第7話 寛治郎の過去
徳田早苗にとって今まで味わったことのない追い詰められた窮屈な日々が、のたりのたりと過ぎて行った。鏡に映った自分の顔がこれほど老婆だったとショックを受けた或る日、『里山ベネッセ』に相次ぐハプニングが起きた。。施設長の今井隼輔の突然死である。それだけではない。入居者への虐待・横領着服及び寄付金などの不正流用で、専務の後藤次盛が業務上横領で逮捕され、施設はパニック状態になった。
勤務間もない慈治は、年長という事だけで何かと他のスタッフの相談を受けるようになり、事態が収まる頃は立場が一転、古老の責任者のような扱いを受けていた。急場を凌いだ功績を買われ、『里山ベネッセ』の社長である後藤寛治郎は慈治に施設長就任を打診してきた。迷ったが慈治に断る理由はなかった。そして就職後3年で慈治は平のスタッフから一気に施設長となった。
施設長になった慈治は暫くの間は目立った動きは見せなかった。だが、この『里山ベネッセ』には相応しくない居住者がいる。それらを“相応しい居住者”と入れ替えなければ真に住み心地のいい終の介護施設にはならないと考えていた。
夜間、201号室のオンコールが鳴った。また徳田早苗の部屋である。その時、慈治以外、他のスタッフは見回りで事務室に居なかった。慈治は201号室との接続電源スイッチを切り、事務室に鍵を掛けて離れた。
無人の事務室に徳田早苗が車椅子で現れた。
「誰かーっ!」
施設はしんと静まり返っていた。
「誰かーっ! 誰か居ないの!」
早苗は事務室のドアを開けようとしたが鍵が掛かっていたため、ガンガン足で蹴り続けた。ドアのガラスが割れ、鍵が破壊された。
「誰か出て来いーっ!」
相変わらず廊下は常夜灯だけでしんと静まり返ったままだった。突然、施設内放送が始まった。
「皆様、夜分に恐れ入ります。先程、事務室のドアが破壊されました。加害者は常にスタッフに毒突き、虐げている80代の女性入居者の模様です。就寝中の皆様は部屋のドアに鍵を掛けて安全を確保してください。間もなく警備員が来ます」
放送を聞いたスタッフたちが事務所に戻って来たのは、徳田早苗が慌てて部屋に引返した後だった。スタッフらが破壊現場を写真に撮った。
「施設長の言ったとおりになりましたね」
「施設長はよしてくださいよ、崎山さん。草薙でお願いします」
崎山忠正は慈治の勤務当初から友好的だった先輩だった。まだ40代の若さだったが、一部の居住者とその家族の暴走で『里山ベネッセ』の空気が悪くなっていくことを憂いていた一人だ。慈治が施設長になって逸早く忠正は施設の “鬼退治” を打診していた。忠正は “鬼退治” の青写真すら描いていた。更に忠正には志を同じにする仲間もいた。元看護師の飯山鶴子と格闘家の篠山兵太だ。ふたりはそれぞれ事情を抱えていた。この『里山ベネッセ』のスタッフになって、専務の次盛と施設長の今井の変わりようにはほとほと幻滅し、日々地団駄を踏んでいた。
「当初、今井さんはこの施設を改革しようとしていました。しかし、徳田さんが多額の寄付をしてこの『里山ベネッセ』に入居して来ると、施設の空気は一変しました。あの方は我々スタッフを一流企業の就職合戦に敗れた貧乏人と見下さし、顎で使うようになりました。何度も施設長に相談しましたが、施設長は人が変わったように徳田さんとその家族に従属するようになりました」
「我々は、反旗を翻すか転職するかで迷っていたところなんです。草薙さんはこれからどうなさるおつもりですか?」
「この『里山ベネッセ』にそぐわない入居者にはここを去って頂くしかありませんね」
「やはり、徳田早苗さんですか?」
「いえ、彼女は一番最後に去ってもらいます。多大の献金者ですから、頂けるものは最期まで頂くつもりです。皆さんが尽くした分はしっかり頂きましょう。その前に掃除しなければならないことがあります」
一同に初めて笑みが零れた。
翌日、事務室のドアの修繕を見学に碇照子や細谷衣子ら元徳田派が集まって来た。
「泥棒でも入ったんですか?」
「そう言えば夜中に大きな声がして起こされたわね。その後、館内放送で80代の女性入居者がドアを破壊したとありましたが、誰なんです?」
