が来てないって言うんだよ」

「送迎は専務の後藤さんが…」

「それが後藤さんに連絡が付かないんだよ」

「どうしたんでしょうね?」

「とにかく鶴子さんが居住者のお宅に迎えに行くことになったんだけど、介助の手助けをする人手がないんだ」

「介助…」

「居住者の方は車椅子なんだ。当初、息子さんが送って来る予定だったんだけど、都合が付かなくなったということで、昨日、急に送迎を依頼して来たんだ。ところが専務は夕べから連絡が付かないままで…」

「私には車の免許が…」

「鶴子さんが運転するから…」

「分かりました! では鶴子さんと迎えに行きます!」

「ありがとう!」


 徳田早苗は居住する部屋に着くなり大きな溜息を吐いた。

「狭い部屋ね。ここが私の終の部屋?」

「この施設では一番広いお部屋です。30畳ほどあります。他施設と比べましても、この部屋は特別に充実した住まいになっております」

「…そうなの」

 早苗の鶴子を見下した上目線に、慈治は厄介な居住者が入って来たものだと落胆した。

「あなたは、今までどんな方を担当したの?」

「歌舞伎の五代目立川吉衛門さまの奥様や、華族の冷泉実子さまなどでございます。他にもたくさんおられますが、今現在居住されている方のお名前は、私からはお話し致しかねます」

「名前を出した方は生きてないという事ね」

「この施設でお看取りをさせていただきました」

「わたしのことは誰が担当するのかしら?」

「私が担当させていただくことになっております」

「…そう」

「そして、この草薙が私のアシスタントとして務めさせていただきます」

 慈治は聞いていなかった。今日は退職願を提出に来たのだが、朝のどさくさに巻き込まれた末に鶴子のアシスタントにされてしまった。しかも厄介そうな居住者である。妻の早苗の他界で、未来に夢を持てなくなった慈治には、到底務まりそうもなかった。況してや、妻と同じ名前である。それだけでも耐えられない。事務室に戻ったらそのことを話して施設を後にしようと、この場では黙ることにした。

 がっくりして鶴子に従い事務室に向かうと、途中の居住者用リビングで声を掛けられた。

「ちょっと、ちょっと、慈ちゃん!」

 声の主は銀幕の奥枝有紀だった。傍にはいつものように糸田嘉子と萱場安乃が待ち構えていた。

「じゃ草薙さん、皆さんのお相手してちょうだい」

鶴子が気を利かせて先に事務室に向かった。

「今朝は随分と騒々しかったわね。何があったの?」

「新しく入居される方がいらっしゃってね…ちょっと送迎が遅れたみたいで、皆さんにはお騒がせしました」

「入居する方って徳田早苗という人じゃない?」

「どうしてそれを !?」

「あの人…言いたくないけど、とんでもない人よ」

 既に慈治が抱いた拒否反応を銀幕女優からも聞くとは思わなかった。

「嘉子さんのご主人はあの人に失脚させられたのよ」

「は !?」

「知ってるわよね、嘉子さんが糸田薬品元会長夫人だということを」

「はあ…」

 慈治は知らなかった…というより、その事がどう関係あるのか奥枝有紀の話が良く見えなかった。

「あの女はね、嘉子さんのご主人を糸田薬品の社長から蹴落として会長職に追いやり、それでも飽き足らずに会社から追い出した女なのよ」

「…はあ」

「それもこれも、自分の息子を社長に就かせ、会社を牛耳るためにね」

 そう言えば、迎えに行く途中に鶴子から徳田早苗の息子はどこぞの社長だと聞いていた。糸田嘉子は糸田薬品の創業家にも拘らず、会社ごと他人に乗っ取られたという事か…単なる早苗個人への厄介だけではなかった。これから先、実に面倒なことになりそうな予感がした。しかし、どうなろうと退職する現場である。慈治にはもう関わりのないことだった。

