第三夜 すぢを通す

 おでんのたねで何が一番好きか?

 悩ましい所である。蘿蔔だいこんなどを選ぶのが、恰好が良いように思われる。老練なる大人の嗜好と言った印象がある。世の中の酸いも甘いも噛み分けるような鷹揚さ、或いは落ち着いた品格が醸し出される感じがする。

 また実際の所でも、飴色に色付き柔らかくなった蘿蔔だいこんは、それはそれで非常に旨いものではある。

 しかし、僕の心の奥底まで下りて行ってみると、それが僕にとっての第一等だとはちょっと言われない。自分に嘘を吐いてはいけない。


 僕にとって、やはり第一等は「すぢ」であろう。牛筋のことである。


 僕の郷里では、おでんと言えば必ずすぢが入っている。これが入っていないと、僕にとってのおでんらしい味わいが出てこない。

 そして、郷里では「牛筋」などとは言わず「すぢ」という。まあ、現代仮名遣い的には「すじ」なのだろうが、僕の気分としては「すぢ」の表記の方が似つかわしい。

 おでんにすぢを入れるのは、郷里の九州だけでなく、中国地方から関西においても、定番であるように思われる。

 しかし、関東はと言えば、僕の学生時代――もう三十年以上も昔だが――、そうではなかった。


 当時は、コンビニの店舗が急速に増加しつつあった時代で、コンビニおでんも段々と姿を見せ始めていたように記憶する。下宿の近くのコンビニでレジ脇におでん鍋があるのを目ざとく見つけた僕は歓喜した。そして、そこの品書きにある「すじ」を真っ先に選んで注文した。ところが、店の人が発泡スチロールの容器に入れたのは、もとは円筒形だったものを輪切りにしたような、薄いグレーの色合いのもので、僕の知っているすぢとは似ても似つかないものだった。

 何だこれは?――不審に思ったが、まあとにかく食べてみることにした。他の種もいくつか注文し、汁をこぼさないよう注意しながら、急ぎ足で帰宅した。

 容器のふたを開け、早速、薄グレーのぐにぐにしたものを摘み出し、かぶりつく。

 これは一体?――僕の概念にある「すじ」の名に全くたがう魚系の味わい。大して旨くもない。まあ、食べられない事は無いが、あの「すぢ」とは比べようもない。実に愕然とした。

 後からあれこれ色々と調べて――webなどはおろか、携帯電話ですら一般には普及していなかった時代である――苦労してようやく判明したのは、それは、鮫のすり身や軟骨で拵えた魚のすじであり、関東では定番のおでん種ということだった。

 僕が「おでん」と呼んでいる食べ物に絶対に無くてはならないあのすぢが、関東のおでんには入っていないという事実。その事実には、うすうす気付いてはいたものの、改めてはっきりと目の前に突き付けられた気がした。帰省でもしないと、もはやあの「おでん」は食べられないのか――そう思うと、心底がっかりした。


 あれから三十余年。最近は良くも悪くも地域特性が希薄になってきている時代である。

 この頃では関東のおでんにも牛筋が入っていることが多くなった。

 しかし、定かではないけれども、老舗である伊勢佐木町の野毛おでんには、牛筋は見当たらなかったように記憶するし、行ったことはないが新橋や日本橋や銀座など、あちこちにある「お多幸」を名乗る店々ではどうであろうか? 以前、どこだかのお多幸のレトルトを買ったことがあるが、その種の中には確かに牛筋は無かった。

 関東風の黒々とした出汁のおでん。あれはあれで一つの文化であろう。変に上方の方面に目配せをして、他所者の牛筋などを受け付けないで欲しいとも思う。


 さて、話を戻して、僕にとってすぢがなぜおでん種の第一等になったかを辿ってみよう。鑑みると、少時の経験に行きつくのは間違いない。

 僕が子供の頃は、田舎でもあったし、時代などもあったと思うが、あまり外食をするということは無かった。近所に食堂などもあったが、御客などがある場合にそこから仕出しを取ったりすることはあっても、食堂に入ってそこで何かを食べるということは、まず無かった。どこかに遠出をしたような場合は別として。

 ただ、ラーメン屋だけは例外的に年に一度か二度、父に連れて行ってもらっていたように思う。父は無類のラーメン好きであった。またラーメン屋の味は家庭では到底出せないものでもあった。

 そのラーメン屋はもう随分と昔に閉店しており、今となっては残っていない。何でも、いかにも昭和のラーメン屋然とした店であった。そして、地元にラーメン屋は、その店の他には無かった。