小泉京司という早番の若いスタッフが修繕しながら応えた。
「ボクは今朝来たばかりなので…」
「80代の女性入居者って結構居るわよね」
「誰かしら?」
「あんたも80歳越えてたわよね」
「あらすっかり忘れてたわ! そうよ、あたしも80代の居住者よ、嫌だわ~」
そこに新施設長の草薙がやって来た。
「皆さんおはようございます!」
「草薙さん、80代の犯人って誰よ!」
「いきなり犯人とか…いったい何の話です?」
「昨夜の事件よ」
「事件 !?」
「ほら、ドアの修理をしてるでしょ」
「そうそう、小泉くんは大工の経験があるんですよ! 起用でしょ!」
「ほんと器用だわよね…じゃなくて、このドアを壊した80代の居住者って誰なのよ?」
「誰なんでしょうね? まだ分かってないんですよ」
「早く探して頂戴よ。警察には通報したんでしょ?」
「この施設には認知症と闘っておられる方もいらっしゃるので、すぐに警察沙汰というのもね」
「でも、あたしたちは夜もおちおち寝てられないわよ」
「昨夜は良く眠られてましたよ」
「そうなの、ぐっすり…じゃなくて、早く犯人見つけてくれなかったら不安でしょ」
「大丈夫です。今晩から警備の方に巡回をしてもらうことにしましたから、安心してお休みください。ただし、くれぐれもお部屋の鍵は忘れずにね」
その一部始終を遠くから見ていた当の早苗は居場所を失って部屋に戻って行った。早苗の後ろ姿を見逃さなかった鶴子は呟いた。
「…暫く出て来るんじゃねえよ、ばばあ」
数日後、早苗の息子の猛と妻の美緒がやって来た。ドアの修繕見舞だという。
「草薙さんが施設長になられたばかりだというのに大変なことになりましたね。これは心ばかりのお見舞いです。どうかお納めください」
「いつもありがとうございます。このところいろいろなことがありまして居住者様には多大のご迷惑をお掛けしています」
「…で、ドアを壊した犯人は見付かったのでしょうか?」
「犯人といいますか…こういう施設柄、公にすることは慎重に考えませんと…」
「警察へは?」
「状況を見てどうすべきか今検討中なんです。短慮に警察沙汰にするのは…」
「そうですね。施設内の事は出来るだけ施設内で対処なさった方が宜しいかもしれませんね」
「出来れば…そう思っております」
「私はこれで…」
草薙の意向に安心した徳田夫妻は、早苗には会う素振りもなく帰り仕度に入った。
「お母様には…」
「ええ、今日はこの後、約束がありまして…今度またゆっくり」
「そうですか、お忙しいのにわざわざすみません」
徳田夫妻は早々と去って行った。母親の早苗に無理を通されたのだろう。金で揉み消そうとする早苗の魂胆は透けて見えた。親が親なら子も子である。
「何様のつもりでしょう…施設内の事は施設内で…言われなくてもそのつもりです。おまえ如きが “早苗” の名を名乗るんじゃねえ」
慈治のお経のような呟きに、ドアを直し終えた新人の小泉が戻って来た。
「今、何かおっしゃいました?」
「いえ、ちょっとしたおまじないをね」
「おまじない?」
「そうそう、お金が入るおまじないをね」
「お金が入る !? 僕にも教えてくださいよ!」
「このおなじないはね、80歳以上限定のおまじないなんだ」
そこへ飯山鶴子が神妙なそぶりで近付いて来た。
「草薙さん、ちょっといいですか?」
「じゃ、ボクは田中信子さんの入浴介護に向かいます」
小泉は気を利かせて座を外した。
「鶴子さん、どうかしました?」
「執事の金蔵さんから連絡がありまして、社長が呼んでるとの事です。至急との事で…」
執事の入江金蔵は『里山ベネッセ』創立時の施設長である。社長の寛治郎とは幼い頃からの学友で家も近かった。兄弟のない二人は自然と身内のように育った仲である。寛治郎は結婚したが金蔵が独身を貫き通しているのは、彼が寛治郎に特別な感情を持つ身だったからである。しかしその事を知る者はいなかった。寛治郎でさえ気付かずに今日に至っているのだ。
「めずらしいこともあるもんだね。じゃ、あとは鶴子さんに暫く事務所をお任せするよ」
「それが、私も呼ばれているんです」
