第十三夜 胃散の日に
当該随筆『おでんの書』シリーズは二〇二二年の一月に起筆し、おでんのシーズンである冬季に細々と書き続けているものだけれど、今年は中々筆を執るに至らなかった。
それというのも、諸賢ご案内のとおり、今年は近年の例にも増して、秋が深まっても夏のように暑い日が続き、おでんに適する空気の冷え具合が一向に近付いて来てくれなかったからである。例年であれば、十月初め頃から僕にとって待望のおでんシーズンに突入ということになるのだが、今年は残念ながらそういう訳にはいかなかった。
気象庁の記録を見てみると、今年、東京では十月も下旬に入ろうとする十九日の最高気温が三十度を上回り、最も遅い真夏日を記録している。単なる「夏日」ではなく、「真夏日」である。三十度を超える気温の中、おでんをふうふうやって熱燗で一杯なんぞ、昭和の時代に漫画などでしばしば目にした我慢大会そのものではないか。
いかん、いかん。
おでん好きのみならず、暑がり、汗かきの面でも人後に落ちぬ僕として、また、還暦を前にした分別ある紳士として、かかるばかばかしい苦行には到底耐えうるものではない。
そういう訳で、今年の吾が家のおでんシーズンはようやく十二月も中旬に至ってスタートということに相成った。
ちなみに『おでんの書』の過去の記事を見返してみると、一昨年の二〇二二年は『第六夜 おでん始め』と題するものを至極穏当に十月九日に投稿できているが、昨年の二〇二三年はそれよりも一月遅れの十一月十二日に『第十夜 酉のおでん』を投稿し、「立冬を過ぎ、一の酉に至って--(中略)--体感的にも正しくおでんの季節の到来」などと記している。
さらに今年は、昨年よりももう一ヶ月遅らせて、一の酉ならず三の酉をもがとっくに過ぎ去ってしまうまで待たねばならなかった。このわずか二年もの間で、おでんシーズンの到来が、何と二ヶ月も後ろ倒しになってしまったのである。
大好きなおでんの季節をそれだけ短縮せねばならなかったという厳然たる事実であり、実に残念で由々しい事態の出来と言わざるをえない。過去の吾が投稿を顧みることで、図らずも地球温暖化の勢いというものが、まことに凄まじくも怖ろしい状況にあることを確認した気がする。
ただ一方で、こうして見ると吾が『おでんの書』は単なる食に関する呑気な随想にとどまらず、秋季から冬季における季節の体感を年ごとに克明に記録し、気候変動の危機を世界に啓発する教養書としても、実に有意の作品であることを発見できた。これは、吾ながら何とも誇らしいものではある。
ともあれ、今年、二〇二四年における吾が家のおでん始めの儀は、十二月十三日の金曜日に決行する次第となった。十三日の金曜日と言えば、西欧諸国では不吉な日として、半世紀近く前には映画にもなり、シリーズ化されて何作も発表されたりもしたが、八百万の神々のご加護がある本朝に、そんないかがわしい迷信は没交渉と言えよう。また、そもそも僕は唯物論者であるので、もとより躊躇する謂れはない。
ところで、十二月十三日は、「胃散の日」ということになっている。「一二一三」の数字が「イニイサン(胃に胃散)」と読めるということで、さる製薬会社が十年ほど前に制定したらしい。何とも脱力するような語呂合わせであるが、慥かにおでんともなれば食べすぎ飲みすぎに陥りやすい僕としては、十分に戒めるべきであるのかも知れない。
いずれにせよ、ようやくおでん初日を迎えることが出来たのは、何ともめでたくありがたい。せいぜい節制をして体調を損ねることなく、ただでさえ短いおでんシーズンを有意義に全すべく精進する所存である。
<了>
おでんの書 すらかき飄乎 @Surakaki_Hyoko
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