第17話 金蔵の涙
村岡の去った事件の部屋はすぐに改装されたが、暫くの間、新たな居住者で埋まることはなかった。正大党幹事長・川口彰生の隠し財産のスキャンダルとあって、『里山ベネッセ』にはテレビや週刊誌の記者が殺到し、過激な報道でその部屋のことを面白おかしく “パンドラルーム”との烙印を押す週刊誌もあった。パンドラルームとは、2021年に国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が公表した「パンドラ文書」から捩られた。金と権力を欲しいままに出来る世界の大物資産家たちが、資金洗浄などして、金を隠し、税金を回避していた1200万件近くに及ぶ調査のリーク資料である。正大党幹事長・川口彰生が安易に利用しようとした猥褻常習犯・村岡の最後っ屁は強力だった。そのとばっちりを受けた形になった『里山ベネッセ』も、高級介護施設からスキャンダル介護施設として醜聞を強いられる羽目になった。
慈治は“ふと”気になった。徳田早苗に始まった“呪いの部屋”…その前の住人は誰だったのだろうか? …確か、“あの部屋” には誰も前住者は居なかったはずである。慈治が嘱託で勤め出した頃、掃除の部屋を間違えて “あの部屋” を開けようとしたことがある。鍵が掛かって開かないのでうろうろしていると、ベテラン介護士の小池里子に “この部屋には近付かないように” と注意されたことがある。その後、“あの部屋” に徳田早苗が入居した。施設は人気で入居者が2年先まで満杯だったが、何故か徳田早苗が特例として入居したのが “あの部屋” だった。当時の施設長の今井隼輔に聞くと、徳田早苗は『里山ベネッセ』の大口投資者のひとりだったらしい。急遽の要望があり、社長の寛治郎は断り切れなかったようだ。執事の金蔵がそのことで何故か憤慨していたのを慈治の目には奇異に映ったが、施設内の問題に関わる気もなかったのでいつの間にか慈治の中では風化していた。
村岡明彦が去って、“パンドラルーム” にまた入居者が入ることになった。街の不動産の賃貸物件なら訳あり物件…今でいう “告知事項あり” とか “心理的瑕疵あり” という表示になろうが、先方は敢えてその部屋の入居を希望して来た。その入居者とは川口彰生である。彼は村岡以上に断り切れない相手であろうが、よりによって失脚の引き金を引いた村岡の後に居住するのは至極奇異にさえ映った。そして、三度、金蔵の憤慨する姿を見て、慈治は風化していたはずの記憶が蘇った。
それにしても川口は何故自業自得で己のスキャンダルを撒き散らし、辞任声明を出してまで “あの部屋” に居住することにしたのか…慈治はとっさに北米に生息するキタオポッサムが頭に浮かんだ。オポッサムは敵わぬ敵に襲われると、口から舌を垂らし、排泄物を垂れ流して死を装う。襲おうとした敵は死臭すらするオポッサムに食欲を失って去って行く。科学用語では “擬死” と呼ぶらしいが、敵から逃れる成功率は高いようだ。
川口の“擬死” 策は見事に功を奏し、報道陣の取材は三日坊主となった。辞任声明を出して暫く休養を取る議員などに世間は興味ない。その休養先が、まさか失脚の舞台となった『里山ベネッセ』だとは思いもよらないだろう。狡猾な川口は役職は辞したが、議員を引退して国家からの庇護を解くとは言っていない。ほとぼりが冷めるまで、“あの部屋” でのうのうと休養の日々を送るつもりだった。
このところの金蔵の落ち混みようは傍目に見ても深刻だった。日に日に痩せ衰え、ついに入院してしまった。寛治郎に提供された終の棲家の隣は金蔵の住まいである。日を置いて自分の部屋掃除のために屋上階に上がって、電気が点かなくなって久しい金蔵の部屋を通り過ぎるに付け、居たたまれず慈治は入院先を見舞っていた。その日は珍しく金蔵は慈治の見舞いを待ち侘びていたようだ。