「…そうですか…じゃ、事務所が空いてしまいますが… “至急” ということであれば行くしかないですね」
後藤寛治郎の部屋は最上階にある。その住まい専用のエレベーターがあり、自分の終の棲家としていた。慈治がそこに呼ばれたのは初めてだった。
慈治と鶴子は、施設とは趣を異にする重厚なドアの前に立った。鶴子はここに呼ばれたのはこれが2回目だった。『里山ベネッセ』が創業して間もない頃だった。執事の入江金蔵が社長の使いで鶴子を呼びに来た。鶴子は最上階に社長の住まいがあった事すら知らなかった。
「…実は、鶴子さんにお願いがあってね…」
「私に?」
「どうだろう…医師の資格を取ってもらえないだろうか?」
「私は…看護師なので…」
「君が医師をあきらめて看護師の道を選んだことは分かっています。そして、看護師としての病院勤めがつらいからこの介護施設に職業替えしたことも。病院勤めがつらかったのは、看護師としてではなく、誤診だらけのいい加減な医師どもと仕事を共にすることだった…そうですね」
「・・・」
「君が医師になるまで私が全面援助させてもらう。他意はない。私の望みは、私が生きているうちに、この『里山ベネッセ』を本物の終の棲家にしたいためなんだ」
「本物の終の棲家?」
「今の『里山ベネッセ』でお世話できるのは、居住者の “死” までです」
「それだけでは終の棲家として本物ではないと?」
「死の先には火葬、そして埋葬があります。そこまで導かなければ真の終の棲家には成り得ない」
「しかし、火葬場の建設は…」
「それは私には無理。しかし、火葬と埋葬をサポートすることは出来る。いずれ遺体ホテルも建設するつもりだ」
「遺体ホテル !? 」
「火葬場の数が死者の増加に追い付かない上、遺体を自宅に引き取れない都会のマンション事情がある。遺体を預かる場が不足しているんだ。少なくとも、ここでお亡くなりになった居住者の方が、死後の行き場を失ってしまうことを黙認するわけにはいかない」
「介護から、死体検案、そしてご遺体安置まで出来れば、終の棲家と謳う責任が果たせる」
鶴子は寛次郎の計画に深い愛を感じた。そして医師の資格を得た鶴子は、そのことを伏せつつ寛次郎に仕えていたのだ。
慈治は重厚なドアの前で深呼吸をした。
「では…」
慈治はドアホンを押した。ドアが開くと奥で寛治郎が待っていた。
「忙しいのに済まなかったね。まあ、掛けたまえ」
終の棲家に相応しくシンプルながら豪華な佇まいだった。寛治郎の表情は穏やかだった。重要な話であることは間違いないと思った。身の回りの世話をしている執事・入江金蔵はすぐにその場を辞した。寛治郎自ら二人に紅茶を入れた。その静かな時間の経過に、ある種の覚悟が感じられた。室内が高級な紅茶の香りに包まれた。春摘みダージリンなのか、アッサムなのか、はたまたニルギリなのかアールグレイなのかは判別できるわけもないが、高級な紅茶には間違いなかった。
寛治郎は紅茶の香りを嗜み、一口付けてから徐に話し出した。
「私の話を聞いてほしい」
寛治郎の口からは自分の過去と、『里山ベネッセ』に於ける現在の複雑な人間模様が明らかにされた。
「徳田早苗はね、私のかつての婚約者だったんだよ。結納も交わし、結婚式を待つばかりだったが、私の前に好きな女性が現れたんだ」
慈治と鶴子は対応に困って固まるしかなかった。
「時任ゆめさんだよ。彼女はシャンソン歌手を志していた。たまの合同リサイタルでも異色の光を放っていた。どうしてもあきらめきれずに徳田早苗さんとの結婚を断り、時任ゆめさんに求婚したんだ」
慈治は段々気が重くなって息が苦しくなり、紅茶で喉を潤そうと伸ばした手が震え、茶碗の取っ手を持てそうもなく、再び引っ込めた。
「次盛が中学になった頃、ゆめが神妙な体で離婚届を差し出して来た。シャンソン歌手になる夢をあきらめきれないと…私はこういう日がいつか来ると、何となく予想してた。そして、ついにその日が来たと…だから、何も言わず了承した。次盛もいつかきっと分かってくれると…思いたかった」
「どなたにもご相談なさらなかったんですか?」
冷静に質問する鶴子の精神力が慈治には羨ましかった。
「相談したら騒ぎが広がるだけだ。そういうのは苦手だ」
