第16話 パンドラルーム

 その頃、『里山ベネッセ』では更にキナ臭い揉め事が始まっていた。村岡が千夏に執拗に付いて回り、部屋に来るように強要して騒ぎを起こしていたことで、有紀たちが事務所に通報し、駆け付けた崎山と慈治が千夏の防波堤となってその対応をしていた。村岡は思いどおりにならないことに苛立ち、かなり興奮状態だった。

「私はね、正大党幹事長の川口彰生議員の紹介でここに来ているんだ! 少しは居住者である私の希望も受け入れたらどうなんだ! ここは刑務所ですか!」

「村岡さんの仰ることは分かります。ただ、桜木千夏はまだ介護に不慣れな新人なもので、万が一失礼があってはと。仰る通り、村岡さんは正大党幹事長の川口彰生先生の紹介でもありますので “担当” などという大役に見習い新人の彼女は適さないかと思います」

「私がいいと言ってるんだから、彼女でいいんだよ。失礼があっても私は一向に構わないと言ってるじゃないか!」

そこに金蔵が恭しく現れた。

「村岡明彦様ですね?」

「誰だ、おまえは!」

「こちらのオーナーの執事の入江金蔵と申します」

「ジジイが何の用だ! 今、取り込んでるんだ!」

「村岡様が宜しければ、正大党幹事長の川口彰生先生をお呼びしようかと思って参りました。お呼びして宜しいでしょうか?」

「呼ぶ !? 」

「はい」

「何で!」

「弊社の者が村岡様に大変失礼なことを申し上げたようで、正大党幹事長の川口彰生先生にお越しいただいて、この施設が如何に村岡様に相応しくないかということを村岡様ご自身のお口から篤とご説明頂き、然るべき施設へお移りになる手助けだけでも出来ないかと。私どもスタッフ一同、謝罪と共に施設移動のお口添えを致すようにと、オーナーから指示されて参りました」

 金蔵のまどろっこしい口調にすっかりやられ、村岡の怒りは急速に冷めていった。

「面倒臭い! もういい!」

 村岡は部屋に戻って行った。一同は金蔵の狸ぶりに魅了されて、沈黙していたが、金蔵は飄々と帰って行った。次の瞬間一同は噴き出した。


 村岡が最悪の空気で部屋に戻ると、また田崎が部屋の中で待っていた。

「よっ!」

「 “よ” じゃないよ! あんたとはもう面会はせん! 事務所にもそう言ってあるのに、あんたは何でここに居るんだ!」

「ご機嫌斜めだね。さては千夏ちゃんに嫌われたかな」

「何 !? 」

「知ってるよ。次の獲物が見付かったはいいけど、中々モノに出来ないようだね。来る度に随分とご執心の熱が上がってるようじゃないか…“いたす” まではその猥褻の発作が治まりそうもなさそうだね、お可愛そうに」

「用が無いなら帰ってくれ。金はもう渡さない」

「そう…そしたら、洗いざらい話しちゃうしかないよ」

「好きにすればいい」

「お! 居直ったね! じゃ仕方ないか。金庫の中身、全部出して」

「だから、もうおまえに金は渡さない」

 太腿部に激痛が走った。田崎はドライバーを持っていた。

「痛い? こういうのもあるよ」

 田崎は鞄の中からペンチを出した。

「爪を一枚づつ剥いでやろうかと思って」

「人を呼ぶぞ!」

 村岡はコールスイッチを叩き捲った。

「それ、電源入ってないから繋がらないよ」

 村岡が叫ぼうとした瞬間、首筋にスタンガンをあてられて全身に強い衝撃が走り、声が出なくなり体の自由が利かなくなった。朦朧とする中、結束バンドで椅子に手足が固定されていた。

「さて、一緒に金庫の鍵を開けようよ。数字は?」

「自分で開けるから、これを解いてくれ」

「いいよ、数字を教えてくれれば」

「ダイヤルが不調で開け憎いんだ」

 田崎がダイヤルを回すと、確かに引っ掛かって回し難かった。

「古い金庫だから慣れてないと開け難いんだよ」

「分かった。おまえがやれ。でも下手な真似したら死んじゃうよ」

「どうせ私の金じゃない。強盗に遭ったって言えば済むことだ」

「そうだよな。おまえに命を懸ける義理はないよな」

 金庫が開いた。

「すげえなー…どうやって使おうかな」

 金庫を覗いて興奮している田崎の後頭部に衝撃が走った。気が付くと手錠を掛けられた状態で走る救急車の中に居た。


 正大党幹事長・川口彰生の息の掛かった刑事・笹本怜次が事情聴取のため村岡の部屋を訪れた。中には既に、これまた川口の息の掛かった老医師・北島富弥が治療を終えたところだった。

