第二夜 天国と地獄

 前回の表題が「最後の晩餐」、そして今回が「天国と地獄」。

 いささか宗教めいた響きをお感じになる向きもあるやも知れぬ――とここまで書いて、否々いやいや『おでんの書』なるふざけた看板が出ているので、そんな筈はないと思い返した。


 左様、ここはおでんについて、手前勝手な御託を述べる場である。今日はまず、吾が家の事情について、少々触れておこう。

 吾が家は二人家族である。食事の用意は、何か特別なことがない限り専ら家人が行っている。僕は外の仕事、家人は家の仕事。そのような分担となっている訳である。男女共同参画の時代に――などと眉をひそめる方もいらっしゃるかも知れぬが、吾が家ではこの制度で四半世紀以上落ち着いている。ご忠告は謝して受け流す事とする。


 さて、前回から申しているとおり、僕は相当に食い意地が張っている。食事に対する嗜好も中々に恣意的で頑迷固陋な所がある。非常に申し訳ない事だが、家人はその僕の煩悩に二十有余年振り回されて来た。

 とりわけ、おでんに対する執着にはほとほと困惑した事と思う。実に面目ない次第である。だからと言って、おでんに対する煩悩を金輪際断ち切るかと言われると、到底それは不可能である。まあ、そこら辺の話題は、これからシリーズが進むにつれて追い追い出てくるだろう。今日は一つ、おでんにまつわる天国と地獄について語ってみたい。


 そもそも、おでんを作るには、様々な具材、たね取揃とりそろえる必要がある。僕が、是非ともおでんに必要だと考えるのは、牛筋、厚揚、竹輪、大根、卵、蒟蒻、昆布。これらの一つでも欠けていれば、それは最早おでんとは言わぬ。それから、里芋又はじゃが芋もあった方が良いし、魚すじもしかり。はんぺんや竹輪麩なども、僕が居住する関東では定番とされる。その他、九州では天ぷらと呼び他の地域では薩摩揚と称される魚のすり身の揚物も、地域を問わず極めてポピュラーな種である。

 このようなものを一々揃えるとなると相当な量になってしまうのは必定。鍋一つでは到底足りない。大鍋を用意したところで、それにも入りきれず、更に中鍋を一つ加勢に呼ばなくてはならない。大家族であればまだしも、知命を越えてそろそろ食が細くなりつつある二人組には、とても手に負える量ではない。

 スーパーに行けば、おでんセットなどと称して、様々なおでん種を一つのパックにしてコンパクトにまとめたものが売られている。それを買えばさしてとんでもない量にはなるまいと仰言おっしゃる向きもあろう。しかるに、そんなお仕着せで満足しているようでは、おでんの素人しろうとと言わざるを得ない。

 おでんの求道者としては、出汁も具材も慎重に吟味して、万端調えるべきであり、その覚悟がないのであれば、おでん好きを名乗る資格はない。一刻も早くその看板を下ろして廃業すべきである――と僕は考えている……ような気がする。

 いやはや随分と竜頭蛇尾になってしまったが、いずれにせよ、吾が家でおでんを作るときは、毎回大変な騒動になる事は事実である。

 まずは、買い物メモの作成から。

 鉛筆を持つ家人の横で、あれこれと僕の注文が始まる。厚揚は今はやりのもっちりソフトタイプなんぞは厳禁、昔ながらのしっかりしたものを選ぶべしとか、粉が原料のつるつるした蒟蒻は不可、ちゃんと芋から拵えてざらりとした風合いを具備するものでなければならぬとか。

 材料をそろえて、煮込む段階においても、味付やら切方やら煮る順番やら、調理する家人の横で、手伝いもせずに、あれこれと注文を出す。正に、手は出さずに口だけ出すという、世間一般における嫌われ者の典型である。吾ながら、後から振返れば実にお恥ずかしくも面目ない次第であるが、その場にあっては己の左様な醜悪さに気付く余裕などとてもなく、真剣そのもので目が血走っている。