 近くを通ると、いつも豚骨を煮込む強い匂いがした。僕はおいしそうな匂いだと思っていたが、悪臭と評する人も少なからずいたと記憶する。店はさほど汚いという訳でもなかったが、年季が入っており小綺麗な雰囲気では決してなかった。

 そこではカウンターの所にいつでもおでんの鍋が湯気を立てていた。田舎のラーメン屋らしいスタイルである。

 僕はラーメンもさることながら、その店のおでんを食べるのが楽しみだった。そしてその店で食べるすぢは、家のおでんに入っているすぢとは明らかに別物であることにも気が付いていた。ラーメン屋でなければ食べられない味だった。

 小学校高学年か中学頃、有名なあるラーメン・チェーンの店が、僕の地元にも新たにオープンした。ここにもおでんの鍋があったが、その店のすぢは家で食べるすぢと同種であり、僕は何だかがっかりしたことを憶えている。


 長ずるに及んで、子供の僕が感じていたこの違いについては肉の部位の相違であることを識った。

 一口に牛筋と言っても三種類ほどが存在し、それぞれ味や食感(テクスチャ)が異なっている。このことを、はっきりと認識なさっている人はどれほどいらっしゃるだろうか。


 まず、一つ目がスーパーなどで「牛すじ」という表示で一般的に売られている、赤い色を呈したもの。これは、牛の色々な部位の肉に含まれる腱とその周辺の部分が切落されたものであり、多くの人もおなじみであろう。赤身が多いので、いかにも肉らしいしっかりとした旨味がある。

 二つ目はアキレスと呼ばれる脚のアキレス腱の部分。見た目は白っぽく、細長い円筒形のままであったり、それをぶつ切りにしたものであったり。生のままスーパーなどの店頭に並ぶことは少なく、精肉店でもケースの中にある事などはまずない。串に刺し、ボイルした加工状態で精肉或いはおでん種のコーナーに並んでいることはあるが、そのようなものは大抵生産国が海外となっている。

 この部位は、肉そのものにはそれほど味がない。ゼラチン質であり、ちょっと煮ただけでは非常に硬く歯が立たないが、煮込むほどに柔らかくなり、最終的には溶けて無くなる。とろとろになった段階のものは、いい塩梅に出汁を吸って実に滋味が感じられる。或いは、やや煮込みが浅く、こりこりした歯ごたえが少し残った段階のものも、それはそれで楽しみがある。

 そして三番目はメンブレン。食べ物を指し示す名前のようには見えない。綴りはmembrane、膜を意味する英語であり、語感からも何やら解剖学的なにおいがする。板状をした白い肉で、牛の横隔膜である。

 これも生の状態ではなかなか目にすることがないが、たまに「牛すじ」と表示されたパックの中に、一番目の赤身の肉に混じって入っていることがある。或いは、アキレスのように海外でおでん種用に加工された姿で陳列されていることもある。

 この肉もアキレス同様煮込むほどに柔らかくなるが、食感に弾力が或る程度残っている段階の方が、僕には好みである。独特の味わいがあって旨いものだが、その風味を不快な癖と受取る人もあるかも知れない。


 僕が子供の頃、昔ながらのラーメン屋で食べたすぢは、メンブレンと赤身が中心の串であった。一方、家のおでんや、ラーメン・チェーンのおでんに入っていたのはアキレスであった。


 吾が家でおでんを炊く時には、この三種を全て網羅しておきたいのだが、右に述べた通りアキレスやメンブレンを生で手に入れるのが難しいし、ボイル加工されたものは、どうも使いたくない。

 ただ、幸いなことにアキレスについては、近所のショッピングセンターに行けば精肉売場で生のまま売られていることがたまにあり、そのようなときにまとめ買いをして冷凍庫にストックしたりしている。 


 すぢの独特の風味は、おでんの出汁の香りや味わいを大きく決定づける。

 すぢの入っていないおでんというものは、僕が子供の頃から慣れ親しんできた根本要素を決定的に欠いていると言っても過言ではなかろう。

 何となれば、おでんのみならず、出汁というものは料理において極めて重要な地位を占めているからである。


 僕にとっておでんの出汁とは、冷えるとゼリーのように固まるものという認識である。それは既述した通り、すぢに豊富に含まれるゼラチン質に由来する。

 雪が降った冬休みのある朝、前日のおでんの鍋を温かいストーブの上に乗せて、しっかりと固まった出汁がじわじわ熱で溶けていく様子を、わくわくしながら眺めている――そのような光景が、子供の頃の楽しかった記憶として、僕の頭の中には染付いている。



                         <了>



 


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