 慈治が事務室に戻るとコールが鳴っていた。徳田早苗の部屋である。担当の鶴子は居住者の碇照子の部屋に出向いて不在だった。施設長の視線は慈治を捉えていた。

「草薙さんが鶴子さんのアシスタントになったんだよね。今日迎えに行ってくれた徳田早苗さんが呼んでるから取り敢えず行ってみて。後で鶴子さんをやるから」

 慈治は出し掛けた退職願をまた内ポケットに納め、仕方なく重い足で早苗の部屋に向かった。早苗は全身に怒りを込み上げさせて待っていた。

「遅いじゃないの!」

「すみません。どうかなさいましたでしょうか?」

「呼んだらどのくらいで来るか確かめたのよ。遅過ぎるでしょ! 今の半分の時間で来て頂戴!」

「それは…その時の状況で…」

「何を間抜けなことを言ってるの! こんなもたもたされたんじゃ、もしもの時には死んじゃうでしょ!」

「はあ…なるべく早く…」

「なるべくですって !? 自分を甘やかすのもいい加減にしてくれない? 仕事でしょ !? 居住者を待たせるとは何事 !? 」

「どうかなさいましたか?」

 やっと鶴子が現れた。

「どうかなさいましたかじゃないわよ! コールを押しても来るまで随分と時間が掛かり過ぎるじゃないの」

 鶴子が大きく一息突いた。

「そうですか。それでは他の施設になさるしかないですね。きっとこれからも徳田様のご要望に応えられる施設にはなれそうもないような気が致します。この施設は “自助” “共助” “公助” の自覚を持って居住していただいてます。それは居住者の方の自律を促していつまでも健康に暮らして頂くために掲げているものです。徳田様にその趣旨をご理解いただけなかったのは残念ですが、すぐに解約の手続きを取らせていただきますね」

 鶴子は慇懃にお辞儀をし、部屋に踵を返した。

「待ちなさい! …何も解約するとは言っていません」

 鶴子は無表情で振り返った。

「いえ、徳田様のご期待に応えられない以上、それが一番適切な対処かと思いますよ」

「この施設は “自助” “共助” “公助” なのね。知らなかったのよ」

「お渡しした施設の規約書をお読みいただいたと思いますが…」

「忙しくて読んでる暇がなかったのよ」

「では、今一度お読みいただいた上で今後の事をお考えください」

「…分かったわ」

 暫く無言が続いた。

「他になければ、これで失礼しますが…」

 早苗は無言だった。鶴子は早苗の返答を無表情で待った。早苗は鶴子に対する敗北感を打ち消しながら言葉を搾り出した。

「…ないわ」

「はい。では、失礼します」

 慈治は毅然とした鶴子に感動していた。ドラマでも見ているような錯覚を覚えた。もう少しこの施設に勤務したい気持ちも湧いた。銀幕の奥枝有紀たちにいい土産話が出来た…とも思ったが、勤務するなら一居住者のことを他の居住者に他言出来るわけもなかった。


 慈治が戻ると事務室の様子が緊迫した空気に包まれていた。施設長の今井が後藤に気を使いながら説明していた。

「会長の指示なので私にはこれ以上…」

「あなたは施設長でしょ! 昨日入居したばかりの人間に振り回されている場合じゃないでしょ!」

 昨日入居したばかりというのは “徳田早苗” のことらしかった。それに “会長の指示” とはどういうことなんだろうと慈治が訝しげていると、事務室に戻って来た鶴子が間に入った。

「どうなさったんです?」

「飯山さん、君も知っていたのかい!」

「何をです?」

「明日の “シャンソンのゆうべ” とかだよ! よりによって時任ゆめを呼ぶというのはどういうことなんだよ!」

「私は知りませんでしたが…」

「今、会長からのお電話で…」

「そういうことですか…」

 鶴子は大きなため息を吐いた。何故専務の後藤が腹を立てて興奮しているのか、彼女は何もかも事情を把握しているらしい。

 結局、“シャンソンのゆうべ” は会長の指示で決行されることになった。

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