「如何ですか?」

「全治2週間というところでしょう。では私はこれで」

 そう告げて北島医師は去って行った。

「大変な目に遭いましたね」

「前科者には一般社会だけでなく、同じ前科者すら敵なんですね」

「彼を告訴しますか?」

「いや…関わりたくありませんので…」

「では、こちらで村岡さんに煩わしい思いをさせないように処理します。それで宜しいですね?」

「はい」

「川口先生からのご要望で、入口に警察官を配備します」

「え !? 」

「何か不都合でも?」

「いや…別にそういうわけでは…」

 笹本は、村岡がこの施設の見習い介護士である桜木千夏に執着していることを施設長の慈治の報告で把握していた。これ以上、施設で村岡に問題を起こされると一番困るのは川口である。警察官の配備は川口の要請だった。名目は、田崎が保釈された後の報復の恐れということだったが、真意は村岡の性癖に対する警戒にあった。

「いつまでですか?」

「村岡さんの安全が確認できるまでです。村岡さんもその方が安心でしょ」

「ええ…まあ。でも、私自身が監視されているようで、いい気はしません」

「村岡さんは今までどおり自由に行動してください。警官は二人付けました。一人はあなたの護衛でいつもそばにいますし、もうひとりはあなたの部屋には関係者以外、誰も入れないよう立番をします」

「ずっと私は監視されるんですか?」

「川口先生という強い味方があって羨ましいですよ。一般にはこうは行きませんからね」

 村岡は極めて不本意だった。

「何か支障があれば、直接、川口先生にお話し下さい。それでは私はこれで」

「事情聴取は…」

「告訴なさらないという事ですので、これで終了です」

「…そうですか」

「何か !? 」

「…いや」

 帰る笹本の背に、“犬め” と心の中で毒突くのが精一杯だった。次の瞬間、村岡は息を飲んだ。振り向いた笹本が “犬めだと、こら! 下手に出てりゃ、いい気になりやがって” と、鋭利な目で抉っていた。収監された猥褻犯は記憶を失う程の辱めを受ける。その時の恐怖が蘇った村岡は急いで目を逸らした。愈々身動きが取れなくなった。刑務所ならまだ出所する楽しみがある。この状況は刑務所以下だ。村岡は部屋の中で日増しに狂気が露わになって行った。怒りの矛先は自分をこんな状態に縛り付けた川口彰生に向けられた。村岡は金庫を開け、ベッドの上に札束を積み始めた。

「結局、オレを利用したんだ、あの男は。舐められたもんだな」

 ピラミッド状に積み上がった札束を見て微笑んだ。

「あるところにはあるよな。でも、こうやればただの煤だ」

 と、札束の一端にライターで火を点けた。火は燻りながら、次第に燃え広がって行った。

「結構、煙が出るもんだな」

 窓を開けると、外からの程好い風が札束を吹き撫で、火の回りを促した。

「贅沢なキャンプファイヤーじゃねえか」

 村岡は満面の笑顔で札束の燃えるベッドの周りを踊り出した。


 焦げ臭い異臭を嗅ぎ付けた配備の警官が廊下から声を掛けて来た。

「村岡さん、どうかしましたか? 何か燃やしてますか?」

「大丈夫です。要らない紙を燃やしただけですから」

 施設内の火災警報器が成り出した。廊下に煙が洩れ出して、警察官は異常事態と判断して急いで部屋のドアを開けようとしたが鍵が掛かって開かない。

「村岡さん! ここを開けてください!」

 警察官の再三の要請にも開ける気配はない。村岡にその気は全くなく、中では窓からの風に煽られた炎が勢いを増していた。警察官が体当たりでドアを蹴破った。室内では村岡が狂ったように乱舞していた。

 消防が駆け付ける頃には、紙幣の気配を僅かに残した札束の山がベッドの上で黒ずんで崩れ、散乱していた。


 川口彰生の裏金スキャンダルが大々的に報道された。正大党幹事長・川口彰生が村岡如きを裏金隠しに利用したがための浅ましい失脚の顛末だった。

 逮捕されて施設を去る村岡の目が、奥で介護作業に勤しむ千夏の姿を捉えていた。村岡は今生の別れとばかりに、彼女の全身を舐め回し、失禁しながら連行されて行った。


 村岡が去って一件が落ち着いたのを機に、寛治郎の強い要望で慈治は最上階の真新しい終の棲家となる新居に越してきた。急遽の引っ越しの片付けをしていると、執事の金蔵が寛治郎の使いで迎えに来た。