「寛治郎さまのご先祖も、同じ過ちをなさった。滅亡を前にした後藤家の先祖の屋敷に、御用金を運ぶ途中の然るお方をお泊めした折の事だ。然るお方はその御用金と共にこの屋敷から消えた。然るお方が御用金を持ち逃げして逃亡したという噂が立ったが、その後、後藤家のお家が復興したことで、もしやと良からぬ噂が立った。しかし、屋敷からは死体など見付からなかったことから、やはり持ち逃げだろうとなり、その後、次第に悪しき噂は風化した。私の祖父から聞いた話だ。我が入江家は祖父の代からこの後藤家に仕えている。真実は全て大奥様が墓場に持って行きなさった。そして私は祖父から、大奥様の部屋は、以後絶対に解放してはならぬと戒められている。大奥様の部屋とは “あの部屋” です。“あの部屋” には絶対に他人を入れてはならない。この事を頼めるのは、慈治さま、もうあなたしかいないのです。どうか…」
金蔵の目が慈治をじっと見詰めた…いや、慈治ではない。慈治の背後にその焦点は定まっている。慈治は急いで背後を振り向いたが誰もいない。金蔵に目を戻すと、今、正に眠るように静かに目を閉じ、満ちていた涙が一筋になって頬を伝った。
偶然とは言いながら、確かにこのところ “あの部屋” では悪しきことが続いた。まさか金蔵の臨終に慈治がひとり立ちあうことになり、このような重い依頼を残されるとは思わなかった。やっと手に入れた去り際が、また遠ざかってしまったような気がした。要するに金蔵の言わんとしたことは、“あの部屋” にはもう居住者を入れるなということだ。何がどうなっているのか分からないが、この終の介護施設は “あの部屋” さえ封印しておけば平和を取り戻せるかもしれない気がした。だとすれば、自分に何が出来るというのだ。家内亡き後とは言え、ふたりの目的だったこの施設を終の棲家に出来たのは、寛治郎の計らいである。その寛治郎の社長方針で “あの部屋” を一般に解放したことに、とやかく言える立場にはない。しかし、金蔵の遺言ともいえる頼みごとを無視するわけにもいかない。慈治は最も嫌う柵に挟まれてしまった。
徳田早苗は『里山ベネッセ』竣工の際の大口投資者のひとりであるとは聞いていた。投資者の急遽の入所依頼の時、空き部屋はなかった。“大奥様の部屋” は一般に解放してはならないことは、金蔵に言われなくても寛治郎自身分かっていたはずだ。しかし、滅多に物申さない金蔵の反対を押し切ってまでも徳田早苗に貸し出さなければならなかった事情があったのだろう。ところが、まるで大奥様の怒りに触れたかのように、“あの部屋” の居住者は次々に施設のトラブルメーカーとなって騒ぎを起こしてしまう。
金蔵の最期を看取った慈治は、埋葬の準備のために戻ると、寛治郎からのお呼びが掛かった。金蔵の最期は電話で伝えてあったので寛治郎は知っているはずだが、もう一度直接詳しく聞きたいのだろうと、重い足を運ぶしかなかった。寛治郎にとって、金蔵は執事である前に幼馴染である。寛治郎とは昨日も会ったばかりだが、目の前の寛治郎は数年老けたように塞ぎ込んでいた。いつものように紅茶を入れる気力すらなかった。
「昔ね…金蔵に猛反対されたことがあったんだ…あの従順な金蔵にね」
「この度は、急なことで…」
「草薙さんは何か聞かなかったかい?」
慈治は返答に困った。
「呪いの話とか…聞かなかったかい?」
「呪い…ですか !? 」
「草薙さんは金蔵の臨終に立ち会ってくれたんですよね」
「ええ、あの日は生憎、社長も次盛さんもお出掛けだったので…まさか私が臨終の場に…」
「亡くなる時、金蔵は何か言ってなかったかな?」
「…特には」
慈治は言えなかった。金蔵からの身に迫る依頼だったが、今は言うべきではないと本能が制止していた。
「…そうですか」
「はい…静かにお亡くなりになりました」
こういう時、社長がいつも入れてくれるお茶が最高の場繋ぎになるが、今日はなかった。
「私で宜しければ、紅茶をお入れしましょうか?」
「そうしてもらおうかな」
寛治郎の入れ方を何度か見ていたので、見よう見まねで何とかカップに紅茶を注ぐに至った。寛治郎に続いてゆっくりと一口啜ったら心が落ち着いた。沈黙が続きそうなので慈治はもう一口啜った。すると寛治郎ももう一口啜った。長い沈黙が続く中、慈治は三口目を啜るかどうするか迷って寛治郎を見た。寛治郎もこちらを見ていた。慈治は意味なく作り笑いをして紅茶カップを置いた。
「あの部屋は…封印したほうがいいかもしれないね」
「え !? 」
「勿論、川口先生が部屋から出て行かれたらの話ではあるけどね」