 そうした紆余曲折を経て、たった二人きりの家庭に、大鍋一つと中鍋一つにぎっしりと詰まったおでんが出来上がるのである。

 食べる前から家人の顔がいささかげっそりしているように見えるのは気のせいだろうか。


 かくて、これから一週間ばかりは、毎日おでんが食卓に登場する事となる。おでん三昧である。おでん天国である。

 僕にはいささか偏執的な所があり、好物であれば、それが毎日お膳に乗っていても、苦にはならずむしろ喜ばしい。諸賢も、毎日白いおまんまを口になさって飽きたとおおせになる方は、おそらくほとんどいらっしゃるまい。それと同断である。否々いやいやそれとこれとは少しばかり話が違うと仰言おっしゃるかも知れぬが、僕に言わせて貰えば断断乎として同断である。

 おでん天国と称するには別の所以もある。すなわち、通常、僕は金曜以外の平日は休肝日とするよう努力している。まあ、その努力がついえてついつい酒杯に手を伸ばしてしまう例も皆無ではないが、比較的真面目にこの決まりを守っている。

 しかし、おでんとくれば話が違う。

 おでん天国の期間は、平日であっても些少さしょう御酒ごしゅであれば聞召きこしめされることを自らにゆるしている。些少がそのうちほどほどになり、果てはいささかお過ごしになってはおりますまいかとなっても、おでんに免じて不問に付されるならいとなっている。まあ、自分で勝手にそう言い訳をしているに過ぎないのだが、それでいのである。左様、その意味からも天国そのもの。


 しかしながら、家人にとってはおでん地獄であるらしい。さもありなん。

 右に記したように、拵えるだけでも大変な苦労である上、家人の嗜好からすれば大して好きでもないおでんに当面の間毎日付き合わされる訳である。

 しかも、多種多様な具材がそれぞれが出来るだけ均等に減って行くように、僕がどんな種を選んで食べているかを勘案しながら、家人自らの食い扶持を計算して調整する必要があるらしい。何もそこまでしなくてもよかろうと思うのだが、よくよく考えてみると家人の細心にも一理ある。

 例えば、僕が興に乗って竹輪ばかりを余計に食べているとしよう。その状況に、家人が気付かずに家人も竹輪を食べたりすると、竹輪のみが他のたねに比べて早く減って行ってしまう。僕が竹輪が食べたいと注文した時に既に竹輪が品切れになっていたりすると、おそらく僕は不機嫌な表情をするであろう。いや、僕としては、そんなつらおくびにも出さぬつもりでいるが、家人にすれば明らかに落胆している様子が手に取るように分かるという。吾ながら、まだまだ人生修養が足りぬという事だろうか。

 また、それだけならばまだしも、よくよく考えてみれば次のような展開も想像できるであろう。すなわち、竹輪だけが品切れになった場合、僕は家人に竹輪を新たに買って来て追加するように頼むだろう。そうすると、せっかく順調に減っていたおでんがまたぞろ増えてしまう。おでん地獄の終わりが先延ばしになる訳である。こんなことを繰返していると、おでん地獄は無間地獄ならぬ地獄になってしまう。家人にしてみれば、誠に怖ろしかろう。


 まあ、実際は僕にした所で、おでん天国も四日目辺りになると、出汁がどんみり煮詰まってくどくなり、種にもしおからさが染み渡ってしまうので、口先では「天国」とうそぶきながらも、頭の中には「地獄」の文字が浮かんでいたりする。そろそろ天国からうつつの人間界に戻っても良かろうかと僕自身思い始めるのである。

 したがって、地獄などが現出する気遣いは無いのであるが、家人のみならずおでん好きの僕までもが、倦厭けんえんしつつ鍋のものを消費する瞬間が短期間ではあれ出来しゅったいするというのは、実に不経済であり保食うけもちの神様に対しても不遜であろうと甚だ遺憾に思う次第である。



                         <了>



 

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