おでんの書
すらかき飄乎
第一夜 最期の晩餐
「最後の晩餐」と言えば、言わずもがな、キリストが処刑前夜に弟子たちと摂った食事のことであり、ダヴィンチが描いた名画などでも有名だが、僕が持ち出したのはその話ではない。
もう何年も前になるが、ある雑誌に、確か「最後の晩餐」と題したグラビアの連載があったと記憶する。
生死の境を越えてから口にするのが末期の水であれば、その境をまたぐ前に口にするのが「最期の晩餐」。考えてみれば、死にかけた病人であれば、どんなご馳走も喉を通るまいから、最期に食するメニューとしては
もちろん、件の連載がそんな陰陰滅滅たるものであった筈は毛頭なく、死ぬ前には是非ともこれを堪能してあの世の行きたいという程度のあっけらかんとした、要はその人にとっての好物や特別の食べ物を尋ねるという趣旨だった。
それが何の雑誌であったかについては最早僕の記憶の
ただ、いずれにしても、毎回一人の著名人がゲストとなり、「最後の晩餐」たるべき料理を前に、それに関する
それでは翻って、僕にとっての「最後の晩餐」を今問われるとするならば、一体何と答えよう。まあ、そう言ったところで、このエッセイの表題が「おでんの書」であるからには、諸賢とうにお察し通り。
そのおでんなのだが、そもそもかくも地味な屋台料理や家庭料理の範疇に属するものをわざわざ持ち出さずとも、世の中には旨いご馳走が沢山ある。僕にしたところで、おでんこそがこの世の中で第一等に旨いと心底思っているのかと人に聞かれれば、首を捻るに
それだけは断言できる。
一つ言えることは、子供の頃からおでんが好物だったことに一因があろう。それは間違いない。好き嫌いに理屈などは無いので、それ以上の所は
いずれにせよ、僕の底辺には少時からのおでん好きというものが存在する。そして、そこに加わったのが酒という魔物である。
長ずるに及んで、僕も人並みに酒を
こうなってはもういけない。
そして、人間というものには向上心がある。
美妓おでん孃と差向いで、差しつ差されつの至福の時間を、更に佳きものにしたい、一層満喫したいという欲求がここに生まれる。おでんを探求せんとする情熱と努力は、正に
また、おでんは地域によってスタイルが随分変化する食べ物でもある。そこにも
僕は、九州出身なので、僕が考えるおでんの必須条件には、何と言っても子供の頃に郷里で食べたおでんの味がベースに存在する。
学生時代――もう三十年以上前になるが、僕は九州から関東に出てきた。そして、初めて関東風のおでんを口にしたわけだが、当時の関東のおでんと言うものは、僕が子供の頃に九州で慣れ親しんでいた料理とは似ているようであっても、かなり違っている所も見られた。初めの頃はその相違が中々受け入れられず、関東のおでんはおでんに
このことも、そこに湧いては昇華される複雑な感情と
さて、このシリーズにおいては、いささか
少しでも多くの諸賢にお付き合い戴く事を
<了>
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