第20話 マフラーと肉まん(最終話)

 施設は夜を迎えたが、屋上階の慈治の部屋に灯りは灯らなかった。墓参りの後、自宅に帰って妻と二人で過ごすのかもしれないと、寛治郎は彼の帰りを待つのをあきらめて、早めの床に就いた。今夜は崎山が夜勤の不寝番だった。


 崎山は慈治の家を何度目かに訪問した時に聞いたことを思い出していた。

「草薙さんにとって『里山ベネッセ』がゴールなんですよね」

「前はそうだった。でも妻が他界した今は、あそこはゴールじゃない」

「じゃ、今はただの職場ですか?」

「いや、戦場です。あの『里山ベネッセ』に相応しくない存在は、世のため人のため抹消する場でもあるのです」

 “抹消” とは穏やかではなかったが、崎山自身、死を覚悟せずにはいられなかった辛い目に遭っていた。慈治の言わんとすることは十分理解出来た。両親と妹の仇は取った。それも慈治の存在があっての事だった。慈治には法を超えた力がある。昔は絵空事の時代劇の勧善懲悪を観て細やかな満足を得たものだが、いざ同じようなことが自分の身に降り掛かっても、正義の味方など現れない。頼れるはずの法ですら弱者には残酷な牙を剥く。まるで加害者擁護のために法があるのではないかと世間に身構えるようになった。慈治はそれを突き破って生きて来た。真似ようと思ったところで慈治のような裁量が裁量を呼ぶ生き方は出来そうもない。不思議な人だ。何をするでもなくそこにいるだけなのに、慈治の周りから悪人が消えて行く。去るのではなく抹消されて行く。『里山ベネッセ』には理不尽なトラブルがなくなった。やはり、慈治のお陰としか思えない。

 慈治不在の施設はどこか寂しい。“シャインルーム” にあの三人の姿もない。慈治の顔が見えなくても、施設内に居るというだけで『里山ベネッセ』には活気が満ちる。不在で慈治の顔が見えないのとではまるで違う。明日には戻るだろうが、それまで施設が沈んだ時間が長く思えそうだ。

 壁掛けの秒針の音がこんなに耳触りに聞こえたことはなかった。時限爆弾が爆発を待っていそうだ。崎山は、妻が作ってくれた夜食の弁当を出して思わず見入った。そこにかつて嘱託として入って来た慈治の姿が浮かんだ。昼休み、皆が店屋物を取って食べる中、慈治だけが妻の手弁当だった。体が不自由なはずなのに、夫のために手弁当を作る甲斐甲斐しさは、他人事とは言えども泣けてくる。崎山はその事を帰って妻に話すと、崎山の妻も夜勤の時だけ手弁当を作ってくれるようになった。嬉しかった。初めて夫婦の実感が湧いた。慈治は何もしなくても周りに幸せを齎している感じがする人だ。

 夜勤の小泉京司が困り果てた顔で事務所に入って来た。

「どうした?」

「田中信子さんの徘徊が酷くなりました。弄便(ろうべん)も始まりました」

「鶴子さんに頼んで…と言ってもこの時間は居ないか」

「睡眠導入剤ならあるんですが飲んでくれません」

 崎山は決心したように夜食の愛妻弁当を仕舞った。

「私も行こう!」

「お願いします!」


 京司の後に付いて信子の部屋に入ると、刺激的な異臭が部屋中に充満していた。信子は便を食べようとしていた。

「田中さん、それはよしましょう」

「私に構わないでください!」

 信子は攻撃的に京司を睨んだ。崎山は京司を制した。

「田中さん、ボクにも手伝わせてよ」

 信子は崎山に疑いの目を向けた。

「崎山ですよ、介護士の…いつも手伝わしてもらってるでしょ」

 信子は崎山への警戒心は解いたが、京司には悪態を突いた。

「あんたは出て行け!」

「田中さん、彼も手伝いたいんだよ」

「だめだ!」

「じゃ、見学してるだけならいいでしょ?」

 信子は返事をしなかったが、崎山の言う事を受け入れた。

「じゃ、始めようね」

 崎山は信子の便だらけの手に取り敢えず軍手をはめた。外したおむつを受け取り、信子をシャワー室に連れて行った。その間に京司は部屋の汚れを片付け、消毒と喚起をした。結局、田中信子は特別室に移すことになった。『里山ベネッセ』に於ける特別室とは2名の居住者と24時間常駐の介護士体制になっていた。人は歩行、排便、摂食の順に衰えて死に至るとされる。特別室に入ると長くても2年でその生涯を遂げる居住者が殆どだった。『里山ベネッセ』ではこの時点で家族と居住者の死後の話し合いをして方針を決めていた。

 長い夜が明け、『里山ベネッセ』に朝日が差した。崎山は日勤との交替業務を済ませ、明日には戻って来た慈治の顔を見て安心出来ると施設を出た。


 翌日、崎山が出勤すると “シャインルーム” の有紀たちに声を掛けられた。

「ねえ崎山さん、慈治さんは今日はお休み?」

「あれ? じゃ、上に居るのかな? 連絡して見ます」

 崎山は繁治の携帯に電話を入れたが、電源が入っていないようだった。仕方なく最上階に出向くと、丁度出て来た寛治郎に会った。

「おお、崎山くんか、草薙さんは下かね。居たら呼んでくれ」

「私も捜しているんですが、一昨日お墓参りに行ったきりのようなんですよ」

「じゃ、まだ自宅かな?」

「行ってみます!」

「そうしてくれるか?」

 日勤を終えると、早速、崎山は慈治の家を訪れた。まだ明るいというのに、もう玄関の上の門燈が点いていた。昨夜疲れて帰って、朝、消すのを忘れたのかもしれないと思った。玄関のチャイムを押したが、何度押しても中からは反応がなかった。ドアには鍵が掛かっている。門燈が点きっ放しだから墓参りからは帰っているはずだ。それとも、墓参りに出掛ける前に消し忘れたのだろうか…消し忘れとして、墓参りの帰りに温泉にでも浸かりに足を延ばしたのだろうか…確か慈治の妻の墓地は自宅近くの寺だった。それなのに一旦帰らずに温泉などに足を延ばすだろうか…

