第四夜 色白の方々

 子供の頃に読んだ漫画のせりふ。


「どれどれ、こぶにはんぺん、ちくわぶか」


 何の漫画だったのかは今となっては忘れている。赤塚不二夫のものだったような気もするが、それはおでんを持ったキャラクター、チビ太のイメージに惹かれているだけかも知れない。

 いずれにせよ、その漫画の作者はもとより、内容も絵柄もすっかり忘却の彼方にあるのに、この台詞だけがありありと記憶に残っている。


 子供の頃からおでん好きの僕だが、はんぺんやちくわぶは成人前には口にした事が無かった。進学のために関東に出て来るまでその味を知らなかったのである。

 子供の頃、郷里の九州では、これら関東では定番とされる種がおでんに入る事は無かった。それどころか、現在はどうかは知らないが、はんぺんやちくわぶが地元の店頭に並んでいる所など見た記憶が無い。恐らく、今でも九州のおでんにこれらの食材が入る事はほとんど無いのではなかろうか。


「どれどれ、こぶにはんぺん、ちくわぶか」

 漫画で見たこのせりふをいつまでも覚えていたのは、はんぺんやちくわぶといった未知の食べ物に対する好奇心がなさしめたものかも知れない。これらの言葉をテレビや漫画や本などのメディアで耳にしたり、目にしたりすることはあっても、前述の通り高校を出るまでは実物を知らなかった。

 子供の頃の僕は、はんぺんについて、九州で言う天麩羅――それ以外の地域における薩摩揚、つまり魚のすり身を油で揚げたもの――それも何となく角天のようなものではないかと思っていた。一方、ちくわぶについては、竹輪の事をこういうふうに呼んだりする場合もあるのだろう位に、初めの頃は考えていた。

 長ずるに従って、それら当初の僕の認識が誤っていた事に気付くと共に、はんぺんやちくわぶといったものは一体どんな味をしているのだろうか、食べてみたいと思うようになった。


 初めてはんぺんを口にしたのは、コンビニのおでんだったように記憶する。その他のおでん種は、一様に鍋の中で出汁に沈んでいるのに対し、はんぺんのみは奇態にぷかぷかと出汁の上に浮いている。その典雅な異彩に、ますます興味をそそられた。

 期待はいやがうえにも高まる。

 まずは一口。

 歯応えはほとんど無い。咀嚼によって、ふわふわがどんどん潰れて行く。それと共に、大きな期待も急速に潰れてしまった。

 味わいにしても、インパクトに欠ける淡白さ。かくも竜頭蛇尾な展開は却ってネガティヴな第一印象となって僕の胸中に刻み付けられた。これだったら、九州で親しんだ角天などの方が余程旨い。


 さて、次はちくわぶである。何でも屋台か居酒屋で口にしたのが初めてだったように思う。皿に盛られたものを一目見て厭な予感がした。「竹輪麩」という名を持ちつつ、竹輪とも麩とも似つかぬ風情。

 芥子を塗りたくって齧付かぶりついてみたが、はんぺんに輪を掛けた淡白さ。歯触り舌触りはむしろ重たい。芥子がつんと鼻に抜けて涙が出る。

 味と言ってもその借り物の辛味のみ。本体はただ饂飩うどん粉をこねて茹でただけという代物。ねとねとした鈍重さに加え、何だか非常に粉っぽい感じがした。

 「なんじゃこりゃ」と声には出さぬまでも、肚の中では松田優作のジーパンが叫んでいた。こんなもので金をとってはいかんだろう――僕は赤い竜の目をして店の人を睨んだかも知れない。


 このように、はんぺんやちくわぶと不幸な出会いを果たした僕は、その後これらのおでん種を徹底して避けに避けた。それは、敬して遠ざけるといった穏便なものではなく、蛇蝎だかつの如く忌み嫌うという風であった。

 僕はあちこちではんぺんやちくわぶの悪口を吹聴した。正に、はんぺん・ちくわぶ排斥キャンペーンの先頭に立って活動したようなものである。

 そんなふうに僕がし様にけなすのを見かねて、

「いやいやそんな事はないよ、慣れると中々に味わいがあるものだよ」と諭す人もあったが、それらの控えめな弁護にも全く耳を貸さなかった。はんぺんやちくわぶの肩を持つじんは大方相当な貧乏舌に相違あるまいと肚の中では思っていた。


 所帯を持ってからも、これらのなまっちろい連中が吾が家のおでんに参入することはもとより、吾が家の敷居を跨がせる事も一切罷りならぬと家人に言い含めた。


 あれから二十有余年、銀婚式を祝う年も既に過ぎた。

 さて吾が家のおでんの様子やいかに。

 よくよく見ると、おや、どうしたことだろう。

 鍋の中には、ちゃんとはんぺんさんとちくわぶ君が鎮座していらっしゃる。

 一体これは?


 思うに、飲み屋で旨そうにはんぺんやちくわぶを頬張る人たちを何度となく目にしたのであろう。

莫迦ばかな。味の分からぬ人たちだ」

 それでも、口福にどっぷりと浸った感の、その人たちの様子がどうにも気になる。

 そんなことを何回か経験するうちに、

「ひょっとして……」

 酒の勢いも手伝い自ら禁を冒して再チャレンジ。

「ん? これは……」

 とりわけ、御酒ごしゅと共に味わってみたところ、案にたがって中々結構、いやいや大いに結構という事になったように思う。いや何、僕がである。


 淡白で、それでいてほのかに、好い具合に、出汁の風味をまとった白皙はくせきのお二人。そこに加わるのが滋味豊かな上燗の酒。この重畳なるコラボレーション。

 あれ程忌み嫌い、剰え誹謗中傷を繰返した前科はすっかり棚上げにして、今ではこれらの客人がそばにいらっしゃらないと、むしろどうにも寂しくってならない。

 君子は豹変すと言うが、そこまで上等な話ではなくっても、舌の好みというものも年を重ねるにつれて段々と変わってくるものである。


 吾が家のおでんに、色白の両氏をお迎えして、もう五年、いや十年近くが経つであろうか。


 若気の至りとは言え、あの頃の自分の狷介さは、何とも慚愧に堪えない。

 はんぺん氏、ちくわぶ氏はもとより、貧乏舌と肚の中で蔑んだ方々に対しても、幾ら頭を下げても、下げ過ぎるという事はあるまい。

 実に申し訳ない。何とか御赦しを乞いたい。


 さて、若い方々にお伝えしたい事がある。

 すなわち、このような甚だ愧ずかしい仕儀となってしまうので、物事の判断には慎重さが肝要という教訓である。第一印象だけで誤った極付きめつけを下してしまう短慮は頗る剣呑けんのん極まりない。

 どうか、他山の石としてご参考になれば幸いである。



                         <了>







 

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