「旦那様が草薙様のご都合は如何かと言っております」

「荷物は少ないんでぼつぼつ片付きます」

「ご自宅の方はどうなさるおつもりですか、草薙さま?」

「ええ、家内との思い出が…暫くはあのままに…」

 慈治は寛治郎の勧めのままに形ばかりの引っ越しをしたものの、妻亡き今、自宅を引き払ってまでこの部屋を終の棲家にする気にはなれなかった。

「草薙さまは奥様を心の底から愛してらっしゃったんですね」

「…金蔵さん、その “草薙さま” はやめてくださいよ。慈治と呼び捨てにしてください」

「かしこまりました。では、慈治さまということで…」

「だから、その “さま” がねえ…」

「では慈治さんでは?」

「…ぎりぎり、そんなとこでお願いします」

 ふたりで光の差す飛石を渡り、寛治郎の待つ部屋に入ると酒席が設けられていた。

「引っ越し祝いでもしようかと…今日は金蔵も一緒に」

 金蔵は嬉しそうに席に着いた。

「草薙さんのご心中は、私などにも少しだけ分かるかもしれない。私もかつては、いつも隣に居てくれた妻が居なくなった虚しさを味わった。それは私の不徳の致すところが元だが、私より息子の傷が大きいことすら見えなくなっていたのは愚かだった。この世が理不尽に出来ていることぐらい疾うに理解していた筈なのに…やられたよ」

「私も自分の不甲斐なさに押し潰されます。私には、妻に幸せを届けるほどの裁量はありませんでしたから」

「裁量ですか…でも、今、慈治さんを必要としている人たちが沢山居るのも事実です」

「それはありがたいことです…でも、私はもがいているうちに老いました。お役に立てる時間もそう長くはないような気がします」

 金蔵も口を開いた。

「でも慈治さまは生きている。年齢に関係なく、その人の寿命はやって来ます。ご自分で寿命を区切るのはナンセンスじゃないでしょうか?」

 いつになく金蔵は慈治を思い遣った。

「必要としている人間がいる限り、今を生きるしかないと、私は思います」

 慈治の心の危うさを見抜いている金蔵の言葉だった。


 崎山が、ふたりだけで話したい事があると、新居の最上階から降りて来た慈治をエレベーター前で待っていた。慈治は恐らく村岡明彦の情報の件だろうと想像が付いた。職を辞した今、村岡の事は依然ほど気掛かりではなくなっていた。しかし崎山の話に、慈治は村岡明彦抹殺の念が再び込み上げることになった。

 崎山は妹と二人兄妹だった。妹の佳奈美は大卒と同時に大手編集者に就職した。しかし、村岡はそこに臨時雇用で来ていた。就職一年後の忘年会の帰り、後を付けられた佳奈美は、途中の公園で村岡にレイプされた。殆どの被害者が泣き寝入りする中、佳奈美は気丈にも告訴した。裁判の場で犯行の過程を再現させられる耐えがたい屈辱も受けた。SFXが発達している時代に未だ被害者に無神経なことを強いている司法の場は、老害そのものだと涙が出る程腹が立った。しかし、量刑は意に反して極めて軽いもので、佳奈美は法によってまで人間としての自分の価値を貶められた思いに心が張り裂けそうになった。被害者なのに周囲の目には “傷物” と認定されて蔑まれ、二重の苦痛を受けることになった。加害者は更生が何ちゃらと至れり尽くせりの扱いを受けている。その一方で被害者の佳奈美の母は、そんな娘の不幸を受け入れられないまま他界した。父と妻も娘を守れなかった悔恨で自ら命を絶った。法律によって裁かれないものがあると認識した兄の崎山忠正に残されたのは自力救済の道しかなかった。法律の手続によらずに自力で権利を回復することは現行法では勿論禁止されている。しかし、法律の手続きによっても権利は回復することが出来なかったばかりでなく、犯行の証明とやらのために精神的凌辱まで受けたのだ。その上に母も父も失ってしまった。法の庇護で人権を回復したのは加害者だけである。崎山も死ぬことを考えたが、このままでは死にきれなかった。死んで苦痛から逃れるためにはその前に報復以外にないと思った。

 慈治は崎山が背負っていたものがこれ程の苦痛だとは思わなかった。怒りの蘇った慈治は、終の棲家で感傷に耽っている場合ではないと奮立った。やはり、村岡のような人間は法の下で社会的に抹殺しただけでは生温い。世間から全面否定され、蔑みの対象になり、恥晒しの一生を送らせるだけでも、まだ生温いのだ。罪深き者は極限の苦痛を経験させた上で、根本からその存在を抹消しなければならないと思い直した。

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