「草薙さーん!」

 出たくないのかもしれない。こういう時はあまりしつこくするのは気が引ける。崎山は仕方なく重い足どりで施設に戻った。すぐにそのことを寛治郎に伝えたが電話は無言で切れた。寛治郎は崎山の引け腰の対応に不快感を持ったらしい。何とか早く慈治と連絡を取らなければならないと思つつ、崎山は帰宅した。


 翌日、出勤後、崎山は田中信子の家族と会って特別室に移動の件を伝えていた。

「通常の介護の域を越えましたので、24時間体制の特別室での管理が必要となりますが…」

 家族の了承を済ませると、崎山は再び慈治の家を訪れた。

「草薙さん! 崎山です! 昨日も来たんですが、いらっしゃらなかったみたいなので!」

 今日も返事がなかった。やはり、まだ帰っていないのだろうか…仕方なくあきらめて帰ろうとしたが、俄かにまだ点けっ放しの門燈が気になった。やはりおかしい。墓参りから帰った夜に強盗に入られたのかもしれない。玄関に鍵が掛かっているのは…そう、犯人は裏から入ろうとしたからかもしれない。崎山は裏を覗くことにした。案の定、縁側の引き戸が開いていた。その前の敷居には座布団と飲み掛けのお茶碗がある。荒されたような形跡はないので、一先ずホッとした。やはり居るのだろうか…トイレにでも行ってるのかもしれない。

「草薙さん! 崎山です!」

 返事がない。そうだ、近くに出掛けているのかもしれない…と玄関前に戻って暫く待った。待てよ…出掛けたんなら、門燈が点きっ放しの事に気付いて消してから出掛けるはずだ…と、崎山はまた裏庭に戻って行った。

「…失礼します!」

 少し中を覗くと、奥には仏壇に灯るLED蝋燭が見えた。その中央に大きな肉まんが供えてあるのも見えた。

「草薙さーん!」

 どことなくではあるが、人の居る気配がない。縁側から中に身を乗り出して引き戸の奥を覗くと、仏壇前の座椅子に慈治が寄り掛かって寝ているのが見えた。その前のテーブルには仏壇に供えたのと同じ大きな肉まんがあった。やはり、いらっしゃって食事をしようとしたものの疲れ果てて眠ってしまったんだと、ホッと胸を撫で下ろした。

「草薙さん、お休みのところすみません! 崎山です!」

 そんなに寒い時期でもないのに、慈治は首にマフラーを巻いて寝入っていた。一向に起きる気配がないので、失礼とは思ったが、『里山ベネッセ』の緊急事態とあって、崎山は仕方なく引き戸の開いてる縁側から部屋に上がって行った。

「草薙さん! すみません、勝手に上がり込んで。施設が大変なんです!」

 そう言いながら起こそうと肩に手を掛けるなり、慈治は座椅子から力なくそのまま倒れ込んで来た。崎山は息を飲んだ。

「草薙さん?」

 よく見ると、薄らと目を開いたまま、息をしていないように見えた。

「草薙さん! 草薙さん!」

 崎山は急いで救急車を呼んだ。来るまでの時間が実に長く思えた。何かしなければと、玄関の門灯を消したり、仏壇のLED蝋燭のOFFボタンを探したりしていると、遠くから近付いて来る救急車のサイレンの音が聞こえた。あの音をこれほど欲したことはなかった。救急隊員が駆け付けるや、すぐに心マが施され、AEDの甲斐あって弱いながら僅かに呼吸機能が戻った。すぐに救急車で搬送され、ICUに運び込まれた。その場で待ちたいが、コロナ過の病院では許されなかった。

 何時間経ったのだろう…施設の電話が鳴った。受話器を持ったまま、崎山は頭が真っ白になった。最初の留守だった時に裏に回ってさえいれば…崎山は自分を責めてその場に頽れた。


 早苗の命日の日、慈治は墓参りから帰る途中、思い出の大きな肉まんを買った。仏壇に供え、早苗にプレゼントされた思い出のマフラーを取り出し、首に巻いて座椅子に座った。初めて早苗と待ち合わせた日、それほど寒くもないのにそのマフラーをして会いに行ったことを思い出していた。

「…あの時は、恥ずかしかったけど」

 笑みをこぼして肉まんに手を伸ばすと、スーッと遠ざかって行った。それを掴むには眠過ぎる。慈治はそのまま椅子に凭れ掛った。


 それから三年経ったある日、次盛と美春は懐かしげに『里山ベネッセ』の前に立った。施設はあの頃と変わらず瀟洒な構えで二人を見下ろしていた。次盛は建物を見上げて呟いた。

「ただいま…父さん…草薙さん」

 そして、美春とふたりで施設に入って行った。慈治はもういない。今頃は妻のいる終の棲家でマフラーを首に巻いて、大きな肉まんに齧り付いていることだろう。


〈  完  〉

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終の介護屋敷 伊東へいざん @Heizan

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