ふたりは、如何にも社長らしい考え方だと思った。
「ショックだったのはゆめの去る日だ。迎えの車に徳田早苗が乗っていた。驚いたね…それに、その奥に当時日本の5指に入る君塚清が居たことだ。後で分かったことだが、ゆめは早苗の紹介で君塚に会い、見初められたんだ。シャンソン歌手としてだけじゃなく、女としてね」
「その時、引き止めるという方法もあったんじゃないですか!」
慈治は多少興奮していた。
「そうかもしれない。しかし、それ以上に力が抜けて、感情が無感覚になっていったんだ」
「それって徳田早苗の復讐じゃありませんか!」
鶴子は慈治以上に興奮していた。
「鳩が豆鉄砲を喰らった時って、あんな感じになるんだろうね」
寛治郎は力なく笑った。
「でも、去って行く車を見送りながら、ゆめが幸せになってくれることだけを一心に祈ってた。次盛の事を忘れてね。駄目な父親だった」
車が去る様子を遠く離れた場所で見ていた執事の入江金蔵の目には涙が溢れ、その両の手は怒りと次盛への哀しみでわなわな震えていたのを寛治郎は気付いていない。
「今井くんが急逝して、次盛があんなことになり、浮き足立った『里山ベネッセ』の先行きが見えなくなりつつあった時、草薙さんの存在は大きかった」
「いえ、私などは…」
「誰もが腰の引ける “施設長” を引き受けてくれて本当に感謝してるんだ」
「私はあくまでも場繋ぎです。すぐにでもどなたか相応しい方にバトンタッチさせていただければ有難いです」
「場繋ぎではなく、今後も施設長として『里山ベネッセ』に貢献していただきたい」
「そうです! そして何より草薙さんは居住者の方々からの信頼が厚いんです。私たちには真似出来ない絆が出来ているんです!」
いつになく草薙のことを力説した鶴子は、自分の熱さにはたと気付いて、すぐに静かになった。鶴子の様子に寛治郎は微笑んだ。そして暫く一点を見つめて無言になった。会話が途絶え、互いに紅茶を啜る時間だけが流れた。
「ふたりに来てもらったのは…」
寛治郎がやっと本筋に入った。
「次盛の事なんだ」
「はい」
慈治には寛治郎の言わんとしていることが何となく察しが付いた。
「息子の事で皆さんに多大なご迷惑をお掛けしていることは重々承知していますが…すべて私に責任があります」
寛治郎は再び言い淀んだ。慈治は奥枝有紀から次盛の苦悩の話を聞いていた。有紀自身、銀幕で活躍していた頃に、秘密裏に息子を儲けていたが、母子の名乗りは禁じられていた。後にその事を知った息子の激しい怒りを買った経緯がある。寛治郎夫妻に裏切られた形の次盛の恨みは想像が付いた。致命的なのは “シャンソンの夕べ” の催しを受け入れた寛治郎に対し、次盛は我慢の限界を越えた。自分の聖域である職場を土足で汚された感覚だった。自分を捨てて夢に走った時任ゆめが入ることは許されない。況してやその計画の首謀者である徳田早苗は、既にこの聖域でのうのうと暮らして、また自分から大切なものを奪おうとしているのだ。
「私には次盛さんの無念が分かります」
「え…」
「 “シャンソンの夕べ” は彼を逆撫でするする最悪のイベントだったと思います…すみません、言い過ぎました」
「いや…そのとおりだよ。次盛には理解してもらえると思ったのは、私の甘さだった。また深い傷を負わせてしまった」
「そうですね。取り返しが付かないかもしれませんね」
鶴子の表情は一転険しかった。
「飯山くん、ちょっと言い過ぎじゃないか…」
「私は、専務が今、何をしようとしているのか分かるような気がします。専務は未来を見ることを…もう捨てています」
「私も…そう思っている」
執事の入江金蔵が出て来た。
「私の願いをお聞きいただけないでしょうか?」
一同は金蔵が次に言わんとしていることを瞬時に察知した。それはお互いが考えていることでもあった。
ドアを出てから、ふたりは暫く動けなかった。一時間程しか経過していなかったが、数日分に値する濃い時間だった。専用エレベーターのドアが開き、階下の施設に着くまでふたりは無言だった。
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