「出て行かれるんですか !? 」
「いや、今のところはその気配は全くないが…それどころか、あそこを終の棲家にしたいと仰ってる」
「…そうですか」
「慈治さんに何か良策はありませんかね」
慈治は金蔵との話が喉まで出掛かっていたが、グッと堪えた。
「考えておきます」
ふたりは同時に残りの紅茶を啜った。
数日後、慈治はまた寛治郎に呼ばれた。金蔵の居なくなった現実が寛治郎を孤独に追いやっていた。今までなら不安や疑問や怒りを全て金蔵にぶつけることで突破口を見出していたが、金蔵が鬼籍に入った今、ぽっかりと空いた寛治郎の心を埋めるものはない。どうしても慈治を呼んでしまう自分を抑えられなかった。
「せっかちで済まん」
「いえ…」
「やはり、“あの部屋” を封印しようと思うんだ」
「そうですか…私も丁度ご連絡しようかと思って居たんです」
「何かいい案が浮かんだのか!」
「いえ…思い出したんですよ、悪いことが続く“ある屋敷”の話を。この話は岩手県遠野市の町外れの恩徳地区にある屋敷の話なんですけどね…でも、興味が無ければ…」
「いやいや、途中まで話されてから止められても気になるだけでしょ」
「ですよね。では、掻い摘んで話しますね。ある山伏がそのお屋敷を訪ねて一夜の宿を乞うたそうなんですよ。昔はその恩徳地区に金山がありましてね。ふたりがその金山で採掘した大量の金を屋敷の主が目撃してしまったんですよ。そして山伏たちが寝静まった頃合いを見て金を奪おうとしたんですが、気付かれてしまいましてね。乱闘になって、結局、採掘で疲れ切っていた山伏たちは屋敷の主とその息子たちに殺されて金を奪われてしまったんですよ。村人には山伏が旅籠でもないその屋敷に泊まっている事など知るはずもない。山伏が何人消えようと、咎める者は誰も居ないため事件にもなりようがなかった。家族の間でも忌まわしい出来事はすぐに風化されてしまったんですね。ところがそれからですよ」
「それから…」
寛治郎は前のめりで話の続きを要求して来た。
「山伏を殺したその部屋で、次から次と死人が出るようになって、とうとうその家は絶えてしまったという話なんですが…何故こんな話を思い出したんだろうと気になってしまいましてね」
寛治郎は “んーっ” と唸ってソファに凭れ掛かり、苦虫を咬んで手胡坐をかき、天井を仰いだ。慈治にはどうも居辛い雰囲気になってしまったが、帰るに帰れない状況でもあった。暫くすると寛治郎は呟いた。
「…金蔵の言ったとおりにしておけばよかった」
金蔵が言ったことは臨終の折に聞いて知っていたので慈治は黙っていた。
「金蔵が何を言ったか聞かないのかい?」
「聞いても宜しいのですか?」
「聞いてくれ」
慈治は何とも自分の立ち位置が不安定な思いだったが、兎に角、金蔵の “遺言” に何とか応えなければならないと思う一心だった。
「金蔵さんは、何と?」
「 “大奥様の部屋は以後絶対に解放してはなりません” と言われたんだ。それを無視して、私は『里山ベネッセ』開業を機に “あの部屋” も一般に開放したんだよ」
「そうでしたか」
臨終の場で金蔵から言われて知っていた話であるが、慈治は今聞いた体を装った。この部屋のどこかに金蔵が居るような気がした。自分を通して、主の寛治郎に言わしめたんだろうと思えた。慈治は寛治郎の本音を探りたかった。
「大奥様が生きてお出でだったら、この状況をどうなさったでしょうね」
「母が居たら、抑々 “あの部屋” は一般には解放されてないよ」
「いえ、ですから…敢えて今、奥様がご健在だったらこの状況をどうなさるのかなあと…」
「母は…新しい居住者が入ったら、どんな手を使ってでも “あの部屋” から追い出すでしょうね」
寛治郎は自虐的に笑ったが、“どんな手を使ってでも” と言った自分の言葉に、すぐに真顔になって慈治を見た。
「大奥様にお任せなさったら如何ですか?」
寛治郎は先祖の遺影の並ぶ欄間の母・乳根女を静かに見上げた。遺影の母が何をか言うわけもない。咎められているように見えるのは寛治郎自身の心が生み出すものだった。
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